壕を掘らされ壕に幽閉された朝鮮人軍夫 / アメリカ軍の捕虜になった人を殺したのは、日本軍だったんです

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沖縄戦には、当時、日本の植民地であった朝鮮半島から、たくさんの「朝鮮人軍夫」も投入された。彼らはいったいどのように異国の沖縄戦に巻き込まれていったのだろう。当時十五歳の少年であり、また国民学校ごと少年兵 (防衛隊) に召集された阿嘉島の垣花さんのお話をきいてみたい。

 

阿嘉島にやってきた日本軍は、阿嘉島慰安所を建てた。その後、設営隊が本島に撤退するとき、その人員のなかに慰安婦も入っていた。彼女たちは、その異国の地、沖縄本島で軍と行動を共にし、というか、軍に連れまわされ、あの地獄の沖縄戦に引きずりこまれていく。

 

設営隊が朝鮮人慰安婦を連れて本島に移動した後、入れ替わりにつれてこられたのは朝鮮人軍夫とよばれたひとたちだった。 壕を掘らされたあげく、その壕に閉じ込められ、餓死させられていく朝鮮人軍夫。軍にそしてアメリカ軍の捕虜になった阿嘉島の島民たちを殺したのは、日本軍だった。

 

 

軍を頂点として重層的に繰り広げられる人種と性の抑圧構造。

 

それを意識しながら読んでもらいたい。ここにでてくる、日本軍、朝鮮人慰安婦、明らかに軍に優遇されている少数の朝鮮人、奴隷のようにこき使われ殺されていく朝鮮人軍夫、そして島の住民。

 

15歳の島の少年が経験した、島の戦争の記録である。

 

垣花 武一さん 阿嘉島の住人 (防衛隊) 当時15歳
|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

1930年 沖縄県座間味村阿嘉に生まれる
1944年 青年団員として、島の防衛隊に組織される
1945年 3月26日米軍が上陸、その後捕虜になる

戦後、沖縄本島の米軍基地などで働いた後、阿嘉島に戻る

 

 

【“朝鮮人軍夫”の沖縄戦

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太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。


昭和20年3月に始まり、6月下旬に組織的な戦闘が終結するまでに、日米合わせて20万人以上の死者を出した。


この沖縄戦では、日本の植民地だった朝鮮半島から動員された多くの人々が犠牲になっている。その数は、1万人にもなると言われるが今もその実態はわからない。

沖縄戦で、初めて米軍が上陸した慶良間諸島阿嘉島にも、朝鮮半島からやってきた“朝鮮人軍夫”と呼ばれた人々がいた。


おもに、キョンサン北道から連れてこられた若者で、那覇港での荷役作業に従事した後、阿嘉島に配備されていた特攻隊・陸軍海上挺身隊のために荷揚げ作業や舟艇の揚げ降ろしに当たらされた。

内鮮一体」の掛け声の下、彼らは「創氏改名」で日本名になって日本軍のために働きながら、作業は過酷なうえに食べるものは兵士よりも粗末、といった差別的な扱いに苦しんだ。貧しい食事で過酷な仕事に従事させられた朝鮮人軍夫の中には、脱走を図るものが出たほか、住民の農作物を盗んだものもいた。稲を盗んだ軍夫が軍によって銃殺刑に処せられるという事件も起こった。

キョンサン北道から、軍夫として徴用された人々のうちおよそ半数が亡くなったと言われているが、その正確な数は今もわかっていない。

 

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1. 兵舎になった国民学校

Q:昔の学校もこの辺にあったんですか。

そうですね、位置としては、この中央に校舎ね、この位置に3教室あったんですよ。左右には何もない、グランドは丁度、半分。戦時中、軍が接収しましてね、本部に使っとったんですよ。

Q:はい。

兵舎としてね、使っておりましたね。

Q:兵舎があったんですか。

いや、学校そのものを、兵舎として使っていたんですよ、当時としては、そこに、急に入りこんできてね。民間やら、そういう公共施設を軍部が「問答無用」いろんな物を接収したんですよ。

