琉球新報「戦場からの手紙」

 

戦場からの手紙

残された妻子の支え 沖縄市の宮城さん 戦況の悪化で伏せ字増える

 妻子を残したまま遠い戦場へ立ち、国のためと散っていった人たち。沖縄県内にはこういう戦争犠牲者が数多くいる。沖縄市照屋、宮城正光さん(46)の父親・山平さんもその一人。山平さんは昭和13年、支那事変で応召、中支に出征した。故郷を後にした時は長男正光さんはまだ母の腹の内で、戦地で長男の誕生を知らされた。敵陣へ一歩一歩前進し生死を境に戦いながらも、別れてきた妻子のことがひと時も忘れられず便りを送り続けた。その戦場からの手紙を、さる太平洋戦争最中も肌身離さず持ち歩き、大事に保管していた山平さんの妻昭子さん。

 

 家を守る昭子さんには乳飲み児の長男と幼い女の子2人を抱えて暮らしていかなければならなかった。遠い戦場からとはいえ、夫から送られてくる便りが、めいりがちな妻や子の心を支え、どんなに励ましになったことだろうか。

 

 山平さんは入隊する前、巡査をしていた。昭和13年5月、巡査部長で那覇警察署時代に召集を受ける。大分市内で宿営し間もなく門司港から上海へ向かった。行く先々で家族あての便りをしたためていた。

 

 「軍規の厳しい軍隊で年寄り連中の兵隊様が多く皆困って居ります。連隊長閣下らの閲兵や重装備検査で午前六時に整列したり、早いときには五時三十分からあります。私のような朝寝坊は大変です」と、ちょっぴりぐったいせいかつに触れている。

 

 大分での宿営からのものでさらに次のようにつづっている。

 

 「二十七日の夜、長男正光が私に抱かれる夢を見て手を差しのべたら壁に手が触れ目を覚ました。今日の朝ごろはまた光子が泣く夢を見たが、あまり叱(しか)らんで下さい」

 

 そのあとに子供を連れて面会に来る他の兵隊の家族を見て、わが子らのことを思い出し涙がこぼれてしようがないと、結ばれている。

 

 初めのころの手紙は割り合い、落ち着いた状況下に書かれたものとみられ、文面もきれい。しかし敵陣へ上陸するにつれて、文字の乱筆が目立つ。具体的に地名も書かれていた上陸予定地も「○○地へ向かう」と、次第にぼかされ妻子にすら知らされなかった。それだけ風雲急を告げる様子が、ひしひしと感じられる。

 

 おそらく中国へ渡った初の便りであろう。日付けが6月5日となっている。

 

 「わが軍の悪戦苦闘した呉彬港の敵前上陸の現場を見て沖縄でラジオニュースを聞くがこれより以上激しい様に見受けました。小学校で学んだ揚子江、現在軍艦―キサラギ、ヤヨヒ、トモヅル、飛行機等に護られ南京に向かっております。私は蕪湖で上陸して漢口、武昌湊陽方面の敵に向かいます。揚子江はね川幅の広い事、また付近にはトーチカやクリノク等または支那人の死体が漂流して気持ちの悪い程いやな感がします。支那の村落にはね日本の兵隊が警備について日の丸を掲げて迎えています」

 

 上陸間もない戦況や中国の沿線の家々の事が浮き彫りにされている。文の終わりに揚子江とあり、妻や子供たち3人の名前が記されている。

 

 さらに山平さんが所属する園田部隊は進軍を続け「○○駐屯地」からの便り。

 

 「当地に来て何も珍しい物は御座いませんが戦の後の住家の破壊や焼残が石灰と成り、私達は焼残の住家に戦友一同一時起居して居ります。水の不自由には閉口して居ります。雨の朝は天水で口をそそぎそのまま朝食を済し三日に一回入浴に行き洗面等します。なお支那には事変後、街燈がなく、暗夜となり二、三人で夜道を歩くのも気持ちが悪くて仕様がありません。でも銃に剣を着け一分隊約十名位で巡視して居ります」

 

 水もなく焼け野原と化した中を、わずかに戦禍からまぬがれた民家を探し求めて、次の任地命令が来るまで疲れた体をしばし休めていたのであろう。山平さんが妻子へ送っていた手紙はまだまだ続く。

 

