慶良間諸島「集団自決」

 

 

慶良間諸島「集団自決」の悲劇から70年 「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出す – アジアプレス・ネットワーク

 

太平洋戦争末期の1945年3月下旬、米軍は沖縄・慶良間諸島に上陸、600人もの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。それから70 年の節目となった今年、座間味村渡嘉敷村で村主催の慰霊祭がそれぞれ行われ、体験者や遺族らが反戦平和と史実の継承を誓った。(新聞うずみ火 栗原佳子)

 

◆ 鬼畜米英の恐怖植え付けて

沖縄県那覇市の西方30キロから40キロ、珊瑚礁の海に点在する慶良間諸島は、ダイビングやホエールウオッチングの人気スポットとして知られている。去年、あらたに国立公園にも指定された自然の宝庫だ。

しかし70年前の沖縄戦では、その位置ゆえに、日本軍の戦略上の重要拠点とされた。

44年9月、海の特攻隊「陸軍海上挺進戦隊」が座間味島阿嘉島慶留間島渡嘉敷島に配備された。「マルレ」と呼ばれるベニヤの特攻艇に爆雷を積み、沖縄本島に上陸する米軍を背後から奇襲するという作戦だ。特攻艇の秘匿壕を掘る作業には住民も駆り出された。


心ならずも「軍事機密」を共有する状況になった住民たちを、日本軍は厳しく監視。「生きて虜囚の辱めを受けず」という「戦陣訓」の論理を住民にも強い、「捕虜になったら男性は八つ裂きにされ、女性は強姦される」などと鬼畜米英の恐怖を植え付けた。

 

結局、米軍は沖縄本島に先駆けて慶良間諸島を攻略、日本軍の作戦は潰えた。艦船の投錨地や後方基地として確保する狙いだったとされる。3月23日に 激しい空爆がはじまり、24日には艦砲射撃も加わる。慶良間海峡を米艦船が連なる中、26日、米軍は座間味島阿嘉島慶留間島27日には渡嘉敷島に 上陸した。一方の日本軍は、ほとんどの特攻艇を自ら破壊、想定外の陸戦に転じていった。


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座間味村の慰霊祭で焼香をする宮里洋子さん(左) 2015年3月 撮影 栗原佳子

 

座間味島 5年ぶりの慰霊祭で

座間味村(座間味島阿嘉島慶留間島)の慰霊祭は米軍上陸から70年となる今年3月26日、座間味島の平和之塔で行われた。平和之塔には「集団自決(強 制集団死)」の犠牲者約220人を含む住民、日本兵朝鮮人軍夫ら1200柱が祀られ、座間味村は5年に一度、ここで村主催の慰霊祭を開いている。焼香の 長い列の中には、初めて慰霊祭に参列した那覇市の宮里洋子さん(74)の姿もあった。辺野古や高江、普天間などでの抗議活動に何年も通っている。その根っ こにあるのが70年前の体験だ。

 

洋子さんは座間味島出身。米軍上陸前夜、壕などに避難していた住民たちに「忠魂碑に集まれ」という伝令が回った。砲撃が激しさを増し、住民たちは集まるこ とができず、近くにあった壕などで榴弾などを用いて死に急いだ。洋子さんは当時4歳。教員の母と姉、弟と一緒に入っていたのは学校関係者の壕だった。

 

暗闇の中、手榴弾が炸裂し、2人の若い女性が致命傷を負ったが、ほかは無傷。それが壕内の混乱に拍車をかけた。国民学校の校長が妻の首をカミソリで 切り、自らも「自決」。洋子さんはカミソリを手にした母を前に暴れ、「死ぬのは嫌だ」と叫んで壕を飛び出した。「修羅場に恐怖を覚え逃げ出したとのこと。 記憶はありませんが、夜中になるとパニックを起こし、『助けて』と泣き叫ぶことがよくありました」。いまも睡眠薬は手放せない。

 

母と姉、弟は壕から生還したが、首には傷が残った。家族の間で、戦争のことはずっとタブーだった。洋子さんが少しずつ、島で起きたことに向き合える ようになったのは最近のことだ。島に帰るときには必ずあの日の壕があった場所にも足を運ぶという。壕の跡には慰霊碑があり、洋子さんは昨年、周辺に花の種 や苗も植えた。「ここであったことが忘れられてしまわないように」と願う。慰霊祭会場の平和之塔は高台にあり、最近足が弱った洋子さんにとってはたどりつ くのに相当の負荷を要する場所だ。周囲は案じたが、洋子さんは杖を頼りに足を運んだ。「生き残った自分の務め」だと。

 

米軍が上陸した1945年3月下旬、沖縄・慶良間諸島では600人もの住民が「集団自決(強制集団死)」に追い込まれた。それから70年の節目となった今 年、座間味村渡嘉敷村で村主催の慰霊祭がそれぞれ行われ、体験者や遺族らが反戦平和と史実の継承を誓った。(新聞うずみ火 栗原佳子)

 

◆ 渡嘉敷愛した祖父母に会いたい


米軍は45年3月27日、慶良間諸島で最大の島、渡嘉敷島に上陸、翌28日、住民の「集団自決」が起きた。

米軍が上陸した27日夜、壕に避難していた住民たちに「北山(にしやま)」に集合せよ」という軍命令が出た。北山は南北に長い島の北方にあり、米軍 上陸に伴い、日本軍はここに陣地を移動していた。土砂降りの中、住民たちは何時間もかけて山道を歩き、軍陣地の背後の谷間にたどりつくころには夜が明けて いた。防衛隊員が村長に伝令した直後、「集団自決」がはじまった。手榴弾の多くは不発で、残された人々は、ナタやカミソリなどの生活用具、さらには石や小 枝などを手にとった。

 

渡嘉敷村はこの3月28日を「慰霊の日」と定めている。33回忌以降は自由参拝としていたが、3年前から再び村主催の慰霊祭を開くようになった。会 場は海を見晴らす高台にある「白玉之塔」。渡嘉敷島の「集団自決」の犠牲者約329人をはじめ594人が祀られ、刻銘版に一人ひとりの名が刻まれている。 肉親の名前をなぞり、涙ぐむ遺族の姿もあった。

 

宜野湾市に住む高校教師、宮城千恵さん(56)の祖父母、真喜屋實意さん、ナヘさんの名前もここに刻まれている。祖父の實意さんは国民学校の校長として赴任したあと、自然豊かな風土や島の人たちの温かさに触れ、ここで骨を埋めると決めたという。

 

「2人の名前を白玉之塔で見つけたときは、会いたくて会いたくて、『なんで亡くなったの?』と叫びました。こんな美しい島でそんな悲惨なことがある と思ったら本当に悲しかった」。千恵さんははじめて白玉之塔を訪れたときの思いを「命どぅ宝」という歌にしている。慰霊祭では、母の幸子さんや姉、伯父ら も一緒に歌を披露した。

 

辺野古に足繁く通い、沖縄戦体験を継承する市民グループでも活動する千恵さん。職場では自衛隊や米軍機の騒音がひどく、宜野湾の自宅では夜10時過 ぎまで爆音がするのが日常だという。「渡嘉敷はとても静か。これが本当の平和なのかと思います。これからも祖父が愛した島の温かい方々が、平和で生きてい くことを祈っています」と話した。