終わりなき沖縄戦 ~ 第32軍 牛島満司令官、最期の指令

 

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沖縄守備隊第32軍司令官 牛島満

 

1945年6月23日は・・・

6月23日は、沖縄戦「慰霊の日」。この日は、日本の多くの人が「沖縄戦終結した日」と考えているのではないでしょうか。しかし、それは正確ではありません。

 

この日は、沖縄守備隊第32軍の司令官が自決した日であり、実際に沖縄戦が「終結」するのは第32軍が降伏調印した1945年9月7日となり、2カ月半も先のことになります。

 

牛島満軍司令官は自決の前の6月18日、最後の命令を出しています。それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」… つまり、最後の一兵まで戦うことを命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。

 

牛島司令官・二つの指令

第一の指令

6月18日、最後の指令

全軍将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり 然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る 既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり 爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし

「牛島司令官 最後の指令」 沖縄県平和祈念資料館 | 常設展示

 

第二の指令

また同日、10代半ばの学徒にも遊撃戦 (ゲリラ戦) に転ずるよう指令したことがわかっています。

アメリカ公刊戦史が記録する牛島司令官の遊撃戦指令

On 18 June, in the last written official order of the 32d Army, General Ushijima appointed an officer to lead the "Blood and Iron Youth Organization" and conduct guerilla warfare after the cessation of organized combat. At the same time he ordered remaining troops to make their way to the mountains in the northern end of Okinawa where a small band of guerillas was supposedly already operating. [pp. 458-459]

6月18日、第32軍の最後の書面による公式命令で、牛島将軍は組織的戦闘の停止後にも「鉄血勤皇隊」を率いゲリラ戦を指揮する士官を任命した。同時に彼は残りの部隊に、小規模なゲリラ部隊が活動している沖縄の北端の山々に向かうよう命じた。

Chapter XVIII: The Battle Ends

 

この元となった指令書が2008年に米公文書館で発見されています。*1

1945年6月18日 『バックナー中将、戦死』 - 〜シリーズ沖縄戦〜

 

こうして、兵の投降は許されず、生き残った日本兵の多くが、その後も「国頭突破」として北部に逃れて合流することを目指しました。それを阻むための激しい掃討戦が、さらに住民を追い詰めます。

 

また多くの沖縄の住民が潜伏する敗残兵によってスパイとして虐殺されました。日本軍が拠点をおいていた渡嘉敷島久米島などでは、虐殺事件が連続しておこり、軍の恐怖に寄る支配が続きました。米軍に接触した住民は、赤ん坊までスパイとして皆殺しにするという徹底したものでした。それは、天皇が「玉音放送」で降伏を国民に伝えた8月15日以降も続いたのです。

 

沖縄守備隊第32軍が正式に降伏調印をしたのは、ミズーリで日本の降伏調印が行われた9月2日よりも遅く、9月7日です。沖縄の住民は、この終わりなき戦場にとじこめられたままでした。「米軍による統治」は、それから1972年5月15日まで続きます。

 

第32軍司令官、牛島満の孫である牛島貞満さんは、東京都の小学校の教師。沖縄戦について、その実相をたぐり、子どもたちに伝える取り組みをされています。

 

終わりなき沖縄戦

 

祖父は司令官だった - 牛島貞満さん

本土のための南部撤退

 運命に手繰り寄せられるように沖縄戦と向き合ってきた人がいる。東京都在住の小学校教諭、牛島貞満さん(62)だ。日本陸軍第32軍(沖縄守備軍)の牛島満司令官の孫として、沖縄戦の実相を探り、後世に語り継ぐ責務を自身に課している。

 

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勲章と軍刀を身に着けた軍服姿の祖父の写真が実家の応接間に飾られていた。「立派なおじいちゃん」と聞かされて育った。6月22日の命日には毎年学校を休み、靖国神社に参拝した。

 

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しかし、牛島さんは次第に祖父に対する周囲の評価に抵抗を感じるようになる。

「沖縄で軍のトップとして命令したことが、戦場でどんな結果をもたらしたのか。その評価をきちんとすべきだ」

中学2年からは牛島家の命日の行事に参加しなくなった。

 

● 沖縄で祖父の足跡追う

長年決心がつかなかった沖縄訪問に踏み切ったのは1994年。糸満市の旧平和祈念資料館で、自決の数日前に発した「最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし」との牛島司令官の最後の軍令が展示してあるのを見て、あらためてショックを受けた。キャプションには「牛島軍司令官の自決は戦闘の終結ではなかった。この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」と付されていた。

