沖縄戦証言 首里 (2)

 

奇跡の生還後 (座談会)

首里市大名大山盛吉(三十歳)

同大山米子(二四)

台中丸の撃沈

1944年(昭和19)4月12日には、神戸港から沖縄へ向かう途中の貨客船・台中丸(3213トン)が奄美諸島与路島沖合で米軍潜水艦によって撃沈された。老幼男女約300人(一説には約1000人)の乗客のうち、生存者は147人(一説には90人)だったという。船客の大半は女性・子ども・病人で、切符の乗船者よりも飛乗り客が多かったともいわれ、その数は定かではない。生存者は奄美大島・古仁屋の陸軍病院西本願寺に収容されたが、軍事機密保持のために約二ヶ月間軟禁された。沖縄に引揚げ後も、生存者は遭難事件について語ることを禁じられ、憲兵特別高等警察の厳重な監視をうけたという。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四節 「読谷村戦没者名簿」からみた戦没状況

徴用で南方へ

盛吉 私は大阪の相互タクシー会社で運転手として働いておりました。昭和十六年十二月に軍属として二か年間の徴用を受けて十七年元旦大阪を出発、姫路へ行き、そこから最初フィリピンのダバオに到着、そこで約一か月ボート等いろんな訓練を受けました。それからダバオを出発しましたが行先は不明、着いてはじめてボルネオだと聞かされました。当時は日本軍が攻撃態勢にでて戦況は優勢でしたので空襲も無く、敵は山の方へ逃げて抵抗も受けないで上陸しました。ボルネオは油田地帯でしたので石油タンクも焼かれてパイプが網の目みたいになっておりました。後で聞いたんですが敵が自ら火をつけて逃げたそうです。当地は年中暑いので半袖半ズボンを着けていました。私は耳の経理部長の専用車の送り迎えをして勤務は楽でした。二か年の期限無事に過しまして大阪に帰りましたが、私が最初の帰還者でありました。ボルネオから大阪に帰ってきて約二十日間位大阪にいました。

 

米子 私は昭和十五年から昭和十九年三月まで四か年大阪松下電器会社で働いていました。

 

沖縄へ引揚げ

盛吉私はボルネオから帰って、直ぐ相互タクシー会社に就職しました。まだ籍はあったもんですから謂わば復職みたいですね。それから社長に沖縄に帰りたい旨話し、社長も承諾しておりましたので直ぐ乗船切符を買い求める準備にとりかかりました。当時は闇でないと容易に切符が買えないので従妹の米子の分は知り合いの学生に頼んでやっと手にいれました。私は軍の証明書があったのでたやすく買えました。しかし一人では心細いから二人いっしょに帰ることにきめました。

 

魚雷が命中

米子 私達の乗ってる船が撃沈されましたのが昭和十九年四月十二日夜中、奄美大島と徳之島の間だと聞いております。

 

盛吉 当時は敵の潜水艦が九州近流まで出没していたので、前後両棋を駆逐艦が設術した船団をくんで、客船は航海しておりました。貨物船と別の船も祀っていましたから船団と言っても何変だったのかわかりません。私達の乗ってる船は大阪商船の台中丸で船団の三番目でした。敵の目標になって真先にやられましたから船団で一番大きかったかも知れません。とにかく魚雷で必たれたのか大きく「ドシン」とする音といっしょに船が大きく揺れ動いて「アッ」やられたのかと一瞬「ヒヤッ」としましたが直ぐ寝ていた米子を呼びおこしました。私達の船がやられたから駆逐艦は勿論他の船はみんな何処へ逃げたか散ってしまって見えなくなりました。時間はたぶん十二時頃だったかもしれません、私の時計が午前一時で止っていましたから。

 

