日本の教育現場が少年たちを戦場に送りだしたという紛れもない現実 ~ 35年前の琉球新報『戦禍を掘る・学徒動員』を読み直す ~ 資料『沖縄戦に動員された21の学徒隊』

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国民学校二年の国語の教科書と沖縄の少年兵。

 

 

子どもが戦場に

沖縄戦で米軍は多くの写真を記録している。その中の一枚。キャプションにはこう書かれている。

 

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Two captured Japanese soldiers, one 18 years old and the other one 20. One of the bigger Korean boys is shown with them.

18歳と20歳の2人の日本兵捕虜。一緒に写っているのは、体格の大きな朝鮮人少年。(1945年6月17日撮影)

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

1945年 6月17日 『生命を助けるビラ』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

現場で捕虜の尋問と記録をしていた米兵は、兵士のなかに入りまじり捕らえられる、まだ筋肉もできていないあどけない少年達が、自分で「18歳」とか「20歳」であると主張するのを非常に不自然に思ったのであろう。日本軍に協力させられていた「同じ」年頃の朝鮮人軍夫と一緒に並べて体格の違いを記録している。

 

米軍の尋問に対し、「18歳」とか「20歳」だと証言するに教え込んだのは、この時一緒に捕らえられた日本兵 (写真右側にも映っている) だったかもしれない。14歳から18歳の子らを戦力として戦場に送り込んでいたことは、当時の日本兵にとってですら冷静に考えると「まともではない」ことだったのだろう。こんな「まともではないこと」が、どうやってこの日本で可能になっていったのか。

 

日本はこんなちいさな子どもたちをも兵士として戦場に送りだした。

 

学徒兵を引率した教師の戦死者より、学徒の戦死者率は圧倒的に高い。学徒動員された半数以上が命を奪われた。

 

神道原理主義日本会議やそれに連なる者たちがどんな美辞麗句を駆使しようと、その歴史は変えることのできない現実である。

 

その時、子どもを守る立場にあった大人たちは、現場の教師たちは、いったい何を思い、何を考え、何をし、何ができなかったのか。

 

今ではもうウェブ上で読むことのできない1980年代の貴重な沖縄戦証言の記事を復刻していくシリーズ。

 

琉球新報1984年11月14日からスタートした『戦禍を掘る』の第二部を断続的に読み直ししていきたい。

 

なぜ復元するのか

 

戦後から75年目。いま、教育の現場はあらゆる意味で疲弊している。意図的に疲弊させられているといってもいい。

 

一方で、各地の教育委員会が、親学やら「教育勅語」推進論者の竹田恒泰講演会を主催/後援し、教育現場に押しつける、この現実。

 

豊田市教育委員会後援「現代に伝える愛国の情」

常滑教育委員会後援「愛する郷土のために」等々。

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okinawansea.hatenablog.com

 

歴史修正主義と、沖縄の「集団自決」教科書問題から、そして今では、教育勅語の取入れを文科相が「検討」、銃剣道の導入、親学などという疑似心理学の進出、、、。おそらくは20年前であれば想像もつかないような、未曽有の地点に、いま我々はさしかかっている。

 

海兵隊員を学校の「授業」に「活用」する伊江島中学の校長と教頭。

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ospreyfuanclub.hatenablog.com

 

彼ら教育者は「米軍を教育に活用している」というが、「中学校と中学生が米軍に活用されている」ことには全く意識が及ばないのである。 

 

多くの人が、戦争経験の次世代への歴史継承が危ぶまれるなどと語るがいっているが、実際に継承していないのは沖縄の各市町村自治体であり、教育委員会であり、教育現場である。

 

右派クレームへの対応のせいか、自治体のサイトから沖縄戦の記録ページはどんどん削除され、あるいは沖縄戦の項目だけがすっぽりと記載されていない市町村サイトもある。

 

教育の現場は気づかぬうちにじわじわと真綿で首を絞めるように選択肢を失い、方向付けされている。

 

いたるところから危機的な報告が寄せられているにもかかわらず、事態は見直されることもなく、教育現場は教育委員会文科省のいうがまま。

 

じつは、私たちが知っておくべきなのは、74年前の教育現場も同じ問題を抱えていた、ということである。

 

教師たちはあまりに財政的に枯渇し、あるいは、あまりに思想的圧力のもとにあり、積極的に同化と愛国で子どもたちを抱え込んだ。

 

琉球新報の『戦禍を掘る・第二部』は、こうした教育現場の戦争証言にフォーカスして記録したものである。

 

1980年代、沖縄戦から30年後の戦争証言は、教育の現場にいた「大人たち」の貴重な証言をそのまま記録している。

 

戦後から30年後の証言が決め話目重要なのは、戦後すぐには語られなかった、当時の「大人たち」の証言であること、その中には、当時の校長や教師らの証言もある。

 

ここから我々が我々の時代を読み解く手掛かりがいくつもあるはずである。

 

[1] はじめに ~ 1100余人が戦死 ~ 「国土防衛」の名のもとに

 

沖縄戦には県内ほとんどの中学、女学校から学徒が戦場に駆り出され、死んでいった。県の資料によると戦死者数は1100余人。

 

13歳から18歳の少年たちが砲弾の中、爆弾を背負い戦車に向かっていった。そして、また薄暗い壕内では疲れ切った少女たちが、うめき声の中を駆けずり回った。前回の「戦禍を掘る」でも女学校を中心に、その証言を登場させたが、再開する第2部では男子学徒の証言を中心に連載を進めたい。疑いを持つことなく「国を守る」という純粋な心で戦場で倒れていった若者たちの姿を、証言を基に振り返りたいと思っている。

 

 琉球政府社会局援護課が1959年にまとめた「沖縄戦における学徒従軍記」によれば、動員された学徒は16の中学、女学校から2312人。そして、その半数に近い1105人が再び学舎に帰ることなく死んでいった。

(※ 現在では24校とデータがまとめられています。次項を参照のこと。)

 

 「神州不滅」を信じ、戦局の不利も「いつかは神風が―」との期待を捨て切れず砲弾に倒れた少年。「鬼畜米英」から郷土を守ろう、と手りゅう弾を握りしめて壕を飛び出していった者―。

 

 県立水産高校の通信隊22人から、ただ1人生き残った瀬底正賢さんは「早く国のために役立ちたい。自分の命を国土防衛のために捧(ささ)げたいという一心だった。死んでいくことに恐怖感など全くなかった。ずっと、そのように教育され、そう信じ込んでいた」と話す。

 

 国家が国民に対して「共通の価値観」を求めた時、“暗い時代”が堂々と歩き出した。学校教育も新聞とともに、抵抗することなく“暗い時代”の大きな役割を担っていった。

 

 昭和13年、次官通牒「集団的勤労作業運動実施に関する件」が指令され、学徒らへの戦時体制が歩み始めた。そして日米開戦の年に「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要綱」が指令され、さらに「学徒戦時動員体制確立要綱」「緊急学徒勤労動員方策要綱」「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要綱」と次々に学校現場を覆っていった。これにより「学生生徒の労働」が「教育の重要な一環」となり、「決戦教育」が徹底されていった。

 

 当時、県の教学課にいた真栄田義見さんは「今、振り返ってみると、思想的抵抗者になりきれなかった弱さを感じる。強い流れに教育者も流されていった」と話す。

 

 同じ教学課にいた中山興真さんは「すべてのものが国を守るという立場から作られていき、疑問など何一つなかった。いや、疑問を持つことが許されなかった。疑問を持てば“非国民”として官憲につるし上げられたのだから―」と振り返る。

 

 比嘉徳太郎さん(当時、県立工業学校長)は「そのころの校長会は生徒が軍務につくことに、職責が遂行できるとの考えがほとんどだった」と証言する。

 

 第2部では、こうした“暗い時代”の教育関係者の証言や戦場に駆り出されていった生徒たちの体験を掲載していく。できるだけ多くの証言、体験を掲載し、その時代や沖縄戦の中の学徒らを再現したい。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年11月14日掲載

 

不安クラブでは、三十五年前の琉球新報のこのシリーズを断続的に復刻していきます。

 

年表 - 学徒動員の道筋

 

日本は、時間をかけながら着実に教育現場を戦争にとりこんでいった。

  

1938年(昭和13年

文部省「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒。生徒の勤労奉仕を集団的に教育活動として義務付け

国家総動員法」制定

 

1939年(昭和14年
「国民徴用令」

 

1941年(昭和16年

「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」→ 年間30日以内の増産活動を授業化

「学校報国隊」結成

「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」→ 修業年限を三か月短縮

 

1943年(昭和18年
東条内閣「学徒戦時動員体制確立要綱」閣議決定

 

1944年(昭和19年

1月「緊急国民勤労動員方策要綱」「緊急学徒勤労動員方策要綱」閣議決定
2月「決戦非常措置要綱」閣議決定
3月「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定 → 学校別学徒動員の基準、教職員の指導管理

4月「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」発令
7月「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」閣議決定、文部省「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」通牒。
8月「学徒勤労令」「女子挺身勤労令」公布
12月「動員学徒援護事業要綱」閣議決定

陸軍省令第59号「陸軍召集規則」第58号「防衛召集規則」改正 →「前縁地帯」と規定された沖縄県奄美諸島などに限り、17歳未満(14歳以上)で「志願」学徒の「防衛召集」を可能にさせる。

 

1945年(昭和20年)

3月「決戦教育措置要綱」閣議決定 → 一年授業停止の総動員体制
5月22日「戦時教育令」公布

6月23日「義勇兵役法」→ 全土で15歳以上男子、17歳以上女子の義勇兵が可能に

7月8日、文科省が東京で沖縄の学徒兵を「学生の鑑」と表彰式

 

 

6月23日は沖縄守備隊第32軍の組織的な戦闘が司令官自決により終焉した日である。その同日に、本土決戦に備えて本土で少年兵招集を可能にさせる「義勇兵役法」が正式にスタートする。

1945年 6月23日 『第32軍の終焉』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

つまり、沖縄や奄美や台湾の学徒兵の防衛招集は、その違法性を無視したうえでの無理やりなパイロットプランでもあった。

 

7月8日、文部省は東京で沖縄の師範学校や一中の学徒兵を「学徒の鑑」として表彰する。もちろん動員された過半数の学徒が戦死するなか、誰一人として、その表彰式に参加できたものはいなかったにもかかわらず。

1945年 7月8日 『沖縄人には時間もなく、人生もない』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

当時の太田文部大臣は「国体護持のために全国の学校も二校の如くまい進せよ」と激励したが、つまり沖縄の学徒は、ここでも日本の学徒が見習うべき「鏡」として軍事利用されたわけである。

 

資料 - 沖縄戦に動員された21の学徒隊

 

戦前沖縄には21の中等学校がありました。沖縄戦では、これらのすべての男女中等学校の生徒達が戦場に動員されました。女子学とは、15歳から19歳で、主に看護活動にあたりました。男子生徒は14歳から19歳で、上級生が「鉄血勤皇隊」に、下級生が「通信隊」に編成されました。鉄血勤皇隊は、軍の物資運搬や爆撃で破壊された橋の補修などにあたり、通信隊は爆撃で切断された電話線の修復、電報の配達などの任務に従事しました。沖縄戦により、学業半ばで多くの生徒が短い生涯を散らしました。

https://www.pref.okinawa.jp/site/kodomo/hogoengo/engo/documents/0106220gakuto21.pdf

 

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選挙になると沖縄では怒涛のようにデマとヘイトが吹き荒れ、沖縄の選挙の現場を食い荒らしていた。しかしあのデマの暴風に圧倒された名護市長選挙以降から、本土のメディアも若干、沖縄フェイクニュースに注目するようになり、意識されるようになった。

 

ところが一番厄介なのは、歴史修正主義とよばれるヒストリカルなデマである。これには専門的な歴史の知識が必要であるが、研究者や教育者の多くは多忙を極め、多くの場合、ネットの歴史デマには無関心である。学生が日常的に利用するウィキペディアからユーチューブに至るまで、驚くほど歴史修正主義に「汚染」されているにもかかわらず、である。

 

我々は、来た道をもういちど歩み始めているのではないか。いったいなぜ、「オトナ」は子どもたちを戦場に送りだしてしまったのだろうか。

 

我々ができることはまだまだある。

それをひとつづつ見つけ、歴史から学び、再び教育現場から子供たちを戦場に送り出さないことだ。

 

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  1. こんなに出ている! 知られざるトンデモ「教育勅語」本の世界 | 文春オンライン
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  4. 国民学校教科書 奈良県立図書情報館

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