津堅島・新川城跡壕 ~ 琉球新報『戦禍を掘る』(1983年8月31日)

 

津堅島の戦い

津堅島は他の与勝半島勝連半島)周辺の島々と異なり、日本軍の要塞となっていたため、住民を巻き込む壮絶な戦いを引き起こした。

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Reconnaissance and Capture of the Eastern Islands  6-11 April 1945

 

津堅島沖縄戦突入前に一大軍事要塞の島となり、私は11歳の時に陣地構築のためモッコで土運びをやらされました、島は要塞ですから、昭和19年の10・10空襲には徹底的に攻撃をうけました。

《「沖縄の慟哭 市民の戦時・戦後体験記/戦時編」(那覇市企画部市史編集室/沖縄教販) 412-413頁より》

 

琉球新報『戦禍を掘る』津堅島・新川城跡壕

 

 

4月10日 - 津堅島への攻撃が始まる

まだ眠る多くのみ霊 米軍が入り口に火つける

 沖縄本島中部、太平洋に突き出たような格好をした勝連半島の南に位置し、屋慶名港から約5キロの沖合に浮かぶ小さな島・津堅。人口1057人(7月末現在)。この半農半漁ののどかな島で、38年前、激しい戦闘があったとは到底想像できないような静かなたたずまいを見せている。

 

 しかし、あの悪夢の日々は現実の出来事。そのつめ跡は今なお残り、島の南側の集落地の中にある新川城跡の旧日本軍壕内には多くのみ霊がまだ眠っている。

 

 「最初の攻撃があったのは米軍の本島上陸後、まもない4月10日ごろでした。海をびっしり埋めた米軍艦艇から上陸用舟艇が降ろされ、島に押し寄せて来たんです」。この島で生まれ育ち、沖縄戦直前に防衛隊員や准看護士として徴用され、日本軍とともに行動。今も島で生活している安里義三さん(55)、緑間春子さん(53)、大石トヨさん(55)は証言する。

 

 当時、津堅島には亭島秀雄大尉率いる球師団4152部隊、安里さんら約70人の防衛隊に加え、10・10空襲以後、陣地構築のため本島から応援に来ていた独立混成第15連隊およそ60人の合計350人が駐屯。三つの陣地に分かれ守備についていた。

 

 多くの遺骨が埋まっている―と3人が証言する新川城跡壕は、元をただせば昔の士族の霊を弔っていた自然壕。平たんな津堅島を一目で見渡せる小高い丘の士族墓を基に、岩山を下に掘り下げた3階建ての構造で、各層を木階段でつなぎ、下部(1階)には出口が造られていたが、米軍攻撃を前に閉じられたという。

 

 「米軍の攻撃は都合4度。上陸―戦闘―沖縄の艦艇に引き揚げ―のパターンで平均して、3、4日ごとにありました。結局、4回目の攻撃で玉砕したのですが、その最後の攻撃の時、私たち准看13人は数人の負傷兵と一緒に一番下の階にいました。米軍が3階部分の入り口から壕にガソリンを注ぎ、火をつけました。幸い私たちの所までガソリンは流れてきませんでしたが、壕内に蓄積してあった弾薬がドカン、ドカーンとさく裂したり、木造のはしごや床が燃えて煙が充満。“もうこれまで”と覚悟を決め、配られていた手りゅう弾の安全ピンを抜き、いつでも信管をたたき自決する用意をしてました」と大石さんは語る。

 

 米軍が引き揚げた後、民間壕に潜んでいた住民が、一度はふさいだ出口を掘り起こし、緑間さん、大石さんらは九死に一生を得る。

 

 その時、壕内で焼き殺されたり、落盤で最期を遂げたのは、2、3人を除いてほとんどが負傷兵だった。3回目の戦闘が終わった後、亭島大尉は「五体満足な者は、与那原にある師団本隊に合流する」と命令。サバニ12隻に分乗し、津堅島を脱出していた。後にとり残されたのは、約40人の負傷兵と13人の准看、それに負傷兵の世話をみるためにとどまった数人の兵隊だけだった。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年8月31日掲載

 

4月24日 - 防衛隊員、津堅島に戻る

傷を海水で消毒 「お母さん」と叫び死ぬ病兵

 「私たち准看13人は、4人、4人、5人と分かれて配置されたのですが、あれは治療とは言えません。ただ血を止めるだけです。包帯が少ないので、夜になると海に出て潮水で洗い、それをまた巻くのが仕事でした」「もう、あんな思いはたくさん」と大石さん、緑間さんは口をそろえる。防衛隊員だった安里さんも「亭島大尉らとともに沖縄本島まで行き、その後の命令で、負傷して島に残った戦友の救出にと、島に引き返したことも今考えれば夢のような感じがする。二度とあんな悲惨な思いをしないようにと願い、子や孫にたまに話して聞かせるんですよ」。

