賀谷支隊と臨時召集された青年団 ~ 琉球新報「戦禍を掘る・米軍上陸」(1984年5月28日)

 

 

1945年4月1日、無血上陸をはたした米軍の矢面に置かれたのは、特設第一連隊と賀谷支隊。特設第一連隊は、本来は飛行場の建設施設管理部隊であるため、武器装備もほとんどなく、沖縄人や沖縄の学徒で構成されていた。また賀谷支隊に配属された特設警備第224中隊などはほとんどが地元からの召集であった。賀谷支隊の本体が米軍をおびき寄せながら南へ退却していく一方で、特設警備第224中隊は切り離され、その消息はほとんどわからない。

 


 

戦禍を掘る 米軍上陸

戦車3台が先陣切る ~ 北谷沖合に艦船居並ぶ

 昭和20年4月1日早朝、米軍は沖縄本島中部の西海岸一帯から一斉に上陸を開始、以後3カ月にわたり死闘を繰り広げた沖縄戦に突入していく。

 

 海岸を覆った1300余の艦船と抗したのは賀谷支隊とよばれた石3593部隊・独立歩兵第12大隊だった。前方部隊として孤軍奮闘し、同隊は6日までに将校11人、下士官232人の戦死者を出して、前方隊の任務を終了したとされる。

 

 そのころ18歳未満の地元若者青年団を組織、部隊に協力していた。「私たちは賀谷支隊の村上隊に配属され、男子は弾運び、女子は看護の手伝いをしました」と、宜野湾市喜友名区の自治会長を務める屋宜盛栄さん(55)。当時17歳。青年団は男女とも14、5人ほど。ある日突然軍命ということで、駆り集められた、という。

 

 「隊長は村上伍長という方で、とても気の荒い人でした。村上隊は20人ほどの軽機関銃隊でした」

 

 青年団が組織される前、屋宜さんは農兵隊として徴用され、宜野湾農民道場(学校)へ。そこから男手がなく、農作業に支障をきたしている出征兵士の家庭へ行って、農作業の手伝いをしていた。「畑の真ん中に日の丸がたっており、毎日、畑を耕していました。2カ月ほどやったかな」。空襲が激しくなり、農兵隊は解散、喜友名部落に戻って間もないころ、青年団組織で、再び駆り出された。

 

 「私たちの仕事は、高台の陣地壕に200~300メートル離れた待機壕から弾を運ぶ作業。ふだんは区の避難壕にいて、夕方交代で任務についていました」

 

 喜友名は当時、各家庭で壕を造っており、一時期はそこに避難していたが、空襲が激しくなると、家庭壕では危なくなり、区民は区に五つあった洞くつに移った。

 

 上陸日の4、5日前から北谷の海は艦船がうようよしており、いつでも上陸できる近さにいたという。陣地壕は現在のズケラン基地にあり、そこから北谷の海岸がパノラマのように一望できる。

 

 「3月31日の夕方、ちょうど私が交代に当たりまして、任務についていました」と屋宜さん。翌4月1日早朝、海を覆っていた艦船が陸に向かって動き出した。「双眼鏡をのぞいていた村上伍長が時計を見て大声で『6時48分上陸』と叫んだんです」。

 

 沖縄戦を記録した各本によれば、米軍の本島上陸は午前8時半とあるが、屋宜さんは「6時48分に間違いない」と言う。「伍長は時計で確認して、さらに確かめるようにはっきりそう叫んだ。太陽の位置からも、8時過ぎとは考えられない」と断言する。

 

 そして上陸の模様を次のように語った。

 

 当時、北谷の海岸と県道(現在の国道58号)との間に鉄道が敷かれ、中央に無人の北谷駅があった。駅を中心に十字に小道があり、一つは県道に沿い、もう一つは海岸と県道を結んでいた。上陸は水陸両用戦車3台を先頭に始まり、後方の艦船から無数の米兵が上陸した。3台の戦車はその後、駅への小道を通り県道へ、1台は那覇方面、1台は名護方面、さらに1台は瑞慶覧方面へと向かった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月25日掲載

 

陣地壕、一瞬に壊滅 ~ 新垣さん 壕に行く途中負傷

 海岸に上陸した米兵らは最初身を伏せていたが、日本軍の攻撃がないと分かると堂々と歩き始めた。「皇軍のように足並みをそろえ近くの川べりを歩いてました」と屋宜さん。その日、安仁屋集落に米兵が入ったのを知って、村上伍長は激怒、切り込みに行こうとしたという。

 

 1日夕、待機壕にいた屋宜さんは弾をかついで、陣地壕に向かった。高台の陣地下まで来た時、地をゆるがす爆音とともに直撃弾が陣地に落ちた。急いでかけ上がると、陣地はなく、木々に軍服などのきれはしが無残にひっかかっていた。「やられたのは兵長と初年兵。確かその初年兵は知念村志喜屋出身だと聞きました」。兵長が機関銃を撃ち、初年兵がそのそばで弾をきらさぬように銃につめ込んでいたところをやられたようだ。

 

 急いで待機壕に戻った屋宜さんは交代で区民壕に帰った。

 

