カン・インチャンさん証言「銃殺された朝鮮人軍夫」 [1] 徴用 [2] 沖縄へ [3] 米軍上陸 [4] 処刑 カン・インチャンさん証言「銃殺された朝鮮人軍夫」 太平洋戦争末期、住民を巻き込んだ激しい地上戦が繰り広げられた「沖縄戦」。昭和20年3月に始まり、6…
多くの記録や証言が語る、首里司令部壕の女性たち 1945年の米軍による首里司令壕の調査 琉球新報 2021年1月6日 『沖縄戦、32軍司令部に「特殊軍属」~ 留守名簿に記載 本土の女性ら動員、識者「慰安婦」と指摘』 児島襄『指揮官』1974年 38ページ 多くの記録…
日本軍にとって「スパイ」とは誰だったのか 1944年11月18日 - 「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」 1945年3月12日 - 特務機関「国士隊」結成 1945年4月9日 - 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜 沖縄人というだけでスパイ 沖縄人だというだけで「スパイ」 …
伊江島・一ツ岸ガマの集団強制死 軍と民間人が混じる伊江島の壕では、連続して集団死がおこっていった。日本軍兵士が住民に捕虜にならないよう「自決」を強要するため、徴用した防衛隊員を軍令で厳しく統制し利用、住民に集団死を強制するという構図は渡嘉敷…
#嘉数の戦い 浦添市牧港「チヂフチャーガマ」 ▽約400人が身を隠したガマ ▽首がない赤ちゃんを抱く母親 ▽小さな妹の最期の場所へ ▽戦争と地続きの今、私たちにできることは 浦添市牧港「チヂフチャーガマ」 遺体に覆い尽くされた道を「踏みながら逃げた」 …
歴史を正確に記さない日本の歴史教科書 住民は米軍に追いつめられて「集団自決」したのではない 教科書から「日本軍」が消える日 日本軍の厳命・強制・制裁なしに強制死は起こりえない 歴史を正確に記さない日本の歴史教科書 住民は米軍に追いつめられて「集…
沖縄積徳高等女学校とふじ学徒隊 琉球新報 証言記録「戦禍を掘る」 49人が無念の最期 ~ 同窓生らが念願の慰霊祭 命懸けの包帯洗い ~ 負傷兵のうめき今も耳に 重傷者は置き去り ~ 出発のシーン今も脳裏に 下痢、発熱相次ぐ ~ 水虫に悩まされた壕生活 ガ…
1927年竣工 - 沖縄地方気象台 1945年 - 沖縄戦 米軍基地「那覇ホイール地区」の米総領事館 1972年5月 - 陸上自衛隊那覇駐屯地へ 米軍基地から自衛隊基地へ 1987年7月30日 - 「沖縄地方気象台」庁舎の解体 沖縄地方気象台はどこにあったのか 戦後も、そして今…
キャンプ比謝川, Okinawa Dave Law - July 2004 米陸軍航空隊第305飛行隊第1分離飛行隊は、 1945年半ばに沖縄本部半島のすぐ西にある伊江島でレーダー運用を開始した。沖縄の侵攻の初期に捕獲された小さな島には、アメリカの戦闘機の作戦を支援する飛行場が…
特設第1連隊 特設第1連隊 第1大隊 特設第1連隊 第2大隊 特設第1連隊 特設第1連隊 連隊長 青柳時香中佐連隊本部(第19航空地区司令部) 約45名 1945年4月1日『米軍、沖縄島に上陸』 特設第1連隊とは、飛行場の整備のため米軍上陸直前の3月20日に編成さ…
大正4年(1915)6月、沖縄に生まれる。4歳のとき、「辻遊廓」に売られ、昭和19年(1944)までそこに暮らす。戦後、映画、ブロードウェイの舞台で話題となった「八月十五夜の茶屋」(松乃下)という料亭を経営。昭和27年(1952)、米国軍政府勤務のリチャード・ローズ…
三枝利夫さん 南西諸島海軍航空隊小禄基地 巌部隊 山下隊 元海軍二等整備 75年後の証言~播磨人の戦争(6)沖縄戦を生き抜いた 三枝利夫さん(上)捕虜になるよりは潔く死を 神戸新聞 2020/08/16 05:30 「よう来てくれたね、ご苦労さん」 のどかな田園地…
米軍は7つの捕虜収容所を設置した。基地の軍作業に以下の収容人数は1946年4月時点のもの。沖縄戦の作戦参謀八原博通ら高級将校は1945年の年末に最初の復員船で本土に帰還している。 本部 屋嘉捕虜収容所 287人第1支所 牧港捕虜収容所 3,531人第2支所 楚辺捕…
國場組は多くの日本軍拠点を建設し、沖縄戦ではこうした拠点が米軍の激しい攻撃の標的となり、おびただしい犠牲者を生んだ。しかし、国場組の公式 HP に掲載されていた「国場組物語」はこう記す。 幸いにも日米の地上戦に巻き込まれることなく、無事に終戦の…
仲座久雄と規格家「キカクヤー」 沖縄で欠かせない「花ブロック」考案 戦火で失われた守礼門も復元 … 建築家・仲座久雄さんの足跡 仲座久雄と規格家「キカクヤー」 住む家、住む土地を失った多くの住民は、米軍のテントや、テントカバーを利用したテントヤー…
