沖縄県立水産学校 - そのとき学校の教師たちは

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今回の復刻は、沖縄県立水産学校について。生徒48人教師2人のうち、生徒31人教師1人のいのちが奪われた。水産学校の上級生十数人は国頭へ、そして下級生の通信隊は首里へ。教師も伴わないで激戦地の首里に送られた通信隊の子どもたちはその多くが亡くなった。

 

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学徒動員とは - 『戦禍を掘る・学徒動員』< 資料添付 > - Battle of Okinawa

 

  

戦禍を掘る 第2部・学徒動員【15】水産学校教員

(1)いち早く戦況察知 越智校長、再三、本土疎開勧める

 沖縄水産学校に親川光繁さん(72)=那覇市松川=が体育の教師として赴任してきたのは昭和16年11月。「そのころの学校は配属将校と教練の教師の天下。他の学科は軽視されていた」。運動場を歩く教練教師の手には「検定合格証」がたえずあり、見せびらかすようにしてあおぐしぐさを見せていた。「卒業証書以上に生徒にとっては価値あるもの。なければ兵役勤務してからも幹部になれなかったし、軍人優先の時代には個人的にも恥ではあった」と親川さんは言う。

 

 水産には全国一若い校長がいた。親川さんより半年余り先に、37歳で赴任した越智通秋校長。「高潔、正義、教育愛に燃える人柄」だったと言う。陸軍少尉で、学校へも軍服姿で登校することが多かった。

 

 「とにかく生徒にも厳しかったが、温情のあるやり方だった。不まじめな生徒がいれば、連帯責任で何人かを並ばせて次々にビンタをはっていったが、職員室に引き揚げると『あァ、痛かった』と、はれた手をさかんにさするユーモラスな面もあった」

 

 剣道3段で軍服姿の校長、そして校風が“船乗り教育”に欠かせない「服従」と「団結」。「どの中学でも“軍事色”は強かったが、水産が最も軍隊式にできあがった。敬礼の挙手なども他学校より早く実行したりして、軍や県庁からの評価は高かった」と親川さんは言う。

 

 こうした水産学校に戦争の影が最初に落とされたのは、18年12月21日の湖南丸遭難事件だ。在学生の10人近くが乙種飛行兵に志願して合格、湖南丸で原隊に向かう途中、米潜水艦の魚雷2発を受け沈没した。

 

註 「同年12月21日には、沖縄から本土に疎開する人たちを乗せた湖南丸(2627トン)が米海軍潜水艦の魚雷攻撃に遭い沈没、約400人の船客がエスコート伴走の柏丸に救助されたが、同船も一時間後魚雷攻撃をうけて沈没した。この事件は学童疎開対馬丸遭難事件の八か月前であるが、日本軍部は沖縄県民の動揺をおそれ、軍事秘密にして伏せていたという。生存者の証言から全容が明らかになったのは、事件後39年を経過した1982年(昭和五十七)六月である。」 《読谷村史 「戦時記録」下巻 第四節 「読谷村戦没者名簿」からみた戦没状況

 

 出発などすべてが極秘事項で学校側にも知らされなかったが、遭難の話は口伝えで県民にも知られていった。「水産からはただ一人、当真嗣次郎君が生き残った。水産だから泳ぎがうまかったので最初の撃沈で5、6人は、柏丸に救助された。だが、冬の海を泳ぎ寒かったので、みんな船室に潜り込んでしまい、柏丸が攻撃を受けた時にやられている。当真君だけ6時間も海中にいて救助された。当真君は帰って、時折涙ぐみながら当時の状況を話していた」。重苦しい雰囲気に包まれた学校では、職員が各家庭を弔問したが、涙ぐむ母親らの前には慰める言葉もなく、思わずもらい泣きするばかりだった。

 

 サイパンテニアンの敗北が伝えられるころ、武人肌の校長に変化が出てきた。職員会議で「もう戦争は駄目だ(勝ち目がない)。実情を見きわめてから学校としても、ことに当たらねばならない」と口走るようになる。そして県外出身の教師たちを引き揚げさせ、さらに県内の教師や生徒らにまで疎開を勧めるようになった。

 

 親川さんも再三疎開を勧められた。思案しているうちに10・10空襲に遭い、布団一枚もない親川さんが断念したころ、越智校長に呼ばれた。「沖縄は間違いなく激戦地になる」からと疎開を勧める。着のみ着のままで、本土の冬を過ごすことはできない親川さんは「もう仕方がありません」と答えた。校長はあきらめ、「覚悟はよいか」と念を押した。

