沖縄戦 日本軍からも米軍からも「支配者のまなざし」をむけられる女性たち - その時、軍は女たちを守ったのか

 

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PFC Criton P. Constantinides of 1035 Rosewood Drive, Atlanta, Ga. is shown combing comely Okinawan girl's hair.

顔立ちのよい沖縄女性の髪をくしけずるコンスタンティニディズ1等兵

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

沖縄の戦時性暴力についての覚書

二つの軍のはざまで・・・

 

ここに一枚の写真がある。この青年は、あたかも戦利品のように女の髪を梳く。キャプションは、明らかに combing comely Okinawan girl's hair (顔立ちの端正な沖縄女性の髪を櫛けずる) と、ふざけた頭韻をつかってはいるが、しかし若い女の表情は、力にまつろわぬ、不屈の強い嫌悪と怒りに満ちている。

 

物色。まるで珍しい「モノ」でも眺めるかのように、収容所に収容され逃げ場のない女性たちにまなざしを向ける米兵。女たちがどんな拒絶と嫌悪と恐怖を表そうと、兵士らはそんなことなど気にもしない。いったいこれらの、人を人とも思わぬ無関心・無神経はどこからやってくるのか。

 

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沖縄の魅力的なファッションを眺めるクッパー伍長(1945年6月14日撮影)

Corporal James E. Cooper (511478) of 71 Eastwoodsdale Ave. Akron, Ohio, ponders over the ”pin up” fashion on Okinawa.

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 

戦争の暴力は

その戦時性暴力において、もっともいびつな形で突出する。

 

そして犠牲者は沈黙とスティグマを強いられ、そうして、軍による性暴力は「なかった」ことにされていく。

 

それは軍にとって最も不都合な「真実」だからだ。

 

沖縄戦における戦時性暴力、

 

その実相はまだまだこれから広く知らされ、共に考えていかなければならない。

 

日本軍と慰安所

日本軍は沖縄にたくさんの慰安所を設立した

 

日本軍の性暴力を組織化したものが慰安所という場所であった。沖縄にあった慰安所慰安婦たちについてはまた別の投稿で検証していく。「従軍慰安婦」はいなかった、などの言説が吹き荒れるが、戦後まもなくの初期の沖縄戦証言を読めば読むほど、慰安婦の記述は多い。日本軍の駐屯する場所には必ず慰安所が作られ、沖縄戦に備え応急医療の訓練も日本軍から受けさせられた。

 

日本兵士や住民の証言には、つねに日本兵とともに移動し、撤退し、避難していた彼女たちの姿が記録されている。

 

1945年9月1日 『朝鮮から「商売」に来ている』

第32軍は、中国戦線での虐殺の延長線上で、アジア蔑視の経験と女性の体をもの扱いする「慰安所」を持ったまま沖縄にやってきた。…「慰安婦」が最初に送られてきたのは1941年(昭和16)で、南大東島での飛行場設営のための人夫と「慰安婦」7人が連行されてきた。そして「慰安婦」の多くが連行されたのは、主力部隊が沖縄に配置される1944年(昭和19)であった。

《「沖縄戦場の記憶と慰安所」(ホン・ユンシン/インパクト出版会) / 84-85頁より》

 

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《AIによるカラー処理》These ten Korean girls, sold into prostitution by their destitute families, were found by a Marine patrol near an enemy quartermaster after a skirmish with Japanese soldiers, on Okinawa.
【和訳】貧困ゆえに売られた韓国人女性10人。彼女たちは日本軍倉庫近くを哨戒中の海兵隊員員によって発見された。

写真が語る沖縄 詳細 – 沖縄県公文書館

 


 

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《 出典『軍隊は女性を守らない-沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』2012年12月 WAM アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館 》

 

日本軍は「慰安婦」を「看護助手」として従軍させた

地上戦が間近にせまると、日本軍は彼らが「慰安婦」と呼ぶ女性たちに救急法を教え込み、「看護助手」としても従軍させた。とことん彼女たちの力を利用しつくし、多くの女性たちが軍と共に戦場に巻き込まれていった。

 

日本兵による強姦事件

戦局が悪化すればするほど、日本兵による強姦事件も増えた。

1945年 9月4日 『こんな国のために死ぬもんか』
敗残兵となった日本兵は、山中で避難民の食糧を略奪したり、従軍看護婦を手込めにするなどひどいことをしており、それを咎めた彼は日本軍の将校に軍刀で殺されかかったというのです。彼は、とっさに自殺用に残しておいた手榴弾を握り、「死ぬなら一緒だ」と叫び、相手がひるんだ隙に逃げてきたそうです。

 

1945年6月22日 『アメリカ世(ゆ)の始まり』 

(日本) 兵の半分はめくら滅法 (原文ママ) に闘い、いまや生きのびている期間も、残りすくないことがわかると、強姦事件もあちこちで発生した。こういう状態は、国吉丘陵や第153高地が米軍の手におちる前にすでにあったのだが、これら両高地が陥落してからというものは、彼らは日本の作戦は、たとえどんなことがあっても、一時的にせよ成功する見込みはない、ということを認識しつつあった。

