琉球新報『戦禍を掘る』 生きているのでは…

琉球新報『戦禍を掘る』 生きているのでは…

母や姉はどこかで ~ 那覇の金城さん 一足先の疎開が別れに

 昨年9月、「戦禍を掘る」の連載が始まって間もないころ、一人の女性が「戦争で離ればなれになった肉親を捜している。力を貸してほしい」と本社を訪れた。その呼び掛けは1回目の情報特集に掲載された。あれから半年余、その間、1件の情報も寄せられなかった、と言う。「もうあきらめた」と心では思っている。しかし、どこかであきらめきれない気持ちがいまも残る。その女性、金城千代子さん(60)=那覇市小禄=もその一人。金城さんのような、あるいは「夫の戦死場所は…」「娘の最期のもようを知りたい…」など、39年前のことが頭から離れない人は少なくない。

 

 「どんな小さなことでもいいんです。もし、死んでいるのなら、その場所、その時のもようだけでも」と金城さんは言う。

 

 金城さんが捜しているのは、昭和20年3月、国頭村浜に疎開した母・冨里カメさん(当時63歳)と姉・我謝ツルさん(同26歳)、姉の子・エミ子ちゃん(同9カ月)の3人。

 

 戦前、金城さんの家族が住んでいた読谷村牧原に昭和19年、球部隊が駐屯した。“建築隊”と呼ばれたその部隊は450人の兵を抱えていた。それまで徴用で読谷飛行場の整地作業をしていた金城さんら牧原出身の女性10人が、それら兵の炊事係となった。

 

 「1日3食作りました。朝食を出すのが午前2時、めしたきと後片づけで1日が終わりました」。20歳そこそこの若い女性にとって過重な仕事には違いなかったが、戦争の本当の恐ろしさはこの後、やってきた。

 

 20年3月初旬、牧原の民間住民に対し避難命令が出た。避難地は国頭村の浜。それぞれの家族が避難し始めた。カメさんやツルさん、エミ子ちゃんもこの時、牧原を後にした。金城さんは炊事の任務があるため残らざるを得ず、泣いて別れを告げた。再会も約束した。

 

 米軍上陸が間近に迫った3月19日、残っていた女性たちにも避難命令が出された。金城さんら3人はその夜から国頭に向かった。真昼を思わせる照明弾のなか、母や姉の元に一歩でも近づきたい、とひたすら歩いた。「歩いている数十センチそばをたまが走るんです。生きているのが不思議なくらい。怖いと言えば、その時が一番怖かった」。

 

 1週間ほど歩き、やっとの思いで着いた浜には母や姉はいなかった。「山奥で竹にすすきをかぶせた簡単な小屋が10ほどありました。みんな顔見知りです。でも、母がいないと分かると一時でも早く捜しに行きたかった」。そのため、金城さんは母の故郷・国頭村宜名真に向かった。しかし、そこにもいなかった。

 

 喜如嘉にたくさんの民間人が収容されている、と聞いた金城さんは、次にそこを訪ねた。空腹とあせりと怖さの入り交じった足取りだった。が、やっと着いた喜如嘉にも母や姉の姿はなかった。そこでは一つの小屋に幾人、何家族もの人がいた。金城さんは4人家族のいた小屋に世話になった。

 

 「喜如嘉では米兵に『ハニー、ハニー、とつきまとわれ、怖い思いをしました。知らんふりをしてもしつこくつきまとい、揚げ句の果ては、私が世話になっている小屋まで訪ねてくるんです。怖くて」。それで、友達2人と逃げ、石川に向かった。

 

 通行証を持たず20代の若い女性は飲まず食わずで山道を歩いた。途中、ジープに乗った米兵に見つかり、友達の1人が片言の英語で石川行きを頼んだが、ジープに乗せられ着いた所は警察。留置所から石川の収容所に移された。

 

 金城さんはその収容所でも母や姉を捜した。母や姉たちは捜せなかったが、知り合いの新垣ツルさん(旧姓平安名)のおかげで、父を捜し当てることができた。

 

 その父も昭和42年に亡くなった。今でも、金城さんは母や姉たちの夢を見る、という。

 

 「胸がはりさけそうになります。親類は『あきらめなさい』と言います。私もそう思っています。でも、もしかしたらどこかで、母や姉、エミ子ちゃんが生きているんじゃないか、と思えて仕方ないんです」。戦争の本当の恐ろしさは、例え戦火を生きのびても、死ぬまで受けた傷の痛みを消すことができない、のだろう。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年4月2日掲載

 

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■