 

 19年の9月ごろ、配属将校は中川三蔵中尉を最後に終わった。代わりに就任したのは軍事教官。1階級下の上野実少尉が赴任した。就任の日、あいさつのため上野少尉が校長室に入るか入らないかのうち、校長の大声が聞こえた。「もう日本は戦争に負けたな。あんたのような若僧が陸軍少尉でござる、教官でござるで来るようでは―」。大学出たてで23歳の上野少尉は校長のけんまくの前に反論することもなく黙って、引き揚げていった。報道管制の中、校長は戦況の厳しさをだれよりも察し、またそれをはばかることなくぶっつけていった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年12月7日掲載

 

(2)校長、本土に疎開? 逃げまどう生徒突き放す

 親川光繁さんは水産学校で体育を教えながら、私立の開南中学の教師も兼務していたが、開南中学志喜屋孝信校長もまた戦局を見極めていた。親川さんに対し、「軍はもう率先して戦うという気概はなくなっている」とサイパンテニアンの全滅のころから言い始めていた。

 

 昭和20年に入ると、「非常に不利だ。決して無理はしないようにしてくれよ。いたずらに血気にはやって無茶な行動はとらないように」と、さとすことが多かったと言う。

 

 「司令部に連日呼ばれていて情報が詳しかったかもしれないが、そのころは志喜屋校長はスパイではないかと思ったこともある」と親川さんが思ったほど、そのころとしては考えられない発言だった。

 

 那覇市垣花にあった水産学校の校舎は、10・10空襲で火災こそまぬがれたものの爆撃で今にも崩れ落ちそうになり、使用できなくなった。そのため上泉の民家に仮住まい、しばらくして宜野湾の農民道場に移った。生徒らは球部隊の通信教育を受ける一方、石部隊の動員作業にも駆り出された。300人ほどいた生徒は、そのころには40~50人ほどになっていた。「離島の生徒が多かったから括弧に参集できる状態ではなかった。結果的には犠牲を少なくした」と親川さんは言う。

 

20年1月、越智通秋校長が日輪丸という小さなポンポンで鹿児島に引き揚げたサイパンが全滅してあと、見違えるほど弱々しくなり、教師や生徒たちに盛んに疎開を勧めていた校長だった。

 

 だが、それまで勇ましく軍などからも評価の高かった校長だけに反響は大きかったという。当時の新聞は「逃げた」と報じる。学校関係者からの問い合わせも殺到し、「あれだけ言ってイザとなったら裏切るのか」と批判した。いろんなうわさまで流された。

 

 親川さんは「ほとほと困って新崎(寛■)教頭と県の教学課に、真栄田義見先生を訪ね、真偽を確かめに行った。そしてら辞表は受理され後任も決まっていた。真栄田先生は『ちゃんと手続きを取ったのだから』と言い、逃げたのではないことを知り納得して帰った」と話す(このことについて真栄田さんは記憶がなかった)。

 

 「でも校長が引き揚げてよかったと思う。沖縄に残っていれば、あの人のことだから、自らすすんで戦場に向かったはず。戦死者もいたずらに増えたはず」

 

 生徒らを戦場に送り込みながら裏切った校長のいたことを親川さんは戦後知った。「収容所で額に傷を受けている女学生がいたので『どうしたのか』と聞いてみると、ムラムラッと怒りがこみあげて来た。南部でどうしていいか分からなくなり、ある女学校の校長を見つけ、後についていった。そしたら校長は連れの教師と一緒に『なぜついて来るんだ』と石を投げつけてきた。その一つが額に当たったとのことだ。教育者のやることではない。戦前、軍服を着て威張り散らしていただけに頭に来た」

 

 親川さんは沖縄戦に学徒が動員されたことについて「少しでも軍隊の経験がある人だったら反対だったはず。教学課の安里延課長も『何で生徒を戦に使うのか』と言い続けてきた。それが、どういう事情で動員されたのか ― 今でも真相が知りたい」と言う。

 

 宜野湾の農民道場に移った沖縄水産学校に、鉄血勤皇隊の編成命令が来る。3月も下旬になっていた。

(「戦禍を掘る」取材班)■は左が「糸」で右が「卓」 1984年12月10日掲載

 

(3)「南部行きは犬死にだ」 最後の職員会議で反論

 ガリ版刷りのその紙には牛島司令官と島田知事の2人の名前が書かれていた。通信隊の隊員と鉄血勤皇隊の配置部署を命令する公文書だ。

 