《「沖縄 日米最後の戦闘」(米国陸軍省編・外間正四郎訳/光人社NF文庫) 503-504頁より》

 

住民に向かう日本兵の強奪、強姦、殺害。三つが常に隣りあわせ。

1945年6月10日 『戦いは米軍の独り舞台となる』

死にかかっている子供のための食べ物を取り上げた兵隊の弁解も、卑劣な偽善だった。「誰がより大切なんだ。おまえの家族か天皇陛下か」。ごく少数の非人間的な兵が支配しはじめていた。彼らは村人に、どの地域が安全かという「情報」に対して食べ物を強要したが、中には飢え死にしかかっている者もいた。村に入って銃を発射し、アメリカ兵の銃撃だと思って住人が逃げ出した隙に略奪を行う兵もいた。アメリカ兵が洞窟の入口の前にあらわれた時は、兵の多くは武器を中にいる民間人に向けて人質とし、逃げたら殺すと脅しながら、民間人がいれば、敵は洞窟を爆破することを避けるだろうと考えていた。殺したり、強姦したりすることもあった。

「〔沖縄の住民が〕一貫して示した善意、献身や親切に対する恩返しが、この冷たく残酷な仕打ちなのか」と、ある兵士は苦悩した。

  

1945年6月24日 『敵は米軍ではなく友軍だ』

 しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。

日本兵による日本兵の殺害を証言した98歳「やり残したことがある」 - ライブドアニュース

 

米兵による強姦事件

「沖縄の婦人に触れる」が性暴力の婉曲表現。それは頻繁におこった

 

1945年6月20日 『方面軍からの感状』

(米軍にとって) …強姦は残虐行為の資格充分であり、多くの事例があった。民間人の婦人を犯すことは、多くの部隊は認めなかったが、もっとも頻繁に起こる犯罪に含まれていた。ある兵は、「沖縄の婦人に触れた者はその場で処刑する」という将校の警告を充分に承知していたし、そういう脅しを必要としなかった。しかし、その他の個人、グループには違った行動をする者もいた。また、アメリカの戦史は、彼らの犯罪を無視している。』(325頁) 

《「天王山 沖縄戦原子爆弾(下)」(ジョージ・ファイファー著/小城正・訳/早川書房) 325頁より》

 

敵だったが味方となった。味方だと信じたが、敵だった。

1945年8月8日 『ソ連、日本に宣戦布告』

二度の強姦の現場を目撃した女性の証言

終わってから、捕虜になってからイモを採りに行って、イモ採って中休みですよね、途中で休んでいるときに、アメリカ(兵)が来たもんですからみんなびっくりして逃げたんですよ。… そして一人は強姦する。そして、立ってるあれが、拳銃上に向けてパチパチと。怖かったですね。(逃げるのが)いちばん最後だから怖かったんですよ。みんなもういくらバンバンしても、助けようとする人いないんですよ。みんな逃げて。… ちゃんと軍の帽子かぶって、緑と黄色と混ざったカーキ服ですね。あれをちゃんときちっとしめて、拳銃して2人きたんですよ。あのときはアメリカ(兵)見たら皆逃げますからね。バーと逃げたんですよ。そのときにすぐ2人は捕まえられて。みんな逃げたもんだから、私もあわてて、川の石に(つまずいて)、イモを落としてしまってね。落とさなかったら見なかったと思います。私のイモを落とさなかったら。これを取って水浸しになっているイモを持って、上へ上げて頭に乗せようとして見たんですから。

強姦とか殺されるとか、いろんなのがありましたから。

倒されてね、この軍の靴で、両方の靴で。そこ見た。足くびを軍の靴で踏んでいるのを見たんですよ。女の人の足首、軍の靴でね、大きい靴ですよ、両方の足を踏んでいるわけですよ。ほー、これが強姦かと思った。昼ですよ、昼。午後何時だったかね、3時ぐらいのもんかな。朝行って帰りですからね。・・・

捕虜になって石川に収容所に来てから、東恩納は。あれはですね、私たちはこの山で、親子はこの山ですね、…お母さんが、「助けてくれ、助けてくれ」って言ってるわけよ。娘がやられてるもんで。そのときは、薪を放ってすぐに逃げましたね。

長浜 キクさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

勇気をもって訴えても、なかったことにされる性犯罪。

1945年8月8日 『ソ連、日本に宣戦布告』

米兵の証言

 それで、7人の男たちが私に、一緒にその家へ行こうと誘ってきました。「そこへ行って、女性とセックスするんだ」と言いました。彼らがそこへ行って女性を性的に・・私は合意の上だと思っていましたが、「私は行かない。お前たちはクレイジーだ」と断りました。…そんな事をしていると、4-5台のジープと武器輸送車が、憲兵とかわいらしい小柄な沖縄の女性を乗せてやって来ました。

