沖縄戦から74年、今まで「不明」とされていた「開南中学校学徒隊」の資料が国立公文書館から「発見」される

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学徒動員者数および戦死者数が「不明」のままの私立開南中学

 

これは、素晴らしい歴史上の発見の知らせであるとと同時に、暗く理不尽な沖縄戦資料の「発見」の物語である。

 

学徒兵として戦場に送られた旧制中学の子どもたち。

 

地獄の戦場のど真ん中に戦力として送り込まれ、
無残に命を奪われたものたちの中には、わずか13歳の子もいた。

  

公式には「不明」のままにされた開南中学学徒兵の墓前に、この資料の存在をもっと早く届けてあげれたら、どんなによかったことだろう。

 

あの沖縄戦で失われた中学の一つに、私立開南中学校がある。開校したのは、志喜屋孝信。彼は、戦後アメリカ統治下の沖縄で、沖縄諮詢会委員長や初代沖縄民政府知事、そして琉球大学の初代学長を務めた。

 

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Q+リポート 地元の歴史を学ぶ「志喜屋孝信物語」 – QAB NEWS Headline

 

しかし彼が開設した開南中学は、沖縄戦で学舎と多くの生徒を失い、消滅した。その開南は地名としてこの場所に残り、そこには、現在、那覇市立開南小学校がたっている。

 

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 1936年、樋川の高台に、私立開南中学校 (志喜屋孝信校長) が開校した。校名は、1911年に白瀬隊長率いる日本初の南極探検隊が乗り込んだ「開南丸」にちなみ、「日本の南を開く」との意図のもとで命名された。1945年の沖縄戦により、開南中学校は廃校となったが、開南中学校跡地に、1947年6月に開南初等学校が創設され、再び「開南」の校名が付けられた。

開南(カイナン) : 那覇市歴史博物館

 

学校が再建できないほどの多くの犠牲者をだしながら、県の資料ではいまだに学徒動員も戦死者も「不明」とされている私立中学。

 

同窓生らは、沖縄戦当時、開南中に在籍していた1年生から5年生で犠牲となった190人を「学徒」として扱ってほしいと求めてきた。沖縄戦研究では、実際に沖縄戦に何人が動員されたのか裏付ける資料はないとして、動員数、犠牲者数共に「不明」としている。

 

学徒動員とは - 『戦禍を掘る・学徒動員』< 資料添付 >

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なぜ・・・。

  

高齢となった開南中の同窓生らは、亡き学友の無念を胸に抱き続け、開南中学徒隊の実態解明を待ち望んできた。

 

昨年の記事をご覧ください。

 

2018年の記事、「不明」のままの数字、同窓生の悲願の願い

 

開南学徒 友の死たどる 同窓生、解明へ検証

女性自身

2018/06/18 14:04

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名嘉山廣貞さん 

 

沖縄戦鉄血勤皇隊や通信隊、学徒隊として生徒が動員された県内21の旧制中学や師範学校、実業学校のうち私立開南中学校の戦場動員の実態がほとんど分かっていない。慰霊碑建立に向けた名簿作成など検証作業を踏まえ、沖縄戦に動員され、犠牲となった在学生は190人と同窓会は主張する。しかし、これまでの学徒に関する研究では、犠牲者数など開南中学徒の事実関係の多くを「不明」と扱ってきた。沖縄戦から73年。高齢となった開南中の同窓生らは、亡き学友の無念を思い、開南中学徒隊の実態解明を待ち望んでいる。

 

同窓会長の大田朝成さん(90)=那覇市=は「『不明』という表現は絶対に受け入れられない。県が責任を持って調べてほしい」と訴えている。

 

私立開南中は1936年那覇市樋川に県内初の私立中学校として創設された。初代校長は戦後初の沖縄側の行政機関・沖縄諮詢会の委員長で琉球大学の初代学長を務めた志喜屋孝信氏だった。米軍上陸前の45年3月、開南中の4・5年生は開南鉄血勤皇隊2・3年生以下は開南通信隊として組織され、62師団や24師団に配属された。それ以外に「開南中生に告ぐ」という張り紙を見て自宅近くの部隊に入隊した人もいたとされる。大半が命を落としたとされている。

 

糸満市にある開南中の慰霊塔「開南健児之塔」には、教師、卒業生を含め279人の犠牲者の名前が刻まれいる。同窓会はこのうち沖縄戦当時、開南中に在籍していた1年生から5年生で犠牲となった190人を「学徒」として扱ってほしいと求めてきた。沖縄戦研究では、実際に沖縄戦に何人が動員されたのか裏付ける資料はないとして、動員数、犠牲者数共に「不明」としている。

 

慰霊塔の建立に尽くした同窓生の名嘉山廣貞さん(88)=那覇市=が1970年ごろ、沖縄遺族連合会で働いていた同窓生の故安森徹夫さんに依頼し、名簿を作成した。13歳の生徒も犠牲となっている。しかし、同窓会側の検証作業は沖縄戦の公的記録には反映されていない。

 

開南中の配属将校が10・10空襲後に不在となったことや、校長が後を託した教頭が各生徒に個別に入隊を指示し、まとまった動員でなかったことなど、他校と異なる事情などが、開南中学徒の実態把握を難しくしている。

 

沖縄戦に詳しい、沖縄国際大学元教授の吉浜忍氏は「実態として開南中の学徒は他の学徒と同じだった。それを学徒とするのかしないのか、議論すべき余地がある。なぜ特殊な事情が発生したのか、個別の学校の事情を検証することは学徒研究を進める上でいいことだ」と話している。 (中村万里子)

 