米子 私はいざの場合は船の炊事場近くから上がろうと考えていましたので一応炊事場の方へ走って行ったら、もう海水が浸入して通れませんので、出口の方へ引返しみんなといっしょに甲板に上がってボートに乗りました。盛吉私は運悪く万一やられた場合は甲板に上がるには皆が殺到する出口などでなく皆の行く反対方向から上がろうと、乗船してから考えていたので、その通り行動しましたら、船はもう半分ぐらい傾いて、海水が入って甲板には上れませんので、戻って昇降口に並んだ同乗者の隊列に加わりましたが整然として、楽に甲板には出られました。

 

甲板に出たら船はもう半分沈みかけておるので、大急ぎで救命ボートのロープをはずし、片方は船体にくくりつけたままはずせなかったが、そのままボートに飛び乗ったので船体と共に海中にそうとう引きずりこまれました。海面に浮び上がろうと必死になってもがいてやっと浮き上がって「溺れる者はわらをもつかむ」と営うように、最初「かます」みたいなものにすがって、浮いたり沈んだりしている時、米子の顔がちらっと見えましたが直ぐ波が打ちよせて見えなくなりました。そうする中、貨物の台みたいな一間四方位の厚い板を見つけすがりつきました。

 

同じ厚板に五名ぐらいしがみついていましたが、動いたら傾いてひっくり返り波にさらわれるから動かないようにと、背中合わせになって、冷えきった体を温めながら漂流していました。月の光で波が真白く見える海上は何となく、物凄く映り、恐怖心にさそわれそうにもなりましたが、私はその時自分が死ぬということは考えられませんでしたので、きっと助かるんだと、自分で自分を励まし、波れてゆるんでくる手を、またしっかりと強く、板の端をつかんでいました。

 

それから、夜明け六時頃だったか飛行機からビラをまいてるのが見えました。たぶん救助艦との連絡だったんでしょう。約一時間位して駆逐艦がきました。

 

無事救出

それから私達は水兵にロープでくくられて、軍艦に乗せられ、船室に運ばれましたが、疲れと、助かったという安心感が重なって、眠気がしてたまらないが、水兵が顔などたたいて眠むさせませんでした。

私は海中でもがいている時、誰かに後から抱かれ、足を引っぱられ、それをはずすのに懸命だったように記憶しています。私は泳ぎはできませんでした。

 

米子 船倉で使う物の台みたような厚板に、皮道になってしがみついても、打ちよせてくる波が複いかぶさったりして生きた心地がしませんでした。漂流中親兄弟のことも頭に浮んではきましたが、直ぐに消え去りました。人間やっぱり「巡」だと、当時を偲ぶとぞっとします。同じ原板にしがみついていた四名、みんな助かりました。

 

軍艦に乗せられたのが午前七時頃だったとおもいます。それから夕方五時頃水兵がおかゆを込んできてくれて、それを食べて元気づいてきました。盛吉駆逐艦に乗ってから砲弾の音が遠方からきこえてきました。おそらく敵の潜水艦でも発見して交戦中だったかも知れません。私遂の乗った駆逐艦も、全速力を出して走っているように感じられました。暫くすると慶良間みたように、島が見えはじめたので、ちょっと安心いたしました。その島が奄美大島でした。

 

奄美大島へ上陸

私達退難者全貝は、大島に上陸してから、古仁屋の学校に宿泊するようになりました。名前は忘れましたが、軍隊から除隊された方と、私と二人で生存者名簿を作成しましたら、百人余りの薬船者の中、生存者が七十六名でその中三~四歳位の子供が四名程混っていました。

 

それから戦況情報が良くなるまで、といって約二十日位学校で大島の皆様方のお世話になりました。帰る前に退難者の方がたから、お金を少しずつあつめてありましたので、救援係の方へ、遭難者一同から謝礼の意味として差し上げてきました。

 

沖縄に到着米子大島から乗った船の名前もはっきりと覚えていませんが、四月末日か五月の初め頃、沖縄に帰りました。

 

それから戦後会って聞いた話ですが、浦添阿波茶生れで、私の小学校時代の同級生で伊波トwさん、現在は何処に住んでおるかわかりませんが、彼女も、私達と同じ台中丸に乗っていたそうです。同人はボートに乗って漂流中、駆逐艦?に助けられ、遭難した翌日那覇港へ着いた、と言っておりました。

 

空襲警報下の結婚式

盛吉それから昭和十九年六月十五日に私達は結婚式を、親戚集まって自宅で挙げました。ささやかな、ご馳走を食べている最中、空襲警報のサイレンが鳴って、あかりを消して、暗開での披露宴はいまでも忘られません。結婚後米子は家事、私は農業の手伝いをしていました。

 

軍属募集に応募

市役所の兵事部に勤務している奥原盤番さんに会いましたら、軍関係の仕事に就いていないと、防衛隊に召集されるかも知れないと聞かされていました。暫くしてから、奥原さんからの知らせで、連隊区司令部で、軍属としての事務関係の募集があるとのことで応募しました。仕事に就いてみたら、私は軍経理部長の専用車の運転手をさせられました。当時奥原盤番さんは司令本部付でありました。司令部が坂下で、経理部が、一高女(現在の那明の栄町)にありました。当時は車がなくて徒歩で通勤していましたが、時々空機。破が、発令されたりして、たいへんでした。

 

十・十空襲

それから戦況も段々と悪くなってきて、ついに十月十日那潮の大空襲が強行されました。私は部隊へ出勤しようと思って、家から出かけておりましたが、途中で空腹の状況を見ました。敵機は読谷方面から飛んできて、那桐の市街地めがけて焼夷弾で爆撃して、みるみる中に那制の街は、もうもうと立ちのぼる黒い煙に包まれて渡惨なありさま、私もそれを見て空襲の恐さと同時に何時かは、我が部落も爆撃でやられやせぬかと我が身にふりかかりそうな予感がいたしました。その日の夕方から、ここら辺でも那潮の被災者の方などが、親戚や知人を頼ってこられたのか、あちこちで見受けられました。バケッに水を入れて、リレー式で巡んでの消火訓練や、青い草木の葉ッばなど燃やして、煙幕を張って敵機の目標を避けるための、防空演習が、実戦には役立たないと、つくづく感じられました。

 

後で聞いたんですが、那覇爆撃にきた敵機は、艦載機のグラマンとか言っておりました。那覇が空襲されたから、ここら辺の方も、恐わくなって、壊や墓を利用しての生活に入りました。

 

大名の駐屯部隊

米子 沖縄には武部隊が、最初にきて、那覇方面に駐屯していたそうですが、あとで台湾に移動したそうです。ここら辺には、上陸一、二か月前頃から、球部隊の一部が駐屯して、現在の公民館附近に茅葺の兵舎がつくられ、民間人の家なども、宿泊に利用しておりました。馬場では、軍用犬の訓練、車馬の調教などをしておりました。

 

盛吉 はっきり覚えていませんが、私の家は、球部隊所属の衛生隊軍医松田大尉配下の医務室として使用されていました。敵が上陸した四月初め頃、松田隊は南風原の方へ移動しました。夕方になると殆んど毎日安謝港の沖合「チービシ」(当時の神山島)の方向から、最初曳光弾が飛んできて、それからはげしい艦砲射撃が開始されました。その頃からここら辺の家もあちこち焼かれました。

 

目前で艦砲が炸裂

私の家族は自宅の、よその方の墓を、避難場所としておりました。当日は嫁いだ長女、二女の二人の姉と両親、親戚の福福さんに、私も同じに、隣家の宇良の婆さんが、並びの墓に避難しておりました。

 

