沖縄戦 日本軍からも米軍からも「支配者のまなざし」をむけられる女性たち - その時、軍は女たちを守ったのか

沖縄の戦時性暴力についての覚書

 

二つの軍のはざまで・・・

 

 

ここに一枚の写真がある。軍の力にうつつをぬかすこの青年は、あたかも戦利品のように女の髪を梳く。キャプションは、明らかに combing comely Okinawan girl's hair とふざけた言葉遊びをしているが、しかし若い女の表情は、力にまつろわぬ、不屈の強い怒りに満ちている。

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/81-19-4.jpg

顔立ちのよい沖縄女性の髪をくしけずるコンスタンティニディズ1等兵

PFC Criton P. Constantinides of 1035 Rosewood Drive, Atlanta, Ga. is shown combing comely Okinawan girl's hair.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

まるで珍しい「モノ」でも眺めるかのように女性にまなざしを向ける米兵。女たちがどんな拒絶と嫌悪を表そうと、兵士らはそんなことなど気にもならないかのようだ。いったいこのふざけた無神経さ加減はどこから来るのか。

 

http://www.archives.pref.okinawa.jp/USA/124949.jpg

沖縄の魅力的なファッションを眺めるクッパー伍長(1945年6月14日撮影)

Corporal James E. Cooper (511478) of 71 Eastwoodsdale Ave. Akron, Ohio, ponders over the ”pin up” fashion on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦争の暴力は

その戦時性暴力において、

もっともいびつな形で突出する。

 

そして沈黙と忘却とを強いられ、

なかったことにされていく。

それは軍にとって最も不都合な真実だからだ。

 

沖縄戦における戦時性暴力、

その実相はまだまだこれから検証されていかなければならない。

 

日本軍は沖縄にたくさんの慰安所を設立した

沖縄にあった慰安所慰安婦たちについてはまた別の投稿で検証していく。

 

1945年 9月1日 『朝鮮から「商売」に来ている』

第32軍は、中国戦線での虐殺の延長線上で、アジア蔑視の経験と女性の体をもの扱いする「慰安所」を持ったまま沖縄にやってきた。…「慰安婦」が最初に送られてきたのは1941年(昭和16)で、南大東島での飛行場設営のための人夫と「慰安婦」7人が連行されてきた。そして「慰安婦」の多くが連行されたのは、主力部隊が沖縄に配置される1944年(昭和19)であった。』(84-85頁)

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 84-85頁より》

 

neverforget1945.hatenablog.com

 

日本兵による強姦事件

戦局が悪化すればするほど、日本兵による強姦事件も増えた。

 

1945年 6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』

(日本) 兵の半分はめくら滅法 (原文ママ) に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると、強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》

 

住民に向けられる日本兵の強奪、強姦、殺害。この三つは常に隣りあわせだった。

 

1945年 6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』

死にかかっている子供のための食べ物を取り上げた兵隊の弁解も、卑劣な偽善だった。「誰がより大切なんだ。おまえの家族か天皇陛下」。ごく少数の非人間的な兵が支配しはじめていた。彼らは村人に、どの地域が安全かという「情報」に対して食べ物を強要したが、中には飢え死にしかかっている者もいた。村に入って銃を発射し、アメリカ兵の銃撃だと思って住人が逃げ出した隙に略奪を行う兵もいた。アメリカ兵が洞窟の入口の前にあらわれた時は、兵の多くは武器を中にいる民間人に向けて人質とし、逃げたら殺すと脅しながら、民間人がいれば、敵は洞窟を爆破することを避けるだろうと考えていた。殺したり、強姦したりすることもあった。

「〔沖縄の住民が〕一貫して示した善意、献身や親切に対する恩返しが、この冷たく残酷な仕打ちなのか」と、ある兵士は苦悩した。

 

 

米兵による強姦事件

「沖縄の婦人に触れる」とは即ち性暴力の婉曲表現だが、それは頻繁に起こる犯罪だった

 

1945年 6月20日 『方面軍からの感状』

(米軍にとって) …強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。』(325頁) 

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 325頁より》

 

敵だったが味方となった。味方だと信じたが、敵だった。

 

1945年 7月25日 『戦争と性犯罪』

『…本部(もとぶ)では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊員によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている

 

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたというAction Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)

 

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て、「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)

 

これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)

 

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)

 

 米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろうReport of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)

 

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。』

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》

 

強奪、暴行、殺人。女たちは、戦局が悪化すればするほど、「友軍」日本兵の性的暴力の標的にされた。

 

また、女たちは敵と信じていた米兵によって救われたが、その米兵の性的暴力から自らの身を守るすべもなかった。 

 

 軍はなんだかんだと理由をつけて

平気で女たちを搾取する。

 

しかし軍の大義とは。

 

軍が「守る」と主張する対象とは

いったい何なのか。

 

はっきりとしていることは、

軍は、女たちを守らない。 

 

ならば結局

 

いったい軍は

何を守っているのか。

 

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