Q:授業は行われてなかったんですか。

だから、子供たちは、外におっぽりだされたわけよ、外に、こっちに大きな木があるでしょ。あの木の下で、全部、授業やってたですね、戦前、子供たち、あの辺の木陰で。

昭和20年の1月20日に、軍の任官式があってね、任官というのは、見習い士官から少尉に任官した人たちの昇任祝いがあったわけですよ。そのときに、民芸会がありましてね。各隊から、演芸の素晴らしい人たち、また、この召集兵というにはね、いろんな仕事の持ち主がいたわけですよ、演劇なんか、たけてる人たちもいたし、色んな人たちの集まりですわ、軍隊ってのは。演芸、歌ありで、その中に、一番、目に映ったのが、アリランを歌った朝鮮の慰安婦の2人、デュエットで「♪ア~リラン、ア~リラン♪」と、さっき、私が歌った歌ね、あれを、デュエットで歌ったんですよ、あれが、皆から、ヤンヤの喝采でしたね、島の人も全部招待して、見てますから、初めて聞くアリランの歌。きれいな人たちでしょ、皆んな、島の人たち好きになったんですよ。この人たちのこと。

2. 防衛隊

防衛隊っていうのは、地元出身の軍隊、これ、正規の軍隊、というのは、沖縄の防衛32軍は牛島満司令官で、もう1連隊いたわけですよ、大きい部隊が、武部隊がありましてね、32軍ぐらいの、大勢の部隊がいたが、急きょ、台湾防衛にあたるために、移動していった、それを、補完するために、地元防衛隊を召集した。我々も含めて、戦力を補うために、だから、防衛隊といっても、正規の軍と変わりない、防衛隊を別個に作ったわけではない。 階級も与えられるし、正規の部隊と何ら変わりない、ただ、地元から召集されたから、防衛隊という呼び名になった。当時としては、国民皆兵ですもん、「国民全て、兵隊だ」という、認識があるから、だから、我々、中学生も、軍隊と全く同じ訓練を受けた、各中学校には武器もあったし、学校に、毎週、正規の将校が来て、訓練を受けていた。ですから、戦争が始まった時には、訓練をさせるというよりは、すでに訓練が終わって、即戦力だった、我々は。

3. やってきた軍夫たち

日時は、昭和20年、2月17日。この日は、ここに、設営隊として、その前の昭和19年の9月に来た兵隊がいた。古賀隊(海上挺進基地2大隊)といいまして、930名の兵隊が来て、特攻隊の基地を作りに来た。その人たちが基地を管理して、で、隊が移動するという事でね、夕方近くに、兵隊が集合したんですよね。軍の情報は、我々は、はっきりわからないもんですから、「どうしたんですかね、兵隊さん」と聞いたら「沖縄本島に移動するんだ」と、その夕方、5時ごろから始まって、7時ごろには、船に乗ってこの島を去るわけですよ、設営隊が約930名中、720名ぐらい、その中に、朝鮮の慰安婦混ざっておりました、引き上げていくわけですね。入れ替わりに、朝鮮の軍夫という人が、上陸するわけですね。はじめ、朝鮮の軍夫という事を、我々は知ってないんですよ、「代わりの兵隊が、どういう任務で来てるのか」興味深々だったんですね。話によると、「朝鮮の人らしいよ」と。当時は、「強制連行」という言葉自体、聞いたこともなかった。「徴用」という言葉はあった、徴用というのは軍に召集。一般的に徴用といわれていた。「徴用の朝鮮人らしいよ」といううわさだった。

初めて見る朝鮮人、我々は、方言で、「チョウセナー」と呼んでいた、あの人たちのこと。台湾人は「タイワナー」というし、朝鮮人のことを「チョウセナー」という呼び方をやっていた。

やっぱり、軍というのは秘密、我々、住民との接触は禁じておりましたのでね、やっぱり秘密基地を作りに来ている兵隊ですから、任務をおびているしね。それから、我々も、ちょっとした情報を得た。彼らは、秘匿壕の補修とか、あるいは、いざとなった場合、特攻艇の泛水の任務を帯びていると、その後にわかったことですがね。

