旧日本軍が強制接収、補償も返還もなく、そして再び自衛隊がミサイル基地建設を強行

 

石垣島の中心に、地対空・地対艦のミサイル部隊を配備し弾薬庫も備えるミサイル基地建設に関して現職の中山市長は・・・

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「石垣に防衛省が計画出している自衛隊陸上自衛隊の駐屯地です。そこは断じてミサイル基地ではありません。」

石垣市長選挙・終盤へ – QAB NEWS Headline

動画は21:40以降 ▶ https://youtu.be/XLb8F8hrW-k

「ミサイル基地とは、他国の国土にミサイルを打ち込める基地のこと。駐屯地は断じてミサイル基地ではない」← はぁ !?

 

旧日本軍に接収され 補償も返還もないまま

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慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶 – QAB NEWS Headline

東京新聞 <終わらぬ夏 戦後74年>(上)

旧日本軍に接収され 補償も返還もないまま

 

2019年8月4日 02時00分

 

「戦争目的で国が接収した土地は、戦争が終われば元地主に返還するのが原則。その地を自衛隊施設建設のため市有地と交換するなんて、論外な話だ」

 

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石垣市、国有地と交換案 陸自基地予定の市有地 元地主ら猛反発:東京新聞 TOKYO Web 2019年8月4日 02時00分  

 

 旧石垣空港に近い沖縄県石垣市内の自宅で、旧海軍平得飛行場用地地主会の元事務局長山田善照さん(91)は怒りをあらわにする。

 

 戦時中、石垣島には三つの陸海軍の飛行場があった。山田さんの土地は、海軍平得飛行場の南北に通じる滑走路建設予定地のほぼ中央部。実際に完成したのは北東滑走路だけだった。

 

 平得飛行場の用地は、沖縄戦が始まる前の1943年夏に接収された。土地代の支払いは、現金や地方銀行八重山代理店への定期預金証書または当座預金証書とされたが、預金証書は終戦凍結された。「戦後、証書を持っていた人も避難小屋で生活し、海軍省も解体したため、預金証書は現金化されず、紙切れ同然となった」と振り返る。


 平得飛行場用地は戦後も国有地のままで、地主らは五二年ごろから、沖縄を統治していた米国民政府と賃貸借契約を結び、借地料を払って耕作しながら土地の返還を求めてきた。


 八七年、戦後に石垣空港がつくられた北東滑走路部分を除く国有地約三十七ヘクタールは耕作者らに払い下げられ、山田さんの農地も戻ってきた。


 二〇一三年三月、白保(しらほ)地区に新石垣空港が開港。平得にあった石垣空港は廃止となったが、跡地となった国有地は今も、元地主の下に返っていない。「空港は消滅したのだから、国は地主に残りの土地を返還し、それができないなら、何らかの形で補償すべきだ」と山田さんは訴える。


 旧日本陸海軍は沖縄戦直前、沖縄本島と先島(さきしま)諸島に十六の飛行場を造った。土地の多くは強制的に接収した。用地問題の解決策として国と県は二〇〇二年、地主会が国の補助金を得てコミュニティー施設などを建設する団体補償案を提示。九地主会のうち五地主会は受け入れたが、平得や白保などの四地主会は個人補償などを主張し、解決に至っていない。


 四五年八月十五日、十七歳だった山田さんは石垣島を守る部隊の通信兵として、島中央部の於茂登(おもと)岳(標高約五二五メートル)山中で終戦を迎えた。日本軍の軍命で避難した住民がマラリアで大量に死亡した地でもある。


 その於茂登岳近くで今春、ミサイル基地部隊を擁する陸自駐屯地の工事が強行された。「石垣島に『軍事』基地はいらない」。山田さんの視線の先にあるものは、戦後一貫して保持してきた基地のない島の姿だ。

 

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 昭和、平成、そして令和と時代は移ろいゆくが、変わらないのは、敗戦から七十四年続く「戦後」だ。だが、戦争の記憶は風化し、「戦後」の在り方を否定する動きも急だ。自衛隊配備計画が相次ぐ沖縄県先島諸島の現場から「戦後」の意味を問う。 (編集委員・吉原康和)

 

1973年の『沖縄県史』の記録から

白保飛行場として土地接収がなされない前までの、嘉手苅、東流手刈、赤嶺原、野地原、芋原、与那原、崎原等の土地は、白保部落ではもっとも肥沃な土地であった。砂糖きび、芋、大麦、粟、キン、カズラ豆、大豆、野菜等が年々作られていた。このような立派な土地が強制的に日本軍によって接収されたのは、たしか昭和十九年の五、六月頃だった。陸軍省から塚原事務官と田中見習士官がやってきて、白保に飛行場を設営しなければならない。それで、「前に掲げてある土地を提供せよ」との命令である。国家総動員法による命令である。当時だれもがそうであったように、国家の命令には絶対服従である。土地がとられるのはいやだと思っていても、それを表面にあらわすことは出来なかった。国が勝つためには、やむを得ないという立場に追いやられていたのである。

 

軍は砂糖きびや芋などが植えられている畑に測量の杭をどんどん立てていった。必要な所をみな測衰し終えた後で、土地代は大浜村役場で支払う。印鑑をもって取りに来いということだった。全く国側の一方的な仕打ちで地主はただ国家の指示する価格に従わなければならなかった。このようにして白保の飛行場用地は国に取りあげられたのである。そして山田部隊、浅沼部隊などが入りこんで来、飛行場建設に着工したのであった。工事がすすむのに従い作物の収穫もしなければならない。たいへんいそがしかった。宮良○○ (当時四五歳ごろ) さんなども芋をたくさん植えてあり、それを収穫するまで二、三日工事を待ってくれないかと軍隊に懇願したら、できないとのことである。自分の作った物も収穫できないとは情ないことだ、とそういう意味のことを言ったら、軍は日本刀をガチャガチャならしながら威嚇し、あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。しゃくにさわった。

 

土地代の支払いにもそのようなでたらめさがあらわれている。土地接収で、面積の少ない者には全額受取った者もあり、また全く支払われない者もいる。全額をもらったにしても、その金額の内訳がわからない。(地上物件補償金なのか、土地代なのか)広い面積(わたしなど二町歩余りとりあげられている)の人々は分割して支払うというやり方だったが現金は二%ぐらいで、残金は、銀行定期預金証書や、国庫債券を交付してわたした。

 

だが戦後28年になってもその債券や預金証書は凍結されたままである。土地代の完全支払いも済まされないのに国有財産として登録されている。全く国は泥棒と同じではないか。そこで私たち地主は、国が強制的に接収した白保飛行場の土地を返還してほしいと今国に要請している。要請は1951年からはじめ、1973年のいまもなお続けている。私たちの要求は正しいと思う。戦後28年にもなっているのに戦後処理がいまなおなされていない。強制的に土地を接収し、その代金も未支払いのまま国有地になされている。どう考えても納得がいかない。戦争遂行のため接収した土地であるし、当然、土地は地主に返すべきではないか。

戦争証言 八重山 ( 1 ) - Battle of Okinawa

 

苦闘の開拓地、守りたい

 東京新聞<終わらぬ夏 戦後74年>(中)

苦闘の開拓地、守りたい
2019年8月5日 02時00分


桑江良成さん(左)のパイナップル畑で話を交わす桑江さんと義弟の喜友名朝昭さん。後方の森のすぐ後ろが陸自駐屯地の建設予定地=沖縄県石垣市

 

 「畑は石ころだらけで撤去するのに難儀した。畑作業が軌道に乗るまで十年ぐらいはかかった」

 

 戦後、米軍に軍用地として家も畑も接収され、行き場を失い、沖縄本島沖縄県北谷村(現北谷町)から約四百キロ離れた石垣島に移住してきた石垣市真栄里、農業喜友名朝昭(きゆうなともあき)さん(67)は、入植当時のことを昨日のことのように思い出す。


 喜友名さんが両親やきょうだい、親戚ら百人を超える人たちと集団で入植したのは一九五七年十二月二十三日。五歳だった。

 

琉球政府による最後の「計画移民」に応募した北谷村、玉城(たまぐすく)村(現南城市)などの二十戸で、先遣隊として石垣島中心部にそびえ立つ「於茂登(おもと)岳」のふもとに入った喜友名さんの父、朝祐さん(故人)らが郷里のトタンぶき家屋を解体して運び、仮宿舎を建てて家族を迎えた。入植者には一戸あたり田畑二町歩、建築補助金一万五千円が提供された。

 

 最初に植えた農作物はサツマイモで、「自給自足で、食べるのがやっとだった」。しかし、於茂登岳のふもとの田畑は水が豊富で、市街地に近いという利点もあり、七〇年ごろからサトウキビやゴーヤーなど野菜作りを始めた。今では集落全体でサトウキビを年間千トン前後出荷するなど、於茂登地区は野菜の名産地として不動の地位を築いた。

 

 だが、生活も安定してきた約四年前、降って湧いたような陸上自衛隊のミサイル部隊配備構想を知り、居ても立ってもいられなくなった。

 

 建設予定地は、喜友名さんらが心血を注いで切り開いてきた於茂登集落から北へ約一キロ。「配備されるのは移動式のミサイル部隊で、基地は当然真っ先に標的になる」と喜友名さん。


 建設予定地の境に、パイナップル畑とサトウキビ畑約六ヘクタールを所有している桑江良成さん(80)も「こんな島のど真ん中に自衛隊の駐屯地を造っていいのか大きな山はあっても、川はない。地下水の汚染も心配だ」と憤る。桑江さんも四一年、沖縄本島美里村泡瀬(現沖縄市)から入植してきた開拓移民の一人だ。

 

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  建設予定地周辺にある於茂登、開南、川原、嵩田(たけだ)の四地区はいずれも開拓移民の集落で、石垣市在住で元琉球大学教授の川平成雄氏は力説する。

 

 「戦後の計画移民に応募した人々は、米軍に土地を収用されて生活の場を失い、移民を選ぶしかなかった。国策に翻弄(ほんろう)されてきた被害者でもあるが、苦闘の中で、石垣島の生産を支えてきた開拓の『地』を、基地建設の『地』にしてはならない」


八重山諸島への開拓移民> 1945年の沖縄戦終結で米軍統治下に置かれた沖縄本島では戦後、多くの土地が米軍の軍用地として接収される一方、旧植民地や疎開先の日本本土、台湾からの引き揚げ者が急増、その数は14万人(50年現在)に達した。過剰人口のはけ口として、琉球政府が「海外移民」とともに計画したのが八重山諸島への開拓移民だった。

 

 開拓移民には、希望者が自力で移住する「自由移民」と一定の優遇措置で募集する「計画移民」があった。「計画移民」は戦前にも石垣島西表島の一部で行われたが、本格化したのは52年以降。石垣島には57年までに3000人前後が入植し、農業を中心とする島の経済発展を支えた。

 

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同省は、初動対応を担う警備部隊や地対空・地対艦のミサイル部隊を配備する計画で、規模は500~600人程度。配置案には、ミサイルや小銃などを保管する弾薬庫4棟、射撃訓練用の屋内施設が含まれる。

石垣島への陸自配備 若宮防衛副大臣が市長に施設配置案提示 弾薬庫や屋内射撃訓練場も | 沖縄タイムス

 

住民監視やマラリア、生々しく

 東京新聞<終わらぬ夏 戦後74年>(下)

住民監視やマラリア、生々しく
2019年8月6日 02時00分

「戦争体験はどう生かされているのか」と「戦争絵」の制作に意欲を示す潮平さん

 

 「戦時中、軍隊がこの島にやって来ると、軍隊は秘密保持のために住民を監視し、住民との間でもめ事が起きた。自衛隊がやって来た場合も、同じことが起こり得るのではないか」


 沖縄戦の体験を絵に描き続けている沖縄県石垣市在住の総合美術デザイナー、潮平正道さん(86)は「自衛隊への賛否以前の話だ」と前置きした上で、石垣島への陸上自衛隊配備計画への懸念を口にする。

 

 その例として、潮平さんは知人の証言に基づいて描いた作品をあげる。

 

 絵に描かれた女学生は戦時中、島中央部の於茂登(おもと)岳にあった野戦病院准看護師として勤務していた八重山高等女学校(現沖縄県八重山高校)の生徒だ。避難先の家族との面会を終え、病院に戻る道を歩いていた時、敵機の機銃掃射を受けた。

 

 近くの森に逃げ込んだら日本兵に「なぜここにいる」と、スパイの疑いをかけられる。偶然に近くで水浴びしていた女学生の親戚の兵士がその様子を目撃し、あやしい者ではないと証言、疑いが晴れたという内容だ。

 

 七十四年前の実話だが、潮平さんは「自衛隊が配備されると、似たようなことが予想される」と語る。

 

 潮平さんがそう考える根拠は、同じ先島諸島宮古島与那国島へ配備された陸上自衛隊部隊に、自衛隊内外の情報を収集・整理する「情報保全隊」が含まれていたことだ。軍事評論家や専門家は「住民を調査・監視し、島嶼(とうしょ)戦争の対スパイ戦の任務に当たることが想定される」などと指摘している。

 

 戦時中、石垣島など八重山諸島は地上戦がなかったにもかかわらず、日本軍の命令でマラリア感染の危険性が高い地域に疎開を強いられ、住民三千六百人以上が死亡した。中でも、島民の三割が死亡するなど、被害が甚大だった波照間島での強制疎開を主導したのは当時、島に駐屯していた陸軍中野学校出身の将校であったことは、昨年上映された映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵大矢英代監督)で改めて話題となった。

 

 潮平さんは沖縄戦が始まった一九四五年春、中学入学と同時に十二歳で、師範学校と中学校の生徒で編成された「鉄血勤皇隊」に入隊。潮平さんら家族三人もマラリアに侵されたが、米軍配給の特効薬「アテブリン」で一命をとりとめた。

 

 九死に一生を得た潮平さんが戦争体験や知人の証言を基に「戦争絵」を描くようになったのは約二十年前から。描いた絵はマラリアにかかった住民、戸板やもっこでの遺体搬送など約六十点にのぼる。

 

 戦後七十四年を経て惨禍の記憶が薄れる中、先島諸島自衛隊が相次いで配備されようとしている。「戦争の教訓がどこまで生かされているのか」。潮平さんの戦争絵を描く意欲は衰えない。
 (この連載は編集委員・吉原康和が担当しました)

 

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