久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021年) 離島残置諜報員は、陸軍中野学校が、第一期生の渡辺辰伊少佐を隊長として、1944年の初夏ら9月にかけて養成を始めた。その狙いは、戦中よりむしろ戦後、敵に島を占領されてからも、…
幸運の武兵団第九師団(沖縄、台湾) 「幸運の武兵団第九師団(沖縄、台湾)」石川県 蕪城直勝 労苦体験手記 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第4巻 – 平和祈念展示資料館(総務省委託) 第九師団は、満州、沖縄、台湾と転戦し、結果的には幸運無…
スタンレー・ベネット (1910-1992) について 沖縄にむきあったひとりのアメリカ人軍医 軍医であり、かつ情報将校でもある スタンレー・ベネットと八原博通 『戦場から送り続けた手紙』 『日本を愛した科学者』- 家坂幸三郎との友情 「沖縄の民間人における侵…
久米島の戦争を知るための必読書 沖縄戦 久米島の戦争 私は6歳のスパイ容疑者 [ 久米島の戦争を記録する会 ] 証言 1 谷川一家虐殺事件 谷川一家の殺害 見せしめに花岡兵曹長を惨殺 証言 2 仲村渠明勇さんは久米島を救った 証言 4 少年兵はがたがた震えていた…
戦後76年 遺骨が眠る土砂を沖縄の新基地建設に…元日本兵や若者たちから抗議の声 北海道(HBCニュース) - Yahoo!ニュース シリーズでお伝えしているSDGs北海道から未来へ。戦後76年の今年、SDGsのゴールの1つ「平和」について考え、戦争体験を語り…
八重山の鉄血勤皇隊は、沖縄県立八重山農学校と沖縄県立八重山中学校の2校の隊があった。八重山高等女学校の女学生が野戦病院の従軍看護婦として各部隊に配置された。 八重山高女学徒隊 八重山高女学徒隊: 沖縄県立八重山高等女学校 日本軍はアメリカ軍の進…
八重山の鉄血勤皇隊は、沖縄県立八重山農学校と沖縄県立八重山中学校の2校の隊があった。八重山高等女学校の女学生が野戦病院の従軍看護婦として各部隊に配置された。 発見された新資料 八重山農学校の学徒隊 八重山農学徒隊(女子): 沖縄県立八重山農学校…
沖縄戦の体験 生きものは何でも食べた ふるさとが消えた 増殖していく米軍基地 高まる米軍基地への反発 声をあげない大人たち 願いは「日本復帰」 米兵相手の歓楽街だった通学路 引き裂かれた沖縄の人々 基地に頼りたくない 苦しい胸の内 無くならなかった基…
マーランで避難 米軍の陣地構築作業員として 長参謀長の車を運転 日本軍に抗議 宮城島立退き命令 ある娘の虐殺事件 摩文仁まで追われて 浜の渡し番 伊計島守備隊 コンコーダンス用の書きおこしです。誤字などがありますので、必ず原典をお確かめください。《…
コンコーダンス用のための文字起こしを公開しています。読み取りによる誤字脱字があるため、必ず原典を確認してください。 《『南城市の沖縄戦 証言編 (第2版) 』南城市 (2021年) 》 生死を分けた沖縄戦 生死を分けた沖縄戦 新垣源勇 ガマ洞窟を探しまわる父…
私の戦時体験記(国頭疎開) 私の戦時体験 武部隊1564部隊に配属された青年の証言 《 沖縄戦証言『玉城村史』玉城村 (2004年) 》 コンコーダンス用の文字お越しを公開しています。脱字や誤変換がありますので正確な原典をご確認ください。 私の戦時体験記(国頭…
《『佐敷町史』佐敷町 (1999年) 》 米軍は、沖縄攻略作戦を実施するに当たり、多くの軍政要員を実戦部隊とともに送りこみ、住民対策に当たらせていた。 米軍は、沖縄上陸作戦と同時に本土進攻に備えて航空基地を建設し、中南部の平野部と港湾地帯を無人地帯…
沖縄戦 出口なき戦場 首里の陥落 敗北か、戦闘の継続か 住民たちの行動を証言集から分析 緻密なアメリカ軍の攻撃 山川橋の悲劇 なぜ攻撃はエスカレートしたのか? 軍民が混在 ガマの悲劇 掃討戦 追い詰められた住民は 出口なき戦場の記憶は 沖縄戦 出口なき…
山田 義邦さん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス 一中鉄血勤皇隊 ~ 親友との別れ 授業がなくなった 艦砲射撃の中の卒業式 米軍艦船に埋め尽くされた沖縄の海 配属 追いだされた地元住民 摩文仁へ 極限のなかでの壕の生活 捕虜 親友を失う 戦後の出来事 親友…
戦世そして 沖縄戦74年:基地あるゆえのリスク今も シュワブに眠る哀しみ 伝え続けるウチナーンチュたち | 毎日新聞 毎日新聞 2019/6/22 06:00(最終更新 6/22 15:56) 政府による米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設工事が進む名護市辺野古の米軍キャ…