そのうち、責任者の男は、将校かなんかだったと思いますが、彼が、私たちを全員並ばせて、女性が列の中から自分を暴行した男を5人ほど指さしました。彼女は、残りの2人は見分けられませんでした。彼女が「こいつだ」と言えば、憲兵たちは彼女を信じたでしょう。私は男たちが何をしたのか考えると、死ぬほど怖ろしくなりました。それから、医師が男たちと女性を診察しましたが、レイプの痕跡はどちらにも認められないという事でした。もちろん、医師は米軍側の味方で、軍隊でレイプの罪に問われると大変なので、避けたかったのでしょう。

フェントン・グラナートさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス 

 

1945年7月25日 『戦争と性犯罪』 

『…本部(もとぶ)では早い時期から米兵によるレイプなどの性犯罪がおこなわれていた。それらは海兵隊員によるものだった。後の時期になると補充要員としてやってきた兵士の質が悪かったというような言い訳もあるが、すでに沖縄戦の最初の段階から海兵隊員によって犯罪がなされている。

米軍の憲兵隊では、島にたくさんの女性がいたので、軍政地域から部隊を引き離そうとする努力はおこなったようだ。比較的少数のケースであるがレイプをされたという訴えがあり、いくつかのケースが捜査されたという(Action Report, 11-XXII-6)。しかし、6月30日までに検挙された人数はレイプが12件前後、レイプ(男色)が5件前後にすぎず、実際におきた事件のほんの一握りにすぎない(この数字はグラフから読み取った数字なので概数である、11-XXII-17)。

米軍の慰安所が設けられたところもあった。本部(もとぶ)の仲宗根で日本軍用の慰安所を経営していた人が区長に相談し、米軍の許可を得て、「S屋」慰安所を開設した。女性は5、6人で、アメリカ兵が行列をつくっていたという。この慰安所は数週間後にはなくなったという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105〜107頁)。

 

これ以外にも、日本軍の慰安婦だった朝鮮人女性を住民から引き離して米兵の性的な相手をさせた例がいくつかあったようだ(『第二次世界大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書』13、18頁)。

 

辻の遊郭で働き、その後日本軍慰安婦になったジュリたち12人が、南部で米軍に捕まるが、そのとき3人が米兵に連れて行かれてレイプされた(川田文子『戦争と性』170頁)。

 

米兵の犯罪に関して、米海軍艦隊の第9軍事警察大隊が45年12月10日から沖縄での警察活動に従事した。この部隊は多いときには727人のスタッフがいた。46年5月25日に任務を終えて、責任を別の軍事警察部隊に代わるが、その間、検挙あるいは捜査した米軍人軍属の数は1754人、うち「沖縄女性に対するレイプならびにレイプ未遂」で逮捕した者30人(件)である。この数字は氷山の一角にすぎないだろう(Report of Military Government Activities from 1 April 1945 to 1 July 1946, p72.)。

 

軍政府の公安局長を務めたポール・スキューズ Paul Skuse のファイル資料には、こうした関係のものが含まれている(ポール・スキューズ文書、沖縄県公文書館所蔵)。45年11月29日に、少女を拉致した黒人を追跡した警官が射殺された事件がおきている。

《「沖縄戦と民衆」(林博史 著/大月書店) 362-363頁より》

 

 

強奪、暴行、殺人。女たちは、戦局が悪化すればするほど、「友軍」日本兵の性的暴力の標的にされた。

 

また、女たちは敵と信じていた米兵によって救われたが、その米兵の性的暴力からまったく自らの身を守るすべもなかった。 

 

 軍は女たちを守るという名目で

とことん女たちを搾取した。

 

軍が沖縄を守ると語るとき、

多くの人はそれを、自分たちの生活や命を守ってくれるのだと考えがちである。

 

しかし、これだけは認識しておくべきだろう。

軍が守ると語るとき、

 

軍は、国の「面積」と「命令」を守ろうとしているわけで、そこに住んでいる人々を守りに来ているわけではない。

 

どれほど土地がやけ爛れようと、どれほど住民の生活と生命と尊厳が叩き切られようと、究極、知ったことではない、となる。

 

1945年の今日6月14日、沖縄戦の作戦参謀、八原博通は「我らは今や超人間となり、非情のことも強要しなければならぬ」と言っているように、だ。

 

はっきりとしていることは、

軍は骨の髄まで女たちを利用したが、

 

軍は結局、女たちを守らない。

ということだ。

 

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  2. 第10回特別展 軍隊は女性を守らない ―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力― – アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館(wam)
  3. 第20回講演会 『沖縄にみる性暴力と軍事主義』(10月26日) – 関西・沖縄戦を考える会
  4. 関口グローバル研究会 [SGRA]
  5. 林博史論文
  6. 山城紀子「沖縄の社会的マイノリティにとって沖縄戦と その後の米軍占領は何をもたらしたか」
  7. 玉城福子「沖縄戦の犠牲者をめぐる共感共苦の境界線」