比嘉武二郎 (タケジロウ・ヒガ) - 「いじてぃめんそーれ」ふるさとの人たちを守ったウチナーグチ

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比嘉武二郎 (ヒガ・タケジロー) さん

 

タケジロウ・ヒガ - Wikipedia

 

2010年 NNNドキュメントいじてぃめんそーれ 故郷へ進軍した日系米兵」(テレビ番組製作社連盟の第28回ATP賞テレビグランプリで新人賞受賞)

 

 

 

沖縄戦で投降呼びかけ 沖縄出身の日系2世 壕を訪ねる

琉球朝日放送 報道制作部 ニュースQプラス »

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69年前の沖縄戦で、人々が身を潜めた壕に向かってうちなーぐちで投降を呼びかけ、多くの命を救った人たちがいました。沖縄にルーツをもつ、日系アメリカ人たちです。そのひとりで、現在、ハワイに暮らす91才の男性が沖縄を訪れました。ふたつの国のはざまで生きた彼にとってあの沖縄戦とは

 

糸満市でのシンポジウム。ある男性が、アメリカ軍への入隊を決めた時の複雑な思いを語りました。

 

タケジロウ・ヒガさん「秒間戦争勃発のたった2年前にハワイに戻った私。(米軍に)志願しなければ敵性青年とみなされて、収容所にぶち込まれるかもしれないという思いで、仕方がなく志願しました。」

 

元アメリカ兵、タケジロウ・ヒガさん、91才です。ヒガさんは、北中城村で育ち、その後、ハワイに移住。日本軍の真珠湾攻撃を受け、アメリカ全土で高まる反日感情のうねりの中、悩みに悩んだ末、アメリカ軍への入隊を決めたのです。

 

タケジロウ・ヒガさん「沖縄戦開戦の日、船のデッキから沖縄本島を見て、言葉にならない悲しみでいっぱいでした。沖縄は私のルーツだから。米兵として故郷を攻撃する。なぜこんなことをしなければならないのかと。」

 

普天間基地を訪れたヒガさん。沖縄戦当時、うちなーぐちを話せる通訳だった自らの体験を語りました。

 

タケジロウ・ヒガさん「壕に向かって呼びかけました「みなさんはまだ若い。命は一つだけ。無駄にしてはいけない」

 

「故郷、沖縄の人たちを助けたい」という思いで数えきれないほどの壕を駆け回ったヒガさん。「もう歳で言うことを聞かなくなった」という体を引きずるようにしながら、基地の中に残された壕を訪ねました。ヒガさんが、およそ230人を救い出したとみられる壕です。この場所に立つと、戦争に対する思いが込み上げてくるといいます。

 

タケジロウ・ヒガさん「もともとは、物を壊す、人を殺す。それが目的。戦争は、私たち人々の欲がある限り、あるかもしれませんがね。戦争ほどばかばかしい人間の技はないと思います。」

今回はるばるハワイから訪れたヒガさん。「この壕を訪れるのは、これが最後かもしれない」と話し、集まった海兵隊員たちに向かって、「戦争は地獄だ、全てを破壊する」と、一生懸命訴えていたということです。

 

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/比嘉武二郎さん | 日系アメリカ人の歴史

現地情報誌ライトハウス

予想外の真珠湾攻撃 開戦後、日系人部隊に志願

 

今年92歳になる比嘉武二郎さんは、オアフ島生まれの帰米二世。2歳の時に母に連れられて、兄姉と共に両親の故郷の沖縄に移りました。当初の予定では、3年後に家族でハワイに戻る予定でしたが、母が肋膜炎になり旅ができる状態でなく、父が兄と姉を連れて帰国。比嘉さんは、母と共に沖縄に残りました。しかし12歳の時に母が死に、祖父母に引き取られたものの翌年には祖父母も他界し、叔父の家族と生活しながら尋常高等小学校を卒業しました。ところが当時の日本は日中戦争の真っただ中。日本軍に徴兵されるのを恐れた父が、1939年、比嘉さんが16歳の時にハワイに連れ戻しました。