(中部支社)1983年12月5日掲載

 

家族への気遣いいっぱい 妻子の写真もせがむ

 昭和13年、宮城山平さんが入隊し従軍したころは暗雲が立ちこめて、戦争への道へ、のめり込んでいった時代。その前年、■溝橋事件をきっかけに日中戦争がぼっ発、日本国内も次第に緊迫の度を増していった。間もなく国家総動員法が施行され戦争は拡大するばかりだった。

 

 上海にまず上陸した宮城さんの部隊も、中国奥深く進軍を続け、行く先々で敵軍と激戦をきわめた。留守を守る妻子への手紙への内容からも、その様子が手に取るように、うかがい知ることができる。家族から返信が来ないと心配する山平さん。

 

 「別れて満三カ月になるが何の音信もなく心配しているが何か身体が悪いのではないか。(中略)八月の中旬頃は支那最後の頼りとして居る○○地に私たちは前進する事と思ふ。私は故郷に在る時は子供も叱(しか)ったりしたが、今生死の途中にある戦線で悔んで居る。三人の子供に御詫(わび)するよ。それから以前にもお願いした子供と一緒に撮った写真ぜひ送ってくれ、頼む」

 

 昭和13年8月8日中支から送られている、一人、家族と別れて暮らす戦場での生活。寝ても覚めても妻子の事が脳裏を離れず、焼けつくような盛夏、みんな元気で頑張っているだろうか、と気遣う山平さん。せめてもの妻や子供たちが写った写真を枕元にしのばせて、故郷をしのぼうと、写真をせがんでいる。

 

 中支には日本本土から次々援軍が送り込まれ、その中に沖縄での知人も幾人か入っていた。

 

 「○○駐屯地にて。儀保直亀氏や那覇の仲村渠呉販店の主人とも面会した。島袋利助君も同地に参って居ります。安一君や新正兄さんにはまだ会っていません。近いうち捜して面会に行きます」と書かれている。

 

 山平さんはいま健在であれば76歳になる。手紙に出てくる人たちが、その後どうなったのだろうか。

 

 「私たちは八月の十日頃現在の地を引き揚げ支那最後の守備地の大○○へ攻撃に行きます。これは我々も最後で生死の境いです。何卒皆様も御壮健で先づ武運長久を祈って下さい。浩富美君は敵の弾に頭を打たれ入院しました」。文末に明日死す息子より、と記されている。数少ない戦場からの父母あての手紙でバタバタ倒れる戦友たちのことが触れられている。

 

 戦火は次第に激しさを増し時の政府は物資の統制法を敷いていった。その重圧は国民生活に、ひしひしとおおいかぶさり、ますます厳しい耐乏生活を余儀なくされていく。その苦しい生活が遠い戦場でも気になるのであろう。

 

 「貴女より初の便り何より嬉(うれ)しかった。子供らとの毎日の衣食は不自由なく警察から貰う丈(だけ)の給料でありますか。警察から幾等貰うか返事を乞う。揚子江は濁流でね兵隊が大変チフス等で死す者多い。私はもう悪質の水に馴れたと見られ元気なものです。親子四人の写真がほしいのです。八月十二日午後一時蕪湖を出発、次の地へ前進す。これが最後の別れかも知れず、貴女が云う如く私は御国のため死すのが男子の本懐と思い決して未練なんかない。ただ正光がどの位太ったかまた光子、洋子が利口になる様祈ります」

 

 便りの最後には必ず子供たちの事が記され、父親の心中がどんなに寂しく居ても立ってもおれないものか、その様子が分かる。

 

 そして日が経つにつれてこれが最後の戦場からの父の便りになるかもしれないと、書き添えることも忘れなかった。カタカナだけの子供3人にあてた手紙には今でも想像もつかないような事がしたためられていた。次にそれを紹介しよう。

 

近く最後の奉公 33歳で帰らぬ人 日付、場所もなく…

 宮城山平さんは旧久志村出身で郷里には妻昭子さんと幼い長女の光子さん、二女洋子さん、それに乳飲み子の長男正光さんの4人が残され、父親が無事任務を終えて帰ってくるのを祈りながら待っていた。応召され家を出る時、幼すぎる子供たちに恐らくどこへ行くとは知らされなかったのだろう。そしてなにも知らない子供らは、たくさんのお土産をほしがり、ねだっていた。

