母を返して ~ 琉球新報「戦禍を掘る」

 

琉球新報「戦禍を掘る・母を返して」

避難先に直撃弾 ~ 救出作業を軍が阻む

 沖縄戦末期の昭和20年6月下旬、本島南部・喜屋武岬に近い福地集落の空き家で、一組の女子が捕虜となった。小柄ながら気だけは頑丈な15歳の少女と重傷の母親だ。母親は、捕まる数日前に艦砲射撃の爆風でやられ、両手両足、腰など各所に爆弾の破片が突き刺さっていた。生きているのが不思議なくらいだったが、その母親も収容所に着いた時には既にこん睡状態。娘は死が近づき始めた母親の口にサトウキビの汁を流し込んでやった。しかし、必死の看病のかいもなく母親は間もなく息を引き取った。

 

 あの時の少女が大田登美子さん(54)=浦添市勢理客。亡くなった母・マカトさん=当時(53)=の年齢を超えている。死に顔をゆすりながら「アンマー、アンマー」と叫び続けたという登美子さん。その登美子さんが体験した「悔しかった」沖縄戦をつづる。

 

   ◇   ◇

 登美子さんが母・マカトさんと浦添・勢理客の実家を捨てて首里末吉の壕に避難してきたのは、20年4月初めのこと。避難壕といっても岩山の中腹にある古い亀甲墓で、持ち主も定かでない。

 

 そこには、先に避難してきていた登美子さんの祖母・カマドさん、姉・静子さん(長女)と乳飲み子を含む5人の子ども、妹で六女の文子さんの人が肩を寄せ合っていた。これに四女・登美子さんたちが加わったものだから、わずか4畳半ほどの墓の中はにわかに窮屈となった。

 

 この末吉に嫁いでいた姉の千代さん(二女)が、直撃弾で死んだ。4月22日ごろのことである。夫が止めるのを振り切って「おむつだけ洗ってくる」と出かけ、やられた。目を半ば開いた状態の即死だった。その右足を捜し回ったが見つからなかったという。

 

 祖母は遺体を見て半狂乱になった。肉親が身近で亡くなったのは初めてのことだったので、登美子さん一家の落胆はひどかった。戦火が迫っていることを肌に感じ、島尻へ移動するための準備が始まった。

 

 悪夢は「天長節」の29日夕方に起きた。登美子さんは「姉の子どもたちと一緒に天長節の歌を歌った」ので日付を覚えている。

 

 騒々しかった爆音がやみ、登美子さんは母と2人で壕入り口に作られているカマドで夕食のしたくに取りかかっていた。墓石をどけたその付近は、2人がようやく座れるほど。もう何日も暗い中で生活しているので、子どもたちの顔色は良くなかったが、外で小用を済ませ、入り口より30センチほど下がっている墓の中に一人ずつピョンと入って行った。

 

 直後、ドスンという弾の落ちる音が響いた。登美子さんたちは外に向いて働いていたので、初め艦砲射撃が自分たちのいる墓の真上に落ちたことに気付かなかったという。

 

 すると、「アンマー」と母親を呼ぶ弱々しい姉・静子さんの声がする。2人がビックリして振り向くやいなや2発目の弾が同じ所に落ちた。この時はものすごい爆風で目も開けられないほど。登美子さんたちがいたカマドの上にも土が覆いかぶさってしまった。

 

 墓は落盤し、中にいた家族の姿は見えない。2発目の弾でみんな生き埋めになってしまったのだ。登美子さんは、青ざめている母親と大声で姉たちの名を呼んだが、反応がなかった。

 

 どうしていいか分からず、近くの壕にいる親類たちに助けを求めた。おじさんたちが鍬(くわ)やショベルで救出しようとしたら、たまたま一緒にいた日本軍の曹長が制止した。

 

 「あれだけの土がかぶさっては生きられない。安心して作業ができるのならともかく、ほかの人の安全のためにもこのままにしておこう」と曹長

 

 登美子さんは「まだ生きているのに違いない。早く掘り起こしてあげたいのに…」と思いつつも、逆らうことはできない。一度に8人の肉親を失った母親はただ泣き叫ぶだけだった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月24日掲載

 

再び逃避行始まる ~ いくさが済んだら迎えに…

 一瞬のうちに肉親8人を失った悪夢から一夜明けた30日早朝、登美子さんは母・マカトさんと2人で、生き埋めとなった家族を供養した。文字通り墓前での供養となり、朝食とお茶を供え、焼香して目の前に積もっている土に手を合わせた。

 