41年12月7日午前9時頃、比嘉さんが働いていたホノルルのYMCAのカフェテリアに、取り乱した白人女性が「戦争!戦争!コーヒー!」と言いながら駆け込んできました。「私がコーヒーを差し出すと、彼女はガタガタと震えていたので、コーヒーを半分ほどこぼしてしまいました。『戦争よ!夫を真珠湾に送り届けて来たところよ』と言うので、初めは少し頭のおかしい人かなと思ったのです。屋上に行き、真珠湾の方を見ると、飛行機が墜落するたびに黒い煙が上がるのが見えました。でも、まだ戦争が勃発したとは思わず、本格的な演習だと思っていました。見ていると、真珠湾ヒッカム基地の高射砲からの砲弾が4、5発、ヌウアヌ通りのサイミン屋の前や、日本語学校のあたりに落ちて、トタン屋根が飛んで大きな爆音を立てました。敵の飛行機に向けて撃った不発弾でした。11時頃に、戦争が始まったことを伝えるラジオ放送があり、事態の深刻さに驚いて、慌てて屋上から地下に逃げ込みました」と比嘉さん。

戦争が勃発したその日から、日系人は適性外国人とみなされ、西海岸のように全員ではなかったものの、特に日本への忠誠心が強いとみなされたハワイの日系社会のリーダーたちが次々に収容所に送られました。「私は収容所行きを避けるために、高校在学中に兄と共に軍に志願しました。兄は合格しましたが、私は受理されず、日本で教育を受けたせいだろうかと思いました。しかし数カ月後に陸軍省から『二世の戦闘部隊を作るが、お前はまだ志願する気持ちがあるか』という内容の手紙を受け取りました。志願したら太平洋戦争に送られることは分っています。戦場で従兄弟や親戚、同級生と鉢合わせたらイヤだなと思いましたが、一度志願した以上、今さらできないとは言えません。志願して受理されました。アメリカへの忠誠心に対する疑いが晴れてうれしい反面、とても不安な気持ちでした」と当時のことを振り返ります。

 

終戦前の沖縄に上陸恩師・旧友との奇遇な再会

 
ミネソタ州キャンプ・サベージにあったMISの日本語学校で軍隊訓練を受けた。左は1943年、右は43〜44年頃
 

 

米国本土でMIS(米国陸軍情報部)の日本語学校に通った後、第96歩兵師団に配属。フィリピン上陸を経て、沖縄に上陸した比嘉さんの任務は、壕にこもった人たちへの投降の呼びかけでした。「人影が見える壕を通りかかり『出て来てください』と何度も叫んでも誰も出て来なかったので、引き金を引こうとしたのです。そうしたらお婆さんと女の子が出て来て、『もう少しで人殺しをするところだった』と胸をなでおろしたこともあります」。

ある時、沖縄の難民収容所(民間人収容所)に兵士が潜んでいるというので、比嘉さんが尋問の通訳に呼ばれました。「疑惑をかけられていた男性は私の尋常高等小学校の先生で、私を見ると『ああ、君か』とだけ言い、お互い言葉になりませんでした。大尉に『彼は先生で、兵士ではありません』と説明できたので、先生は収容所に留まることになりました」。

終戦の1週間前には、みすぼらしい服の若者が2人、本部に連行されて来ました。「尋問すると同郷で同い年。ほどなくして同級生だと分かり…肩を抱き合って泣き崩れてしまいました」と、旧友との奇遇な再会をしたことも。

沖縄で覚えた方言で沖縄の人たちに呼びかけられたからこそ、「米国市民としての義務を果たし、しかも罪のない沖縄の人を助けることができた」と言います。「人を殺さなくて本当に良かった。戦争で人を殺していたら、今当時の話をする気にはなれなかったと思います」。日米のはざまで断腸の思いをした比嘉さんですが子ども時代を過ごした沖縄が心の故郷だそうです。

 

Takejiro Higa

1923年、ハワイ・オアフ島ワイパフ生まれ。2歳から16歳まで沖縄で育った後、ホノルルに戻る。高校在学中に軍隊に志願するが却下され、陸軍省からの手紙により再志願。サンフランシスコとミネソタのMI Sの日本語学校を経て、1944年フィリピン戦、沖縄戦に参戦。戦後は韓国に赴き、1945年12月ハワイに戻り除隊。ファリントン高校、ハワイ大学卒業後、国税庁に入局し90年に引退。
 
(2015年8月1日号掲載)