首里高等女学校 瑞泉 (ずいせん) 学徒隊 宮城巳知子さんの沖縄戦

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Jyunanasai no Wakare/17 Short Lived: Home

 

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ナゲーラ壕の中は血生ぐさかったです。血のにおいだけでなく患者の尿が漏れて土が湿って田んぼのように尿でベチョベチョになっていました。それから熱病がはやっていました。4月、5月の雨期でしたので、壕の中は蒸し暑く、その中で熱病が起こり、熱病にかかるとうなされます。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

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battle-of-okinawa.hatenablog.com

 

負傷した人たち全員の包帯を交換する事ができませんでした。そうすると包帯がくっついてしまい固くなります。怪我をしたところを何日もそのままにして手当をしないでいると蛆がわいてきます。人間の体から蛆がわくっていうのを見たのはあの戦争の時だけです。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

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<未来に伝える沖縄戦>壕の中、負傷兵であふれ傷口からうじ虫がわく 宮城巳知子さん(86)上 - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

 

兵隊さん達は我慢ができない。看護婦さん蛆虫取ってくれという人もいれば、看護婦さん水飲ましてくれ、看護婦さんひもじいよ、何かないかという兵隊もいる。それからうなされて、うなされて何が何だか分からない事をうなっている兵隊もいる。そこはもう人間の地獄ですね。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

どんどん前戦から負傷兵が運ばれてきました。そこで沖縄人への差別がありました。なぜかというと、運んできた人は、ちゃんと報告するわけです。何々中尉、どこの何々部隊の何々中尉を運んできましたと報告するのです。軍医さんに。そうすると軍医ははいはい分かったと返事をするわけです。ところが次に来たのは沖縄の防衛隊でありますと言うと、そこに放っておけ!沖縄の初年兵であります。どこの部隊でありますと言えば、放っておけ!なんです。すぐほったらかしで壕の中にも入れない。そこの木の下は暗くて壕の中より良かったですから、そこに放ったらかしにされて、担架に担いでもそのまま、持ってきたままの状態でした。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

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ナゲーラ壕(南風原町)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

足を怪我して破傷風にでもなったりすると、麻酔無しですぐ切るんです。戸板に寝かせて、手も足も四つくくって、そして足の方でしたら、膝の方からすぐ医学用ののこぎりで切っていました。そのまま切るのです。そしたら兵隊さんは「死なしてくれー。死なしてくれー」と言っていました。これでいいから死なせてくれって一生懸命あえいでも、軍医は一生懸命ギシギシと汗を出してのこぎりで切っていたのです。その兵隊たちも生き残ったかどうか分かりませんけどね。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

そして竹富の方へ行ったら、もっと戦況が悪くなっていました。竹富、米須、伊原と移動しましたが、竹富からは負傷者は担がんでもよろしいということになって自分たちだけ移動しました。米須、伊原の方へ行きましたら、患者を担がない代わりに食糧調達をすることになりました。看護婦を集めて「日本の兵隊はお前たちの島を守りに来たんだから、食糧を探してこい」と言うんです。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

ですから食糧を集めてこいといっても、あのころの外はもう爆撃が酷くて大変でした。外に出て死んでこいというのと同じです。自分たちは兵隊で男のくせに壕の中に座っていて「ハイ、女学生集まれ。君たちの島を守りに来たんだから。食糧探してこい!」と言っていました。私たちも「ハイ」と返事して、弾の来る所へ一目散に走って行くわけです。死んでも良いって覚悟しているからです。そのため出て行って、私の同級生のほとんどはそこで亡くなりましたね。

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言

 

小学校の頃から軍国教育を受けていた。教育勅語を暗記したら日本人だよ」と先生に言われていた。小学校4年生の話。中身は理解できなくても、丸暗記した。 「天皇陛下を神様のようにあがめなさい」。小学校の全体集会で皇居の方向を向いて挨拶をしていた。学校の神棚に天皇陛下の写真をつけて、皆で敬った。年に4回あった。おてんばだったので、一番後ろから背伸びをして、写真をじっとのぞいた。校門の出入りはお辞儀して入った。

戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2

 

女学校にいくと、「日本の戦争は絶対負けない。神風が吹く」と。「神風はなんですか?」と先生に質問すると「負けそうになると風が吹いて勝つんだ」と。支那事変を経験していたので、ああ、今回も大丈夫だと信じていた。

戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2

 

戦争が近づいてきた時に、「捕虜になるな」と言われた。「捕虜ってなんですか?」と聞くと「女は強姦されて、海に捨てられる」と言われた。大変だ、アメリカ人は見たことないが、なんて悪い国の人が来るんだと思っていた。

戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2

 

「ほしがりません、勝つまでは」を言い合って我慢をしなさい。沖縄の人は方言を使っては駄目。兵隊が何を言ってるか分からないから、スパイ容疑でつかまると言われた。実際に捕まった人がいた。共通語がこれっぽっちも分からないから、方言しか話す言葉がない。これが軍国教育。これを徹底的に教えられてきた。反対の意見を出すことは許されない。 沖縄戦当時は女学校の生徒だった。4年生。9つある沖縄の女学生は4年生で全員動員と校長先生から話があった。

戦場体験史料館 museum of memories on the battlefields WW2

 

 

 

ドキュメンタリー映画「17歳の別れ」

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今年、映画にもなる予定 !

 

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[Link−U]瑞泉学徒の映画 主演に幸地さん/「反戦の思い 次世代へ」/故宮城さん体験 題材 | 沖縄タイムス紙面掲載記事 | 沖縄タイムス+プラス