沖縄戦『女たちの地上戦』

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ETV特集 1月25日

「女たちの地上戦」

 

沖縄戦の惨劇を、200人以上の人々が赤裸々に証言した録音テープが見つかった。まだ戦争の記憶が生々しかった1960年代に収録された沖縄戦の聞き取り調査の録音テープだ。その多くは、ワカメ状に変形していたが、特殊な溶剤を使いアイロンを使い一つ一つ手作業で修復され、失われていた声がいきいきと甦ってきた。

 

録音テープの中でも特に凄惨な体験を語っているのは戦場に取り残された女性たちだ。自らの手の中で我が子を餓死させてしまった母。野戦病院で負傷兵に毒を飲ませたと告白する看護婦。そして、日本兵によって家族を殺された女性。戦争が終わっても女たちの苦難は続いた。アメリカ兵による暴行事件が頻発し、さらに収容所では伝染病や栄養失調で家族が次々と亡くなっていった。

 

重い録音機を担ぎ、激戦地の家々を訪ね歩き記録された証言。何度も足を運ぶ担当者たちの熱意で、多くの女性たちは、それまで誰にも話した事のなかった戦場での体験を語った。

 

それまで、沖縄戦の記録は、軍人や軍の行動を中心に語られてきた。この記録は沖縄で最初に集められた「住民の戦争記録」であり、それまでの愛国美談一色だった沖縄戦史観を大きく変えた貴重な史料なのだ。

 

最も弱い立場であったがゆえに、凄(せい)惨な体験をした女性たちの証言が記録されていた録音テープ。 番組では、これまで一度も公開されていなかった未公開録音テープを元に“女たちの地上戦”を描く。

 

 

10万人もの住民が犠牲になった沖縄戦。その地上戦での体験を40年前(1969年)に住民たちが語った録音テープがみつかりました。幼子をかかえ戦場を逃げまどった母、親兄弟を目の前で殺された少女。激しい砲撃の中追い詰められ3ヶ月に及ぶ地上戦を生き抜いた女たちの記録です。


沖縄県公文書館沖縄県が収集した5000点に及ぶフィルムやテープが収められています。新たにみつかった録音テープもここで保管されています。テープは88本。150時間の証言が収められていました。証言は1960年代後半から5年をかけ録音されたものでした。しかし、その音声はこれまで一度も公開されたことがありません。証言が録音されたのは、沖縄県 史第9巻、沖縄戦記録の聞き取り調査のためでした。終戦からすでに26年、沖縄がまだ日本に復帰していなかった1971年、沖縄戦を体験した県民の証言集が初めて作られたのです。


中心となって執筆したのは当時、沖縄で活躍していた作家の宮城聰(そう)さんです。テープには宮城さんが証言者に語りかける様子が残っていました。(宮城聰(そう)さん)「考える事はないんです。当時の状態をそのままお話ししていただければいいわけです。あちこちと沢山ありますから、全体はこっちでまとめますけれども、いろいろご体験なさっているわけで、それをそのまま自分で見たり聞いたりした事だけをお話ししていただければ結構ですから」


当時、沖縄戦の記録は軍人たちが書いた戦記がほとんどでした。宮城さんは住民の体験を正確に記録しておかなければ戦争の真実が後世に伝わらないと考えていました。
「われわれが自らの心を戒めていたことは、自分自身の希望的考え方、自分自身の思想傾向等によって真相を微塵も歪曲してはいけないということであった」(沖縄県史第9巻より)(録音テープは蘇りました)宮城さん自身が大切に保管してきた録音テープは亡くなった後、沖縄県に寄贈され、2年前その存在があきらかになりました。 しかし40年前のテープはその多くが激しく変形していました。貴 重な肉声を蘇らせるため1年前から修復作業が続けられてきました。作業は横浜にある専門の業者に依頼。修復は手作業で一本一本慎重に進められました。テー プに残された音声は雑音などが混じり、激しく劣化していました。コンピューターを使ってスピードの調整、雑音の除去を行い、40年前の人々の肉声が蘇った のです。