不思議に、「何しに来たのかな」と、特別には思ってなかった。「日本軍人の一部だ」と思っていたわけですよ。我々も少年義勇隊でしたからね。

Q:姿形というか、顔形は・・・。

それは、特徴ありましえた。やはり、我々、沖縄の人とは違う、毛深くないんですよ、一見で、すぐツルツルでしょ、みんなが色白い、直接、釜山から直接きたらか、焼ける暇がないでしょ。真っ白なんです、ツルツルで女の人みたいでしたね、それは、印象に残っている。

4. 米軍上陸

島と島の間から、米軍が侵入してきたんですよ。そのリーフの沖から水陸両用車に乗り換えて、上陸してきたわけですね。だから、初めてみる光景でしょう。「海から走って来たのが、陸に上がる」というのは、ぜんぜん、我々なんか知ってなかったんですよ。

Q:そのまんま、陸にあがる・・・。

日本軍の兵隊が、「水陸両用戦車といって、海中から陸にすぐあがれるすごい戦車だよ」と聞かされてビックリしたんですね。

Q:軍人さんから聞かされたんですか。

そうそう、以前も、ぜんぜん知らなかった。情報も入ってこなかったし、知らなかった、
上陸するのは、上陸用舟艇というのがあった、日本には、ああいうたぐいの物だと思っていたのに、そのまま陸に上がってきたから、ビックリした。

Q:日本軍は当時、そういうものはなかったんですね。

いや、ないですよ。

Q:それじゃ、見てたんですか。

山の頂上から見てた。

「上陸時は、米軍は攻撃はしない」っていうのは、そこに、両軍とも入り乱れて接近する地点だから、撃てないんですよ。

Q:接近する地点まで撃てないんですか。

上陸するでしょ、向かい撃つでしょ、だから、そこで、艦砲が撃たれると、自分たちの味方撃ちするおそれがあるわけ、だから、上陸地点では、あまり射撃をしないんですよ。で、その時、我々は様子を見た、上陸する模様をね。

5. 粗末だった軍夫たちの食事

Q:差別みたいなことはあったんですか。

それはあったと思うし、まずは、食事。食事は正規の軍隊と、全く、変わっていた。あの人たちに支給される食事と、全く、違いよったですね。我々が、銀飯を食うときは、あの人たちはおかゆ、我々がおかゆに代わるときは、あの人たちは雑炊とかね。粗末な食事。量も半分くらい、だから、あれですよ、壕掘りなど、重労働には耐えられなかったと思うんですよ。そういう食料で。だから、持久戦が始まったときは、あの人たちは、日々、衰弱していって、だから、時たま、脱走していって、食い物を探したり、それを求めて、徘徊(はいかい)しているうちに、日本軍に捕まったりとか、捕まったら、戦時中ですから、戦列離れるというのは、脱走、これは、戦時中、処刑ですよね、軍隊の中ではね。

とにかく、もう、常日ごろから、そういう態度、朝鮮人に向かって、朝鮮の軍夫に対してね。だから、正規の軍隊とか、そういうのを見たり、聞いたりしたら、「あ、差別してるな」と感じたよ。いつも、警戒する、彼らの行動にたいして、あやしい行動をすると、すぐ、詰問したりするでしょ。

中には、日本軍から、相当信頼されてる人もいましたね、そういう人たちは日本語が上手くて、当時、我々より、共通語が達者だった。「どっからみても、これは日本軍だ」と思ったけど、名前もそうですよ。日本の姓名名乗っていたんですよ。階級がないもんだから、「あれっ」と思ったら、朝鮮人の、「言葉わからん人と一緒のグループだ」という事で、後で知った。リーダーとしては、将校が2人いたし、この人たちも韓国出身だった。

