琉球新報 戦禍を掘る「赤ん坊を抱いた遺骨」(1984年5月4日)

 

琉球新報 戦禍を掘る「赤ん坊を抱いた遺骨」

間違いなく母と弟 ~ 零歳の弟は日本兵が絞殺

 20年近くも前、那覇市小禄の住宅地で赤ん坊を抱いた遺骨が発掘され、周辺に住む人々の話題になったことがあったという。

 

 屋敷内の土地を開墾中に遺骨を発見した家主は、近所を回って心当たりを聞いたが、だれ一人として知るものがなかった。仕方なく、拾い上げた骨を米袋に詰め、自転車に乗せて小禄の共同墓地に運んだ。のちに、無縁仏として摩文仁戦没者墓苑に納骨されたとのうわさだった。

 

 「間違いなくあの遺骨は戦死した母と弟です。発掘された場所は戦争当時、防空壕になっていました。壕内の土をかき出して、入り口付近に爆風よけの盛り土を造ってありましたが、その端の方に私自身がこの手で埋めたのです」

 

 当時、わずか九つだった上原仁太郎さん(47)=那覇市小禄=は、幼い記憶ながら、自信を持って語り始めた。

 

 昭和20年―。「小満芒種(すうまんぼうすう)だった」と言うから、すでに梅雨入りしていた。場所は現在の小禄三差路付近。仁太郎さんの母・カマドさん=当時(42)=が、自分たちのいた壕を出て別の壕へ米や鍋を借りに行く途中、艦砲射撃でやられた。

 

 仁太郎さんも一緒だったが、母親の後ろについていたため無傷だった。「爆風でやられた母がちょうど私の上にかぶさる格好になったため、命拾いしました」と仁太郎さんは振り返る。

 

 しかし、カマドさんは重体だった。「母は太ももの肉がゴッソリ取れてブラブラしていました。髪の毛もみんな燃えてなかったですよ」。カマドさんは義理の妹らに担がれて5人の子どもらが待つ壕に戻ってきた。

 

 「それでも4、5日は生きていましたかねえ。私たちは子どもながらに頭を働かせ、赤ん坊だった弟のおしめにラードを塗って傷口に縛りつけたのです。ところが、傷口はだんだん腐る一方。水を欲しがる母にヤカン一杯の水をやったら、間もなく気が狂ったようになって息を引き取ったのです。“負傷者には水を飲ますな”といつも言われていたのに…」

 

 あとに残された仁太郎さんたちは途方に暮れた。母親に死の間ぎわ「お前が一番年上だからしっかりしてちょうだい。弟たちの面倒を見るんだよ」と言われた仁太郎さんだったが、この先どうすればよいか分からない。

 

 「末の弟の安直は生まれてまだ8カ月の赤ん坊。母が死んでからは、あまりのひもじさにワーワー泣くんです。死んだ母の乳を押してみたら白く出てきたので弟の口に含ませました。弟は2、3日も乳をくわえていましたよ」

 

 数日後、その弟が日本兵に絞め殺される事件が起きた。母親の父がやがて出なくなって再び弟が泣き出し、たまたま通りかかった日本兵が、すぐ隣にあった軍の壕へ連れ去った。そして、首にタオルのような物を巻きつけて窒息させた。

 

 「埋めてあった母の遺体を掘り起こし、殺された弟を胸に抱かせてやりました。母の腕は硬直していましたが、私たち子ども4人で力を合わせ、必死に母の腕を広げました。今思うと信じられないくらいの力があったようです」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月4日掲載

 

弟の首にタオルが… ~ 殺した日本兵も戦死

 艦砲射撃でやられた仁太郎さんの母・カマドさんをモッコに乗せ、壕まで担いで来たとう比嘉マスヨさん(76)=那覇市小禄=に話を聞いた。

 

 カマドさんの義理の妹に当たるマスヨさんは、当時のシーンを振り返る。「連絡で現場に駆けつけてみると、姉はひん死の重傷でした。着物はもちろん、顔の片側も焼けただれ、まるで焼きいものようでしたねえ。足のつけ根は肉がゴッソリ取れて骨が見えるほど。一瞬、腰が抜けそうになりました」

 

 助けに来てくれたマスヨさん夫妻を見つけ、カマドさんは「モーサー(マスヨさんの当時の呼び名)連れに来たねえ」と、とっても喜んだという。「あの時の姉の顔が忘れられない」とマスヨさん。

 

 マスヨさん夫妻は、カマドさんを子どもたちの待つ防空壕まで運んできた。壕には仁太郎さんら5人の子と仁太郎さんの祖母。看病に当たったが、カマドさんは数日後、息を引き取った。

 

 「姉が亡くなったとの知らせで、近くの壕にいた私ら夫婦が出かけて行き、遺体を埋めてやりました」とマスヨさんは話す。その後、夫妻は仁太郎さんの祖母から「あんたらは若いから、今のうちにここを逃げて生き延びなさい」と言われ、壕を離れてしまった。祖母も「どうせ死ぬなら家の中がいい」と壕をあとにしている。

 

 子どもたち5人だけが残った。さらに数日後―。

 

 仁太郎さんたちがいた防空壕のすぐ横に軍の壕があったが、そこへ40代後半くらいの陸軍兵がフラッと1人でやってきた。二つの壕は、細い通路でつながっていたらしく、仁太郎さんたちの壕に顔を出しては食べ物をかっぱらっていったという。

 

 「赤ん坊の安直(弟、当時8カ月)が泣きわめいていたら、その日本兵がやってきて『おれが子守りをしてやる』と言って自分の壕へ連れていったのです。そしたら、しばらくして変な声が響きました。私は“もしや”と思い、隣の壕へ一目散。見ると、日本兵の姿がない。あたりをキョロキョロ見回すと、首にタオルを巻きつけられた弟が地面にころがっていました。体にさわるとまだ温かったけれど、すでに息がない。顔中斑(はん)点だらけになっていて…」

 

 仁太郎さんは声を詰まらせた。

 

 のちに、弟を殺した日本兵も近くの川沿いで戦死した。近くを通った仁太郎さんが発見。驚いたという。

 

 仁太郎さんは終戦後、上京。10年ほど前に沖縄へ戻ってきた。だから、母親と弟の遺骨が出てきた時、引き取ることができなかったのである。

 

 先月27日、仁太郎さんは遺骨が出てきたという屋敷を訪ねた。仁太郎さんの問いに「ああ、そういえば、そんなことがありましたねえ。もうだいぶ前の話ですけど」と波平正市さん(65)=那覇市小禄=は語ってくれた。

 

 波平さんの記憶では、遺骨はやはり、現在の高良小学校にあったといわれる共同墓地へ運ばれていた。

 

 仁太郎さんは、今はニンジン畑になっている“埋葬場所”に向かって手を合わせたあと、つぶやいた。「安直をおんぶして何度いも掘りに行ったことか」

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月9日掲載

 

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