 沖縄での地上戦は昭和20年3月の末からおよそ3ヶ月に渡って行われました。アメリカ軍が4月1日に本島中部に上陸。圧倒的な物量のアメリカ軍に対して、日本軍は現在の那覇市首里に司令部を置き徹底した持久戦を行います。5月末、日本軍は多くの住民が避難していた本島南部 に移動。勝つ見込みのない戦いがさらに一月続けられました。日米両軍が殺しあう戦場で苦しんだのは沖縄の女性たちでした。夫や父親は既に招集され残された お年寄りや子どもたち、家族全員を守らなければならなかったからです。 沖縄で組織的な戦闘が終わったのは6月23日のことでした。沖縄本島南部の糸満市です。沖縄戦最後の一月、このわずか10キロ四方に満たない場所で数十万人ともわれる人々が逃げまどっていたといいます。沖縄戦で犠牲となった住民のほとんどがここで亡くなりました。 沖縄本島南部に点在する自然洞窟。住民たちはこれらの洞窟を防空壕として利用しました。人々は壕を転々としながらしだいに南へ南へと追いつめられていったのです。


■ 激戦地を生きた母 徳元タミさん(当時31才主婦)3人の子どもの母親、徳元タミさんも子どもを抱え戦場を逃げまどっていました。タミさんは当時31才。糸満市米須の農家でした。


《徳元タミさん》今日、アメリカ兵を見たよ。米軍はそこまで来ているらしいですよ。その晩(4月1日)ですね、もうそこまで機関銃の音がバラバラバラと聞こえますんですよ ね。大変だよ、ここにおったら、明日はアメリカ軍の虜にされるから、大変な事だ。今晩で逃げようじゃないかかと、本当に、追いつめられたねずみのようにさ 迷い歩くわけなんです。私の印象に残っているのは、主人が防衛招集に行ったときに、1月だったでしょう。訓練招集から家には帰りませんでした。戦争がこちらに向かっているから帰る ことができません。上の子が9才で下が4才で7つの子どもと3人ですから。私はまた妊娠していて・・7ヶ月となっていました。もうどうしてこの子どもたち を・・・でもね『戦争が来たらみんなお母さんの言うことを聞いてよ』と言ってね。それから3月29日の空襲の時『空襲だよ』と言って壕に入って、壕には いってからは自分の実家の兄弟たちも親たちも一緒で自分の心も良かったんですが、兵隊さんが『あんたたちなんで疎開しなかったか』『住民が邪魔になって』 と言う兵隊さんもいたんですよ。兵隊さんに壕を追い出されて。

 

地上戦が始まるとすぐ日本軍の兵士に壕を追い出されたタミさんは4キロほど離れた八重瀬岳に移動しました。

 

 当時9才だったタミさんの息子徳元勝夫さんです。(壕の前で手を合わせる徳元勝夫さん)タミさんたち家族は親戚と共に急斜面の途中にある壕を見つけました。家族と親せき10人ほどが入ると足の踏み場もなくなるほど小さなものでした。この時、タミさんは出産まじかでした

 

《徳元タミさん》『八重瀬岳の方にみんな行くよ』と子どもたちが言ったから、そうかと言って野菜を頭にのせて薪を抱えてお腹は大きくて、あの当時、苦労を誰にも言えない立場で した。それで、八重瀬の壕で4月14、15日ぐらいになって片隅でお産をやって、妹たちが赤ちゃんのへその緒をつないで4、5日ぐらいいました。赤ちゃんはへそから破傷風になって5時間ぐらいは泣き通しでした。この赤ちゃんどうして泣くのかと思ってね。そしたらだんだん声がかすれて泣かなくなったんです。 おっぱい飲まそうとしても赤ちゃんの口が強くて開けられない。おっぱいも飲まないから、おばさん達が『もういいよ。こんな戦では何も惜しくはない。死んだ方が幸いだ』と言って『赤ちゃんは早く死んだ方がいい』とみんな言ったんです。【徳元勝夫さん】女の子で名前はまだついていなかった。自分たちもいつ死ぬかわからんかったから

 

証言をした徳元タミさんは2008年に96才で亡くなりました。家族や親せきが集まり法事が行われていました。タミさんは赤ちゃんを亡くした直後から、砲弾が降りし切る戦場に飛び出して行ったと言います。3人の子どもたちのために、食料を手に入れなければならなかったからです。 当時7才だった娘の千代さん。暗い壕の中で母を待っていた時の心細さが忘れられないと言います。
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