6. 住民の処刑

Q:ほかの、一般の軍夫の人たちは、日本語話せましたか。

ほとんど、わからなかったですね。で、米軍から攻められて、山に、はいかいしてる時に時たま会うと、向こうも言葉分からんし、お互い、警戒しあうんですよ、しかし、沖縄の人たち、どっちかといえば、弱い人たちに同情する県民性、というのかな、島々の人たちって、みんな、そうなんですよね、あるおばさんが、言葉も分からんのに、こうやって、「おいで、おいで」って、手を使って、自分たちのなけなしの、食料を分けてあげるんですよ、で、この人、韓国語で、何とか、「ありがとう」ということを言って、おばちゃんは「あんたがそこにいると、我々も危ない、あんたはどっか行ってください」ということで、握り飯をやって、どっかへ、朝鮮の人は姿を消すんですがね。
そういう事もありました。だから、住民とこの人たちの間は、かなり、お互いが同情し合っているようなムードでしたよ。しかし、「かわいそうだね」と言葉で、言ったら大変ですから、繋がれて、処刑場に行くのも、みんな見ているが、「かわいそう」の一言もいえない。結局、処刑場に連れて行かれるのは、国賊だから、軍紀に反する連中だから。

そういう人たちに向かって、同情したら、それこそ、大変ですよ、同罪ですよ、当時としては、それが怖かったですよ。自分たちの身内が、おじぃとおばぁが処刑されたとき(米軍に収容され、その後、釈放された阿嘉島の住民2名が、日本軍によって「米軍に通じた者」として殺害された)も、一言も同情の言葉もかけられない。そういう時世だったですね。ただ、12名が処刑されたのは、野田隊長(海上挺進第2戦隊長)の、あの、6か月間の中での戦闘の中での汚点ですね。あれがなければ、「立派な隊長だった」のに、言われておったかもしれない。住民2人虐殺、朝鮮軍夫12名を虐殺、処刑、しかも、何の罪のない、ただ、利敵行為 その罪として、処刑した。あんなの、今、通らない。田舎の60なる、おじいちゃん、おばぁちゃんたち、何も学問も受けてない人たち、スパイするはずもない。あれ見て「あっ、米軍の捕虜になると、確実にやられるな」というのは、住民そのとき分かった。だから、「捕虜というのは米軍に全部やられるよ」という教えは、日本軍から、我々は教わった。殺したのは、アメリカ軍の捕虜になった人を殺したのは、日本軍だったんですよ、その辺が矛盾なんですね。

7. 閉じ込められた軍夫たち

Q:これは何ですか。

これは戦時中、昭和20年5月ごろから6月ごろまでに、朝鮮人軍夫を閉じ込めた壕になります。

Q:むこう側も見せてもらっていいですか。

はい、どうぞ。

第2の壕でしてね、大体、閉じ込められた人は、そこに収容50名ぐらいじゃじゃないかと記憶している。縦約、2メートル、奥行きは約20メートルと思う。

Q:まだ残っているんですね。

監禁した理由は、朝鮮人軍夫の逃亡が頻繁にあったもんだから、司令官としては、「これは、秘密をもらすんじゃないか」という事で、「ひょっとすると、そういう理由で監禁したかも」と、自分なんかは思っている。直接隊長に聞いた覚えはないですね、自分たちの推定です。

Q:まだ残っているんですね、

そうですね、あれから、65年も、たっているのに、奥の方は潰れているけど、まだ原型は残ってる。

当時、軍夫というのはね、日本の各部隊に配属されていた。何十名か、総勢300名といわれてるが、それよりも少なかった、と、私は思ってる、というのは、一中隊に配属されたのが、60名ですから、3中隊、ここにはいたわけですから、各中隊60名としたら、180名。それぐらいだった、と、僕は記憶している。そして、米軍の記録を見ても、114名が捕虜になった、とある、処刑された人、戦死した人もいるし、それをマイナスすると、だいたい、114名ぐらいに米軍に殺されたということになるんですね。

Q:この穴を掘ったのは誰なんですか。

自分たちが、この軍夫の人たちが、5月の中旬ぐらいから、壕(ごう)を掘り出した、我々は、この近くをしょっちゅう歩いてる、伝令として。谷間に炊事場があったもんですからね、召し上げに、毎日のように行くんですよ、そこ、通り道ですから、この人たちの作業状況というのは、頻繁に見ている、「今ごろ、何をしてるかな」と思っていた。5月頃からは、地上戦が無くなっていたのに、一切、米軍も、戦う相手もいないし、我々は自給戦に備えて、陣地構築をやってる最中に、ここの人たちは立穴を掘る。ごらんのように、これはどう見ても陣地じゃない。おかしい、山の頂上に、こういう、穴を掘る、井戸を掘るわけじゃないし。

