「教育者」の沖縄戦 ~ なぜ「教育者は、戦争協力者になってしまった」のか ① 内政部教学課

 

なぜ日本の教育現場は政治の介入に脆弱なのか

 

なぜ教育者は戦争協力者になってしまったのだろうか。なぜ教育現場は政治の圧力に抗することができなかったのだろうか。

 

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米軍に捕らえられた教師と14歳の少年。教師はともに捕虜になるより銃殺を望んだ。

『米軍に「パンチョ」と呼ばれた教師』< AI によるカラー化処理 >

 

戦後の教育とは、その問いからスタートした。

・・・はず、だったが、

  

昨年、一つの講演会が話題になった。ニュースになったので皆さんの中にはお聞きになった方もいるだろう。富山県朝日町の教育委員会が主催した講演会と一連の騒動。

 

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教育委員会が推進する愛国教育

 

朝日町の教育委員会は、中高連携推進事業の「教育講演会」として、なんと、教育勅語推進派で右派言論人、また沖縄デマでも有名な竹田恒泰氏の講演会を開催するという。

 

竹田が数年前に「平和教育はいらない」「愛国教育が必要」だと主張していたように、

 

いま、日本のいたるところの教育委員会が、「平和教育」ではなく、日本は世界一の「愛国教育」の講演会をさかんに打ち上げているのである。

 

okinawansea.hatenablog.com

 

なぜ、現場の教師たちは、こんなナショナリズムに深く傾いたコンテンツを許容してしまうのだろうか。

  

今のご時世だから、竹田講演会を歓喜して迎える愛国教師もいるだろう。また、竹田がどんな人物かも知らぬまま、「日本に誇りが持てる」から別にいいじゃないか、という無関心な教師も多いかもしれない。「なぜ極右の竹田が学校に ! 」 と戦慄する教師も、中にはいたかもしれない。

 

しかし、実質、日本の現場教師は反対の声をあげない / あげれない。

 

日本には、上からおろされる理不尽な命令に対して、コミュニティーのメンバーが有機的に意見を挙げ議論・反論できる民主主義的な知力と成熟度が圧倒的に欠落している。

 

またなぜ地元メディアはこれを問題にしなかったのか、と、みなさんは不審に思うかもしれない。

 

地元メディアが問題にするわけがない。竹田は富山の放送局で自分のラジオ枠を持っている。多くの地方の竹田講演会イベントには、協賛や後援として地元の新聞社もびっちりと入っている。

 

むしろ、朝日町教育委員会主催の竹田講演会の騒動が大きくなったとき、曖昧な記事を書くことで竹田恒泰のご都合主義を助長したのは、地元の新聞社だった。

 

親学、モラロジー、竹田研究会、という愛国ソフト

 

地方の教育委員会は、戦前戦中と変わらぬ神道原理主義日本会議と、地元の神社庁を通してつながりを深め、

 

親学モラロジー研究会竹田研究会というソフトウェアを利用して、教育現場にナショナリズムを入り込ませる。

 

名古屋市教育委員会が提唱し、推進している「親学」とは、子どもにとって親とはどうあるべきかを考え、子どもとともに成長する楽しさなどについて学ぼうとするものです。

名古屋市:親学ノススメ(暮らしの情報)

 

純粋な若年層は、論理的な思考を必要とする民主主義や市民権教育よりも、感情的で直感的、熱狂的な愛国とナショナリズムに傾倒しがちである。

 

竹田講演会に感銘を受ければ、次には竹田研究会が開催する無料の伊勢研修合宿が用意され、竹田研究会はこうして若年層の熱烈な支援者層を養成する。既にコースはできているのだ。

 

日本の教育現場は、なぜこのような愛国コースにいとも簡単に加担してしまうのか。

 

その点において、今も戦前戦中も

実は何ひとつ変わっていない。

 

 

ospreyfuanclub.hatenablog.com

 

戦後75年の今こそ、

私たちはもう一度、日本の教育現場が踏み誤った過ちの経験から学ぶべきである。

 

教育と政治を考える沖縄戦シリーズ、第二弾。

 

戦争当時、沖縄の学校は中学生の子どもたちを兵士として戦場に送りだした。その時、沖縄県庁の内政部教学課では、どんなことが起こっていたのか。戦後のインタビューなどから考えていきたい。

 

日本の文部省は戦前から超国家主義的な教育方針をとり、子どもたちに国のために殉ずることは至高の生き方であることを教育した。

 

戦後、人々を戦慄させたのは、引率した教員よりも多くの学徒が戦死し、沖縄戦で4人に1人が命を奪われた沖縄戦で、現時点でわかっている限りにおいて、学徒動員された子どもたちの戦死者率 (51%) は、引率教員の戦死者率 (40%) をはるかに上回る。教育の現場が戦場に送り出した生徒たちの、実に半数以上 (51%) が戦場で死んでいった。

