1943年7月8日 『サントス事件』 ~ 語られなかった過去、子孫のために証言する

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7月31日より沖縄・桜坂劇場で先行上映。

8月7日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開。 

 

 

 

第2次世界大戦中にブラジルのサントスで起きた日系移民強制退去事件をめぐるドキュメンタリー「オキナワ サントス」が7月31日より沖縄・桜坂劇場で先行上映され、8月7日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開される。

「花と兵隊」「祭の馬」で知られる松林要樹が監督を務め、第21回東京フィルメックスコンペティション部門に出品された本作。強制退去させられた日系585世帯の6割が沖縄からの移民であったという事実に注目し、埋もれた史実を明らかにしていく。

日系移民強制退去事件の証言を集めた「オキナワ サントス」劇場公開が決定(動画あり) - 映画ナタリー

 

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ブラジル - Wikipedia

 

第2次世界大戦中の1943年、日本やドイツなど、南米ブラジルに移り住んだ枢軸国民らが強制退去させられた「サントス事件」で、対象となった日系585家族のうち、少なくても約6割に上る県系375家族が被害を受けていたことがこのほど分かった。太平洋戦争や原発事故などをテーマにしたドキュメンタリー映画で知られる松林要樹(ようじゅ)さん(39)=西原町=が現地で名簿を発見し、ブラジル沖縄県人移民研究塾の協力で名簿に記載された戸主名や住所などから判明した。

43年ブラジル・サントス強制退去 県系375家族が受難 松林さん名簿発見 - 琉球新報デジタル 2018年3月9日 06:30

 

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか

これまでにわかっていること。

銃を持った警官が退去命令

2019年12月12日

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サンゴンサーロ教会で行われたミサの様子

 

 第2次世界大戦中の1943年7月8日、サントス沿岸一帯に住む日本人移民6500人を中心とした枢軸国の移民に、サンパウロ州政治警察から24時間以内の退去命令が下された。着の身着のまま住居を追われ、土地や家財の処分もできず、外出していた家族と生き別れとなった人もいた。日系社会では戦後70年以上にわたり、この事件を公式に問題視せず、過去のものと葬り去ってきた歴史がある。だが実際、その時に何が起こったのか――沖縄県人会の協力を得て当事者へ取材し、当時の証言を集めた。

 

 「同じ過ちを二度と繰り返してはならない」。今年7月14日にサンパウロ市セントロのサンゴンサーロ教会でサントス強制退去事件を追悼するミサが行われ、沖縄県人会を代表してブラジル沖縄県人移民研究塾塾長の宮城あきらさんがそう強調した。

 

宮城あきらさん

 歴史の闇に埋もれていたこの事件に関して、掘り起こしの機運が高まったのは16年8月。映画監督の松林要樹さん=沖縄県在住=が旧サントス日本人学校を訪ねた際、なにげなく机に置かれていた「強制立ち退き時のサントス在住日本人名簿と立ち退き先」を見つけたことだった。

 

 その名簿には585世帯の名前が書かれており、約6割の375世帯が沖縄県人移民だった。知らせを受けた宮城さんと勝ち負け抗争を描いたドキュメンタリー映画『闇の一日』の監督の奥原マリオ純さんらが、各々がこの事件の調査・究明を行うために動き始めた。本紙でも樹海コラム13年4月17日付にあるように、この問題をもっと重要視すべきと度々書いてきた。

 

 宮城さんは、この名簿をもとに同塾で出版している同人誌『群星(むりぶし)』の第3~5号で当時の証言を集めて掲載。また奥原さんは15年12月に連邦政府に対し、損害賠償を伴わない謝罪要求訴訟を起こしていた。これには昨年、沖縄県人会も支援することが全会一致で承認されている。公の日系団体が初めてこの運動への支援を決めた。

 

奥原マリオ純さん

 サンゴンサーロ教会でサントス強制退去事件のミサが行われるようになったのも、奥原さんの働きかけだ。当日は奥原さんと共に、沖縄県人会の上原ミウトン定雄会長、宮城さん、島袋栄喜前会長も参列し祈りを捧げた。
    