何だろうと思っていたら、掘った人たちが、閉じ込められた。こういう雑木で、格子戸でもって、上から押さえて。

Q:格子戸・・・。

格子戸。

こんな狭い壕に、20人何名かは入ってるよもう。自炊の余地もないです。我々はそこを通りながら、チラっと見た、その状況を。それで、「食事を与えないと大変だ」という事だったんでしょう、一日に1回、給食がるんですよ。サバ缶の、今、サバ缶ってあるでしょ、サバ缶一杯ぐらいの、雑炊みたいなもん、与えておったんですよ。それでは、生命は維持できない、日々、体力も衰えて、死んでいく人たちも何名かおりました。

Q:この中でですか。

亡くなった人は、医務室のほうへ運んでいって、検死といっても、形式だけのものですよ、
軍医が検死して、「ハイ」で、関が原というところで、埋葬した、死んだ人、処刑した人も同じ場所。

Q:関ヶ原というのは・・・。

処刑所があったところ。

8. 銃殺刑

「4月の中旬あたりから、朝鮮人軍夫の投降が頻繁にある」と言う情報を、隊長は得ているわけだね、「こいつらを勝手に行動されたら、こっちが危ないんだ」という事で、強制的にこういう事を、やったって事でしょう。で、つかまった人たちは、わざと、野田山の艦砲、米軍の射撃のターゲットになる地域に、わざと、手をくびって一晩中、さらすわけね、わざと、危険な目にあわすわけね、その人たちを、望遠鏡で慶留間(島)の頂上から見えますから、日本軍だと思って、ボンボン撃ってくるわけね。わざと、そういう恐怖を与えるわけさ、で、翌日は、刑場に連れて行って、やるわけですよ、だから、秘密に処刑したわけじゃないんですよ、公開処刑みたいなもの。わざと、住民が避難していた場所、谷間をわざと通して、処刑場行く前に、かならず住民が避難しているところを、後ろ手で縛られて、後ろから着剣した日本軍がいくんですよ。だから、住民は、みんな、いっせいに見てるでしょ。手をくびられているし。だれが言うとも無し、「処刑場だよ」と、みんな。耳打ちするわけ。その下に、住民が避難している場所に、炊事場があり、そこで、ご飯を一杯、必ずくれるんですね。処刑する前に、それも、炊事に働いている、住民の人が全部見ている。

9. 軍への不信感

Q:垣花さん自身は、日本の兵隊さんが話すの聞くわけですよね、朝鮮の方を殺したときの話を、そのとき、どう感じましたか。

やはり、15,6歳ですから、ある程度、モノの、判断ってのはわかるわけですよ。人を差別してるところもわかるし、この兵隊たちは、我々をどう見てるとか、自分たちもそれは感じました。で、朝鮮軍夫さん、あのひとたちを差別していることも、はじめて、わかりましたね。だから、少年の我々、洗脳されてるような、自分は意識があったが、雰囲気があったんだけれども、軍人を、あの頃から、少し、疑わしく思いましたね。信じられないような、不信感が、少しづつ、芽生えてきた、軍に。あの当時の軍隊は、我々は神様だから、天皇の軍隊でしょ、もう、一言でも反抗したら、大変、「神の使いだ」と、教えを受けているから、「軍に対しては、一言も、不信感を持ってはいけない」、そういう教えを受けていたが、我々は15,6歳から判断できるようになっていた、「この人たちが、やっているのは、正しくない」ということを、少しづつ覚えていった。

「これはやっぱり、差別だな」と、自分たちも、差別を受けてる意識はあった、事実、はい。
「こいつらは、戦争のあと、何するかわからない」という、変に、我々を疑うような兵隊がいた、中には。

Q:沖縄の人をですか。

そう、「こいつらシナの子孫だよ」という、兵隊がいたね、これ今でも覚えてる、兵長だったんですがね、撃ち合いの最中ですよ、米軍が上がってきて、りょう線近く山のすそに、上がってきたんですよ、それで撃ち合いをしたんですよ。