 

牛島さんはこの後、毎年のように沖縄を訪ね、祖父の足跡をたどる。最もこだわったのは「南部撤退」だ。

 

「秋待たで枯れ行く島の青草は 皇国の春に甦らなむ」

 

この牛島司令官の辞世の句には、本土決戦を信じて疑わなかった胸中がよく表れている、と牛島さんは指摘する。沖縄戦の本質は「沖縄を守るため」ではなく、「本土決戦のための時間稼ぎ」だった。だからこそ、牛島司令官は司令部を置いた首里城での決戦を避け、沖縄本島南部に撤退し、最後の一兵まで闘うことを強要した──これが牛島さんの導いた結論だ。

 

南部撤退によって多くの住民が戦闘に巻き込まれ、犠牲者は大幅に膨らんだ。極限状態に陥った兵士が壕から住民を追い出したり、殺害したりすることも起きた。沖縄戦で語り継がれる悲劇が南部撤退によって凝縮して発生した。日本軍に対する強烈な不信は、沖縄県民の間に戦後も根強く残る。

“立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった | AERA dot.

 

以降、沖縄の報道はピタリと止まる

これは今も同じではないだろうか。6月23日だけ報道して、本土防衛のための沖縄の捨て石としての役割がなくなると、すでに「終わったことと」として何も報道しなくなる。

 

たとえ「慰霊の日」は報じても、魂魄之塔に隣接する土地、沖縄戦跡国定公園内の土を掘り起こし、辺野古新基地建設のための埋め立に使う計画は黙される。

 

牛島さんは「基地被害や戦争と隣り合わせの現実を、自分たちの問題と感じる意識が決定的に欠落」していると指摘します。

 

● 自決した司令官の命令

 天皇の「玉音放送」が流れた8月15日以降も、沖縄では日本兵による「斬り込み」が相次ぎ、戦死者はさらに膨らんだ。9月7日、マッカーサーの命令で沖縄守備軍の代表が現在の嘉手納基地で降伏文書に調印する。

 

 なぜ調印が必要だったのか。牛島司令官の「最後まで敢闘し」の命令と、本来武装解除を伝えるべき司令官の「自決」により、沖縄守備軍の兵士は戦闘し続けなければならなかったのだ、と牛島さんは解説する。

 

 6月23日は、沖縄戦の組織的な戦闘が終結した日として「慰霊の日」と定められている。だが、牛島さんには腑に落ちない面もある。「6月23日以降の戦闘は何だったのか。彼らは勝手に戦闘して死んでいったのではない」

 

 牛島さんは、当時の「本土」のマスコミ報道にも注目する。6月25日大本営が「全戦力を挙げて最後の攻撃を実施せり」と発表すると、派手に書き立てていた本土の沖縄戦の地上戦報道がピタリとやむ8月15日以降は「戦後」が始まり、「沖縄」が本土メディアに取り上げられることはほとんどなくなった

 

『本土の防波堤』の役割を終えた沖縄に対して、本土の人々の関心は向かなかったのです」

 

 全国メディアの「沖縄」の伝え方は、今も、「他人事」だと牛島さんは指摘する。「沖縄で米軍の事件事故が起きると、本土マスコミの多くは『沖縄の人たちが怒っている』と書く。基地被害や戦争と隣り合わせの現実を、自分たちの問題と感じる意識が決定的に欠落しています」

(編集部・渡辺豪)

“立派なおじいちゃん”は沖縄戦で自決した司令官だった | AERA dot.

 

大切なのは、日本の子どもたちが沖縄戦を知ること

子どもたちが戦争を学ぶことの大切さ。

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63年前の6月23日、沖縄守備隊の司令官が自決して組織的な戦闘が終わったとされていますが、実際はそのあとも多くの犠牲者が出て「終わりなき戦闘」に突入したことがわかっています。

 

牛島司令官の二つの命令が住民の犠牲を大きくしたのでは、という視点で平和教育を実践する先生がいます。牛島貞光さん「私の名前は牛島貞光といいます。この人は知ってますか?」東京の小学校の先生・牛島貞光さんは、牛島司令官の初孫にあたります。

 

... 薩摩隼人の豪胆さと温厚な人柄で知られる牛島満は、士官学校の校長も長く勤め、軍人より教育者タイプといわれます。牛島先生は同じく軍人だった二男の息子にあたります。

 

… 牛島さん「一番大切なのは、東京や他府県の子どもたちが沖縄戦の姿を知ることなんですね。別に僕が沖縄で授業をやる必要はないわけですよ、沖縄の先生がやれば一番いい。だけど、やっぱり東京だけでやってた場合に、沖縄でも通用しなかったらそれは違うかな」