 

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教育の現場はいったいどうなっていたのだろうか、校長や教員たちは、なぜ手放しで愛国教育に自らのめり込んでいったのか。それとも、上からの官僚主義で、いやおうなく子どもたちを戦場に送りだしたのか。熱狂的な愛国思想が吹き荒れる教育現場の背景には何があったのか。

 

実は、背後にあった現実は、今の教育現場の状況と似ていなくもない。

 

つまり、教育予算と教員人材の欠乏。内務省の厳しい管理と監視。愛国的な教育コンテンツの導入。内務省による教育行政への介入。

 

今、教育現場でおこっているこれらすべてが、戦前戦中に教育現場でおこっていた事象だった。

 

琉球新報』は、沖縄戦から30年後の 1984-85年頃に、校長や教師、生徒らの聞き取りを記事として記録している。今ではウェブで見ることができないその貴重な証言記録を復刻していきたい。

 

琉球新報『戦禍を掘る』【2】内政部教学課

 

(1)学校にも戦局迫る 校長は視学にびくびく

  • 監視と統制の教育現場

 

 「そのころの校長会は上意下達の機関にすぎなかった。内政部長が入場すると全員が起立して敬礼する。官僚主義は徹底していた」― 昭和19年 (1944年) 4月、県立2中から、県庁の内政部教学課の中学校指導事務官に赴任した真栄田義見さん(82)=那覇市安里=は当時の教育界を回想する。

 

【参考資料】地方行政機構の再編 例えば福井県の場合

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『福井県史』通史編6 近現代二

 人事から教育から戦時行政から神道の祭務まで

 

 教学課は、もとは学務部の下に学務課と社会教育課の2課が置かれていたが、戦局の深刻化とともに行政整理に遭い、教学課として内政部に含まれた。それは決戦に向けての行政の集中化と財政面からの人員削減を目的にしたものという。教学課内には「敬神崇祖・祭政一致の方針から、祭務官も何人か配置されていた。

 

 真栄田さんは「各部と課内にいた視学が大変な権威を持っていた。教員の人事も握っていて、反抗したため先島に飛ばされたのもいたから、用事で教学課を訪ねる校長さえも、いつもびくびくしながら入って来た」と言う。そんな雰囲気だから校長会も県からの指示に異議をはさむ者などなく、「国家多難の際、学校も進んで協力すべき」との認識は一致していた。

 

視学制度 - Wikipedia

当初は、見識の高い教師が一般教師を指導し資質を高めるという教育的な面を持っていたが、明治20年(1887年)代から教員、教育事務の監督を主任務とする教育行政的な性格に変化した。また視学は次第に教員の人事や思想統制に大きな影響力を持つ存在となり、教育現場で恐れられるようになった。

 

 既に学生の勤労奉仕は日常的に行われており、むしろ学業よりは重点が置かれていた。

 

 二中で教壇に立っていたころ、真栄田さんも生徒らを引率して1週間、読谷飛行場の奉仕作業に動員されたことがある。「重労働だったわりには、ご飯がまずかったという記憶しかない」と言う。荒れ地をならし、岩石を取り除く作業だったが、くわをはじめ作業道具のすべてが不足だった。「ただ一つの利点は学校の教室に生徒とともに宿泊、師弟の融和が図られたことだけ」

 

 それより5年ほど前の14年夏、金武町中川の開墾地の奉仕作業も体験している。食糧増産を図るためのものだったが、まだ戦局はひっ迫したものではなかった。広大な開墾地に、県下の中学校が次々と動員され、くわが入れられていった。

 

 開墾された土地は、住宅付きの200坪の宅地と、4500坪の田地が移住者に与えられた。

 

 二中の勤労奉仕隊員96人は汽車で嘉手納まで行き、そこから中川までの8里の道を歩いた。1日がかりだった。着いた日の夕方、宿舎となった小学校の教頭が半時間もしないうちに釣って来た魚と泡盛で歓迎してくれたのもうれしかったが、開墾地に立った時の喜びは忘れられない。

 

 その感動を真栄田さんはこう表現している。「自然に気ままに成長している山野に人間の強い意思が加えられているのだ。強い意思を拒否しうる自然は、いまだかつてなかったことを我々の歴史は教えてくれる。そして自分たちの目前には今人間の知力を統合した強い意思の前に降伏していく偉大な行跡を見せられているのだ」「今新しく作られた幅員五間もあろうと思われる大きな道路の上に立っている。これが一区開墾地の三つの幹線道路の一つで…延々と続くであろう開墾地の祝福された将来を思わしむるに十分だ」―(14年8月15日付琉球新報に掲載された論文から。旧漢字は改めた)