 2日夕方、さらに交代で待機壕に行こうとした新垣さんは、その途中、畑の奥からガチャガチャと音がするのを聞き、身を隠した。しばらくすると、近くで人の声がする。2人いる。1人は大きく、1人は小さい。息をころし耳をすました。ウチナー口だった。2人も聞きなれない音に立ち止まって話をしていたのだった。屋宜さんも話に加わり、敵ではないか、などと声を殺し、語り合った。「恐らくその声が敵に聞かれたのでは」と屋宜さん。しばらくすると激しい弾の雨が降ってきた。追われるように区の壕に帰った。

 

 「あれは畑に穴を掘り、そこに米兵がひそんでいたんですよ」と語るのは、屋宜さんと同様、青年団の一人として村上隊に協力した新垣盛宏さん(55)=宜野湾市喜友名。青年団の男は2班に分かれ任務につき、屋宜さんと新垣さんは別の班。このため、新垣さんは屋宜さんと入れ替わりで1日夕方、待機壕に行く予定だった。

 

 「暗闇の畑から妙な音がするので、避難壕に引き返しました。後で知ったのですが、米兵が潜んでいたそうです。命拾いしました」

 

 そのため、2日夕方、新垣さんは待機壕に行った。そして、そこで左太モモを負傷する。「照屋という名の初年兵、佐久間兵長、私の順で並んでいるところを砲撃でやられました。照屋さんと佐久間兵長は絶命、私は左のふとももをやられました」。その直前にも、島袋という初年兵が胸を貫通させ、戦死したという。

 


 

 負傷した足を引きずって野嵩の壕へ。4日に捕虜になり、北谷の収容所に入れられた。「その収容所は今のハンビー飛行場跡地内ですが、たくさん死人が出て、戦車で穴を掘って埋めました。戦後、掘り出したようです」と新垣さん。「まだ埋まっているのでは」とも語った。

※ 北谷収容所

 

 一方、屋宜さんは3日昼、区の避難壕にいたところに2世がやってきて、250人ほどの区民とともに投降した。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月28日掲載

 

死者の確認できず ~ 知念村の初年兵 遺族に無念の涙

 村上隊陣地壕や喜友名の避難壕などは、現在ズケラン基地内になっている。屋宜さんと新垣さんの案内で金網越しに壕跡を見た。基地と道路を隔てて墓があった。「あの墓の所で、上陸した米兵が炊事をしてました」と屋宜さん。壕とは目と鼻ほどの距離。壕から炊事をしている米兵が見えるほどだったという。現存するもので当時を思い起こさせるのは、ほとんどが基地ないになっている。

※ キャンプ瑞慶覧 (キャンプフォスター)

 

 屋宜さんが戦死を目撃した知念村志喜屋出身の初年兵の話が「戦禍を掘る」情報特集(5月14日付)に掲載されると、数人から問い合わせがあったという。「もしや」と身内を亡くした遺族からだった。

 

 その中の一人。親川新蔵さん(71)=知念村志喜屋。弟の仲村渠新徳さん(当時22歳)の遺影を持って親せきらとともに、屋宜さんが館長を務める喜友名公民館を訪れた。

 

 仲村渠さんは機関兵として宜野湾嘉数に配属された。米軍上陸までは仲村渠さんに会った人も何人かいたが、上陸直後から、見たと言う人はぷっつりとだえた。そのため親川さんらは上陸直後に戦死したと考えている。

 

 親川さんのいとこにあたる親川幸隆さん=知念村志喜屋=は志喜屋出身で機関兵は3人しかおらず、志喜屋ではこの話でもちきりという。戦後39年経て、なお戦死場所さえ分からぬ遺族らの思いは深い。

 

 屋宜さんと新垣さんは仲村渠さんの遺影をながめ、「嘉数と喜友名は近いし」「似ているようでもあるが」と語りながらも確認には至らなかった。それでも親川さんらは2人が語る当時の模様を一言一句、確認するように聞き入っていた。

 

 屋宜さんは語った。「村上隊、いや賀谷支隊のだれでもいい、どなたか健在の人がいたら、はっきりするのでは、私ももっと詳しく部隊のことが知りたいし、初年兵と一緒に戦死した兵長がだれなのかも判明すると思う」

 

 新垣さんも同じ思いを39年心にとめていた。「私の目の前でやられた照屋初年兵や島袋初年兵。姓だけで何の手掛かりもない。遺族も捜していらっしゃるでしょうに。あのころは初年兵といっても正規の兵隊。しかも年上ですから、話だけでも怖かったほどだったが、せめて名前と出身地だけでも聞いておれば」と語った。

 

 米軍上陸をまぢかに見た屋宜さんは「言葉には言い表せないほどの大艦隊でした。あれでは戦いも何もないです。勝ち負けは、あの時点でついていたのでは」と言う。

 

 4月1日無血上陸を果たした米軍は、その日のうちに北(読谷)、中(嘉手納)の両飛行場を占拠、布告第1号(ニミッツ布告)を発令、読谷村に米国海軍軍政府を置いている。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年5月29日掲載

 

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