 マカトさんは泣きながら語りかけた。「ンメー(おばあさん)、カマルー(静子さんの呼び名)、いくさゆーだからあきらめて下さい。ちゃんと葬ってあげたいが作業をすると弾が飛んできて危ないからがまんして。これから島尻に避難するので見守ってちょうだい。いくさが済んだら迎えに来るからね…」

 

 その日の夕方から再び逃避行が始まった。2人のほか亡くなった千代さんの嫁ぎ先から10人ほどが加わり、南へ南へと足を進めた。

 

 那覇の与儀から国場を抜けて南風原の津嘉山に入り、さらに東風平・志多伯へと強行軍。糸満の与座で10日余り休んだあと、具志頭の仲座に着いた。登美子さんは、そこで嫌な光景を見た。

 

 「泥んこの道からうめき声が聞こえたので、立ち止まって見たら日本兵がのたうち回っている。目玉が飛び出て動くたびに揺れているのが分かりました」

 

 どこの集落にいた時のことだったか定かでないが、と前置きして、登美子さんは話を続けた。

 

 「死ぬのが怖いと何度も叫んでいる朝鮮人らしい娘がいました。けれど、そういうことを言う人ほど死が違いのでしょうか。真夜中、寝静まったころに突然爆撃を受け、娘が吹っ飛びました。男の人が大きな石だと感違いして持ち上げると、生ぬるい血がべっとり。長い髪の毛が付いて女の首に仰天していました」

 

 どさくさの中で、いつの間にか登美子さんたちの一団も離散。2人だけになってしまっていた。糸満に入り、伊敷や真壁などの集落を転々としながら福地集落にたどり着いた。

 

 6月になっていた。この時期のことは、登美子さんの脳裏にますます鮮烈に焼き付いている。

 

 「村の西側に大きなサーターヤー(製糖工場)があったので、数日前に足を負傷した母をおぶって移動してきたら避難民であふれんばかり。仕方なく、大きなガジュマルに囲まれた近くのカヤぶきの空き家を使わせてもらうことにしました」

 

 マカトさんの傷口にはウジ虫がはっていたという。ポンポン飛び交う艦砲射撃の破片。たまらずに集落の人たちは喜屋武岬方面へ避難していった。マカトさんは「あのおばさんたちと一緒に逃げなさい」と言ってくれたが、負傷している母親を置き去りにするわけにいかず、「いいよ。お母さんのそばがいい」と言って離れなかった。

 

 翌朝、登美子さんは恐ろしい場面を見た。

 

 「先日避難しようとしたサーターヤーが焼けて無くなっているとの話を耳にしたのです。急いで行ってみると、そこに焼けただれた遺体が15体ほどありました。石垣から上半身を出して大きな口を開けている。顔は真っ黒こげ。黒い唇が開いているのは助けを求めて叫んでいたのでしょうかねぇ」

 

 遺体の格好からして米兵に火炎銃でやられたようだった。痛ましい姿に登美子さんは思わず目をそむけてしまった。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月25日掲載

 

母親のもとに戻る ~ 破片が手足数カ所を貫通

 黒こげになった15の遺体が散乱していた製糖工場のシーンは、戦後ずっと登美子さんの頭を離れなかった。

 

 そんなある日、軍作業に就いてた登美子さんは、そのシーンを撮った写真を目にした。米軍のテーラー軍曹という人が持っていたという。「私、この場所知っている…」。

 

 登美子さんはその写真をしきりに欲しがったが、軍曹は「とんでもない」と言ってすぐ財布の中にしまい込んだ。

 

 「30年以上も前の話ですが、焼き増ししてもらってでもあの写真を手に入れておくべきだったと後悔しています。あんなかわいそうな光景はなかったですからね」

 

   ◇   ◇

 日増しに艦砲射撃が激しくなってきた。そんな夕方、ドスーンという地響きとともに登美子さんたちが避難していた家が斜めに傾いた。台所の方が直撃されたらしく、「アンマー」と叫んだが、何の返事もない。

 

 安謝の人とかいう隣にいたおばさんが「あんたのお母さんは死んでいるよ。あんたは私と一緒に喜屋武に逃げよう」と言って登美子さんの手を引き、連れ出した。が、母親のことが気になって仕方がない。「荷物を取って来るから」と言って母親のもとへ戻った。

 

 母親のマカトさんは、あお向けに横たわっていた。顔はすすで真っ黒。目を大きく見開いて「またもやられたさー」とつぶやいた。かなりの重傷らしい。かぶっていた着物を取ると、弾の破片が手足の数カ所で貫通している。