資料は 2017年まで厚生省が保有、その後、国立公文書館に移管

 

そして、

 

やっと戦後74年目にして資料が見つかったという。それはなんと厚生省が2017年まで持っていたもので、その後、国立公文書館へと移され、この9月から公開された。

  

存在しないと思われていた記録が、実際には厚生省にあり、国の公文書館から74年目にして見つかるという、

複雑な戸惑いをぬぐい切れない。

 

国家の命令で動員しておいて、その資料となる名簿も国立公文書館にあったということが判明するまで、そんなにも時間がかかるものなのだろうか。

 

犠牲者数が「不明」だった学徒の名簿も 沖縄戦で動員された学徒の名簿発見

琉球新報

2019年11月13日 06:30

 

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国立公文書館が公開した学徒名簿

  

 沖縄戦に動員された学徒の名前や部隊名、住所などを示した厚生労働省の「学徒名簿」がこのほど国立公文書館で公開され、資料を確認した那覇市立松城中学校の大城邦夫教諭が12日、報道陣に公表した。資料には、これまで実態解明が進まず、動員数や犠牲者数が「不明」とされてきた私立開南中学校の学徒71人の名簿も含まれていた。開南中の動員学徒数が公的な資料で初めて示された形だ。

 

 資料にあるのは主に県立一中、三中、農林学校、私立開南中学校の名簿で、学徒が亡くなった場所や所属部隊名、住所や家族の名前などが記載されている。作成時期は不明

 

そのうち、開南中学校は71人分の名簿があり、13歳で動員され、犠牲になった人もいた。一方、開南中の同窓会の調査では、動員されて犠牲になった人数は190人だとしており、今後、資料が作成された経緯や実態解明が求められる。


 さらに、開南中の犠牲者の名簿と共に、従来は学徒の区分にはなっていない「名護青年学校」「通信講習所」の名簿もあり、それぞれ1人ずつ名前が記載されていた。名護青年学校の名簿に「未帰還者」として記されている「真栄城守計さん」は第32軍司令部(球1616)に所属していた。

 

 一方、資料によると一中は600人が動員され、249人が死亡し、生存者は341人、状況不明10人との記載があった。一中の卒業生でつくる「養秀同窓会」のまとめによると、動員数は463人で、死亡者は257人としている。今回公表された資料とは動員数などで大幅な違いがある。

 

 学徒について詳しいひめゆり平和祈念資料館の普天間朝佳館長は、取材に対して「動員数などは多い気がする。だが、貴重な資料だと思う。今後調査を進めてみたい」と語った。

 

 資料は2017年に厚労省から国立公文書館に移管したものとみられる。大城教諭は今年8月に資料を請求し、個人情報が含まれるため「要審査」となったが、9月ごろから順次公開された。

 

 これまでも沖縄戦に関する資料を収集してきたという大城教諭は今後、沖縄戦に動員された県内21校の元生徒らでつくる「元全学徒の会」などに資料を提供していく考えだ。大城教諭は「今回発見した資料を遺族や県民のために生かしたいと思って公表した。教育現場でも、生徒に年の近い人たちが亡くなったことを伝えて考えてもらいたい」と語った。 

 

もっとも生存率の低かった学徒動員と思われながらも、いままで動員数も戦死者数も、公式的に「不明」とされてきた悲しみの開南中学。

 

その実態を解き明かす資料は、なんと 2017年まで厚生省に眠っていたという。

 

2017年に厚生省から国立公文書館へと移管され、そして今年の9月頃から順次公開となった。

 

なぜこれほど時間がかかるのか。

 

厚生省はこの資料をどのように入手し「保管」していたのか。なぜ公開していなかったのか。

 

学徒隊の新資料見つかる

11月12日 18時01分

NHK 沖縄 News Web

 

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沖縄戦で動員された学徒隊のうち、戦死者の数などがわかっていなかった那覇市開南中学校について記された国の資料が新たに見つかりました。

 

見つけた中学校の男性教諭は今後、研究が進めば、これまで知られていない学徒隊の全容が明らかになる貴重な資料だとしています。

 

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沖縄戦ではおよそ2000人の生徒が学徒隊として動員され、少なくとも半数が犠牲になったとされていますが、那覇市開南中学校に関しては、正式な資料がなく動員された人数や戦死者はわかっていません。

 

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今回、開南中学校を含む5つの学校から学徒隊の名簿が国立公文書館で見つかり、12日、那覇市の松城中学校で公開されました。

 

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名簿は厚生労働省が保管していたもので開南中学校については学徒として戦死したとされる71人分の名前のほか、住所や所属部隊も記されています。

 

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また、5つの学校で動員された生徒の数はあわせておよそ1000人と、これまでわかっているものより大幅に多い人数が動員されたと記されています。

 

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見つけた松城中学校の大城邦夫教諭はは今後研究が進めばこれまで知られていない学徒隊の全容が明らかになる貴重な資料だとしています。

 

大城教諭は「同窓会や研究者などに広く活用してもらい若者が犠牲になった事実を広く知ってもらえれば」と話していました。

 

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以下、沖縄戦から40年後の1985年、琉球新報が記した海南中学徒の壮絶な記録は以下のページから。

 

【開南中学】開南中学通信隊 ~ 生存者わずか4人の通信隊 ~

  

 

開南中学から62師団に行った学生は62人。戦死者は50人だ。同中学全体では71人が参加、生き残ったのはわずかに4人だけ。不幸な歴史を残して学校は戦後消えた。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月22日掲載

【開南中学校】開南中学通信隊 - 生存者はわずかに4人だけの沖縄戦 - Battle of Okinawa

 

battle-of-okinawa.hatenablog.com