 

 子供たちの要望にこたえるように、山平さんは中支から早速、手紙を送っている。

 「光子も洋子もお利口さんでよくお母さんの言うことを聞いているでしょう。お父さんはいま、警察にはいません。遠い支那と言う国に来て強い兵隊さんになって働らいて居ります。皆さんと別れるとき、光子も洋子も、たくさんお土産を持って帰れと、よく言いましたネ―。近いうちに大きな勲章と、支那の兵隊の首をお土産に持って帰りますから、お父さまが帰るまで、三人で仲良くしてお母さまの教えを守りなさい」と、さとすようにつづっている。

 

 支那の兵隊の首を土産にと、幼い子供たちに書いているところが、いかにも軍国主義教育の徹底と戦場での異常な人間心理のほどをのぞかせる。さらに便りは「皆さんはお父様に抱かれたい、また会いたいでしょう。お父様もみんなに会いたい。抱いてみたいヨ、でもお父様がいる所は遠いから今すぐ帰れません。そのかわり写真を送ります。お父さんは寂しいから四人の写真も早く送って下さい」と、片仮名ばかりの文は終わっている。

 

 昭子様と追信の形で妻への便りが同じ便せんにつけ加えられている。

 「この手紙を書く時は子供のことで寂しく一人で泣いて泣いてこの書面をようやく書き終わりました。隣にいる戦友や残りの兵隊も皆父母や妻子の写真を持参して来ております」と、妻にも大至急写真を送れと頼んでいる。

 

 「近いうち最後の御報公の来る日が目前に迫って参りました。皆様元気で御暮らし下さい。乱筆でサヨナラ」と、日付や場所もなく閉じられている。いつ果てるか分からないわが身、ただ戦場で、つのる一方の妻子への思いを押さえてくれるのは家族の姿が写った写真以外になかったようだ。ノドから手が出るほど欲しかったにちがいない。

 

 戦火は衰えるどころか、たちまち中国各地に広がって長期戦となり泥沼へと、のめり込んでいった。山平さんもついに帰らぬ人となってしまった。昭和13年8月24日で享年33歳の若さだった。

 

 夫亡き後、妻昭子さんは30歳で教壇に立ち周囲の人たちの温情と支援を受けながら3児を抱えて頑張った。昭和14年、ドイツのポーランド侵入開始で全世界は再び戦争に巻き込まれ第2次世界大戦へと突入した。2年後に日本はあのいまわしい太平洋戦争を始め沖縄全土も、もろに被害を受け焦土と化していった。

 

 そういう激しい戦火の中でも昭子さんは戦場からの夫の手紙を肌身離さず方々さ迷い歩いた。ようやく昭和20年、沖縄戦終結し昭子さんも元の職場へ復帰した。そして名護の久辺小学校を最後に教員生活を退いた。昨年6月、この妻昭子さんも74歳で亡くなった。

 

 残された娘2人もいまは嫁ぎ、末っ子の正光さんも3人の父親となり沖縄市役所の経済部観光課長を勤める。母の一周忌を済ませたあと、押し入れの遺品を整理していると、父からの手紙が紙箱いっぱい見つかった。中には手紙のほか国から贈られた金■勲章や軍隊手牒(帳)も大事にしまわれていた。

 

 そのほか入隊前の巡査部長時代、使っていたサーベルや星ボタンの付いた肩章、さらに日記帳が続々と出てきた。その遺留品を手にした正光さんは「私たち子供にとってこれ以上の父母からの形見はありません。手紙を見るだけで涙がこぼれてしまい、ほとんど読む気になりません」と、目をうるませた。

 

 父親の山平さんは長身で「六尺山平」と呼ばれ勤務する先々で、みんなから慕われていたという。軍隊手帳にも六尺〇寸参分とあり、当時の人たちの間では山平さんを知らない人はいないほど目立っていたようだ。

 

 沖縄角力も強く県内でも1、2位を競うほど。那覇市辻でのまつりの際には、けんかが多かったが山平さんが巡視にくると、何事も起きなかったと、エピソードも多い。山平さんが戦死したとき初めて久志村で村葬が行われた。山平さんの墓の前を通ると住民は、おじぎをするくらいで、その人柄がしのばれる。

(中部支社)