我々、鉄砲ないもんだから、山の後ろに隠れていたら、その兵もそこに何名か隠れていて、前線にいくのもいるし、隠れているのもいるし、そのときに、我々防衛隊も4、5名いた。武器を持った防衛隊も、いたんだけれども、「こいつらは、シナの子孫だから、何するかわからんよ」と、あれを聞いたときは、頭にきた。

僕なんかは、以前は、「ヤマトンチュ」との付き合いはなかったので、差別は感じなかったが。兵隊が来てから、初めて自分たちも、感じた。「やはり、ヤマトは、こういう目で、我々を見ているのかな」と、「認識不足だな、こいつらは」と、逆に思いましたね。だって、「自分たちは、天皇陛下の赤子でもって、赤子なり」で教育うけてね、「自分たちは変わらぬ日本人だ」という意識を、誇りを持って戦っているのに、「シナ人の子孫だから、何するかわからん」といわれたら、頭にくるわけですよ。僕は、その時から、軍人に対する、不信感が湧いてきている。こういう目で見ているのかな。でも、ちゃんと、勉強している人たちは、そういう目では見ない。

日々、軍に対する不信感、当時は見なくても、見ても絶対に、軍に対して非難などはやってはいけないが、我々は、このときから、「こいつらの目を盗んで、何かやろう」と、やりましたね。例えば、漁労班として命令で魚を取りに行く、ダイナマイトで、漁獲するものを「一匹残さず」という命令だったけど、食べ放題。飯ごうに入れて、持って帰る。これも、軍律に反した事を、堂々と、あの頃からやった。自分たちの中からでてくる、不信感から、芽生えてきた証拠なんですね。やはり、純粋な少年だったのに、あの期間に、変わりましたね、

「奴隷」という言葉は、そのころから、学校で聞いていた、奴隷とはどういうものかと、「足げにして、牛馬みたいにあつかうのを奴隷」と。「奴隷扱いされる」思いましたよ。しょっちゅう、体罰でしょ、軍隊というのは、あしげにして、理由もなくひっぱたくし。「あれが奴隷だ」という事がわかりました、わかりましたよ。それ以前から、奴隷という言葉をきいて、「奴隷とは、何か」「足げにしたり、問答無用、ひとつの文句もいわずに、たたきのめして使うのが、奴隷」と聞かされていたから、朝鮮の軍夫さんも、あぁいう扱いを、ときたま、見たから、「あ、これが奴隷扱いか」と。自分たちも含めて、「こういうふうにやられている」と認識した。

Q:自分たちも含めてというのは。

沖縄の地元の人に対する。やっぱり、ちらほら、見えるんですよ、例えば、50代の夫婦が密告があったのか、50代の夫婦が食料を隠匿(いんとく)してるという。隊長が、直々に来て、住民が避難してる・・・という谷間にきて、この夫婦を、みんなの前に呼び出して、木刀でもって半殺しにする、しかも、5、60の、自分のお父さん、お母さんぐらいの人ですよ。足腰も立たないほど、たたきのめして、夫婦とも、戦後、この後遺症で亡くなった。それも平気でやってる。その様を見て、「やっぱり、奴隷あつかいしてるな」と、多くの大人たちはそういう目で見ているんですね。みんなが見ている前でやっているから、「まあ、見せしめだった」と思う。見た人は、「怖い」っていう気持ちの前に、「差別してるな」と思った。みんな、見ている人は感じたんだと思いますよ。

琉球歴史というのがあるさ、400年の。我々にはそれがある、日本人じゃない、薩摩に侵略された、琉球民族でしょう。「占領された、民だから、むこうから、抑圧、差別を受けるのは当然だ」と、我々は思った。しかし、琉球歴史というのは、完全に消えた、我々の時代に。

Q:そうすると、朝鮮の人たちに対しても、違う見方が・・・。

そうそう、自分たちみたいに、「ちょっと抑圧されてるな」という、言い方かえれば、「同類みたいに、我々は思っていた」わけです。「あの人たちも同胞だ」と、「同類だ」と。中学では、希望して、琉球歴史が受けられたが、皇民化教育受けてる身だから、遠慮した。「沖縄歴史を、知りたければ、教科書を買ってもいいですよ」と、先生が進めるだけ。しかし、「我々は、日本人になるために学んでいるから、琉球歴史は学ぶ必要がない」と遠慮した。