 

 「出血がひどく、どうしていいか分からない。とりあえず手ぬぐいをぬらして顔のすすをふき取ってやると、やせこけた顔の輪郭が分かり胸がいっぱいになりました」と登美子さんは振り返る。

 

 マカトさんは「チルちゃん(登美子さんの呼び名)、早く喜屋武に逃げなさい」と何度も言ったが、登美子さんは最後まで母親のそばを離れないと心に決めていた。

 

 夜になると、福地集落内の別の避難場所を探して歩いた。この集落の人たちは次々と喜屋武を目指して移動を始めていたが、母親を抱えていては、とても喜屋武まで行けない。場所を探している時、ある家の中から夫婦らしい男女のやりとりが聞こえた。

 

 「あんたは、もし私が死んだりけがをしたりしたらそのまま置いていくんだろう」と男の声。「あたり前さー。だれがやられるか分からない時にそんなことを言っても知らんよ」と女の人が言い返している。登美子さんは、火薬のにおいが立ちこめている軒下でじっと耳をそばだてていた。

 

 朝になって、民家の焼け跡に石垣で囲ってある小さな防空壕を見つけ、マカトさんを降ろした。登美子さんは、背中がぬれていたので「もらしたでしょう」と聞いたが、「分からない」と小さな返事だけだった。

 

 いよいよ、隠れている石垣の間から米軍の戦車を見かけるようになった。山城地区の森に引っ切り無しに弾を撃ち込んでいる。やがて喜屋武岬の方から捕虜となった人々が一列になって歩いてきた。白い布を棒切れの先になびかせている。フンドシもまとわない素っ裸の人も見えた。

 

 登美子さんは、一部始終を横になっている母親に小さな声で報告した。

 

 一方、投降せずに逃げたり、民家に隠れている日本兵らは銃で次々と撃ち殺されていった。

 

 そして、ついに上半身裸の米兵が登美子さんたちの隠れている壕に近づいて来た。登美子さんが壕の入り口に出て手を挙げたら、米兵は突然のことにびっくり、銃を構えた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月26日掲載

 

母を残し捕虜に ~ 周りは死体だらけで悪臭

 銃口を向けた米兵と登美子さんは10メートルほど離れていた。米兵が指で自分の所へ来るよう合図するが、登美子さんも「あんたがこっちへ来なさい」と言う。もう1人が中に寝ているからと手まねで説明するが、通じないらしい。2人は距離を保ったまま、数分間、手まねを続けた。

 

 「中に日本軍がいると疑っていたのでしょう。でも、そのうち米兵の日焼けした顔と大きな目がだんだん怖くなって一緒についていく決心をしました」

 

 一連のようすを中で、母親がじっと見つめていた。登美子さんはしゃがみ、母親に「もう行くからね。あの兵隊が怒っているから」と小声で言った。とたんに米兵が発砲、弾が背後の石に当たってはじけた。「ほら、私に撃ってきたよ」。

 

 母を残し、後ろ髪を引かれる思いで米兵のあとについて行った。周りは死体だらけでものすごい悪臭。集落からだいぶ離れた所まで来ると、どこからともなく集められた捕虜が十数人に膨れ上がっていた。

 

 1人の老女が米兵の機嫌を取ろうと砂糖を差し出すが、受け取らない。老女は自分で食べて見せるが、それでも受け取らない。逆に、米兵がポケットから何かを取り出して与えようとする。彼女の方ももらおうとせず、「毒が入っているかもしれないから食べるなよ」とみんなに注意する。

 

 そんなシーンを見ている間も登美子さんは母親のことが気になってしかたがなかった。列の一番後ろをゆっくりと歩きながら、米兵が前方だけを向いているのを確認すると、まわれ右して一目散に走った。「後ろから撃たれるかと思うととても怖かった」と言う。

 

 母親の元へ戻った。足音を聞いた母親が「チルちゃんか?」と問う。登美子さんが「アンマー、戻ってきたよ」と答えると、マカトさんは「お前が行ってしまってから、このままヤーサ死に(飢え死に)すると思っていたのに」と声を震わせた。

 

 「私のことはいいから」といつも話していた母親だったが、やはり娘が戻ってきてくれたのでうれしかったのであろう。思うように動かなくなった体で喜びを表していた。登美子さんは「こんなに喜んでもらえるなんて。本当に戻ってきてよかった。親孝行したなあと思った」という。

 

 明けて6月25日の早朝、タンカを持った沖縄の人が前日の米兵と一緒に防空壕の前に来た。

 