 沖縄戦開始から2日後の3月25日、宜野湾の農民道場にいる水産学校に軍のトラックが来て、降りて来た下士官が公文書を見せた。その日は「空襲で集まってない」と帰ってもらったが、さらに2日後の27日にもやって来た。新崎寛■教頭も仲村渠盛雄教練教師も返答に窮した。

 

 軍はすぐに連れて行くと言う。2人代わって親川光繁さんが応対した。「このまま生徒を連れていかれるのは忍びない。一度父兄の元に帰してほしい」―しかられるのを覚悟しての言葉だったが、意外に了承、4月1日までに集合するようにと伝えて帰って行った。

 

 親川さんには学校から戦場に直接生徒を送るにはためらいがあった。「鉄血勤皇隊は職員も一緒だが、通信隊は生徒ばかり召集令状も何もないまま正規の兵隊でもない少年たちを、軍の命令通りに運ぶにはひっかかるものがあった」と言う。

 

 その晩、職員会議が開かれた。水産学校の最後の職員会議となったそれは意見が二つに割れる激論が続く。鉄血勤皇隊の配置部署・国頭方面へ行くべきかどうかをめぐってのものだ。

 

 仲村渠教練教師と小嶺進教諭は「軍隊のいない北部に行ってどうする。南部に行って軍と協力して戦うべきだ」と強硬な意見を主張する。これに親川さんが反論した。「軍の配置命令は召集令状と同じ。南部に行くのは犬死にだ」。

 

 最初の夜は“強硬派”が優勢だったが、2日目の会議では親川さんが激しく反論、中立の立場で聞いていた教頭も賛同、命令通りとなった。

 

 3月29日は月明かりの夜だった。農民道場の前に生徒が2列で整列する。右側には首里に向かう通信隊、左側には国頭に向かう鉄血勤皇隊が向かい合って並んだ。新崎教頭は「皇国非常の今、生徒もこの際ペンを捨て銃を取って御国を守らねばならない」と生徒を励ました。

 

 だが、そのあとに立った親川さんは、職員が引率しない通信隊の生徒らに向かって「家に帰ってよく親と相談してから行動をとるように」とクギを刺した。通信隊の生徒は4月1日、首里の司令部に全員が集まった。親川さんの言葉に耳をかさず、父兄の反対を押し切って逃げるように家を出てきた生徒も少なくなかったという。

 

 親川さんら鉄血勤皇隊の一行は、その夜のうちに配置先の国頭に向けて出発。編成表では60~70人いるはずの勤皇隊は職員も含めて十数人しかいなかった。普天間街道は住民でごった返した。北部に向かう者、軍のいる南部を目指す者―「波上祭のような騒ぎだった」。そんな中で隊列は乱れ、新崎教頭と伊良波長有書記ははぐれてしまった。新崎教頭はそのまま消息が分からない。

 

 農民道場出発の時に、勤皇隊の責任者ともいうべき仲村渠教練教師も、小嶺教諭とともに「南風原にいる家族を連れて北部へ行く」と別れている。それが2人の最期の姿となったが、勤皇隊は親川さんに任されたままとなっている。

 

 配置先の部隊は球18814部隊。だが、どこにあるのか分からない。本部の宇土部隊しか知らなかった親川さんは、生徒を使いに出すと、「心当たりがない。武器も食糧もないのに何しに来たのか」と相手にされなかった。

 

 その時、先を行っていた農林学校の勤皇隊も部隊を探しきれずに解散したという話を聞いた。水産学校も連絡先を宜野座村古知屋(現在松田)に置いて解散した。

 

 その後、生徒らによって部隊が第2護郷隊の岩波隊であることが分かり、数人が合流した。勤皇隊の戦死者はそこでの1人だけだ。

 

 「水産は宜野湾に移っていたから北部配置になり、また部隊が探せなかったことで、戦死者が少なくてすんだ」と言う。

 

   ◇   ◇

 親川さんは戦後いち早く学徒の事務処理に取り組んだ。「人命の軽視、沖縄が遺棄されたことを痛感した」と言う親川さんは、「義勇兵役法が成立したのは20年3月。法的根拠もないまま沖縄では通信隊、防衛隊と召集されている。この違法な行為を、なんで当時の新聞は書いてくれなかったのか」と疑問を投げる。

(「戦禍を掘る」取材班)■は左が「糸」で右が「卓」 1984年12月11日掲載

 

戦場に送られた水産学校の生徒たちのその後は・・・

 

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沖縄戦継承事業/沖縄県