 

10. 降伏勧告

陸上戦もなくなり、米軍から攻撃されることはないから、毎日、昼間の行動は見ていない。みんな、兵隊も寝ているんですよ。それで、合間、合間に壕堀、自分たちの壕堀。兵隊達が隠れる本部壕とか。本部には、この人たちは来なかった、ほとんどが防衛隊か、正規の兵隊がやっていた、本部の壕堀りは。だから、直接、見る機会はそんなになかった。たまに召し上げにきている時、「朝鮮の軍夫だよ」といわれて、言われて、初めて気づいた。さっき、ご覧になった、朝鮮の監禁壕ね、あそこに、閉じ込められてから、我々は、はっきりと見たんですよ。1か月近い、日数ですからね。毎日、我々は、伝令で、そこを、走っているし。「もの見たさ」で、見るでしょ、「どういう状態になっているかな」と、みんな青白い顔で、ちぢこまっているし、目もうつろで、見たときは、だから、あれを見たときは、「本当にかわいそうだ」と。

そのうち、6月の中旬、しまい頃からは、その人たちが、いなくなったんです。何日に脱出したのは確認とってないけど、確かに、6月22日に、沖縄戦が終わりますよね、地上戦が終わって、我々、その情報が全くない、しかし、戦隊長は、アメリカ軍と、いわば、降伏するか否かの交渉は、すでにやっているんですよ、我々が知らないうちに、海岸で接触して、沖縄戦は終わったんだよ。

「ムダな血を流さなくてもいいじゃないか、野田(海上挺進2戦隊戦隊長)さん、降りてきてくださいよ」と。「これから、日本の復興を、だれがするんですか」と、アメリカ軍から、説得を受けている。しかし、野田さんは、「天皇からの命令でないから、私たちは降りませんよ」拒否してる。結局、降伏の交渉というのは、決裂する。その間に、6月22日に、戦隊長が、全軍を召集するわけね。理由は、彼自身、沖縄戦が終わったというのは、わかっている、で、我々に対して、「俺と一緒に死ねない奴は、いつでも去っていい」という、ことを言っている、あの意味は、「俺と玉砕できない奴は、いつでも、去っていい」と、「その代わり、正規の軍隊は、見逃すわけにはいかない。歩哨線を突破する場合は、その覚悟で行きなさい」と、「しかし、民間人は、自由にしていい」と。400名の部落のうち、約300人は、米軍の保護を受ける、22日以降に保護を受ける。残った約100名、我々も残った。それからは、アメリカからの攻撃は無かった。

Q:その時、6月22日以降は、軍夫の人はどうしていましたか。

22日以降に、先ほど説明した、50名近くの、壕に閉じ込められた人たちは、その22日以降に逃げている。逃げるというと、表現がまずいけど、妥当でないけれど。

Q:捕虜になった。

捕虜になった、22日以降ね。

 

これはデジャヴなのか。

 

琉球歴史の教科は、皇民化教育にとってかわり、
学校と軍隊が一体化される。

 

島の子どもたちは軍の「即戦力」だったのだ。

 

そのくせ一方で、「こいつらは、シナの子孫だから、何するかわからんよ」と蔑み、

 

やれ「国賊だ」「反日だ」「軍紀に反す連中だ」と、
強烈な朝鮮人軍夫への差別と弾圧と公開処刑を見せつけ、

 

ひとつの本音も言えなく沈黙させられる。

 

天皇の赤子」でなければならなかったのだ。

 

そして、皮肉な話だ。
敵に捕まったら殺されるとさんざん洗脳してきたくせに、

 

敵 (米兵) に捕まったといって、島民を殺したのは、
罪なき夫婦を木刀で殴り殺したのは、

 

目先の「敵」ではなく、

日本兵だったのだから。

 

私たちは再び
檻を掘らされているのではないか。

 

自分たちを幽閉し、残酷な死に至らしめる檻を。