 「びっくりして顔をそむけました」と登美子さん。「連れて行ったはずの娘がまだここにいるのはどうしてだ」といった表情で米兵が見つめたからである。

 

 マカトさんは米兵と沖縄の人に抱きかかえられ、タンカに乗せられた。米兵はマカトさんに缶詰を食べさせてやったという。登美子さんは「いくさは終わったよ。弾の音が聞こえないし、もう弾が落ちてくることもないからね」と母親に言い聞かせていた。

 

 集められた住民は長い間トラックに揺られ、豊見城の座安あたりにあった収容所に着いた。

 

 大きなテントの中には負傷者がいっぱい。登美子さんは早速、治療に当たっている米兵を見つけて母親の元へ無理やり引っ張ってきた。

 

 「あっちも。ほら、こっちも」と、次々と傷口を指して治療させたが、治療は白い粉薬をかけてガーゼをかぶせ、テープを張るだけ。母・マカトさんの最期が近づいていた。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月30日掲載

 

母死に丘に埋める ~ 放心状態、涙も出ない

 意識がもうろうとしているらしい母親のマカトさんは、薄く目を開けていた。畑から折ってきたサトウキビの汁を娘の登美子さんが口を押し開きながら流し込んでいた。が、だんだん口が開かなくなってきた。「これは大変だ」と登美子さん。すぐに米兵を連れてきて注射を打ってくれるよう促した。

 

 その軍医はマカトさんの両目をのぞき込むと、何も言わずにテントを出て行った。

 

 登美子さんは、母親の顔をゆすりながた何度も「アンマー」「アンマー」と呼んだが、反応がない。死んでしまったのでは、と思ったことが過去に2度ほどあったが、どうやら今度は本当に息を引き取ってしまったらしい。

 

 しばらくして沖縄人の看護婦がやってきた。マカトさんお手と首の脈をさわり、担架を呼ぶ。登美子さんは「どこへ移すのだろう」と思い、あとをついて行こうとしたが「あんたはテントの中にいなさい」と制止された。

 

 テントの中から見渡すと、小さな丘の手前で米兵が大きな穴を掘っている。ひざを抱えて座り込み、「あの穴にアンマーは埋められるんだなあ」と放心状態の登美子さん。不思議なことに涙が出ない。「とうとう一人ぼっちになっちゃった」。

 

   ◇   ◇

 戦後、登美子さんは母親の埋められた場所を訪ねた。一帯に住む人たちに聞いて歩くと、骨がボロボロ出てきたことがあったという。そこはモクマオウの木が勢いよく茂っていた。

 

 発掘された遺骨はどこへ運ばれたのだろうか。母親の骨も出てきたに違いない―。登美子さんが「遺骨の行方を知りたい」と言ってきた。取材班が豊見城村役場の援護係に調べてもらったところ、遺骨は20年ほど前に収骨、那覇市識名の納骨堂に納められたとのことだった。その後、糸満市摩文仁国立沖縄戦没者墓苑に移されている。

 

   ◇   ◇

 さる17日、糸満市福地地区を訪れた登美子さんは当時の記憶をたどりながら母親と2人で避難していた民家を探し歩いた。

 

 黒こげ死体を目撃したという現場が見つかった。農作業をしていた青年に教えてもらったもので、その製糖工場は戦後復興したらしいが、姿を消している。

 

 現在は、広い原っぱ。ブルドーザーが止まっている。話では、近くゲートボール場などの遊び場ができるそうで、整地中だった。「すぐ近くに大きな深い井戸があるし、サーターヤーのあった場所に間違いありません」。

 

 母子で避難し、一緒に捕虜となった民家も分かった。戦前から住んでいるという川門信義さん宅。川門さんは登美子さんたちが潜んでいたころには荒崎海岸へ避難していたそうだ。

 

 記憶を追って家の裏手に回ると、防空壕だったという場所が角の方にあった。「母と2人でここに隠れていたんですよ」と登美子さんが川門さん夫妻に語り始めた。青々とバナナの木が茂っている“現場”を前にした登美子さん。頭の中を忘れられない沖縄戦のシーンが次々とよぎっていくようだった。

 

   ◇   ◇

 登美子さんは戦争で多くの家族を奪われた。首里末吉で爆死したのが8人。長兄は南方の海で戦死、石部隊で軍属として働いていたすぐ上の姉も亡くなった。父親は別の経路で避難していったが、いまだに行方知れず、最後に母親が息を引き取った時には、精も魂も尽き果ててしまったという。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年7月31日掲載

 

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