 

 新聞に「奉仕作業記」が掲載されて、2、3カ月後、真栄田さんは文部省教育局の国民精神文化研究所へ半年間の研修を命じられる。国粋主義的な思想を教育した機関だ。「新聞に掲載された論文を淵上知事が見て選ばれたのではないか」と真栄田さん。戦時体制の教育は、このあとさらに厳しさを増していく。

 1984年11月15日掲載

 

(2)召集で教員が不足 生徒は農家で勤労奉仕

  • 教師不足
  • 教師の思想教育
  • 勤労奉仕、一体感あった「ボランティア」

 

 真栄田義見さんが東京にある国民精神文化研究所に派遣されたのは昭和14年の末ごろだ。同研究所は文部省の直轄機関で、その設立の趣旨は「わが国体・国民精神の原理を宣明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする」となっている。

 

 「要するにナショナリズムのおう歌。戦時体制化の国家愛護の精神を培うことが中心だった」と言う。ここで半年間、早朝の座禅から始まり、「国体の本義」が、国内の一流の人たちを講師にして教えられた。「茶道など日本文化への理解を深めるための講習もあった」。全国から選ばれた教師らと一流の講師。そのころの日本の思想的な中心を担う機関だったから参加した教師も真剣だった。学んだことは地域でまた浸透させていかなければならなかった。

 

 真栄田さんもそこを修了した年の夏には県内の小学校の教頭や中堅クラスを集めた講習会で講師を務めた。国民精神文化長期講習会と呼ばれ、夏休みを利用、師範学校体育館で1カ月間の宿泊研修だった。「研究所で学んだことと同じ内容。教育学、文学を国家主義に基づいて教える。戦陣訓についての講義も含まれていた」。講習を終えた教頭のほとんどが1~2年後には校長に昇任した。

 

   ◇   ◇

 昭和14年6月の琉球新報に「国民精神文化研究所に一大転換」の見出しで、同研究所の記事がある。「国民精神文化研究所が出来て7年その間ここで6カ月の長期講習を受け鍛えられた優秀な中、小学校教師は1千人に達し、また…各府県にある精神文化研究所で1カ月の講習を終え若い校長、首席の教諭、訓導、さらに目ざめた転向者等9千人、合わせて1万人に及ぶ人々が全国に分布、…指令の下に長期戦下教育と祖国に生き抜く一万の魂として研究所が秘かに誇ってきたもの」と述べ、それまで「有力な組織を持ちながら死蔵した形で転向者の保護のみに終始する感を与えていた国民精神文化研究所」が、「精神総動員運動の一翼として、一万人を動員、各地方の実際生活の指導者として参加させる」ことを報じ、「国民精神総動員運動はここに全国動脈の中に新しき血潮をふきこんだ」と評価している。ある方向に向かって時代は加速を増しはじめていた。

   ◇   ◇

 

 中学の「戦時体制」が動き出したのは昭和13年 (1938年)、「集団的勤労作業運動実施に関する件」の次官通牒からだ。それでも「14年の金武の奉仕作業までは教師も生徒も一団となり、昼の労働、夜の交流と楽しかった」と真栄田さんは言い、まだ余裕のある時代だ。

 

 それが厳しくなっていったのは、16年 (1941年) の「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要綱」が指令されてから。その要綱からは勤労作業が「正課に準じて取り扱う」ようになっていた。

 

 二中の教壇に立っていた真栄田さんらも生徒を引率、南風原など近隣の農家まで行って、農作業の手助けをすることが多くなってきた。「次第に授業はカリキュラム通りにはいかなくなってきた。課程以外のことをやりながら、中学の課程を修了したとする不規則な教育状況になっていった」。

 

 教員もやがて召集され、不足しはじめる。「教員免許のない者が教える時代。ひどいのは5年生が1年生にと、生徒が生徒を教えることもあった」と言う。そんな急迫した時代の昭和19年4月、真栄田さんは県庁の教学課に転任することになる。

 

 「話があった時、私も生徒と直接、接することが楽しく、また又吉康和さんなどからも『教壇を離れたらダメだ』と助言があり辞退した。だが、『2年したら校長として現場に戻す』との言葉につられて教学課にいくことにした」。

 

 19年4月1日は、32軍司令官が、部隊指揮権の行使を開始する統帥を発動した日でもあった。

1984年11月16日掲載

 

 

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Field Cast 

 

(3)強制的に学徒召集 学業より奉仕作業優先

  •  学徒動員、軍の参謀が申し入れ

  昭和19年4月、真栄田義見さんは、勤労奉仕が続く県立二中から県教学課に転任、教育現場を去る。当時、教学課の課長は佐々木ゲン三さん。その年10月ごろには沖縄を転任となったが、「戦後は『たくさんの学徒を犠牲にしてしまった』と、いつも嘆いていた」(よし夫人)。今年2月に亡くなったが、沖縄戦“前夜”の勤務が長く忘れられなかったという。