 

 安里さんら防衛隊員ら10人ほどが負傷兵を助けに、津堅に戻ったのは3回目の戦闘から約1週間後の24日ごろ、米軍に発見されないようにと照明弾が打ち上げられるとサバニを引っくり返し、消えるとまたこぎ出すといった難行だった。

 

 そのころ、負傷兵30~40人は准看らと一緒に新川城跡の壕で生活。ローソクの灯だけを頼りに暮らしていた。

 

 「惨めな状態だったが、兵隊はみな優しかった。郷里の自慢話や家族の話など聞かせてくれたが、死が近くなると“水をくれ、早く楽にしてくれ”と叫び、早めに戦死し、皆からねんごろに弔われた戦友をうらやんだりしてました」と目頭を押さえる大石さん。「戦前、戦中私たちは、死に臨んだ際“天皇陛下万歳”と言うと聞かされてきたが、皆そうは言わなかった。“お母さん”“アンマー”と叫びながら亡くなっていきましたよ。死んでも死にきれなかったでしょうし、私たちもやりきれなかった」としんみりした口調の緑間さんだ。

 

 約1週間も米軍の攻撃を受けず、こうしてひっそりと壕内で暮らしていた負傷兵を救出に来た安里さんらが津堅島にたどりついたのは、午後8時過ぎ。夜陰にまぎれて、壕から500メートルほど北にある砂浜に到着した。急きょ負傷兵の搬出作業が始まった。日本軍のタンカのほかに、米軍が放棄していったタンカがあったが、それでも足りずに木を切り取って、間に合わせのタンカ作りも行われた。元気な者総出で必死の作業だったという。しかし、時間は待ってくれなかった。

 

 今は県外や沖縄本島からの海水浴でにぎわうビーチまでは、距離以上に遠かった。「途中に日本軍が埋設した地雷原をう回したりしたからです」と安里さんは話し、「音をたてないように歩けと中止されてもいました」と大石さんらは言う。

 

 全負傷兵を運び切らないまま、たちまちのうちに午前3時。「たとえ、これから全員を乗せて本島へ向かうにしても、やがて夜が明けて見つかるだけ」との結論となり、懸命の作業も徒労に終わる。せっかく浜まで運んだ負傷兵をまた壕へと連れ帰り、入り口に近い2、3階に横たえたが、皮肉なことに、最後の米軍の攻撃が始まったのはその日。みながクタクタになってまどろんでいた時だった。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月2日掲載

 

25日早朝、米軍が再び上陸する

火の海となった壕内 傷病兵ら石の下敷きに

 前3回、壕前の浜(現在の漁港)から攻撃を仕掛け、多大な出血を強いられた米軍。この時ばかりは島の北に上陸して南へと攻めてきた。「壕前の浜に上陸した時は湾の突端にあった味方の機関銃が戦果を上げた。波打ち際から沖縄委150メートル辺りまで米兵の血で真っ赤になるほどでした。だから、この時は北から来たと思います」と語る安里さんはこの日、新川城跡壕には入らなかった。負傷兵を再び収容した壕は隣り合う兵同士の腕が接するほど狭く、入れなかったといい、安里さんは同壕近くのほら穴で仮眠した。

 

 戦闘は長く続かなかった。抵抗しようにも満足な体力の残っている兵隊はわずか。戦車8両ほどを先頭に攻める米軍の砲火の前に銃撃戦はじきに終わり、壕前を取り囲んだ米兵は、壕入り口から「デテコイ、デテキナサイ」としきりに降伏を促した。

 

 そのうち、1人の米兵が壕入り口をのぞき込んだのだが、この壕の悲劇の発端だった。近くにいた負傷兵がこの米兵を銃剣で突き刺したのだ。投降勧告もなくなり、米軍は“馬乗り攻撃”を開始。自然壕の無数にあいている小さな穴からもどんどんガソリンを流し込み、火をつけてきた。瞬く間に燃え上がる床や階段の木造部分。次々と破裂する弾薬。壕を支えていた木材の焼失で崩れ落ちる岩石。壕内はさながら地獄絵図だったに違いない。

 

 他の壕にいた安里さん、また、同じ壕にいながらも一番下の階に避難させられた緑間さんや大石さんら准看は当然のことながら、2、3階部分で亡くなった負傷兵らの最期は見ていない。しかし、壕内の崩れ落ちた大石の下には、逃げきれず無残にも焼死した多くの人の遺骨が埋まっており、3階部分にいて、全身に大やけどを負いながらも今もなお大阪府で健在な長嶺真男さんら戦友が、落盤した後の暗い壕内に立てた3本の卒塔婆(そとば)が痛ましい。

 

 今年3月、同壕の調査に島を訪れた厚生省の担当官、県の援護課職員らは「伊江島での収骨作業が終わったら、次はこの壕を手がけたい」と安里さんらに話していたようだが、戦後もずっとこの島に住み続けてきた安里さんらにとって、その思いはとりわけ強い。「大きな石が折り重なるように落ちているし、焼けた岩はもろくなり、崩れやすいともいうから、大変な作業だとは思うが、ぜひとも実現してほしい」と訴える。

 

 現在この壕の上には、津堅島遺族会が建立した慰霊碑が南の海に面して建っている。碑にはめ込まれた御影石には、この島での戦死者、大東亜戦争中に中国大陸や南方で犠牲になった島の出身者のほか、沖縄本島に脱出しながらも戦死した亭島大尉らの氏名が細かな字でびっしりと彫り込まれている。南国の強い日差しを浴びて、すぐ真下にある津堅小・中学校を見下ろし、伸び伸びと育つ子供らを見守っているが、6月23日の慰霊の日を除き、参拝する人はほとんどいない。

(「戦禍を掘る」取材班)1983年9月5日掲載

 

沖縄タイムス「戦後75年「あの日、私は…」」軍陣地 米軍の標的に

津堅で戦闘動員 玉城・安里・緑間さん/島焼かれ占領 教訓伝える

沖縄タイムス 2020年4月6日

 1945年4月6日。うるま市津堅島に米軍が上陸を始めた。米軍は海と空からの攻撃に加えこの日以来3度にわたる上陸作戦で島を占領した。75年前、半農半漁の小さな島が、なぜ標的になったのか。防衛隊や補助看護婦(当時)として戦闘に動員された体験者は「日本軍の陣地があったから」と口をそろえ、教訓を後世に伝える。

 

 6日の最初の上陸時。日本軍の攻撃で米軍は一度撤退した。しかし上陸によって日本軍の重砲兵中隊などの軍事拠点の存在を知られた島は、その日から標的になった。艦砲射撃や空からの爆撃にさらされ、10日には本格的な上陸作戦が始まった。

 

 当時16歳で防衛隊員だった玉城盛栄さん(91)は6日に海岸を偵察した。「米兵の銃器や雑のうが残っていた。けがをした米兵を運んだのか、人を引きずった跡があった」と証言。米兵の銃器を回収し日本軍に渡したという。「若かったから怖いというのはなかった」と当時を振り返る。

 

 同じく防衛隊員で別の分隊にいた当時16歳の安里義三さん(91)は、島の日本軍を率いる亭島秀雄隊長から「まだ咲いていない若いつぼみだから、身を隠して闘え」と言われたのを覚えている。米軍上陸後は、無人の民家に潜む米兵への「斬り込み」に加わった。足音を消すため地下足袋にわらじを巻いて近づき、手りゅう弾を投げ込んだ。

 

 「どうせ死ぬのだから」と覚悟する一方、壕に避難していた安里さんの家族に「手りゅう弾を渡してきた」と言った防衛隊員には、「ヤーグナ(家族)まで殺すな」と怒った。家族の無事を願い続けた。

 

 当時15歳で、負傷兵を世話する補助看護婦だった緑間春子さん(90)は、標高36メートルにあった自然壕に造られた「三六陣地」で九死に一生を得た。地下を含む3階構造の陣地に米軍がガソリンを流し、身動きの取れない負傷兵は焼き殺された。

 

 緑間さんは助けを求める声を聞いたが、「どうしようもできなかった」。その場で12時間伏せ続け、住民らに助けられて地上に出ると「島は焼き尽くされていて葉一枚もなかった」

 

 直後に船で避難した近くの浜比嘉島には日本軍の陣地がなく、津堅島と対照的な穏やかな風景が残っていた。

 

 75年たった今も、津堅島沖では米軍のパラシュート降下訓練が繰り返され、名護市辺野古では新基地建設が進む。緑間さんは「基地があるから焼け野原になって占領された」と断言。「これ以上、沖縄の土地や人を戦争に使うモノとして扱わないで」と強く訴える。(社会部・榮門琴音)

 

[ことば]

 津堅島の戦闘 津堅島は米軍の中城湾侵入に備えた防衛拠点として重要視され、太平洋戦争開始の1941年から重砲陣地や野戦病院の建設が進められた。日本軍の重砲兵第七連隊や独立混成第十五連隊の小隊など計350人ほどが駐屯し、戦況が悪化すると島の若者も防衛隊や補助看護婦として動員された。県史には「米軍は津堅に陣地があることを知って上陸戦を展開した。周辺の浜比嘉島平安座島など陣地がない島は攻撃されず、損害も受けずに済んだ」という住民の証言が残る。

 

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