琉球新報 戦禍を掘る 39年目の出会い
10・10空襲で別離 ~ 富山の辻田さん「胸のつかえとれた」
「球部隊にいた梅津シン大佐と大佐の世話をしていた富山県出身の辻田兵蔵さんを捜して下さい」。そんな友寄秀子さん(旧姓山田)=那覇市首里=の人捜しの声が載ったのは本欄情報特集だった。その小さな声を北日本新聞(富山)が転載すると、その日朝早くから情報が寄せられ、辻田さんが健在で、しかも辻田さんの方も何度か沖縄を訪れ友寄さんを捜していたことが分かった。また、それとは別に梅津真大佐は昭和37年11月に病死したことも判明した。10月9日、那覇空港に降りた辻田さんと、友寄さんは対面を果たした。くしくも別れた那覇10・10空襲からちょうど万39年目だった。
当時、那覇市上之蔵にあった友寄さんの実家は球部隊兵器部長の官舎として使われ、父や兄が徴兵されていたため、家には友寄さんと母・故山田静さんだけがいた。思い出話はお母さんの話から始まった。
「いやー、たいへん礼儀に厳しい人で、私はいつも怒られていました。食べ物を残すと『手をつけた物はみんな食べなさい』、こんな具合でした」と辻田さんは23歳の若年兵の顔になった。「お母さんには手紙の代筆もして頂きました。毛筆できれいな字でした。時々うどんのいためものも作ってもらいましたが、それがとてもおいしかった。今でも作ってます。また、蔵に泡盛の古酒があって、とても飲みたかったのですが、私が勝手に取ったら問題になる。それをある日、友寄さんがこっそりと持ってきたんです。おいしかった」と辻田さんが言うと、「覚えてません」と“16歳”の友寄さんが笑った。
2人はお互いに記憶をおぎないながら当時のもようを語ったが、空襲の話になると一致した。
米軍機延べ900機による大空襲は飛行場、港を中心に沖縄全域にわたった。特に那覇は昼以後、集中攻撃を受け、焼い弾、ロケット弾、機銃掃射の繰り返しで、上之蔵町をはじめ、那覇港一帯の町が2日間燃え続けた。600人を超す死傷者と市の9割が灰じんに帰した。
友寄さんは言う。「朝7時前だと思いますが、小禄方面から鳥がいっぱい、それこそ空を覆うほどたくさんの鳥が飛んできました。『パチパチ』と爆竹のような音がしたと思ったら、あっという間に辺りには機銃弾と火の玉が飛んできました」。その音で辻田さんはとっさに空襲と察知した。それは梅津大佐も同じで、「しまった」と大声をはり上げた。よほどの大声だったのだろう、2人の記憶にその言葉がはっきり刻まれていた。
運悪く、那覇港にあ、その2、3日前に台湾から大量の弾薬をつんだ船が入港していた。「そのことを指して、大佐はそう叫んだんです。しかも、味方の戦闘機は台湾に行ってましたから、どうなるか予見したんでしょうね」と辻田さん。
山田さん親子は庭先の防空壕に隠れ、時にやむ空襲の合間に、家のあちこちで燃えている火の粉を消した。爆風で戸が倒れ、ガラスやなべが熱で溶け球状になった。一方、辻田さんは兵器リストなど隊の重要書類を本部隊に運ぶため、壕にひそむ山田さん親子に米と缶詰を手渡し、大火の街へ飛び出した。その後、山田さん親子は首里に避難したが、燃えさかる那覇の街に、ともに驚がくした、と言う。「道のわきには人が倒れ、あちらこちらで泣き叫ぶ声がした」「目の前で弾にやられ人が死んでいく」。突然の地獄絵だった。
辻田さんはその時負った傷のため、部隊が変わり、19年12月に台湾に渡った。そしてそこで終戦を迎えた。
39回目の10月10日、2人は南部戦跡を回り、上之蔵を歩いた。山田さんの墓参りもすませた。「胸につかえていたものが取れたようです」と辻田さん。「今度は富山で会いましょう」と再会を約束して沖縄をたった。
(「戦禍を掘る」取材班)1983年10月24日掲載