 

 鼻炎を患っているため、モルヒネ中毒。いつも鼻の穴には白い粉がついていた。「古典の研究をやっている学者肌。あの非常時においてもやさしすぎる一面があり、厳格な命令を受けた記憶がない」と真栄田さんは言う。静かな課長だった。

 

 その佐々木課長が去り、安里延さん(故人)が後任の課長となっているころだから、昭和19年の11月か12月ごろ―と真栄田さんは記憶している。軍服の肩からモールをつるした軍人が教学課を訪ねてきた。

 

 課長は不在で真栄田さんが応対したが、軍人は参謀部の三宅忠雄中佐。「背が高く役者にしたいようないい男。温情ある人だった」。

 

 三宅参謀は用件を切り出した。「軍は人手が足りない。そこで、中学1、2年を通信兵女学校の上級生を看護要員として訓練して補充していきたい」。陣地構築などこれまでの奉仕作業とは異なり、軍の一構成員となることを意味する。

 

 「あまりに突然で重要な話に、上司と相談することを伝えて回答を保留、とりあえず内政部長に面会させた」

 

 その後、内政部長、教学課長らと協議したが、県として結論の出せる問題ではなかった。非常時とはいえ学業よりも奉仕作業を優先させている実情、父兄の心情を思うと、安易な対応はできなかった。結局、「現段階で学徒に軍の訓練を強制することはできない。もし沖縄が戦場となれば、県民全体が立ち向かわねばならず、その時は学徒も同様だ」

 

 「学徒動員が緊急な要求とあれば国家の問題。軍の召集なら国の要求で県が判断する立場にない」というものだった。

 

 県の回答は真栄田さんによって、三宅参謀に伝えられた。すでに徴発されていた一高女の校舎に訪ねたが、この問題で三宅参謀との特別なやりとりは真栄田さんの記憶にはない。ただ真栄田さんが「生徒らを召集するとすれば身分はどうなるのか」と質問、三宅参謀は「軍人としては難しかろうから軍属にしようと思う」と答えたと言う。その後、真栄田さんは学徒動員の問題についてかかわることはなかった。

 

   ◇   ◇

 疎開した県人の問題が出て来たのは翌20年だ。「習慣に慣れず地元の人から野蛮人扱いされている」という。おムツを洗った容器で顔を洗うなどしていたから、この指導を、疎開児童引率の教諭でやることになった。ブロックごとに教師を指導者として配置するため真栄田さんは宮崎に出張。2月11日の紀元節の日だ。

 

 軍の飛行機に無理して乗せてもらったが、そのころからは米軍機がひんぱんに襲うようになっていた。前日に出発した友人の飛行機が瀬底島でグラマンに撃墜されたのは、宮崎に着いてから知った。

 

 10日ほどで任務は終えたが、もう帰任することはできない。すぐに宮崎は大空襲に遭い、“足”を探すことはできなかった。帰りの便宜を図ってもらうために持参した砂糖も役立つ状況にはない。「那覇まで7時間で行ける快速艇ができた」との友人の話に、鹿児島まで行ったが「そんなものはない。あったにしても民間人が乗れるはずはない」と怒鳴り帰された。戦局の好転を願ってかデマも流布した時代だった。

 

   ◇   ◇

 真栄田さんが沖縄に引き揚げたのは終戦から3カ月経た11月下旬。その時、学徒が動員され、多くの戦死者を出したと聞き、がく然とした。

 

 真栄田さんは「軍に拒絶したが、かかわったことだけでもある種の責任感を感ずる」と言う。「戦争になってから教育者は、戦争協力者になってしまった。個人ではどうにもならない状況だったが、私自身、思想的抵抗者になれなかった弱さを感じる。教育者も強い流れに流された」と振り返る。

1984年11月20日掲載

 

沖縄の学徒兵動員は、法的根拠もないまま 1944年12月、第32軍司令部が県当局と協議するかたちで、県下の全中等学校生徒の動員を決定した。上陸を目前に3月に動員が始まる。

 

 

なぜ教育者と教育現場は政治の力に抗うことができなかったのか。なぜ教育者は、戦争協力者になってしまったのか。

 

続きはまた。

 

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論文紹介

  1. 「敗戦前における内務省による教育行政に対する関与 ―文部省による「教育権の独立論」の淵源―」梅本大介 (早稲田大学大学院教育学研究科紀要別冊20 号―2 2013 年3月)  https://waseda.repo.nii.ac.jp
  2. 沖縄県史 各論編6 『沖縄戦』 : 刊行記念シンポジウム『沖縄戦』を語る 

    http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp