『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 ~ 首里

 

コンコーダンス用の書きおこしです。誤字脱字などがありますので、必ず原典をお確かめください。首里市(1)(PDF形式:1.5MB)沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

 

1945年 6月 米海兵隊写真資料13

【原文】 Piggy Back, Okinawa Style. Better than a bicycle built for two is this Okinawa method of travel, a mother carrying her two children to safety through First Mar Div battle lines south of Shuri fortress.【和訳】 沖縄風おんぶ。母親は首里の要塞地の南側、第1海兵師団戦線を通って2人の子供を安全な場所へ連れて行くため、2人乗り自転車より優れているこの方法をとった

 

首里

戦場で拾った主人の色紙

首里市当之蔵小波蔵静子(三六歳)

十・十空襲前後

私の家は龍潭の池のほとりにあり、近くには軍司令部の壕や憲兵隊の壕がありました。家族は主人、小学六年の長女、次女、三女、三歳の長男それに主人の母と七名でした。

 

主人の仕事は写真屋でしたが、市会議員をしたり、警防団の副団長や与儀清秀さんが団長をされていた。翼賛壮年団の副団長という具合に村の仕事が忙しく、本業の写真屋も出来ない位でした。

 

十・十空襲のあった時には、首里の家にいる家族は五名になっていました。といいますのは、主人は、読谷にあった飛行場に軍属として働いていました。仕事は事務所で庶務といっても主に写真の仕事をしていた様です。だから十・十空襲の時もその様子を写真にとって本部に送る仕事でした。長女は附属小学校(今の琉大男子寮があるところ)六年生でしたので学校から熊本県の方に、疎開していました。次女は同じ学校の一年生でしたが低学年の為か、疎開はありませんでした。もうその頃は学校といっても部落の大きな家を借りて教室にし、残った子供達だけをあちこちに分けて教育していました。

 

十・十空襲のあったその日は、朝七時頃飛行機の音がしましたが、友軍の演習だろうと思い見ていました。当時、首里には学校、大きな家等に兵隊が一杯入っていて、私達の家の近くには通信隊がありましたが、その兵隊さん達も見ていた位です。でもあまりにも飛行機が多く、様子が変なので、大急ぎで商売道具の写真機をそれぞれはずし、表に作ってあった壕に持って入りました。首里には飛行機は飛んできても爆弾は深されませんでしたので、敵が攻撃してきたのだと気付くのに時間がかかりました。

 

しばらくの間は自宅での壕に人っていましたが、一向に空襲が終るでもなく、むしろ激しくなったので、そんな時に入る事にしようと近所の人達と打ち合せてあったアグニガーの壕に行く事にしたのですが、途中尚家の裏門(今の博物館の裏)のところは戦車が通れない様にと石垣の石をつんであって通れず、他家の家づたいにとびこえて、着いたところ、アグニガーの塚はすでにもう一杯でした。その壕は、この辺りの人が皆入れる位大きなもので、人口も二~三か所あるほどでした。このアグニガーの塚に夕方まで入っていましたが、離れている主人の事や逃れている小さな子供達の事を考えてとても不安でした。壕から出てみると、今の空襲で焼けだされた那覇の人々が、沢山上ってきていました。

 

その後、空襲が激しくなるにしたがいアダニガーの壕は満員になり、以前は地元の人たちばかりだったのが、けがをした兵隊や他からやって来た人が目立つ様になり入りきれない位でした。そして、首里を去る者もあれば、逆に首里へやって来る者もあるといった風に右往左往する人でごったがえしていました。那覇に住んでいた主人の姉も十・十空襲の時に焼けだされ、疎開するから一緒に行きましょうと云われ、主人も賛成でしたが、主人の母がどうしても行かないというのでそんな母を一人悩いて行くわけにもいかず私も首里に残っていました。

 

三月頃まではアダニガーの壕から度々家に帰ってかたづけ事をしたり、の畑に植えてあった野菜をとったりしていました。毎日の炊事は号では出来ず隣りの料亭あとで食事を作り壕に持ち込んで食べていました。

 

読谷にいる主人を訪ねた事もありました。軍から末吉にある墓を軍の弾薬庫にしたいから立ち会ってほしいとの依頼があり、主人にその件で伝えに行ったのでした。主人と一緒に末吉に行ってみたら墓の中にあったジーシガメ(骨つぼ)を皆外に出してわらでかぶせてありました。その後、この墓は兵隊や村民の壕に使われたらしく戦争が終った後死骸がありました。

 

そんな生活も長くは続かず、ある日又いつもの様に家に野菜をとりに帰った時でしたが、飛行機の音がしたと思ったらパンパンうってきたのであわててソテツに隠れて、ブルブルふるえていました。家の隣りにいた通信隊の兵隊めがけてうっているらしく、どうして壕に帰ったかおぼえてない位おそろしいものでした。それまでは主人が持っていた沢山の本が空襲の為棚から落ちているのをかたづけたりいろいろ家の事に気をくばっていましたが、もう家もどうなってもいいと思う様になり、だんだん帰らなくなりました。今日は空襲がないからと聞いて家に帰った日でしたが、近くの師範学校に爆弾が落ちるのすごい爆風にもうだめかと思いました。アダニガーの壕の入口にも不発弾がおちたりして危険がせまっていましたので炊事も思う様に出来ず、子供達も栄養失調気味になってきました。

 

米軍上陸後

読谷にいた主人も飛行場がやられて残った人達と石嶺の壕に移って来ていました。本部に連絡にいく途中だといって、二~三回立寄っていましたが、それも四月七日を最後にパッタリとだえていまし た。母は「石嶺に帰らずに一緒にいよう」と主人をとめていました が、そうもいかず私も「身体だけは気をつけてね」としかたなく別れました。主人も女子供だけの私達を心配して「外には絶対出ない様に壕でじっとしていなさい」と何度も注意していました。

 

壕には兵隊の出入が激しくなりその兵隊をねらってよく爆撃されるので、住民は兵隊が壕に出入するのを嫌っていましたが、皆は四月一日の米軍上陸の事を知ってもさほど動揺しませんでした。敵を引き寄せてはさみ撃ちにするとの情報を信じ、どこまでも勝つという事しか頭にありませんでした。

 

首里から南下

首里脱出

四月二十九日に町内会長を通して立退き命令が出るまでずっと壕に閉じこもっていました。それまでに何度も親類や知人から首里は危いから疎開しようと誘われましたが、主人も石嶺にいるし同じ死ぬのだったら主人の近くがいいと思い首里を動かずにいたのです。 私達の住んでいた当蔵は、島尻の真壁村に行きなさいとの命令でし た。久々に家に帰ってみたら家は焼けおちていました。ほんの二~ 三日前の出来事だったと隣りの人から聞きました。

 

明るい内は危険だから夜になってから出発する事にして、二十九日は朝から準備しました。私は妊娠していたし、母と子供達を連れての事だったので、着替えと食糧少々でしたが持てるだけ持って夕方たちました。近所の人四~五世帯と一緒でしたが中に男の人もいて心強かったものです。一か月もの壕生活で身体も弱っていたのでフラフラして思う様には歩けませんでした。首里のあちらこちらには、避難民の通り道を指示する係の兵隊がいて、私達も鳥堀から行こうしていたのを「こっちは通れないから」と云われ、タマウドゥン(霊御殿)の方から下りて行きましたが石垣はあちこちくずれていてやっと歩ける状態でした。誠名に向ったのですが、弾ピューピューとんできて織名には上れず、松川の方に下る道を通って真和志に出ました。国場の高台迄きた時には暗くなっていてそこで一休みし、又歩きました。真玉橋を渡った直後、橋めがけて迫撃砲がとんできたので地面にみせて顔をあげた時には直ぐうしろを歩いた人達の一団がやられて黒々と横たわっているのを尻目に進みました。移動していた兵隊さんと一緒でしたが、三女はその兵隊さんらに手をひかれていましたが、女、子供の足ではついても行けず、子供とはぐれたら大変だと思い「ゆっくり進みますから」と子供をひきとりやっとの思いで東風平にたどり着きました。もう真暗になっていたので家人は壕に入っていて空いていた家に入りこんでいましたが、その家の人が帰ってきたので、本来なら出なくてはいけないものを、年よりと子供連れでもう歩けないから一晩泊めて下さいとたのんでやっと一夜を過しました。

 

壕捜し

夜が明けたのでそこをたちましたが、私と母が交代で長男をおんぶしたり持物を持ったりして、少し進んでは又休けいするといった具合になかなか大変な事でした。やっとの思いで大里まで来たのですが、母はくぎで足をけがしてしまい歩けなくなっていました。大里の役場の入口に憲兵隊の壕があって、憲兵隊の人は立ちのいて空だから入っていなさいといわれやっと落ちつく事が出来ました。

 

そこには近所の人達も集まって来ていました。幸い消毒ガーゼもあり母の足の治療も出来ました。目的地の真壁まではまだ半里もあり、母は足がはれてこれ以上歩けない状態でしたので、この大里の壕にしばらく入っていたかったのですが、兵壁に行けという命令を受けていたので、まず私が行って壊の割当をもらい母と子供達を連れにもどる事にして隣組の人達と一緒に出掛けました。

 

壊という塚は皆人が入ってなかなかみつかりませんでしたが米須部落ではそこの村民は首里方面に行っているとかでいなかったので、米須で壕をみつけました。岩のわれ目を利用した壕の中は大変汚れていたので掃除しました。そのあたりは小さな場ばかりで皆が入れる位のものはありませんでした。小さな家のいくつかを団長の町内会長が割当てたのですが、私は、主人の友人で一中の先生をされていた金城増太郎さんが米須の村長だったのでその人の世話で爆に入れて頂きました。早速、大里の塚に引き返し母と子供達を述れて来ました。

 

その頃はもう食物もなく、持っていた針とマッチをお米に交換してもらい食べましたが、母は下痢と足のけがではって歩く位でしたし、水もなかなか思う様になく外は弾が激しくて本当にさんざんの思いをしました。ここも一週間で友軍に立ち退けといわれ、出る事になりました。それまでにも住民が木の陰にかくれている時、ねらいうちにされたり、私達家族の目の前の木に弾がおちて木におしつぶされ何人かの人が死んだりしているのですが、私達は幸いにも皆無事でした。

 

主人と行違い

真壁にいったり米須にいったりもうあてもなく人のいくところを波の様に行ったり来たりとあちこちを歩きました。そこで大里の壕で一緒だった人から主人が私達をさがして大里の壕に来ていたと聞きました。その人が、私達が真壁の方に行ったと教えたので主人も又真壁に私達をさがしに出て行ったそうです。

 

主人も私達の後をおって来ているらしいのですが、すれ違いになってしまった様です。

 

真壁にいた時からは毎日の様に雨が降っていました。背中におぶっている長男のねんねこもぐっしょりぬれて身体もひえきっていました。そんな時でしたが、一軒のかやぶき家に入ったところ家の主は居なくて、すぐ前まで炊いていたのか、かまもまだぬくもりがあったので、キビガラをもやしてねんねこやぬれた子供達の着物を乾したり身体をあたためたりして、キビガラの上に子供達をねかせて一泊したりもしました。

 

この真壁から港川に向って行く途中、具志頭では橋もこわされ、水があちこちから流れこんだ川は水かさも増して河原まで来て、大きな川になっていました。そこをモンペをまくりあげ子供達を一人ずつ渡してやっと具志近の部落に人りました。ここではカデナ医院に泊まりました。家の人は疎開して空家になっていましたが、その家の持ち物の中に主人が書いた色紙がありました。主人は書道をやっていたので、何かの事で主人からもらって置いてあったのでしょう、散らばっている色紙を拾った時にはまるで主人に会えた様に思えなつかしい気持で一杯でした。仏壇から抜いてきた位はいや家の系図と共にこの色紙も非常カバンに入れて大切なものとして持っていましたが雨にぬれたので、日に照らしたりしている内にとうとう失くしてしまいました。

 

戦場を彷徨

具志頭ではí週間位いましたが、ここも危いという話を聞いてどうしても港川まで行かなくてはと思いました。

 

はっきりした行先なく只一緒に逃げている人々が口々にあそこがいいというのを聞いては人の後をおってその場所に行くという風に自分の考えで行動するのではなく全く人まかせでした。

 

港川に向って具志頭をたった私達をおって主人も又そこまでさがしに来ていたという話を後になって聞きました。戦闘は激しくなる一方で港川にも行けず引き返してきました。

 

雨の中をあっちに行く人、こっちに行く人が右往左往している中を道も分らず、人について歩いていたら又兵壁に戻って来ていました。

 

爆撃の激化

もう六月に入っていましたが、真壁では多くの家が焼きはらわれて屋敷の石垣だけが残っているだけで、入れそうな爆もなくその残った石垣に身をよせて避難していました。そこらには兵隊が死んでいてそのズボンもはちきれて見るも無惨な姿でした。マッチと交換してもらった馬肉も子供達の身体は受けつけずひどい下痢で体力もなくなり歩けなくなっていました。やっと一軒残っていたかやぶき家に入ったのですが、そこは兵隊が入っていた壕の近くにあり、それらの兵隊達が出入していたのでよく機銃掃射され、ある時私の隣りにいた女の子と足をけがしていた兵隊があっという間にやられました。私の子供達にはねんねこを頭からすっぽりかぶせて伏せていてかすり傷一つしませんでした。死んだ女の子は、金城町で床屋をしている父親の手伝いをしていたそうで、今しがたまで一緒の塚に避難していた子供達の髪をかってやっていたのに一瞬の間に変りはてた姿になって何とも可哀相でした。その翌日、昨日の事も生々しいのに食糧を何とかしなくてはならず、昼頃、芋ほりに出掛けました。大きな芋が沢山あって喜こんでいたのですが、パラパラと迫撃砲が飛んできたので、せっかくほった芋もほとんどそこにほって逃げて帰りましたが、少し持ち帰えった芋を非戸で洗っていたら又撃って来て、それがそばにいた馬に命中しました。

 

私はあわてて家にとびこみ母と子供達を家から外に連れだした直後家は焼けました。入れる場もないので石垣に身をよせていたのですが、その石垣にも伏せていた私の足の所に爆弾がおちてきましたが、私はその時も何ともありませんでした。その夜の内にどこかに行かなくてはならず、月夜の道を又あてもなく皆が行く方について\歩きました。大きな道を歩いていた時でしたが撃砲で前を歩いていた人が二〇〜三〇名もやられました。その中に当蔵で知りあいだった人の家族四~五名も混じっていて皆まっ黒になって死んでいる様子を目の当りにしおそろしくてまともに見れませんでした。子供とは幸い皆無事だったのでみんなをひっつかまえる様にして先を急ぎました。

 

マブニ近くの米須あたりに来た時、道をはさんだ向うの森の上に戦車がずらりと並んでいました。友軍のものでなく米軍のものだと分った時はもう生きておれるのも今日までだと思いました。その時初めてアメリカの兵隊をみました。その兵隊達は私達が息をこらしてかくれていた目の前の道を下りていったが、その背後には友軍の兵隊や看護婦が死んでいたので、その時に殺された筈です。

 

水を求めて摩文仁

それからは自分達家族は人から離れない様にといつも人のいるところにくっついていきました。

 

壕や食物だけでなく水も不自由になったのでどこか水があるところに行こうという事になり摩文仁に行きました。摩文仁なら水もあるし、海岸づたいに港川まで突破出来るかもしれないと思いましたが、海が深くて行けなかったのであきらめて壕をさがしました。

 

岩の上に壕があったので登って行こうとしたら友軍の兵隊が鉄砲をもって前に立ちはだかり、「子供達が邪魔だから駄目だ」と登らせませんでした。その辺りの岩陰で御飯を炊いて食べようと思い薪がわりにあだんのくきを拾っていたら両足ともない兵隊が、長い日本刀を杖がわりについて何か食物をくれと云って来たが、私達にも何もなかったが、油みそが少し残っていたのをあげようとして、みたら失くなっていました。ここに着いた時、油みそもあと少ししかないねと取り出してはいたのをそばにいた日本兵が見ていたのを思い出し、その時盗られたのだと気付きました。しかたなく御飯を炊いて半分あげましたが、じっと炊けるのを待っている姿がとても恐ろしく思えました。

 

砂浜に出たらそこには兵隊が真白になって浮いているし、岩陰には目がえぐりとられていたり、手足がなくなっている兵隊達がもたれる様な格好で沢山入っていて、入れないので森の上の方にあがっていきました。もう夜になっていましたが、水をさがしていたら丁度たまり水があったので喜んで何杯も何杯もすくって飲み、その夜はそこで夜を明かしましたが朝になってみておどろいた事にはその水にはうじが一杯わいた死人が浮んでいました。知らなかったとはいえこんな水を飲んだのかと思うと何ともいえない気分でした。

 

明るくなって又かくれるところをさがしましたが、あだんの陰にかくれるしかありませんでした。そのあだんも火焔放射器で焼きはらわれてくきだけになっていましたが、その陰に身をかがめて弾をさけるといった具合でしたが、そこで水を入れて持っていた金属製のきゅうすに弾があたりそれに穴をあけてしまいました。母に弾がかすった位でだれにもけがはありませんでした。

 

米軍に「捕虜」

ふと見るとみんなが手をあげて向うに行くのが見えたので、私達も降参しないといけないと思い、人がやる様に手をあげて歩きました。すぐ赤ん坊みたいにまっ赤な顔をしたアメリカ兵がやって来て、最初は肩にかけていた銃を私達の前に来た時にはかまえたので、ここで撃ち殺されるのだなと思いましたが逃げる事も出来ず、もう子供達と一緒になら殺されてもいいと思いました。手まねでついて来いと云われ森の上までゆっくり歩いて行きましたが、途中いつ殺されるのかと恐ろしくてガタガタふるえました。登りきったところで一休みする様に云われ持ち物の検査をされました。非常カバンに入れてあった紙幣と金歯を調らべられ、お金だけ取り上げられ後のものは全部返してくれました。歩きながら罐詰もあけてくれましたが、毒が入っているかも知れないと思って食べなかったので、安心させる為アメリカ兵自身が食べてみせていました。豆の砂糖煮でしたが、あの時の味を今もおぼえています。連れて来られた広場には、大勢の人が集められ、大けがをしている人も沢山いました。

 

この広場に集めて戦車でひき殺すつもりではないかとかいろいろ考えて不安でした。とうとう主人にも会えないで子供達も死なすのかと思うとせめて主人に会ってから死にたいなと悲愴な気持でした。

 

ここに一時間位いて、やがてトラックに乗せられて豊見城村の伊良波に連れていかれました。そこは収容所になっており、知人も沢山いて、私達はこうだった、ああだったとお互いに苦しい数か月の話で話題はつきませんでした。

 

主人の姿はみえないかとあっちこっちをウロウロさがしまわりましたが、いずれ皆ここに来るのだからもう少ししたら会えますよと知人にも励まされ、それまではどうしても生きていたいと思いました。

 

石川収容所

石川収容所

その日の夕方になってトラックがもきて身動き出来ない位それにつめこまれ、そこをたちました。途中もう夜になっていましたが通堂では電気も明々とついて港の夜間作業が行われていました。降されたところは石川で金武や国頭に連れていかれる人達と別れました。もう六月も末近くになっていましたがこの石川の収容所には四月からいるという人もいて家もあちこち残っていました。

 

ここまできてはじめて殺されるのはいつかなという不安から逃れる事が出来ました。

 

私達は運動場(今の宮森小学校辺り)に降されそこに一週間位いました。テントも何もなかったので福木の葉をとって来て砂の上にそれをしいて寝泊りをしました。食事は小芋をたらいに入れて配給してくれました。たまには牛肉の炊いたものもありましたが、配給の時は我先にと手ずかみで取れるだけ取りました。

 

一週間後には大きなテントをもらって、五〇世帯一緒に入りました。各世帯を箱でくぎるだけのものでしたが、その頃からは一人一刃の米の配給もあり、私達は五人家族でしたので五勺ありましたが、皆が毎日食べるにはとうてい足りませんでした。その頃から軍作業に出ていく人が多くなり、作業に出た人には大きなおにぎりがもらえてそれを食べていましたが、うちの子供達はそのそばにじっと立ってうらやましそうに見ていました。子供達が可哀相なので私も軍作業に出ようと思いました。

 

軍作業の女班長

たまたま軍作業の班長をしている人と知り合いだったので、その人にたのんで入れてもらいました。石川には軍作業の事務所があってそこから方々に作業に出ていったのですが、最初は安富祖に行かされました。六〇名でグループを作り班長が一人いました。アメリカの隊長が「貴女は妊娠しているからなるべく坐わっていなさい」と云って時間までごみ捨てや空離の片づけ位の仕事しかさせませんでした。そして翌日からは貴女が班長になりなさいと云われ、女で班長しているのは誰もいないし恐くて嫌だとことわりましたが、大丈夫だからと隊長に云われ、班長になりました。アメリカの兵隊とは言葉は知らなくても手まね足まねで結構通じました。炊事、掃除、洗濯に各二〇名ずつ分け、私はその人達のところをぐるぐるまわって監督をしていました。

 

当時軍作業に出ていた人は戦果としていろいろな物を持って帰ったものですが、収容所の入口で調べられ取り上げられたものです。私の分は、隊長が取り上げない様にという書きつけをくれたお陰で取り上げられませんでした。他の班長から文句が出たこともあり、その時もこの人の分は隊長からもらったのだからかまわないという事になり、もらった物は何でも持って帰れました。食糧なども倉庫に連れていっていろいろな物をくれるし、着るものは絹の落下傘をもらって作り、主人はスクールティチャー(一中で書道を教えていた)をしていたといえば主人に上げなさいと時計までくれました

 

出産もせまってきたので、九月から十一月の間にすっかり出産準備を整え、軍作業をやめても心配ないだけの食糧も貯えてあったのでやめました。やめてからでも衣料品などをもらいそれでふとんを作ったりして大いに助りました。

 

思い切って軍作業に出たお陰で何もかもうまくいきましたが、気がかりなのは主人の事でした。その頃までは主人が死んだとは思えず、人の出入りの時には必ず見に行っていましたし、トラックで男女別々にされ、男は屋嘉、女は石川やその他のところに収容されていたので主人もどこかの収容所にいると信じていました。あるいはハワイに連れて行かれているかも知れないという人もいて、こんなに長い間会えないところをみるとハワイかもしれないとも思いましたが、とうとう帰って来ませんでした。

 

出産後は軍の作業には行きませんでしたが、居住区域の班の班長をさせられ配給の仕事等を主にしていました。

 

帰還 首里での生活

首里での生活

石川の収容所に収容された翌年(一九四六年)の十一月に首里戻って来ました。ここでも暫くはテント生活をしていましたが、規格住宅をもらう為に安謝の軍作業に一か月位行き、材木などの運搬の仕事をしました。一九四七年に民政府管轄の託児所首里の当蔵、鳥堀、赤田の三か所に出来たので、そこに勤めさせてもらいました。師範学校の運動場跡でしたが三歳未満の子供達を対象にしていました。俸給が二百円で一家をささえるには苦しかったので、託児所の仕事が済み次第その託児所の仲間達と一緒に知りあいの人から買ったとうもろこしをかついで糸満まで売りに行き、帰りは酒や油や小魚を買って帰り、それを母に売らせたりして生活の足しにしていましたが、往復とも識名から上間に出て豊見城を通り糸満までずっと歩き通しでした。

 

一年間位で託児所も閉鎖になり、厚生部にいた兄の友人が通信部(今の郵便局)で課長をしておられたので、その人にたのんで一九四八年の十月からそこで働く様になりました。場所は知念でした。通勤には、当時民政府の肝入りで出来ていた那潮民友会、首里民友会が、行き帰りともに車を出していたので厚生部にいる兄と一緒に毎日乗せてもらって通いました。一度兄と一緒に親慶原の叔父の家に行っての帰り、与那原から南風原に入ったところで黒人兵のトラックがやって来た。米兵は女をみたらすぐつかまえるよという話を聞いていたので、大変な事になったと思っていたら兄が私をつかまえて溝につきおとす様にして二人共かくれたので何事もなく済みました。

 

その後、台風にやられ知念から那覇に移り名称も那覇国際交換局になり、その後那覇中央郵便局と変りましたが、以来ずっと郵便局で働いてきました。

 

主人のこと

主人はどこでどの様にして死んだか分りませんが、考えてみたら私達の後をずっと追って来ている事は確かなのに間一髪で会えなかった事が再三あった様で運命の皮肉さをこの時程感じた事はありません。死んだ主人も同じ気持だったと思います。それに戦火におわれ逃げる途中のあちらこちらで会う人達から主人をどこでみた、あそこでみたと聞かされるとよその人とは何度も会っているのにさがし求めている自分の家族とはどうして会えなかったのかと思うと今だにくやしくて何ともいえない気持がします。人の話から推測して六月二十日を主人の死んだ日として弔っていますが、戦後二十八年もたった今でも昨日の事の様に思い出して主人を亡くした悲しみは一生消えないのです。

 

生と死の狭間

首里市馬堀宇久照子(十六歳)

初の空襲

戦争のはじまったのは私が十六歳の時でした。当時私は第二高等小学校を卒業して、家事手伝いをしながら女学校に入る為の勉強をしておりました。家は首里の鳥堀でひとりっ子の私と両親の三人住いでした。十・十空襲の時は家の近くの弁が岳の中腹あたりでみていました。

 

朝の六時頃でしたが今まで見た事のない飛行機が編隊飛行しているのをめずらしい思いで見ていました。飛行機は首里城あたりから、那覇の方に下っていったと思ったら煙が立って爆撃がはじまりました。約1分後に空警報がなっていました。この空襲で、那棚はやけましたが首里には形響はありませんでした。私達はその空襲に絡いて弁が岳に登って行く途中のガケのところに近所の人達四~五軒(約20名)で隊を堀り、それ以後家を焼かれるまで家と壕を行き来する生活が始まりました。壕は家からほんの二〇メートル位離れたところに人口と出口をせまく作り市の大きさは八畳位はありました。

 

壕の近くに持主は他の塚に入っていて空いていた我如古牛乳店の倉庫があったので、そこで、炊事をして壕の中で食べたりしていました。

 

住家が焼失

家を焼かれたのはアメリカ軍が沖縄に上陸する直前の三月十八日でした。

 

昼の二~三時頃、壕から外に出たと思ったら低空飛行してきた飛行機からパーン、パーンという音と共にポツンと白いものが牛乳店のかやぶき屋根のてっぺんに沿ちて来たのですが立ちさろうとしていると、急に牛乳店がもえだしてその家をかわきりに附近の家が次々と焼けました。消防と解察が調べたところ普通の火事の様に火の粉がとんで広がったのではなく、弾が方ぼうにとんで焼けたらしいとの事でした。私の家もこの火事で焼けてしまいました。持ち出した家財道具といえば仏壇と盛四~五枚位でした。

 

首里ではまっ先に焼け出され、その後はずっと壕での生活が始まった訳です。爆撃も激しくなる一方で私のいた弁が岳は連日さんざんやられました。

 

弁が岳には通信隊があってそこには電波探知機がそなえられていたものですからアメリカ軍は多分それをねらっている様でした。#チョコレートドロップ

 

四月に入るとアメリカ軍は北谷あたりから上陸して浦添城跡に進軍していてそこから西原飛行場方面に攻撃をくりかえし、西原ににげ出していた近所の人々は、又首里の自分の家にまい戻って来ては荷物をまとめて島尻方面にあたふたと避難して行くといった毎日でした。

 

攻撃目標の弁ガ岳

そんな様子を見るにつけ、又弁が岳が余りにも攻撃されて壕にもおれない様な気持になり、母に皆が行く島尻の方に私達もにげようと云いましたが、母は「皆が逃げる処はかえって敵にねらいうちされて危険だ。私なら皆が行く方には絶対行かないね」と反対されて玉那覇という家族と共に、そのまま壕に残っていました。

 

もうその頃には部落には人形もなくなっていましたし、夜攻撃がやんだ時にしか外に出られない様な状態でした。

 

ある時、私も父と一緒に弁が岳に登って浦添あたりを見渡たすとパラパラと音を出して火をはいているアメリカ軍の戦車を見ておそろしさのあまりただ立ちつくしていました。

 

そうこうしている内、私の人っていた壕の入口に不発弾が落ち、壕は大ゆれにゆれ周囲のニイビがくずれて入口近くにいた者が下半身位までうめられて身動き出来ないという事件がおきました。私は中の方にいたので難はのがれたので、隣りの壕の人を呼んで来てスコップで掘りおこして救い、幸いケガもなく済みました。しかし、母の姿が見えないので外に出てみると炊事場になっている牛乳店の倉庫に手足を血だらけにして立っていました。

 

ちょうどお昼どきで母が食事の仕度に火をつかってその煙をみられて攻撃されたのではないかと思いますが、この衝撃で母はまったく耳が聞えなくなっていました。入口に落ちてきた不発弾が爆発したら大変だから、もうどこかに避難しようと話合いました。

 

弁が岳近くの壊を離れる事になった二~三日前の事、外で余りにも弾がヒュル、ヒュルと思えるので、話し声を立てない様に静かに弁が岳の中腹に登ってみると石嶺あたりから国場弾薬倉庫あたり(通称、福地山)にかけてシュル、シュルという音と共にものすごく火を吹いて弾が飛び交い、山がアカアカと燃えていました。それをみて、身体がブルブルふるえてとまりませんでした。この状態をみた父もやっと首里を離れる気になった様です。

 

首里はさんざんやられていたのですが今まで私のいる壕は、不思識とやられてなかったので無事過してきていました。

 

それまでにも弾におわれた日本兵がバタバタ逃げて来ていたのですが、私達のいる嫁は草や木で入口を隠してあったので、逃げてくる日本兵にみつからずにすみました。でも私達一家ももうこれで留品にはおれないと一応島尻方面に向って逃げる事になりました。

 

これは終戦になってから知ったのですが、弁が岳の壕にいたおばあさんはずっとそのまま逃げずにその壕の中にいて、後にそこで捕虜になり今も元気におられます。そのおばあさんに会うと今も「あのままずっと壕にじっとしていたらあわれな目にも会わずに済んだのに」と云われています。

 

猛爆擊下を脱出

首里ではアメリカ兵の姿こそみませんでしたが、接近戦になって、唯もう小銃だけをパン、パンうちあっていたので、敵はもう真近にせまっているのだなあとひしひしと感じました。

 

逃げる途中でも鳥堀あたりに大きな穴がポッカリあいていて、そのあたりにゴロゴロ日本兵が死んでいるのです。移動するのは夜真暗になってからです。夕方ぐらいまでは偵察機がすごく低空飛行しているのでとても危いからです。夜七~八時頃から真暗の中を父の母にあたる目の悪いおばあさんを私がおぶって父と母、おばあさん、私の四人は首里から下っていきました。日本兵も識名あたりに逃る様でした。逃る途中、今の二号線あたりで会った友軍の兵士に「敵はもう直ぐそこまで来ているから早く逃げろ」と云われました。

 

首里から南下

私達も今の真和志高校の方をとおって識名の方に逃げて行ったのです。でも逃げる途中では友軍のおそろしさと嫌らしさを知らされました。

 

島尻方面から上ってくる友軍と尻の方に下っていく住民で道は一杯でした。道は「兵隊は右、一般人は左」ときめられていたのです。友軍は住民に「ザワザワとさわがしいので我々がせっかく秘密で上って来ているのに、オマエ達の為に敵にみつかってしまうじゃないか」といって銃をつきつけたりもするので道を通るにも大変でした。友軍の云う事を聞かない者は同じ日本人同士とはいえ殺されてしまうのです。

 

住民が通ってもよい道は別にあったらしいですが、私達を含め大方の住民はそのことを知らないまま友軍に通る事を禁止されたりして右往左往していました。住民に銃を向けて命令する日本兵をおそろしいと思いました。

 

赤田あたりではおびただしい住民の死体がありました。アメリカ軍の弾にやられたのか友軍に殺されたのか分りませんがどちらにやられたか分らないと考える位沖縄県民に対して友軍のやっている事はおそろしいものでした。

 

沢山の死がいの中に三~四歳位になる子供が母の死体にすがって「アヤーヨ、アヤーヨ」と泣いていましたので一人っ子として育った私は、「あの子を一緒に逃れていって」と父母にたのんだのですが、こんな状態では自分達四人ですら生きのびられるかどうか分らないのに足手まといになる小さな子供まで連れては行けないと母に叱られてしまいました。後髪をひかれる思いでその場を離れました。

 

私達も日本兵に「ヤカマシイ」とおどされて兵隊の通る道を通る事も出来ずしかたなく河原に下りて歩き土手によじのぼったりしたりして進みました。

 

識名に入った頃はもう夜の八~九時になっていて疲れで眠くなっていたので、今日はこの辺で壊をさがして過し、明日下って行こうという事になり行動を共にしていた玉那覇の夫婦と一緒に壕をさがしたところまだ新しい大きな墓がありました。このあたりは流が沢山あり、そのほとんどが空けられて壕がわりに使われていたが、その速はまだ空けられていませんでした。早速あけて入ってみるとまだ二~三ヵ月位前に入れたばかりの新しい棺桶が二つあったので父が「どうか私達をここにかくれさせて下さい」と手を合せおがんでから、大人達だけで棺を外に出し、かやをかぶせておきました。木の葉をとって来てホーキを作り中をはいてむしろをひいてやっと身体を横たえる事が出来ました。

 

少しねむったかなと思った頃、友軍がやって来て「おばさん達出て来なさい」という声に父が出ていったところ「敵はもうすぐそこまで来ている、危いから下の方に下りなさい」といわれ父はやっとこの壕をみつけて今入ったばかりでもうどこにも行くとこないからここにおいてほしいとたのんだのですが、「我々の云う事聞かないとどうなるか」とおどされました。父は「じゃどこに行けばいいのですか」と聞いたら「今迄自分達がいた壕に行きなさい。自分達は馬車で運んで来た荷物をここにいて又今までいた塚に荷物をとりに行くからそのからの馬車にのって行きなさい」と云われ父は「あなた方がいた壕に人れてもらえるなら」とありがたがって命令にしたがいました。夜中の二~三時頃になっていたでしょうか、疲れた身体をおして又移動しました。

 

馬車から弾薬や荷物を下してその空箱に私達の荷物とおばあさんをのせて馬車をおって歩きました。もうスーマンボースー(梅雨)に人っていて連日雨が降り身体はびしょぬれでふくれてさえいました。

 

死体の山の一日橋

一日橋のあたりの民家も爆撃されて見るかげもなくなっていました。私達も一日橋附近で馬車のすぐそばに直撃弾をうけ、おばあさんをのせたまま馬車はひっくりかえるし、私達もふっとばされてしまいました。

 

二〇~三〇発位の艦砲射撃の後、静かになったのであたりをみてみるともうそこには兵隊が沢山やられてたおれていました。真夜中でしたが照明弾があがっていて、あたりはまるで月夜の様に明るかった。不思議な事に馬車は何ともなく幸いにして皆無事でした。「馬車の持主は沖縄県人で防術隊員でした。父から照明弾があがっている間はかくれている様にいわれ、その間の暗いときをみはからって進みました。あたりは死んだ兵隊で一杯で馬車を通すのも大変でした。死体のところにくると手で車を持ち上げて進ませるといった具合でした。やっとの思いで津嘉山の部落に入ったと思うとその部落は火の海でどうしても通り抜けることができなくなりました。土手のところで一~一時間位かくれていましたがだんだん夜も明けて来たので、やっとの思いで馬車の後についてその部落をこえました。

 

途中の道は坂になっている上に弾にやられてデコボコですから馬車を後からおして目的地に着きました。

 

津嘉山自然壕

そこは自然壕になっていて電気もついていました。この壕は牛島中将の入っていた壕だったらしくとても大きくて中に下りていったらトタンぶきの三階立ての家まで建っていました。#津嘉山司令部壕

 

父はこんないいところに来れてよかったととても喜こんでいました。でも負傷兵が二〇〜三〇人位もいて、「ネーチャン。オバサン」と声をかけられ、びっくりしました。手足や顔にひどいけがをしてもう目をおおいたくなるほどの負傷者でした。案内してくれた兵隊が「おばさん、兵隊達が呼んでいるけど返事をするなよ」と云われたので返事したら大変だと思い聞こえないふりをしてどんどん奥に入っていった。奥の右側には「牛島閣下」と書かれた札が下っていてその部屋は一、二畳のたたみがきれいにひいてありましたがその畳がひどくしめっていました。左側は一般兵の部屋になっておりました。牛島中将がどこに行かれたか分りませんでしたが、出られて一週間以上はたっている感じでした。

 

一応そこに入りなさいという命令でしたが余りにジメジメして、ねむれないので上の方に上っていって入口近くにムシロをひいてねむりました。トタン家には兵隊が居ました。

 

壕の中で死んでしまった人の臭いがくさくて大変でしたがこの津嘉山の壕には二週間いました。

 

食物は今まで持っていたウムクジ(澱粉)と黒砂糖を水にとかして食べたり、壊を出たところが畑になっていたので、夜になってから手さぐりでイモ、野栄をとってきては生のまま炊いて食べていました。

 

食物に困っている人が多く、畑からとってきたものを持って壊に入ってくると「ネエサンちょうだい」とあちらこちらから云われましたが、自分達も食べなくてはならず聞こえないふりして通るのです。私は一人娘で大切にされていましたので、井戸からの水くみ、洗濯、食物捜しといった危険な事はほとんど父がしてくれていました。

 

壕の中にいる間は昼も夜も分らない様な生活でした。死んだ兵隊の死臭でいたたまれずこの塚を後にしました。

 

毎日雨が降り続いてドロドロになった道を進んで行きました。

 

親類が一家全滅

糸数壕近くの山に入り、岩に沿って土を掘り壕を作りました。壕といってもやっと身体をかくす事が出来る位の簡単なものでした。父が木で棚を作りそれをたて、カヤをかぶせて雨よけにしました。この山はとても高く奥武島は一望に見下ろせ、木がこんもりと茂っていました。私達の塚には父母とおばあさん、私の四人がむしろ一枚くらいのところに身体をよせあって生活しました。持っていた荷物は皆外に出しておきました。私達は、糸数壕の近くの山の方にいた父のいとこと偶然会いました。

 

「お互い一緒になれてよかった」と会えた事を喜こびあいました。

 

糸満方面や知念半島はバンバン爆撃されていましたが私達のいるところは攻撃されませんでした。

 

それというのも私達のいるより上の方の山で迷彩色の服をつけたアメリカ兵の姿が見えましたから、もう敵は目前まで来ていたので父に声をたてない様にしなさいと注意されました。私がアメリカ兵を見たのは夕方でしたが、その次の朝には兵隊達はいなくなっていたのでめずらしい事だと思っていたところ突然艦砲射撃に会いました。それが丁度父のいとこのところにおちました。父のいとこは岩石の間に小屋を作って一〇人位一緒にいたのです。

 

そこは私達がいた岩の下から十メートル位しか離れていませんでした。父のいとこが血まみれになってやって来て、「エーヒャーワッターンナサットンド」(私の家族は皆殺されたぞ)と云ったので父は直ぐそこに行こうとするのを私が手をひっぱって「今行ったらやられてしまう」ととめました。あたりは木もたおされ、すごい光景でした。十分位たち、少し攻撃がおさまったので行ってみると、父のいとこの親類にあたる一家六人が死んでいました。父親だけが片方のほっべたをざっくりとえぐりとられ血まみれになっていたが、まだ生きていました。母親は身重であったのでことさら悲惨なものでした。一度に一家全員殺されてしまったその父親は「私等の家族は皆やられてしまったので後々の事よろしくたのみます」とフラフラとどこかへ歩いていきました。

 

父のいとこはなすすべもなく後の方でぼんやりとかくれていたので父に叱られていたようです。そのいなくなっていた一家の父親は苦しくて水でも飲みに行ったのか少し下の方で力つきて死んでいました。

 

父のいとこは自分の親類の一家が全滅しているというのにそのままどこかにいなくなってしまいました。

 

父は自分達の親類が皆死んだというのにそのままおきざりにして行くなんてどうした事だと怒っているようでした。

 

父もこんな状態だけど見過しには出来ないと下の方で死んでいる子供達の父親を抱きかかえて来ました。

 

いくら死んでしまっていても家族は一緒にしてとむらってあげようという事になりましたが敵はもう直ぐ近くに来ており、穴をほってうめる間もない状態でした。

 

おばあさんを残こして

これから先おばあさんをおぶってはとうてい逃げきれないので一応おばあさんを壕に残して三人で安全な壕をさがしに行く事にしました。父がおばあさんに「これから下におりていって安全な壕をさがして、迎えに来るから、オバアはどこにも行かないでじっとここで待っていなさいよ」と云いのとして別れて来ました。

 

三人で下っていったのですがもうこのあたりには米兵が多数おしよせて来ていたものですからおばあさん一人残してきた塚に戻りたくてもとうてい上って行けない状態でした。

 

百名の海が見下せるところで本道に下りていったらあたりは友軍の兵隊が無数にたおれていました。負傷兵たちは私を見て「ネーチャン、ネーチャン」とあちらこらから声をかけてきました。

 

雨が降っていてとても寒かったので毛布を肩にかけてたおれている兵隊を死んでいると思いその毛布をとろうと手をかけたら「イー」と声を出したのでもう私はとび上る位おどろきました。たぶん半分死にかけていたと思うのですが、突然声を出されて「ハッサョー(ああ、驚いた)」とあわてて手をはなしました。

 

父もびっくりして「それ取ったら大変だよ、取るなよ」といいました。

 

接近戦の中で生埋め

雨の中を更に進む内私達の少し前を歩いていた家族の中に身なりもきちんとしたおさげ髪の女学生と思われる美少女がいましたが道の真中に立ちすくんで「お父さん、お父さん」と泣いていたので父が「どうしたの」とかたわらをみると少女の父親が生きうめになっているのです。

 

道の横手にある土手に爆弾がおちたために土がくずれて、ちょうど道を歩いていた少女の父親が首から下全身うめられたのです。

 

その父親は少女が肩からさげているカバンの中に天皇陛下の写真が入っているからそれを持って私達一家と一緒に逃げなさいと云っていましたが、私は土の中から首だけだしている少女の父親の姿をみてすごくショックでした。助けようにも道具もなく弾はピュンピュン飛んでくるので、唯もうびっくりして見ているだけでしたがみるみる内に息を引き取ってしまいました。女学生も一緒に大急ぎでその場を離れて下っていきした。

 

敵は背後に迫ってくるし、日本兵は「突撃!」とどなってこちらに向ってやってくる接近戦に巻き込まれ、友軍のそばにいる事も危険でした。

 

私達一家と女学生の四人は上手や山すそや畑に身をかくして逃げました。たぶん具志頭と思いますがそこまで来た時、日本兵に壕があるからと云われ入ったのは大きな自然壕でした。

 

激戦地で弾薬運搬を強制

その自然壕は軍病院として使われていたそうで、鍾乳洞の天井からポタポタと水がおちていましたが岩と岩の間には板などもひいてありました。連日の雨でぬかるみ道をやっとの思いで逃げてきた私達はここに着いた時はもう疲れはてていました。

 

父も足をけがしていましたし私も足が相当むくんでいました。ふと気がつくとこの壕近くまで一緒だった女学生がいつの間にかいなくなっていましたが父も母も気がつきませんでしたし又気をつけている余裕すらありませんでした。

 

私は十六歳の年頃だったので用心の為わざと顔になべのすみをぬりたくって髪も汚くし着物も変に着てまるで気狂いの様にして、父と母の間にすわっていました。

 

この壕に来たのは夜の八~九時頃だったと思いますが、日本兵がやって来て「この壕に入っている者は全部出て来い」と云った。

 

父が「ハイ」といって出てみるとピストルを持ったまだ若い日本兵「弾をはこべ」と命令した。父は「足をケガしているので思う様には運べないですが」と答えていた。日本兵は中で母と抱きあって坐っている私達を見とがめて父に「あの子もだせ」といったが、父が「あの女達は病気で絶対助かせない」といった。私はむくんだ足を兵隊に見せたら「これは駄目だ」と云われて助かった。

 

父もケガしている足を見せたが「これくらいで歩けないか一度位なら大丈夫だから弾をはこべ」と強制的に云われ、父も断わってピストルでうたれたら大変だと思い行く事にしました。

 

弾を運ぶとおわん一杯の米がもらえるのですがとても危険な仕事なのです。

 

父はその日の夜中二~三時頃に出発して一日たっても帰って来ませんでした。翌朝になっても帰って来なかったのでもうやられてしまったかもしれないと思ったりしました。母と二人祈る様な気持で待っていたところ夜中になって帰って来ました。

 

父はもう一人の人と二名でもっこに弾を入れ、識名の方までその後二週間も弾薬運搬を強制されました。このままここにいたら又卵運びをやらされると思いこの壕を出ました。

 

この壕を出てから具志頭村仲座部落を通り真壁村新垣部落に行きました。

 

豚小屋の中に避難

その部落は壕はなくまだアメリカ軍にやられてないので、かやぶきの家が沢山ありました。

 

私達も空いているかやぶきの家に入っていました。この部落で、弁が岳の壕で一緒だった玉那覇夫婦と偶然一緒になりました。

 

ここでは飛行機も余り来なかったので、明るい内でも炊事をしたり畑からいもを掘って来たり割とのんきにすごしていました。

 

ある日、炊事をしている煙がみつかったのか、突然爆撃されました。

 

時間は朝の十時頃でしたが、私達のいるすぐそばのいもや野菜を洗うため池にも爆弾がおちて、その音におどろいて私は外にとび出しました。とび出したところが豚小屋の前でした。その豚小屋は金持の家のものらしくアワ石できれいに作られてありました。

 

その豚小屋に父、母、私、それに玉那妹のおばあさんは避難しましたが、玉那覇のおじいさんは汚たないと云って入りませんでした。

 

昔は豚小屋に人間の便所があったものですからこの家の豚小屋も豚はいなくても便がたまっていました。

 

父は家の裏からかやをもって来て便所にかぶせてくれましたがとても臭くてたまりませんでしたが奥の方にひっこんでじっとしていました。バラ、バラととんでくる弾で前の家の屋根がふっとぶ様子を見て恐ろしくなり、玉那覇のおばあさんは「おじいさん早くここにいらっしゃいよ」と何度も呼んでいましたが、おじいさんは「どこにいても死ぬ時は死ぬのだからそんな汚いとこは嫌だ」といって絶対豚小屋には来ないのです。そして身体をむしろでまいて大きなフクギの木の間に一人かくれていました。

 

やっと攻撃がやんだので父と母が外に出て、「皆元気か」と呼びかけたので私はまだ恐ろしくてガタガタふるえながらも出て行きました。玉那覇のおばあさんも出て来て「オジイ、ンジティメンソーレ」(おじいさん、出ていらっしゃい)と呼びましたが何の返事もないので、このおじいさんはねてしまったのかなと思って、むしろをあけたら、首を吹き飛ばされて胴体だけになっていました。それを見てびっくりして、「おじい、おじい」と泣きました。玉那覇のおばあさんは「ワッターオジイ、サットンド」(私のおじいさんは死んでるよ)ともう放心状態でした。このショックでおばあさんはずっと気がふれてしまいました。私達も身近におきたこの事件で本当に戦争の恐ろしさに唯ぼうぜんとしてしまいました。おじいさんの死骸は父が古屋敷に穴をほって直ぐうめたらしいです。

 

私はもう悲しくて見る事が出来ませんでした。玉那覇のおばあさんはその後どこに行ったのかはぐれてしまいましたが激しい爆撃で気にとめる事も出来ない位でした。こんな悲惨な戦争になると人の事を気にするというより自分の身の安全を考える事で精一杯でした。戦後、玉那覇のおばあさんには再会しています。

 

こんなことがあってもうここにもいられないという事になり、この部落から出る事になりました。そして与座岳の方へ逃げました。逃げまどう多くの人は西へ西へと向っていましたが、私達は母が皆の行くところは敵にねらわれてるからと反対方向に進みました。皆の行く先は糸満方面の様でした。

 

与座岳で適当な壕をみつけて入ろうとさがしましたが、全く壕がないのです。そして摩文仁の近くまで来ました。もうその時は六月の中旬になっていました。

 

絶体絶命の状態

私達が入っていった部落はまだ爆撃されてなくその前後の部落はものすごく爆撃されていたので人々はどっとこの部落に入りこんで来て一杯になって、そこにもおれない状態でしたし友軍の兵隊に海に逃げなさいと云われこの部落を出ました。

 

米須近辺で、土がもり上っている感じのところに毛布があったのでひろおうとして取ったら真黒にふくれあがった日本兵が死んでいてその上に毛布がかぶせてあったのです。

 

手を洗いにと池に行ってみると水を飲もうとかがんだままの姿勢でまっ白にふくれ上って兵隊が死んでいるのです。もう人という感じではありませんでした。民間人が道を通るとあちらこちらから今にも死にそうな人や兵隊が「おばさん水をくれ、食物をくれ」と云うので自分達が食べる食物もないのにと聞こえないふりして通り過しました。今の健児の塔のあたりまで逃げて来たのですが、もう逃げ場を失い四~五本位たっている松の木の間にかくれていました。後の山は火焔放射器にやられて火を吹いて全部焼かれているのです。

 

ふとみると松の木の向う側に自然壕があったのですが入口附近でおびただしい数の兵隊が死んでいるので、入る事も出来ずサトウキビ畑に逃げ込んでいたらそこもやられ周囲は火の海になり、今の内に逃げないと焼け死にすると海端のアダンの中に走りこみました。

 

二〇〇~三〇〇メートル先にはアメリカ軍の戦車が二〇〜三〇台位もつらねて来たので、もう命があるのが不思議に思える位絶体絶命の状態でした。

 

戦車のふたを開けて英語でペラペラしゃべっている米兵の姿を見てもうこれまでと観念しました。持っていた荷物の中から着物をとり出しきちんと着け、食物も食べ、荷物はそこで全部捨てました。

 

米須 日本兵や住民を撃つ「友軍」

前門のトラ、後門のオオカミ

すぐヒューヒューという音がして砂地の砂がとぶのでおどろいてみると友軍の兵隊が小銃をうっていたのです。

 

民間人がゴソゴソするので自分達がみつかるのを恐れてか米兵にではなく同じ日本人めがけてうっていたのです。その弾が父の顔をかすめてけがをしました。姿はかくれていて見えなかったのですが後の方で「こら!おまえ達出て行け」と日本兵がさけんでいたが私達に云っているのか他の人に云っているのか分らなかった。すると近くで赤ちゃんの泣き声がしてそこにも日本兵の弾がうちこまれ殺されました。

 

この海岸あたりに来てから、こうして日本兵によって民間人が殺される場面を一度ならず見ました。

 

アメリカ兵は日本兵に対してうって来るのであって、民間人と分ればうたなかったものですから無差別にうって来る友軍の兵隊の方がアメリカ兵よりも恐い存在でした。

 

私達が今まで生きながらえて来れたのも母がいつもいっていた様に人のいないところが安全だからと三人だけで行動したせいかも知れません。逃げる時でさえ、他の人が後にくっついて来ると母が嫌な顔をしたものです。それに米兵にねらわれている日本兵のそばにも行かない様に注意していた為なのかもしれません。

 

赤い綿入れの羽織の私と、えりまきをした母、それに手ぬぐいでほおかむりしている父の三人はアダンのしげみの中でしっかりと手をつないで身じろぎもしないでひそんでいました。アメリカ軍は海からこちらに向ってパンパンと機銃掃射してくるし、こちらでは日本兵に小銃でいつやられるか分らないという両方からの圧迫感にたえられずにアダンのしげみから砂場に出ました。

 

もうやられるならやられてもいいという覚悟が出来たので逃げる場所のないこのあたりでは満潮の時は岸にいて、干潮の時には波がヒタヒタと足元までくる位のところまで下りていきました。

 

この場所では、捕虜になる一週間前に日本兵が同じグループの日本兵に殺されるのを見ました。「おまえ達どうせ助からないから出て行け」と云う事でその内の三名がフンドシ姿に銃砲をかついで海に歩いて行ったのです。海に身体がつかったと思ったとたん岸に残っていた兵隊によって撃ち殺されました。

 

初年兵かそれとも沖縄の兵隊か分りませんがパンパンパンという音と共に「イタイ」と大声で叫び海にもぐる様なかっこうでしずんでいきました。

 

余りの事にびっくりして見ていたのですが、突然「おい君達今のを見たか」と大声でどなられたがそれは私達に云われたのかどうかも分りませんでしたが、殺されるかもしれないと思い、音をたてないようにその場を離れました。

 

女学生の集団自決

近くの海辺では女学生~五名が手榴弾で自決していました。身体はバラバラにとびちり服も引き裂れて何とも哀れな少女達の姿でした。まだ自決したばかりなのでしょう、波にも洗われずにいました。

 

普通の時でしたら、可哀相で涙も出る様な光景なのに、ああここ でも又死んでるのだな位にしか感じませんでした。

 

海岸はこんなむごい状態で前に進む事も出来ず、又後に下って普通では登れない岩と岩の間を父に助けられながら上りました。この場所は満潮の時には、潮がみちてくるのですが岩にすがって いれば大丈夫なところでした。

 

砂浜で、捕虜

その岩場にいる時、飛行機が低空してきてその飛行機から「ここにいらっしゃる皆様をぜひ安全な地帯につれて行きますからもう少し先にある砂浜に白いてぬぐいをかかげて出て来て下さい」と二世と思われる人が呼びかけているのを聞いて、こんな事を云っているけど信用して出て行ったら、きっと殺されるよと話し合っていました。

 

私も「どうせ死ぬのだったらここで死ぬより上にあがって皆と一緒に死んだ方がいい」と父に云いました。

 

父も母も私と同じ気持だったのでしょう。「この子の云う様にここから出ましょう」と思いきって出て行ってみると、もうそこにはアメリカの兵隊がいて私達に「おいで、おいで」と手まねきしていました。私はビックリしてすぐには行く事も出来ませんでした。父に云われる通りしなさいといわれ、たった一つだけ持っていた鍋もおいて私達は「捕虜」になりました。

 

そこには先程から小銃で同然の兵隊や沖縄の住民をうち殺していた日本兵が銃を捨て白い手ぬぐいを持ってそこに立っているではありませんか。私はもうてっきり自決なりアメリカ兵によって殺されたとばかり思っていたものですから、その姿を見て何とも云えない気持でした。

 

「捕虜」になった私達は砂場のところにあった上陸用の舟艇にのせられました。パタンとふたをしめてコロコロと海の中に入っていくこの船にびっくりした。

 

船中にはアメリカ兵が二~三名のっていて、私にアメリカ製のタバコをさしだした。てっきり毒だと思い手を出さなかったがタバコだと分ると父も母もタバコが好きだったものですから私にもらいなさいと云われたので一本ぬきとったらアメリカ兵がライターで火をつけてくれました。今まですった事もないタバコにむせてゴホン、ゴホンしている私をみてアメリカ兵は大笑いしていました。母がとってすったのですが、これ又強すぎてフラフラになっていました。

 

アメリカの兵隊はコップに水を入れて来てくれたりしてとても親切でした。

 

沖で上陸用の舟艇が止ったと思ったら目の前に大きな軍艦が停っていました。軍艦で船酔アメリカ兵が捕虜の私達一人一人をまるで荷物をはこぶ様に小わきに抱えて軍艦の細ばしごを上り下りして軍艦にうつしました。

 

軍艦には半分は日本兵、後の半分は民間人の割合で捕虜になった兵隊があまりにも多いのにびっくりしました。

 

船の中では「皆さん何も心配しないで安心していて下さい」とクラッカーや魚のかんづめの配給がありましたが、私はすごく船酔いして苦しくて何も食べる事が出来ませんでした。アメリカの兵隊もこれを見てこれではいけないと水を持って来てくれたりガムをくれたりしました。ガムを持って来てくれたのが黒人兵でこういう風にかんで捨てなさいと手まねで教えてくれるのですが、黒人兵の顔をみているだけでも恐くて、父の話では今にも泣き出しそうな顔をしていたそうです。当時、ガムなどかんだ事もなかったので、てっきり薬だと思いのみこんでしまい、その黒人兵は変だなあと首をかしげていました。

 

当時の私達は鬼畜米英といって鬼の様に恐ろしいものとして教えられていたアメリカ兵に親切にされたので意外に思いました。二~三時間位も船にゆられてとまったところが糸満沖でした。そこで又上陸用舟艇にのせられて海辺におりたちました。

 

捕虜収容所

そこにはテントが沢山はってありました。水道などもあってそこでは上半身裸のアメリカ兵が今まで見た事もない色ものの海水パンツをつけて水あびしていました。

 

軍艦から下りたった数百という私達捕虜はまっ先に目に入ったこの様子に唯びっくりしていました。

 

そして、これで私達はアメリカの奴隷にされてしまうかもしれないとか、ここからアメリカの戦車にのせられて流の真中に捨てられる運命かもしれないと口々に云ったりして皆で抱きあって泣きました。

 

軍艦から降されて最初に述れて来られたのは幸地腹門中墓があるところでした。そこにはいずみがあり、アメリカ兵達が水筒に水をくんでは皆に飲ませようとしましたが、毒でも入れてあるのではと尻込みして誰一人として飲もうとしませんでした。私も数百人といる捕虜達を殺すにしては変なやり方だなあと思ったりしましたが飲みませんでした。アメリカ兵は皆が疑っているので安心させる為に自分が飲んでみせたので皆はやっと飲みました。そして収容されたのが豊見城の座安あたりの部落でした。

 

そこでは友軍と一緒にいた看護婦さん達がアメリカ軍に看護婦さんとして使われて私遂にDDTをまいてくれました。

 

そして日本兵、防衛隊、民間人男女の四か所に分けられそれぞれを金網でしきってありました。金網ごしに父の友人がみえその友人は防衛隊の区分の中に入っていました。その人が父にそこは女の人が入るところであんたはそこじゃないよと云われたものですから父も深く考えもせず「ああ、そうか」とすぐ母と私のいるところを離れ友人のいる防衛隊の区分に入ったものですからもうそのまま出してもらえなくなりました。

 

石川収容所

そこで父と離れてしまい、母と私はトラックにのせられて連れて行かれたのが石川の収容所でした。

 

船でテントが沢山はってある糸満の海辺に下りたのがたしか六月二十三日頃だったと思います。昼、その日の内に知念、山原、石川の各収容所に連れて行かれたのですが、それも各人の行先きが初めからきめられていた訳でもなくトラックが、三〇台位もずらりと並んでいて、そのトラックの何台日から何台目迄は知念それから石川という風にふり分けられたのです。

 

夕方の六~七時頃になって着いたのですが、どこへ行ったらいいかも分らず、皆思い思いの方へ散っていきました。むしろもなくかやを敷いてやすみました。夜が明けてびくりしたのですがそこは大きな金網の中で沢山の人が入っていました。そしてめずらしい事にこの石川の部落には家もてんてんとあって、いもを炊くにおいや湯どうふのにおいさえしているのです。収容所の中ではみんなはむしろもなくかやを救いていましたが、大きなドラム縦の中に砂糖水といもが入っていてそれが配給になりました。この収容所はもう二~三か月も前からあったそうです。私が死ぬか生きるかと逃げ回っていた頃にもここにいる人達はちゃんと食事をして生活していたのです。

 

捕虜になったのは、私達が最後の方でしたから、誰か知りあいがいないかと収容所には沢山の人が見に来ていました。その中に母の兄嫁にあたる人がいたのです。母は具志川の人でしたから、母の兄嫁もこの石川の収容所に誰か知りあいの人がいれられてないかと見に来ていて幸いにもみつけられたのです。母は何度も死ぬ様な目にあいながらやっとここに来た事などを兄嫁に話して抱き合ってお互いの無事を喜こび泣いていました。こうして母の兄達にひきとられ、家もあてがわれて石川で生活する様になりました。

 

父は屋嘉収容所

糸満で防衛隊の区分の中に入ってしまったばっかりに私達と離れ離れになっていた父もどこにいったか分らず心配していましたが、父はその時防衛隊の人達が連れて行かれた屋嘉の収容所にいました。父は防衛隊員でないといったのですが最初は信用されず、やっと証明する事が出来て数か月後に釈放されました。父は屋嘉から帰る時に石川でおろされたのですが、まさか私達母娘がそこにいるとは思いもよらなかったようです。

 

父と再会

私は軍から炊事班として配置され働いていたのですが、そこで「兵隊達が釈放になってこの部落に来ていますからお父さんなどいない人は皆さがしに来なさい」とマイクで呼びかけていたのを聞いて、何げなくうちのお父さんも来ていないかなあと軽い気持でみにいったところ、P.W(民間人以外の捕虜)と黄色いペンキでかかれたH・B・T(アメリカの軍服)を着た父がテントのそばの草花がはえているところにポツンと一人だけ立っていました。直ぐには父だとは信じられませんでしたが、「お父さん」と呼んだら「オーてるこ!」といったので父に抱きついてうれし泣きしました。父は「一緒にここに来た人達は皆それぞれ引きとられて私一人残ってしまったので、お前達はここにはいないと思ったよ」といって久し振りに親子三人揃った事を喜こびあいました。生きていられたのが不思議と思える危険な目を何度もくぐりぬけて、~捕虜々になった途端、不本意にも父と離れてしまって、心の休まる間がなかったのですから、この日の再会は忘れる事が出来ませんでした。戦争で何もかもなくしてしまいましたがこうして親子三人何とか無事でいれた事が一番だと云ったのも数日しか続きませんでした。父も軍の仕事をする様になって、その仕事で大ぜいの人達と西原飛行場に作業に行ったのですがそこを抜けだして首里を見にいっていたのでした。

 

その頃の首里は荒廃して、人が住めない状態でしたが、知念の収容所にいた人達二〇~三〇人が先発隊となって、人が住める様にと色々の作業をしているそうだという噂を聞いて父も矢もたてるたまらずに団体の中から抜け出したまま帰って来なかったのです。

 

突然の母の死

母は戦争では九死に一生をえ、「捕虜」になったと思ったら、そのまま生き別れになり、やっとさがして一緒になれたのもつかの間、二~三日で又父は帰らなくなったのを心配して持病の胃けいれんの発作を起して意識不明になり、当時は医者がいなくて、そのまま息を引きとりました。父の帰ってくる二~三時間前の事でしたから、父は母の死にめにも間にあいませんでした。母の突然の死に父もぼうぜんとしていました。皆がバタバタと死んでいった戦争では生き残り、つい昨日まではピンピンしていて唯一度の発作であっけなく死んでしまったのですから私はこの時程運命の皮肉さを感じた事はありませんでした。

 

父もそれ以後は首里の方の仕事をして、早く首里に帰れる様運動をしていました。その後山原、石川あたりから次々と首里に帰って来ていました。

 

荒廃の首里

私が戦後はじめて首里にいったのは嘉手納航空隊で炊事の仕事をしている頃でした(当時は皆米軍の車にのせてもらって食糧や道具をとりに色々な方面に行っていたものです)。米兵から「何かとりに行くものはないか」と云われ首里に連れて来てもらいました。ちゃんとした道はなく、地図を片手に来てみたのですが、あたりはガレキの山でやっとの事で桃原の辺りまでは来たのですがその先自動車も行けずそこで車をとめて山川の方まで来ましたが山川の裏通りの辺では軍服を着けた日本兵がミイラ状になってゴロゴロころがって、戦争前の美しい首里のおもかげは、全く無くなっていました。柳ごおりがあったので開けてみたら幼児の死がいが入っていました。

 

いくさでやられたのを葬る間もなく逃げなくてはならずこおりの中に入れてあったのでしょうが、あちらこちらでこういう事を知るにつけ今さらながら戦争のおそろしさにふるえあがりました。

 

野菜が豊作

私達若い者は嘉手納、読谷、それに糸満あたりまでも食糧さがしに出掛けました。どこにいっても焼けた家とか人間の死がいが肥料になってか野菜がおどろくほどとれました。冬瓜、カボチャ、イモ等今までにない位の大きさでした。それらをトラック一杯もとってきて、個人のものになるのはほんの少しで、後は倉庫に入れて皆んなでわけて食べるのですが、若い人達のお陰で野菜も充分食べれると皆んなに喜こばれました。私達若い者は毎日軍に働きに行ったり、食糧を捜しに行きました。通訳をしていた小橋川さんという人の命令で学校が作られる様になりました。だが学校といっても本もなくノートや鉛筆さえなく唯口述で教えるといった程度でした。

 

でもあの時分は教育より何とか働いて食いぶち位は稼がないとやっていけない事もあって三か月位で学校をやめ軍の炊事の仕事をしました。

 

祖母の遺骨

墓の中においてそのままになっている祖母は戦争が終ってずっと後になってから遺骨をひろいました。遺竹ひろいがさかんになったのは終戦後五年位もたった頃だったと思います。父と私もその頃に行ったのですが壕のある山にはあちらこちらに白骨がゴロゴロところがっていて、まだ手がつけられていない状でした。祖母は私達が、安全な場を見つけてくるから、それまではここを絶対動かないようにと云いおいた言葉を守って、そこで寝たままの姿で白骨化していました。祖母の死んだ日もはっきり分らないので、遺骨を持ち帰った日を死んだ日として年忌を行なっています。父のいとこの親類で一家全滅した人達の骨もそのままあったので父のいとこ夫婦と一緒にひろいました。その人達のトウトウメ(仏城)は父のいとこが持って供養しています。一家六名全滅と思われていたが四~五歳になる女の子だけは生きていたのです。その子は眠っていたらしく他の五名は死んでいたのでその眠っている女の子も死んでいると早合点したのです。後でその女の子がアメリカ兵に抱っこされているのを他の親類の人がみかけたらしいが、そのまま孤児院で大きくなり今は謝刈あたりに嫁いで、子供もあるらしいと風のたよりに聞きました。その女の子の家は財産家で、今の城東小校の敷地に家があったそうですが、「カマドゥグッ」と呼ばれていたその女の子は事情も知らないまま他家にとついでいるのです。

 

首里に帰還

首里へ引揚げ

私が首里に帰って来たのは軍の炊事の仕事をしていた頃、住んでいた家が火事(今の宮森小学校のあたり)になり、焼け出されたのが転機となって石川から首里に戻って住む様になりました。首里での住まいは、勤め先の軍から材料をもらいうけて建てました。

 

私は、勤め先が遠くなったので、軍の炊事班の仕事をやめました。ちょうどその時に、やはりアメリカ軍の病院が、看護婦募集をしているのを知り応募しました。

 

学生時代からなんとなく看護婦という職業に憧れていたし、また戦火に追われている病院壕の中で、爆弾で負傷し担ぎ込まれてくる兵隊を、衛生兵や軍医が手当したり手術したりするのをこわごわとみていたので、多少の経験があるということにして採用されました。それ以後、私は結婚をした後もその陸軍病院に勤めており、今もなおその病院で勤務しております。

 

米兵と戦争体験談

その間朝鮮戦争ベトナム戦争などがあり、この陸軍病院は戦場と直結しており、私にとっては、沖縄戦でみてきた砲弾に傷つきたおれていった人たちの面形が、人種は異なるもののこの軍病院で看設するアメリカ軍の傷病兵とダブってみえるものですから、あの鳥尻を壕から壕へ逃げ回わっていた悪夢のような出来事が、いつでも頭に浮かんできます。

 

実際、病院には私同様に戦火に追われた同年の看護婦仲間がおりますので、折にふれて彼女と戦場での体城を話しあいます。その場合、大てい傷病兵や同僚の米兵も話に加わっております。ほとんどのアメリカ兵が、私たちの話を真剣に聞き入って、なかには、涙を流して聞いている人もいました。

 

私たちが接する若いアメリカ兵には、その父親、親類、知人などに必らずといっていいぐらい沖縄戦を経既した持主の人がいるものですから、本国にいる時から、断片的に沖縄戦の話を聞かされているようでした。

 

なかには「僕の叔父は、戦争中沖縄人を殺したらしい」と私達の話を聞いて、そう話す若いアメリカ兵がいたので、私は彼に向かって「それでは、ユーの叔父が、私の母を殺したのだ」といってやると「アイムソオリー」といって涙ぐんでおりました。

 

このように私から体験を聞いたアメリカ兵のなかには、本国へ引き揚げてから父や親類の人などが、沖縄戦の記念にと持ち帰えっていた写真を私の方に送り届けてきた例が、これまでに数回もあります。裏に住所を記してある写真は、持主のところへ帰えった場合もありました。 

 

首里市民の戦争体験 (座談会)

浦添村経塚松本チヨ(二七歳) 浦添村経塚富原カメ(三二歳) 首里市大名富原盛光(三六歳)

十・十空襲以前

松本 当時(戦争中)の家族構成は、おじいさん、おばあさん(六一歳)、夫(二八歳)、私(二七歳)、長男の実常(四歳)、長女の和子(六歳)、夫の妹と合わせて七名家族でした。しかし、私は、今度の戦争で、長男の実堂と長女の和子を失ってしまいました。

 

富原 私の場合は、夫と、私と、長男の盛数の三名家族でした。だけど、夫は召集されて、最初は、本部村に行き、それから、伊江島に渡って、そこの任務についていました。

 

松本 その頃、大名部落には、石部隊という日本軍が駐留していて、兵隊は各家庭に分散して同居していました。私の家には、炊事兵が同居していたので、炊事場として使用されていました。でも、最初から石部隊が駐留していたのではなく、初めは、球部隊というのが、昭和十九年の七~八月頃に、大名部落へ入ってきて、駐留していました。その後、十・十空襲の直前に、石部隊が入ってきて、先に駐留していた球部隊がどこかへ移動しました。大名部落には、球部隊が駐留していた時に、部落内の一か所に、兵舎が建てられました。しかし、その兵舎は、二か所とも、合点や、馬小屋に使用されていて、兵隊は、各家庭に分散して同居していました。

 

富原 球部隊の次に、石部隊が、各家庭に入りこんだということの裏には、部隊は、支那帰りの戦闘部隊で、球部隊は、後方部隊だったので、石部隊の力が強かったためだと思われます。

 

松本 その頃、一般住民も、軍に徴用され、私の家族も、全員、徴用されていました。しかし、夫は、平良町にあった比嘉という、軍のみそやしょう油を作る工場で働いていたので、微用は免れていました。費用は、主に壕堀り作業で、給料は、日給で、男が二円、女が一円位でした。十・十空襲以前は、空襲警報が瞬った場合は、どのように対処す.れば良いかということなどで、毎日、防空訓練がありました。

 

十・十空襲以後

十・十空襲以後は、もう、ここにいると危険だから、すぐ国頭へ避難するようにとの命令がありました。それで、翌日の夜、近所の人々と一緒に、国頭へ向けて出発しました。しかし、その頃は、車も、そう多くはない時代でしたので、私達は、歩いて宜野湾まで行くのがやっとで、もうこれ以上は行けないと判断して、結局は、また、大名部落へもどることになりました。その後は、十・十空襲のような激しい空襲はありませんでした。でも、米軍の偵察機は、ひっきりなしに、上空を飛びかっていたので、空襲警報が鳴った時は、急いで壕に避難していました。

そのような生活が、旧の二月頃まで続いていました。旧の二月の彼岸の頃のある夜半、私達の家に同居していた石部隊の高木上等兵(炊事係)を密兵が「高木上等兵殿、高木上等兵殿」と呼び起こして、「今、南西諸島から、優勢なる機動部隊が沖縄へ向かっているので、明日からは三時に起きて、炊事の準備をするように」と連絡しに来ていました。私は、そのことを聞いていたので、翌日、高木上等兵に、「昨日、番兵はあのようなことを連絡しに来ていましたが、私達は、ここから避難した方が良いのでしょうか?」と聞きました。すると、高木上等兵は、「なるべくなら、頑強な壕に、避難していた方がいいでしょう」と答えたので、私達は、経塚部落の方へ避難しました。そこには、実家の避難壕があったので、そこで、四~五月頃まで、両親や親戚の人々と一緒に生活していました。その頃から、富原家の人々と一緒になりました。

 

富原 昭和十九年の四月に、夫は、読谷飛行場に警備員として勤務することになったので、父親が、「親子二人では、心細いだろうから、私達と一緒に住みなさい」と迎えに来ていたので、私は、長男の盛数と一緒に、儀保町から、実家の経塚部落へ移り、両親と一緒に生活するようになりました。七月になって、夫に、第二回目の召集令状が来たので、夫は、勤務先の読谷飛行場から、そのまま球部隊へ入隊しました。

夫は兵隊帰りだったので読谷飛行場に、警備員として勤務する以前に、儀保町で、民間人に、ワラ人形を竹ヤリで突く練習をしたり、焼夷弾が落ちた時の防火訓練などを教えたこともありました。私が、儀保町から、経塚部落へ引揚げて、そこで両親と一緒に生活していたとき、おじいさんに徴用があった場合は、おじいさんは老いて働けなかったので、私が代わりに出ていました。その頃、私は、妊娠三か月の身重だったけれど、牧港の日本軍陣地へ、壕を掘りに行ったこともありました。このような生活をしながら、十・十空襲を迎えました。

十・十空襲の当日も、私が住んでいた経塚部落には、石部隊と、「球部隊が一緒になって、防術の任務についていました。石部隊は、戦地帰りの戦闘部隊だったので、飛行機の爆音が聞こえたとき、あれは、友軍の飛行機ではないと気づき、すぐ、反撃退勢をとっていました。しかし、球部隊は後方部隊で、戦闘の経験が浅かったため、飛行機の爆音だけでは、敵機と、友軍機の区別ができず、爆弾を投下されてから、あわてて、反撃態勢をとっていました。

その日(十・十空襲の日)はまだ避難壕は掘ってなかったので、私達は近くの弦に、避難していました。十・十空襲以後からは、艦砲射撃も激しく行なわれるようになったので、それからは、壊生活を余儀無くされるようになりました。

 

松本 十・十空襲以後、私は、長男の北部と、長女の和子を述れて、経塚の実家の方へ避難しました。私は、その頃、妊娠五か月だったので、そこ(実家)では、働くということはせず、食べたり、寝たりの生活でした。

 

米軍上陸

富原 米軍は、四月一日に、嘉手納や北谷の海岸から、沖縄本島に上陸しました。「米軍は、本島に上陸する以前は、玉城村の港川部落に、口本軍の大砲陣地があったので、そこに、毎日、激しい艦砲射撃を加えていました。そのため、私達が避難していた壕も、艦砲のため、そのたび、ゆさぶられる程でした。

 

松本 日本軍の作戦は、米軍は、必ず港川から上陸するだろうと想定して、港川に陣地を構えていました。しかし、米軍は、港川は、日本軍の抵抗が激しいので、上陸が困難だとみると、すぐ作戦を変更して、嘉手納や北谷の海岸から、ゆうゆうと上陸してきました。

 

壕の中で出産

壕の中で出産

富原 その頃は、「日本軍が、米軍を撃退して、一日も早く、平和な日々が訪れて欲しい」と、そのことばかりで頭がいっぱいでした。私が、子供を出産したのは、艦砲射撃の最も激しい時期でしたので、家の中で産むこともできず、避難先の壕の中で出産しました。その時、その塚には、親戚の人々が、ひしめきあって入っていたので、私は、横になって出産することもできず、塚の片隅で、坐わったままで、出産しました。

 

米軍攻撃の地点へ食糧取り

松本 その後、米軍が、浦添城跡のところまで、侵攻してきたので、石部隊の人が、「ここにいると危険だから、早く島尻の方へ避難しなさいよ」と促したので、私達は、その日の夕方、大名部落の自分の家に帰り、そして、家の向いにある姑へ、親戚の人々と一緒に避難しました。.しかし、その益は、あまりにも人数が多かったので、全員が入ることはできませんでした。そこで、近所の、氷山のおばあさんが、「そこには、そんなに大勢の人は避難できないので、あなた達は、私達の塚に来なさい」と誘って下さったので、私達家族だけは、親戚の人々と別れて、ウシヤチガマというところに避難しました。

後日、家の方へ、米を取りに行ったら、米は盗まれていました。その米がないと、子供達にひもじい思いをさせることになるので、私は、また、経塚の実家にもどって、米を取りに行くことにしました。経塚の実家は、米も作り、貯えも豊富にあったので、米を取りに行く時は、永山のおばあさんも誘って行きました。そして、途中まで行った時、経塚部落は、米軍に攻撃されて、あたり一面、煙に包まれているのが見えたので、氷山のおばあさんは、「私は命が惜しいので、もう米は取りに行かないよ!」と言って、もどってしまいました。私も、その光景を見た時は、一瞬どうしようかと迷いました。しかし、私は、もし、米を取りに行かなかったら、家族や子供達を飢えさせることになると思って、勇気をだして、経塚の方へ向かって歩きました。夫も、最初は、ビクビクして、米を取りに行きたくなさそうな態度をしていました。だけど、私がそのまま、先に歩いていったので、後から、しぶしぶ、ついて来ていました。「やっと、経塚部落に、たどりついてみると、そこは、砲撃で大木が、根こそぎ吹っとばされたり、地形が、変形する程、激しく、攻撃されていました。私は、そこの光景を見て、もし、私達が、避難せず、そこにとどまっていたならば、今頃私たちは、全員死んでいたことだろうと思い、思わず、ゾッとしました。

そして、壕から、食糧品などを運び出していると、生き残っていた、石部隊の兵隊が、私達に、「何しに来たのだ?」と聞いたので、用件を話すと、その兵隊は、「ここは、米軍に狙われていて、敵は、電波探知機で、我々の動きを、探っているので、こっちで、咳でもしたらすぐ敵に居場所が知れてしまい、砲弾を打ち込まれるので、物音をたてずに、静かに帰りなさい」と注意していました。そして、命からがら、食瓶を持ち出して、ようやく、大名部落の避難壕にたどりつくと、私達の帰りを心配してまっていた家族の者は、私達の無事な姿を見て、大変喜んでいました。

数日後、他の親戚の人々は、尻に避難するというので、私達にも、一緒に行こうと誘っていました。しかし、ちょうどその時、夫がかぜで寝こんでいたため、私達は、二、三日後から行くことにして、両親や、親戚の人とは、そこで別れました。壕に避難していた時の人数は、奥原家が六名、宮原家が三名、盛島家が二人、私達が六名、サニデー盛島が六名、次男の盛島が五名、ジュリおばさん達が二人、喜舎場家が三名でした。その多勢の人々が連れだって経塚から、大名部落に避難し、それから、島尻に避難することになりました。でも、その頃は、空襲も激しかったので、死者もいたるところに倒れていたので、避難する途中、息子の実弟は、日本兵の死体につまづいて転んだこともありました。

 

米軍の爆撃の模様

富原 その頃は、壕に避難していても、その周辺にも、艦砲が、激しく落ちていました。また、敵機のグラマンも、台風の後にトンボが飛びかうように、無数に、飛びかっていたので、その爆音は、ものすごく、まるで、耳をつんざくような感じでした。そのグラマンは、米民のたびに、爆弾を「ガガーン、ガガーン」と投下していました。そのような空襲が、昼中ずっと続いていました。また、夜になると、今度は海からの艦砲射撃が始まり、それが翌円の明け方まで、行なわれました。

 

松本 夜に海をみてみると、敵の艦隊は、現在の那糊の街のように、電気をきらきらさせて沖に停泊していました。

 

富原 その艦隊は、夜になると、どこからともなく現われて、島を二重、三重にもとりまくような形で停泊し、艦砲射撃を加えていましたが、明け方になると、どこへともなく、姿を消して行きました。夜は、ひっきりなしに、艦砲射撃をしていたので、たまったものではありませんでした。

 

松本 その時、母が私に、「ウトー、海を見てごらん、もうこのイクサは日本の負けだよ。島の輪よりも、敵の艦隊の輪の方が大きいので、もう絶対、このイクサは日本が勝つ見込みはないので、まちがっても、勝つとは思うなよ」と言っていました。

 

出産後はノイローゼ気味

富原 その頃は、昼間は空襲が激しかったので、ごはんなどを炊く時は、暗くなってから、壕の中で炊いて、みんなで分配して食べていました。ごはん炊く時に、必要な水は、近くに田んぼみたいな水たまりがあったので、そこから汲んで使用していました。四月の末頃に、浦添城跡が米軍に攻略されました。その後、前田部落では、白兵戦が始まったので、ここにいては危険だから、早く避難しなさいと命令があったので、私達は、大名部落に避難しました。

その頃は、子供は生まれていました。しかし、食棍不足で、母乳は出なかったので、はたしてこの子は生きるだろうか、たとえ、生きたとしても、幸福になれるという障もないので、どうしたらいいものかとふさぎこんでいました。その時、夫が一緒にいたら、相談することもできただろうにと思い、つくづく夫のいないのをうらめしく思っていました。親戚の人も一緒にいましたが、でも、彼等も自分の身を守るのが精一杯で、とうてい相談する余地はありませんでした。

そのため、私が、ノイローゼ気味になっていると、母が、「そんなに悩んでくれるな。あなたがそんなに悩んでいると、側で見ている私達まで、胸がしめつけられるようになるので......」と言ったので、私はやっと気をとりなおしました。その事があってから、私は、たとえどんなことがあっても、自分の子供は、親が守って行くのが道理だと考え、水や、かつお節のだし汁などを与えて、ようやくその子の命をつないでいました。

その後、私達が、識名の場に避難して行った時、ある日そこの壕へ日本兵が、遊びに来ていました。私は、その日本兵に、「子供は生まれたが与えるミルクもないので、大変困っている」と話したら、その日本兵は、私に同情して、部隊から、ミルクを持って来てくれました。そのミルクで、島尻まで無事、子供をつれて避難することができました。

 

識名へ避難

松本 私達が、ウシャチガマに避難した後、他の親戚の人たちが避難していた基に、直撃弾があたりましたが、幸いにも、ケガ人はありませんでした。でも、直撃弾が落ちてからは、そこも危険だということで、親戚の人達は、その日のうちに、識名の方へ避難して行きました。その時、私達も一緒に行こうと誘っていましたが、ちょうどカゼをひいていたので、私達は、ウシャチガマで一週間ぐらい生活してから、職名の方へ行きました。

その頃は、戦闘が激しかったので、すぐに識名の方へは行けず、一日は、ナゲーラという所に泊まることを、余儀なくされました。翌日の朝は、識名につき、そこで、両親や、親戚の人達と会いました。ナゲーラから識名に移動する時、めいめいに、一応、弁当を持たせてありましたが、これは移動する途中、離れ離れになる可能性もあったので、こういう方法を取りました。

その日は、非常などしゃ降りのため、私以外はみんな、すべってころんだため、その弁当もどろんこになり、結局はすててしまいました。その時、私は子供を背おい、両手にも荷物を持っていましたが、不思議にも、一度も転びませんでした。

 

富原 あの混乱の中で、私達が、はぐれる事もなく、識名の方で何故親戚一同会うことができたかというと、その理由は、識名には、門中墓があったので、そこで、おち会う約束をしていたからです。私達が、大名部落から眺名に移動する時の道順は、平良町→保町→山川町→一中(首里高)を辿って行きました。でも、その時の道は、整地された当通の道ではなく、艦砲射撃によって、ガレキの山と化していて、道はありませんでした。一中に上ろうとした時は、道はくずされていて、上ることができず困っていましたが、私達より前に避難して行った人達が、板を渡してあったので、私達は、一人一人、ゆっくり、はいながらそれを界りました。

そして、一中から金城町を巡って、識名の門中墓へつきました。そこまでの道も、全部こわされて、いたるところに艦砲でやられた大きな穴があって、識名にたどりつくのは、並みたいていのことではなく、着くころは夜中になっていました。その時、私は、赤ちゃんを背おい、数の手をひいて、荷物を頭の上にのせて行きました。識名に着いてから、一週間後には、松本家の家族とも会うことができました。その後、島尻に避難する時は、他の親戚の人達とも、別れ別れに避難しました。

 

松本 門中墓では、親戚の人達とまた一緒に、避雅生活していましたが、しかし、人数が多すぎてその塾では生活することが困難とのことで、私達家族は、近くのに移りんでいました。私達が識名の門中墓に避難したのは、五月の中旬頃でした。

 

小銃弾をくぐって南下

富原 私達が、島尻に避難することになった動機は、五月の初旬頃、首里城の陣地にいた日本軍が陥落しそうになったので、「もう首里城の部隊も、陥落しそうになっているので、それに、小銃弾も、ビュン、ビュン飛んでくるので、危険だ」ということからでした。

 

松本 私達家族が、識名から島尻に避難する時は、他の親戚の人達よりは、三日ぐらい後でした。島尻に着いた最初の部落は、武富(タケドゥン)という部落でした。識名からタケドゥン部落に避難する時の状況は大変なものでした。識名から、朝の六時頃出発しましたが、その頃は、戦闘も激しく行なわれていて、避難する途中の私達の側からも、小銃弾がビュン、ビュン飛ぶようなありさまでした。そのため、私達は艦砲弾であいた穴の中に身を隠しながら避難していたので、一日中かかっても、二部落ぐらいしか越えることができなかったので、武宮部落に着くまでは、ずいぶん日数がかかりました。武富部落では二日間過しました。その後、武富部落から保栄茂部落に着きました。そして、その部落では四、五日過していました。保栄茂部落からは、照屋部落に移動しました。その時の生活は、壕を掘って避難するということではなく、人が住んでいない空屋などを転々と移り住んでいました。食糧は、近くの畑で、芋や野菜などを取って食べていました。

六月八日には照屋部落についていました。なぜ、その日を覚えているかというと、三日後の六月十一口に、二人の子供が直撃弾によって死んだからです。その照屋部落では、偶然に、集団で避難してきていた大名部落の人々と会いました。そして、部落の人達と相談して、与座岳に安全な塚があるので、そこに避難することにしました。

 

子ども二人の爆死と PTSD

水浴直後の悲劇

与座岳に向う途中、日本兵と会い、その日本兵は、私達に、米軍の宣伝ビラをみせ、「もうこの戦争は日本の負けだから、捕虜になる場合は、このビラを掲げて行けば安全だから」といって、私遂に、そのビラをもたせてくれました。しかし、伊良波であった日本兵は、「日本軍は、絶対負けないので安心しなさい」と私達を勇気づけていました。

その日本兵の言うとおり、日本の特攻隊機はどんどん飛んで来ていました。しかし、米軍は、その特攻隊機をめがけて、高射砲で激しく応戦したので、特攻隊機はほとんど撃ち落されてしまいました。その様子を見ていた私達は、「ああ、今日も駄目だったか...」とがっかりしました。

 

その後、与座岳は安全だということで、そこへ避難する途中、私達は日本軍と米軍が白兵戦を行なっている場所へ入り込んでしまいました。その時、一緒に与座岳へ避難しようとして行動を共にしていた大名部落の人々の内約三○名の人は、そこで直撃弾を受け死んでしまいました。そのため、生き残った人々は「こんなに激しく戦闘が行なわれてていると、とうてい与座岳には避難できないだろう」ということで、また、元の避難していた空家に戻りました。そして、翌日は戦闘は下火になったので、また、与座岳に向いました。その時、私は夫に、「どこに避難してもどうせ、生きる人は生きて死ぬ人は死ぬのだから、私達はここで生活しよう」と言いました。

すると夫は「いや、私は大名部落の人々と別れて、私達家族だけここに残って生活するのは恐いので、私は、部落の人々と一緒に遊難する。もし、君は一緒に行かないのなら行かなくてもよい!」と言ったので、私はいやいやながらも一緒に行くことを同意して、写座岳へめざして避難しました。その後、ようやく目的地に着いたので、背負っていた子供と荷物などを降して、休憩していました。

その日は、真夏のように暑く、また私は、人一倍汗かきの上に妊婦用の帯もしめていたので風呂でも入りたい気持でした。ちょうど近くに、水浴もできる娘があったので、私は、子供を夫にあずけて、水浴びに行きました。そして、浴び終わり、上がろうとした時、近くで、ものすごい爆発音が聞こえ、私の所まで煙がもうもうと流れてきました。これは、ひょっとしたら家族が危ないぞと思い、急いで家族が休んでいた家に行ってみると、その家は直撃弾を受けており、死者や重傷者が倒れて、騒然としていました。夫は、幸い軽傷で済みましたが、息子と娘の死体を見つけた私は「ああー、どうして死んでしまったの」と大声をあげて泣き叫びました。

 

少年兵

そのようにして、数時間も泣いている私に、直撃弾を受けながらも、奇跡的に生き残っていた、宜野湾出身の少年兵が「おばさん、もうこの戦争は負け戦だし、おばさんも、おじさんもまだ年若いので、子供達のことは不幸であるが、どこまで逃げても、必らず生きのびる気持を持ちなさいよ」と力づけてくれました。しかし、私はその少年兵に、「いや、どうせ死ぬ運命です。だから死ぬ時は子供と一緒の方がよいので、私はここで死にます」と言いました。

すると、その少年兵は、「そんなことしてはだめですよ。逃げられるだけは逃げて、守るだけは、命は守ったほうがいいですよ」と言って、隣に建っていた物置き小屋の天井装に、私と夫をかつぎあげて隠してくれました。それから、タンスの引出しを持って来て、息子と娘の遺体をそれに入れ、安置してくれました。その頃からは、いくぶんか気も取り直していたので、改めて子供の遺体を見てみると、実章は頭をやられていて、頭蓋骨は握りコブシが入るくらいあいていました。そのため、抱きかかえている私の体に血がタラタラ流れ落ちてきました。娘の和子は、背中が半分以上やられていてやっとのことで、胴体がつながっているという有様でした。

 

その後、その少年兵は「明日は与座岳に上るから」と言って、ナベや衣料品を隣の家から運んでいました。それから、私と夫におにぎりを与えて、自分も一緒に食べてから隣の家に残っていた私のおばさんにも、おにぎりを持って行くために、物置小屋を出て行こうとしました。「その時、私は、その少年兵に「米兵は近くを歩き回わっているので、もし彼らに捕われたら殺されるから、どうか外には出ないでくれ、人間は一日飯を食べなかったからと言って死ぬことはないから」と泣いて頼みました。しかし、その少年兵は、私の願いを聞き入れず、おばさんへおにぎりを持って行くために小屋の戸口の方へ歩いて行きました。その時、ちょうど、私達が身を潜めていた小屋を見回りに来た米兵に見つかり、その少年兵は、捕われてしまいました。

 

半狂乱の状態

私は、その様子を見て嘆いていると、小屋に入って来た米兵に見つかり、私も捕虜になりました。そして、米兵は私の所持品を調べ、私が、お金と位牌、写真などを入れて持っていた奉公袋を取り上げ、それからお金だけを抜き収り、位牌と写真は捨ててしまいました。私は「どうせ、私もここで殺されるだろう」という覚悟をしていたので、敢えて位牌を拾わず、そのまましていたので、今でも私の家の仏壇には位牌はありません。

 

しばらくしてから、天井裏でカサカサと音を立ててしまった夫も見つかって小屋の外に出されてしまいました。私は、当然銃殺は免ぬがれないだろうと思い死を覚悟していたので、いつ殺されるかと待っていたけれど、一向に殺す気配はなく、それとはうらはらに、傷の手当などをしてもらいました。その後、私と夫は・捕所々として、照屋部落の広場に連れて行かれました。そこの広場に着いてから、私が亡くなった子供達のことを思って泣いていると、米兵が通訳の人に「何故、この人はそんなに泣いているのか」と尋ねると、その通訳の人が、私が泣いている理由を話してくれました。すると、その米兵は「では、子供達の遺体を葬りに行こう」と言って、米兵二人に私と松本の姉の四名で行くことになりました。

 

しかし、その頃からは、私は子供を失なったショックで半狂乱になっていたので、子供達が爆死した場所もわからなくなっていたので、葬りに行くことはできませんでした。私達は、そこからスンジャ(潮平)ヌ浜というところに連れて行かれました。そこでは、傷を負った者と無傷の治とに別々に集められたので、私は夫や母と離されてしまいました。その後、夫は中城村にある病院に収容されていることがわかりました。しかし、夫と一緒に生活することはできませんでした。

その頃から、軍作業がありました。私は、お産前だったので、作業に出たら、オシメ代用にできる古着なども見つかるだろうと思って作業に行きました。しかし、米兵が身重の私を見て、あなたは作業をしなくてもよいと言ったので、私は作業に出ることはできませんでした。

 

終戦の日に出産

その後、私達は山原の方へ移りました。その頃からは、夫も一緒に生活していました。八月十五日に私は山原の収容所で男の子(実盛)を産みました。実盛が産まれる以前までは、南部で長男と長女を失なったショックで、放心状態になり、その苦しみから逃れるために死ぬことばかり考えていました。

しかし、実盛が産まれると、その子が愛しくなり、「もし、私が死ぬとその子も死んでしまう。だから、その子の命を守るために私も生きなければならない」と決心しました。そして、実章や和子の霊に「私は、今まであなたがたを失った悲しみで、毎日死ぬことばかり考えていました。しかし、八月十五日に実盛が生まれました。もし、私が死ぬとその子も死んでしまうので、その子を丈夫に育てていく決心をしました。だから、実章も和子もお母さんのことは心配しないで、迷わず極楽浄土に行って下さい」と祈りました。

子供二人が爆死して以来、この時まで私はほとんど放心状態で過ごしてきておりました。子供達から流れ出た血と棚の入り混った異様なにおいが、永い間身体にこびりついていました。身体を洗っても落ちませんでしたそのにおいは、一、二か月経っても、夕暮れ時、ぼんやりしていると漂ってきました。そしてまた子供達のことを思い浮べて、涙を流してしまうという状態が続いていたのです。

それが子供遂の霊に祈ったとたんに、これまでの重苦しい気分が取払われ、あのにおいも全く消えてしまいました。きっと神経が衰弱していたのでしょう。実盤が生まれて数日後、先発隊として夫が糸満に行く機会がありその帰りに実章と和子の遺骨を持って来てありました。

このように、私達沖縄住民がこの大戦で体験した苦しみは、現在の知識人らが戦争映画やその他の方法で、その苦しみを表現しようとしたとて、私達が体験した十分の一、百分の一の表現しかできないでしょう

 

危険な芋掘り

富原 朝の五時頃、私と松本夫婦と一緒に、真玉橋の近くへ芋掘りに行きました。その時、上空を旋回していたグラマン機がいたので、私達は、芋掘りの手を休めて、近くの茂みに身を潜めました。すると同時に、グラマン機から逃絡を受けたと思われる戦車からの砲弾が五~六発飛んで来て、私達が芋掘りをしていた場所に命中しました。その後、しばらくは砲撃もやんだので、私は、カゴに入れてあった芋だけでも持ち帰ろうと思って、そのカゴを取りに行きました。

二、三歩進むと、今度は、私の目の前で戦車砲が炸裂しました。その時、私は反射的に身を伏せて助かりました。しかし、私から三メートル程離れた所にいた女の人は、不運にも爆死していました。芋を入れてあったカゴも、跡形もなくふっ飛んでいました。その日は、もう芋掘るのは諦めてそのまま帰りました。翌日、友軍が畑の中に置き残してあったカンパンを取りに行き、それを子供達に与えて飢えをしのぎました。六月頃になると、識名の方にも小銃弾が飛んで来るようになり、もうここも危険ということで島尻の方へ避難することにしました。

 

食糧をせびる敗残兵

そして、夜通し歩き続けて「ンシュバルヤードイ」という所に着きました。そこには、兵士一人も見あたらず、もう戦争は終ってしまったのだろうかと思われるような静けさでした。ここでは、馬小屋で一晩過ごし、翌日の昼に真壁村新垣部落の方へ移動しました。ここには、大勢の人が避難して来ており、まるで大綱引の時のような人波でした。ちょうど、その日は雨降りで、私は雨だれの水でミルクを溶かして赤子に飲ませました。

新垣部落は、あまりの人出で空家に泊まることができなかったので、私達は与座岳の方へ移動しました。与座岳のふもとに着き、私達がそこでみたのは、腕や足を失った日本兵が這いずり回っている無惨な光景でした。しかし、私達も戦火に追われている身であるためそのような兵士を見ても助けることもできませんでした......。

そこから、兵壁部落へ行きました。私達が、そこで休んでいると、日本兵が来て「何か、食物を分けてくれ」と来ていました。しかし、私達は自分が食べる食糧もなかったので「何もありません」と答えました。するとその日本兵は怒って「私達は、国のために沖縄を守りに来たのに、君達は食べて、私達に食べさせる物はないのか」と言って、今にも殺しかねない権幕でした。そのため、私が「私達も、ここに避難して来たばかりで食糧もなにも持っていない」と説明して、砂糖を少し分け与えると、その日本兵はそれを受け取り出て行きました。

 

赤子が爆死

それから、私達は真壁部落の医者の家だという大きな家に、同じ経塚部落出身の人々と一緒に避難しました。その後、数分もたたないうちに、私達が避難していたその家は「「バラッ、バラッ、バラッ」という物凄い戦車砲の攻撃を受け、そこは一瞬のうちに血の海と化してしまいました。そして、奇跡的に生き残った人々も、ほとんどが傷を負って血を流していました。

その中の一人の者が、比較的無傷だった私に向って「お姉さん、どうか私に腹一杯水を飲まして下さい。どうせ私はもう助かることはないので、グソー(冥土)に行ったら、必らず貴女の後からついて行き、貴女を守ってあげますから...」と頼んでいました。そのため、私は死を目前にしている人の頼みだからということで弾が飛びかう中を、水を汲んで来て飲ませてやりました。その家が破壊されたので、私とはまた別の家に移りました。しかし、その家も戦車砲の攻撃を受け、その時に私が抱いていた子供は、チチクビ(粘土と石で造ったカマドの側の壁で、耐火性である)に命中した弾の破片と石に当たり死亡しました。

そのことがあってから、私はもう生きる気力も逃げる気力も失なって、茫然と立ちつくしていました。その時、四歳になる長男の盛数が「母ちゃん、早く逃げよう! 赤ちゃんだって、ボクが抱いていたら死ななくて済んだのに...」とっていたことが、今でもはっきりと記憶に残っています。

 

野嵩収容所

不潔な収容所

その日(4月中旬頃)に私は「捕虜」になりました。「捕虜」になってから、最初に座波賀数という所に連れて行かれました。そして、その日、夜の十時頃から、宜野湾の野嵩の方へ移動させられました。

野嵩の捕虜収容所は、テントの木の葉を敷いただけの簡素なものでした。それに、そこは水もなく不潔な生活をしていたので、盛数が腸チフスに感染してしまい随分苦労しました。また、ここでの生活で一番恐かったことは、そこの収容所には沖縄人の班長がいて、その班長に虐待されたことです。その班長は、皆から恨まれていて、私も、あまりの憎さに殺してやりたいと思った程です。

その後、野嵩の収容所は水がないということで、私達は山原の方へ移動させられました。その頃、夫は捕虜となってハワイに連れて行かれていたので、生きているのか死んでいるのかということもわからず消息は全然つかめませんでした。

 

伊江島で防衛隊

伊江島体験

富原盛光 私は、兵士として召集されると、郷土防衛隊として伊江島の守備につきました。伊江島は、毎日大激戦が続いていました。私達の隊は、一個小隊三〇名程いましたが、ある日、陣地にいるとき、直撃弾を受け、私を含めて四名は奇跡的に助かり、その他の人々は爆死しました。しかし、生き残った私達も爆風で傷を負っていたので、伊江島タッチューにあった米軍の病院に収容されました。そこの病院で、二週間ほど治療を受け、それから屋我地の方へ移動させられました。

数日後、今度はハワイの方へ移動させられ、そこで二か年間捕虜生活を送りました。捕虜となって、ハワイへ護送される時の船内での生活は、着物も食事も十分に与えてくれたし待遇はよいほうでした。

捕虜になる以前、伊江島での戦闘中の生活は、「一人でも多く、「敵兵を殺すことが国のためである」という軍隊教育をされていたので、敵兵をいかにして倒すかということに必死で、妻子のことなど「考える余裕はありませんでした。しかし、戦闘がない夜などは「妻子は果たして生きているだろうかと思い浮べることもありました。

 

日本兵に打ち殺された沖縄人女性

日本の敗戦が濃くなってきたとき、私と一緒に伊江島の守備についていた九州出身の日本兵の間に、「日本が敗けたのは、沖縄県民の中に米軍のスパイがいたからだ」という噂が流れていました。四月十四、五日頃、ある日住民と日本兵が同じ防空壕に避難していたとき、二世の米兵が「もう戦争は終わった。ここには食べ物がたくさんある。早く出て来い」と壕の入口で呼びかけていました。

その時、外に出て行こうとした婦人を本土出身の日本兵が射殺してしまいました。そのことがあってから、私達沖縄出身の兵隊は怒って「民間人と軍人とは別じゃないか、あくまで、民間人をスパイ容疑で殺するなら、私達は、お前達を殺すぞ!!」と言って、本土出身の兵士と沖縄出身の兵士が、銃を構えて対立しました。でも、その対立も、今後民間人を虐待しないということで決着がつきました。

 

もう、こんなみじめな戦争は二度としたくないですね。それに、子や孫にも絶対そんな戦争をあじわわせたくありません。

 

復帰後、沖縄にも郷土を守るという名目で、自衛隊が配備されていますが、この自衛隊が旧日本軍のように、再び悲惨な戦争を引き起こさないかと非常に心配です。私が、一番恐いのは、日本がまた徴兵制度をしいて、もし彼兵拒否でもしたら、国賊と思られるような、軍国主義国家になるのではないかと心配です。もう、二度と子供は戦争にやりたくないですよ......。

 

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米国海軍: Life in the camp for Jap refugees at Sobe, Okinawa in the Ryukyus. A Jap woman mends dress of her baby (on her back).
楚辺の民間人収容所での生活。おぶっている赤ちゃんの着物を繕う日本人女性。

写真が語る沖縄 – 沖縄県公文書館

 

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