Qリポート 牛島司令官・二つの命令 祖父は沖縄県民を救えたか!? – QAB NEWS Headline

 

そして6年前から毎年沖縄でも授業をするようになった牛島先生。しかし、今回は滞在中にニュースが飛び込んできました。

 

牛島満司令官直筆の命令文書がアメリカで見つかったのです*2。沖縄の高校生たちで組織する「千早隊」に対し、「遊撃戦」=ゲリラ戦を命ずるもので、解散命令が出た6月18日、同じ日に出されていたのです。

 

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文書を見つけた大田昌秀さんは千早隊の生き残りで、解散命令の後、隊長に呼ばれたことを鮮明に覚えています。

 

大田昌秀さん「解散となり、もう自由になると思っていた。そしたら益永大尉がわれわれ千早隊をあつめた。地下工作をやれということを言ったわけです。地下工作という意味がわらなかった」

 

結局、大田さんは10月23日まで戦場をさまよい、戻ってみれば、同級生150人のうち、生き残ったのはわずか35人でした。

 

大田さん「だから悔しいわけ。そこまで生きているのに。あの時に(友人が遊撃戦に)行かなければ、確かに生き残ったんじゃないかと思えて。その中に非常に惜しい人物がいたわけね、とても優秀で生き残っていたらどんないいことをしたかなと、今でもいつもそのことばかり考えているけどね」

 

牛島さん「たぶんこれは直筆じゃないかと思っています。終わりなき沖縄戦を作り出した命令書だと思いますね。(Q:どんな気持ちで書いたと思われますか?)使命とはいえ、まだ高校生にあたる人たちを継続して戦闘をさせようと書いているわけで、それはかなりつらい部分もあっただろうなと思いますね」

 

こんな命令を出した牛島司令官は、鬼のような人間だったのか。残酷な人だけが戦争をやるのだろうか。後半の授業では、特に司令官の人物像を説明します。家ではよく子どもとよく遊ぶ父親で、沖縄でもいつも金平糖と乾パンをポケットに入れ、子どもにあげていた。優しいお爺さんだったという証言も紹介します。... 沖縄の人にも優しかった。そんな優しい人が、なぜ残酷な状況を生むような命令をしたのか。そこに戦争の正体があるような気がします。

 

二度と被害者にならないためにどうしたらいいかを考える人は多いと思いますが、二度と加害者にならないためにどうしたらいいかという問いは難しく、でもそれこそが戦争を止める直接の力になるのではないかそういう視点を、牛島先生の授業から学んだ気がします。

Qリポート 牛島司令官・二つの命令 祖父は沖縄県民を救えたか!? – QAB NEWS Headline

 

沖縄戦を教える際に、日本軍の関与を除けば、それは歴史ではなくなります。

沖縄戦、新版教科書は集団自決の日本軍関与触れず 市民団体調査 | 毎日新聞

 

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https://dai.ly/x388z4n

https://dai.ly/x388z4n

*1:

旧日本軍の沖縄守備隊第32軍の牛島満司令官が、沖縄戦終結直前、鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の隊長に、組織的戦闘終了後も奇襲などをする「遊撃戦」により戦闘を続けるよう命令する「訓令」の文書がこのほど、米国国立公文書館で見つかった。牛島司令官による千早隊への同内容の命令が明らかになったのは初めて。大田平和総合研究所主宰の大田昌秀氏が発見した。当時、千早隊隊長が隊員に対し同様の命令をしており、大田氏は「現場の隊長の一存で命令が出たのではなく、軍隊の縦の関係の中で命令が出たことを示す貴重な資料」と話している。

 「訓令」は、米国国立公文書館の米第10軍の戦闘記録に含まれていた。鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。

 元千早隊員の大田氏によると、解散命令が出た千早隊は45年6月19日、糸満市の情報宣伝隊の壕の前で、益永大尉から「死なずに地下工作をするように」との命令を受けた。その際、牛島司令官から命令があったことは伝えられなかったという。

 大田氏は、4月24日から5月12日まで米国国立公文書館で資料収集し、牛島司令官の訓令を発見した。(内間健友)

アーカイヴ「牛島司令官、千早隊に「遊撃戦」命令 米国で「訓令」発見 」琉球新報 2008年6月15日

*2:牛島司令官、千早隊に「遊撃戦」命令 米国で「訓令」発見 - 琉球新報 (2008年6月15日)