 この事件は、1937年から45年までのヴァルガス独裁政権のもとで起こった。日本人は敵性国民として弾圧されていたが、サントス沖の独潜水艦による貨物船魚雷撃沈事件が引き金となり、国防上の脅威として枢軸国民のサントス強制退去が命じられた。
 その日、人々は武装警官による監視の下、家族同士の連絡さえとれずに、身一つでサンパウロ市の移民収容所に収容された。実際はどのような状況だったのだろうか。

 

 「あの日、ライフル銃を所持した2人のブラジル人が、退去命令を言い渡しに家へ来ました」。今年5月31日、宮城さんと上原会長、島袋さんの協力を得て、沖縄県人会本部で佐久間正勝ロベルトさん(83、二世)に取材を行うと、当時の生々しい状況を語り始めた。(つづく、有馬亜季子記者)

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(1)=銃を持った警官が退去命令 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

「目の前で全てが奪われた」

2019年12月13日

事件当日を語る佐久間正勝ロベルトさん

 佐久間正勝ロベルトさん(83、二世)は、1936年にサンパウロ州サントス市で生まれた。物心がついた時、既に日本は敵国としてブラジル政府に認識されていたという。事件当時は7歳で、小学校1年生だった。


 事件当日、学校が冬休みに入っていたため、佐久間さんは家にいた。両親は仕事に行っており、上は9歳から下は2歳の兄弟4人だけだった。そこに武装したブラジル人警官がやって来た。

 それに気づいた佐久間さんは、「ドアを全て閉めて見つからないように隠れた」と咄嗟の行動に出たことで、気づかれずに事なきを得た。

 

 その後、戻ってきた両親は、近くに住んでいた叔父宅を訪問した際、皆に退去命令が出たことを知った。佐久間さんに当時の両親の様子を尋ねると目を伏せた。「父は母を心配していた。母は妊娠9カ月目だったんです」。

 母ウトさんの状態から残った方が良いと判断した父助徳さんは、警察へ行き事情を説明し、「子供を生むまで滞在させてほしい」と頼みこんだ。しかし返答は、「お前の妻はブラジルで生まれたので残って良いが、お前は出ていけ。さもなければ監獄に入れる」という非情なもの。

 

 ウトさんだけを置いていく訳にいかず、助徳さんは怒りと悔しさを堪えて家に戻り、幾つかのトランクに出来る限りの物を詰め込んだ。落ち込んでいる暇はなかった。

 ところが、枢軸国移民へ退去命令が下されたことを知った周りのブラジル人が、これをチャンスとばかりに家に入り込み、家族の前で堂々と物を盗み始めた。家財、農具、野菜…営々と築き上げてきた財産が、目の前で全て奪われていく。「警察は何も言わない。悔しくてたまらなかったです」。

 

 夜11時に鉄道駅に到着すると既に大勢の人が居た。ドイツ人、イタリア人もいたが、その多くは日系人。「武装した警察が監視していたためか、命令に反発する人もおらず静かでした」と振り返る。自分たちがこれからどこへ行くかも知らされず、汽車はサンパウロ市に向けて出発した。

 「それまでサントスで、人種差別を受けていた意識はありませんでした。海岸でよく遊んでいた記憶があります。サントスの暮らしは天国だった」。その生まれ育った場所を追われ、サンパウロ移民収容所に入った佐久間さんたちは、やがてサンパウロ州郊外のマリリアへ移ることになった。

 

 しかし、佐久間さん一家や日本人移民を襲った苦難は、これでお終いではなかった。(つづく、有馬亜季子記者、次回からは6面に掲載)

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(2)=「目の前で全てが奪われた」 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

敵性国人への病院での差別

2019年12月14日

佐久間正勝ロベルトさん

 佐久間さんは聖州マリリアに到着すると、日本人が経営する「ペンソンもり」に身を寄せた。着いた途端に産気づいた母ウトさんは、無事に子供を出産した。
 新しい暮らしを始めて2年目の1945年、ウトさんはもう一度妊娠し、四つ子を出産。しかし未熟児だったために、病院内での適切な治療が必要だった。
 ところが「敵国の子だから」とすぐに病院から帰されてしまい、2人は死産。佐久間さんは、今でも「明らかに日本人に対する差別だった」と思っているという。
 さらに、悲しい運命を辿ったのが佐久間さんの叔父だった。サントスを追われ、同じくマリリアに移り住んだが、事件のショックからかうつ病になってしまった。
 「叔父さんは元々無口で、自分が病気ということは言わなかった。そのまま4、5年が経った頃に、叔父は亡くなってしまった。自分より2歳年上の従兄弟は小学校を卒業後、父の代わりにと働き始めました」。

 

 周りにも「サントス事件の影響からか、または医者に『日本人だから』と敵視されてまともな治療を受けられなかったせいか、目が見えなくなってしまった人もいた」という。突然の強制退去という大事件は、その人の生涯にいろいろな形で尾を引き、影響を及ぼし続けた。

 

 「あの日の事は、いつも考えていた。でも、家族にもこの話はしたくなかった」。封印されていた記憶を呼び起こしたのは、「『群星(むりぶし)』で証言を集めている」と聞いたことがキッカケだ。

 

 「今までサントスの事は何も報道されたことはなかった。だが、どうして日本人はこのような謂れのない仕打ちを受けたのかという気持ちはずっとあった」と胸の内を語り、「誤った歴史を繰り返さないために、この記録は残してほしい」と強い思いを訴えた。

 

比嘉ゆうせいさん

 「サントス強制退去の命令が下された時、何を言われているか全く分からなかった。何かを考える余裕はなかった」。比嘉ゆうせいさん(87、二世)に当時の気持ちを聞くと、少し思案した後にそう語り始めた。
 その日、学校から戻ると「24時間以内にここ(サントス)を出なければいけない」と母トシ子さんに告げられた。トシ子さんは、政府から通達を受けた叔父の連絡で、退去命令を知った。

 当時、比嘉さんは11歳。学校に通っていたため、「学校が終わってからサントスを出ていく」と伝えたが、母親は切羽詰まった様子で「今すぐ出ていかなければならないの」と返してきた。(つづく、有馬亜季子記者)

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(3)=敵性国人への病院での差別 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

「日本人はスパイ、出ていけ」

2019年12月17日

比嘉ゆうせいさん

 母親のトシ子さんから退去命令が下された話を聞いたゆうせいさんは、すぐに学校へ行って先生にその事を伝えた。先生は「私の家に来なさい」と申し出てくれたが、家族と共にいることを選び、先生に別れを告げた。
 当時、父親のユウキさんはアルゼンチンへ出稼ぎに行ったきり行方不明になっており、母親と5人兄弟と共に暮らしていたという。家に戻ったゆうせいさんは、家族と共に、近くに住む叔父の家に向かった。


 叔父の家に向かう道は、何も変わった様子は無いように見えた。その頃、ドイツ軍が攻めてくるという噂があり、街灯は消して、町中を暗くしていた。電車の灯りさえも消されており、「夜は外出禁止で遊べなくて怖かった」とゆうせいさんは記憶を辿る。
 差別も日常的にあった。日本人が3人以上集まること、日本語で話すことは禁じられていた。あちこちに軍隊がいたので、万が一話しているのが分かったら連行されたという。

 

 ゆうせいさんも、一度電車の中でウチナーグチ(沖縄語)を話した時は、母親から喋らないように注意された。
 また、当時はサントス海岸近くで、アメリカ軍の戦艦が沈められる事件があり、日本人がやったと疑われていた。ブラジル人から「日本人はサントスから出ていけ」と言われたこともあった。

 「日本人はとても嫌われていた。キンタコルナ(第五列、スパイなどの存在)という劣等国民の扱いを受けていました」。その屈辱は、今でも覚えている。

 

 夕方、叔父の家に到着し、叔父と母親は「サンパウロは寒いから」と町に洋服を買いに行った。それに幾つかの毛布などを持ち、準備を終えて夜に駅まで向かった。
 駅は人がいっぱいで、「ほぼ9割近くが日本人だった」という。イタリア移民やドイツ移民もたくさんおり、皆が混乱している様子で騒がしかった。中には家族と離れ離れになり、大声で探す人もいた。

 

 汽車に乗り込むと、その中で1日中過ごした。その間食べ物もなく、ひもじい思いをした。やっとサンパウロの収容所に着くと、一切れの硬いパンとフェイジョンを口にすることが出来た。
 その時、ようやくゆうせいさんは、この状況について考えることができた。何が起こったのか、何故サントスを出なければ行けなかったのか、家はどうなるのか――。周りの泣いている人や、不安そうな顔をしている人を見て、幼心に疑問が湧いてきた。

 

 「あの出来事も過ぎ去って忘れていた。誰にも話さなかった」。だが、こうして記憶を呼び覚ますと、理不尽な扱いを受けたという気持ちが残る。
 「差別は間違っている。両親が日本人だとしても、自分はここで生まれたブラジル人。この国の人間だ。このような事件は、二度と繰り返されてはならない」。(つづく、有馬亜季子記者)

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(4)=「日本人はスパイ、出ていけ」 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

成功者も突然全てを奪われた

2019年12月18日

比嘉アナマリアさん

 幸福で豊かな暮らしをしていた家族が、ある日突然、全てを奪われる。サントス強制退去事件の当事者たちの多くは、その事を誰にも語らなかった
 あまりに強いショックを受けたせいで、語れなかったのかもしれない。むしろ、忘れてしまおうとすらしていた。


 「悪いことでも、歴史を残すことが必要だと思います」。今年5月25日、沖縄県人会本部に訪れた比嘉アナマリアさん(71、二世)は、記者を目の前にそう語った。
 彼女は事件の当事者ではない。だが、母親と叔母から当時のことを聞いて鮮明に覚えていた。敵性国人という理由だけで、家財を二束三文で処分して24時間以内に強制立ち退きさせられるという凄まじい経験は、本人でなくても十分に衝撃だった。

 

 アナマリアさんの祖父は、サントスで商業を営んだ成功者だった。その祖父のトラックの運転手を務めていたのが、アナマリアさんの父親。その後、アナマリアさんの母トミさんと結婚し、大きな苦労もせず、幸福に暮らしていた。
 その日、小学生だった叔母は授業中に帰らされ、家に着いて退去命令が出たことを知った。そこに、突然兵隊が入り込み、家の中を調べ始めたという。祖母は恐怖で怯えた。

 

 その時、祖母はあることを思い出した。アナマリアさんの祖父は、兵隊で満州に行ったことがあり、更に沖縄で消防隊として働いていた。その時の軍服が家にあったのだ。
 見つかれば、日本の兵隊と思われて大変なことになるかもしれない。祖母は咄嗟に、兵隊たちが他の所を見ているうちに焚き火に放り込んだ。

 

 さらにアナマリアさんが叔母から聞いたところ、事件より前に、当時の身分証明書を新聞紙の中に入れて庭に埋めていたという。叔母も理由は分からなかったそうだが、アナマリアさんは「おそらく以前から、日本移民が適性国民だと認識されていたからではないか」と推測している。

 

 一方、結婚して実家を出ていたアナマリアさんの両親は、祖父母と連絡が取れないまま、退去命令通り駅まで向かった。この時アナマリアさんの母トミさんは、妊娠7カ月目だった。
 「偶然にも駅で、知り合いの宮城太郎さんに会うことができたそうなんです」。顔見知りにあった安心感からか、トミさんは宮城さんに泣きながら近づいた。
 「2人は日本語で話してしまって、そこに兵隊が近づいてきたそうです。『何が起きている、何故話していたのか』と聞かれて、宮城さんは咄嗟に『これは私の娘です』と言うと、『それなら良い』と事なきを得ました」。

 

 しかし、トミさんは無理な立ち退きをすることによって、腹の中の赤子を失うかもしれない不安が収まらなかった。一度目の赤子を死産していたのだという。「母は、大勢の人たちが次々に押し寄せる中、駅構内にあった机の下に隠れて恐怖で震えていたそうです」。
 その後、アナマリアさんの祖父母と両親は離れ離れのまま移民収容所に運ばれた。収容所で人々は、相撲をとったり三線を弾くなど、娯楽で互いを慰め励まし合った。

 

 成功した商人の家族だったのに、家財の全てを失った。サンパウロでは2家族で1部屋を借りて無理やり住むしかなかった。アナマリアさんは、母親と叔母が「とても幸福な暮らしをしていたのに、何もかも失い絶望した」と話していたという。
 後年、アナマリアさんは、この話を自分で書き記した。それを日本語に翻訳し、沖縄に住む親戚に読んでもらった。戦争で苦労した親戚は「ブラジルで幸福な暮らしをしていただろうと思っていたが、まさかこんな事があったとは」と泣いていたという。

 

 アナマリアさんは、「戦争だからこんな事が起こったのは理解している。でも、犠牲になったのは何も罪のない人たちです」と静かに語る。「どんな事情があれ、差別は間違っている。それを知るためにも、子孫にもこの事件は伝えるべき」と強調した(つづく、有馬亜季子記者)。

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(5)=成功者も突然全てを奪われた – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

事件から74年間の沈黙

2019年12月19日

当山正雄さん

 サントス強制退去事件の当事者で存命の人は、ほとんどが当時子供だった。今回取材した中で、その時唯一大人だったのが、大正10年(1921年)生まれで、現在もサントスに住む当山正雄さん(98、玉城村(現南城市))だ。矍鑠とした姿で記憶力も良い。だが長いブラジル生活の中で、事件に話が及ぶと口が重くなる。落ち着かない様子で目線を外しながら、「この話はしたことがない」とポツリとこぼした。

 

 当山さんは10歳で渡伯し、1932年1月14日にサントス港に到着した。幼少時に移住し、戦争中は日本語が禁止だった関係で、今でもポルトガル語が会話の中心だ。
 事件当時は、それから12年経った22歳。自分以外の家族はサンパウロ州郊外で仕事をしていたため、叔父と一緒に住み、バス会社の修理工として生計を立てていた。

 

 「家に叔父と一緒に居た時に、警察官のような人が来て立ち退きを通達されたと思う。はっきりとは覚えていない」。遠い記憶をたどり、重く閉ざした箱をこじ開けるように、時折目を瞑る。
 通達を受けた当山さんは、とても混乱していた。覚えているのは、「荷造りする暇もなく、着の身着のままで家を出た。駅へは一人で向かった」ということだ。家財も金も何もかも家に置いて出た。

 

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移住当時の当山正雄さん

 駅に到着すると、日本人や兵隊が大勢いた。しかし、日本人で集まるのが禁じられていたので、誰かと話す余裕もなかった。ただ、「マラぺという場所でウチナーンチュ(沖縄県人)が養豚業を営んでいたが、全て置いて逃げた」という事は覚えているという。

 

 この事件に強いショックを受けたが、それまで日常的な差別がなかったわけではない。「日本人で市場を作ろうとしたが、許可されず街灯の下の路上で売っていた」と語る。
 また、ブラジル人からは「ジャポン、ジャポン(日本)」とからかわれ、さらに「キンタコロナ」とも呼ばれていた。これは、連載4回目で比嘉ゆうせいさんが語った、第五列=スパイという意味だ。

 

 「スパイが通信している可能性もある」と、家にラジオは置いていけなかったという。なるべく存在を消すために、電灯の周りには空き缶を被せて、明かりが漏れないように過ごさせられた。
 これらの記憶は、宮城あきらさんによる『群星(むりぶし)』の取材の時に初めて話した。あまりに辛い出来事だったためか、記憶に蓋をし続けていた。幸せだった頃の話を挟みながら、「苦労話はしたくないんだ」と繰り返す。

 

 戦後の1947年、サントスに戻ると、自分たちの家だった場所には、ブラジル人が住み着き、財産全てを失った。養豚もしていたが、豚一匹もいなかった。夜空の月を眺めると、つうっと悔し涙が流れた。

 「収容所では床いっぱいに日本人が寝ていたんだ。あれはとても悲しい時期だった」。当山さんはそう呟くと、口を噤んだ(つづく、有馬亜季子記者)。

 

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「この国の未来のために証言する」

2019年12月20日

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橋本ルイス和英さん

 「子孫に伝えるために、自分たちが苦しんだこの事件に対して、政府に謝罪を求めることに賛成する」。連邦政府に対し、損害賠償を伴わない謝罪要求訴訟の運動を行うことについて聞くと、橋本ルイス和英さん(89、二世)はそう答えた。当事者として、この国の未来のために勇気を出して声を上げることの大切さを、よく理解しての発言だった。


 1943年7月8日に起こったサントス強制退去事件は、585世帯の日本人のうち約6割にあたる375世帯が沖縄県人だった。沖縄県人会の協力を得たため、取材した5人中4人は沖縄県人だったが、橋本さんは本州の両親の下に生まれた。
 退去命令が下された当時、橋本さんは13歳。両親と8人の兄弟と共に暮らしていた。その家で家族全員といる午後4時頃に、「明日の朝6時の汽車に乗れ」と口頭で通達され、皆パニックになった。


 急いでトランクに服だけを積めて準備した。母親は2歳の娘を抱え、駅まで向かった。朝6時頃に駅に着くと、日本人、ドイツ人、イタリア人が大勢いた。混乱の中、何かを考える余裕もなくサンパウロの移民収容所へ連れて行かれたという。
 「あの時のことはあまり覚えていない。父は退去命令が出た時とても心配そうだったのは少し覚えている。24歳だった長男には相談していたようだが、自分は幼く何も言われなかった」。

 

 収容所の後は、マリリアに移り住んだ。そこで学校に入学しようとしたが、「籍がない」と言われ、3年間も学校に通えなかった。「今考えてみればあれは差別だったと思う」と橋本さんは振り返る。当時は13歳だったが、学校に行かずに仕事をするしかなかった。
 戦後の1946年に「サントスに戻って良い」という知らせがあり、母親は子供の教育のためにサントスへ戻ることに決めた。しかし、町の中にあったはずの家は跡形もなく失くなっており、茫然とした。

 

 「この話は家族ともしていない。もう70年以上前のこと。今さら謝罪を求めることに自分は関心がなかった」。しかしその気持ちに変化が訪れたのは、子孫のことを考えた時だった。
 「強制立ち退きで出ていった人たちは、家などの財産を全て奪われた。それを子孫は誰も詳しく知らない」と事件の悲惨さを強調し、「彼らに伝えるために、政府に謝罪を求める運動をすることに意義はあると思う。だからこの取材を引き受けた」と語る。


 また橋本さんは、長い間ブラジル政府の管理下に置かれたサントス日本人学校を例に挙げ、「昨年全面的に返還された学校も、最初はこのような運動から始まった。その後何度も政府に交渉した。この事件も同じだ」と強い口調で語った。
   
 連邦政府に謝罪要求訴訟を起こした奥原マリオ純さんと、その運動を支援するブラジル沖縄県人会は、「二度と同じ事件が起きないように」と今も闘い続けている。年明けには、先日ブラジリアの真相究明委員会へ赴いた時の様子を本紙で報道する予定だ。(終わり、有馬亜季子記者)。

サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(7)=「この国の未来のために証言する」

 

 

 

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第2次世界大戦中にブラジルのサントスで起きた日系移民強制退去事件をめぐるドキュメンタリー「オキナワ サントス」が7月31日より沖縄・桜坂劇場で先行上映され、8月7日より東京のシアター・イメージフォーラムほか全国で順次公開される。

日系移民強制退去事件の証言を集めた「オキナワ サントス」劇場公開が決定(動画あり) - 映画ナタリー