たしか三月二十三日と記憶していますが、当日も空襲があったので、私も部隊勤務を休んでいました。夕食をすまして間もない六時頃だったと思います。突然、艦砲が飛んできて、器の入口側で破裂して、そこで湯を湧かしていた二番目の姉照屋ツルが、大腿部を討たれて出血多量で即死、父は破片で右腕を貫通され、母は爆風で目を痛められ、その時隣りの茲にいた、宇良の婆さんも負傷して翌日死亡しました。母は十三年前に老衰で亡くなりましたがいつも頭痛を訴えておりましたから、当時の後遺症も原因したようにおもわれます。

 

米子 その日、私と一番上の姉の娘与座明子(現在姫百合の塔へ祀られている)と二人は樋川前の塚にいました。そこは岩石の自然壊で、水も近くにあって、空の方より広くもありますし、隣り近所の方も多くていくらか安心だったんです。二番目の姉さんが即死された日を、主人は三月二十三日と言っておりますが、姉さんの命口は四月二十四口と覚えております。

 

盛吉 その日私は、墓の真中に座っていましたが、中まで砲弾の破片は飛んできましたが、負傷もしないで、運良く助かりました。十月十日の那覇の大空襲後、部隊は津嘉山の壕へ移動しておりましたので、津嘉山の壕へ四月二十六日に行って、家族の被災状況や、家内も妊娠中で、お産前だからとの事情を、軍の経理部長に報告いたしましたら、部長もできるだけ都合の良いように取計いますからと、承諾されました。そして二十八日も空襲情報が入って欠勤、二十九日は出勤いたしました。

 

それから段々いくさも日増しに烈しくなり、その頃、浦添ユードレや前田方面では、昼は米軍が夜になると日本軍が攻擊にうつって一進一退の激戦地になっているとの情報でありました。

 

艦砲射撃の中を避難

米子 それから敵が、浦添経塚まで、攻めてきたとのことで、経塚の私の里方の、照屋の家族が、私達のいる樋川前の壕に、避難してきたので、五月三日の夕方、近所の宇良、与座さんの家族といっしょに、南部島尻方面へ、避難しようと思って、出発いたしました。

 

末吉部落へ下りて、現在の松島中校通りの真嘉比街道に出た所で、艦砲射撃の砲弾に会いましたが、幸い不発弾で、怪我人はでませんでした。現在の大道栄町市場附近の一高女前で、経塚の私の父が落伍して、わからなくなりました。私達は、父を待ってはおれず更に前進してそれから国場部落の上の壊に辿りつき、一応そこに二日位落ち着いていましたが、そこも艦砲射撃が激しくて危いので、それから真玉橋を渡って、豊見城嘉数部落の山手の方の丘陵にある、海軍壕に入りました。

 

盛吉 その壕は奥行が六メートル位でしたが、先に入った民間人もおりました。通信隊が入ってくるとのことで、私は安全な場所の壕を捜しに出かけましたが、よそ部落で、地形が詳しくないため、さがせないので戻ってきました。私の隣近所の五家族が一週間位ここにいたと覚えています。

 

山羊料理

その頃私の両親は、負傷していたので、末吉社理毛にある、自分等の墓の近くの壕に避難させて、私の兄嫁が看護していました。自宅が医務室だった時の術兵が社理の壕におりましたし、又兄嫁も従軍看護婦でしたので両親の傷の手当も頼んでありました。

 

五月九日、戦況情報が良かったので、両親の見舞をかねて、近所のおばさんといっしょに、大名町の自宅に行って一晩泊りました。飼育していた山羊が、一頭未だ生き残っていましたので、ふと思いついて殺し、両親にもやって、それから近所のおばさんといっしょに、豊見城の壕へ戻り、山羊肉を持ってきたと言ったら、みんな喜んで、食べないうちから元気づいて、今までの沈んでいた顔も笑顔に変り、久し振りに笑い声を四きました。

 

それから、安全な曝も捜せないので、一応自分の所属する部隊を頼って、南風原津嘉山の壕へ行きましたら、司令部本部付の、奥原さんに会いました。奥原さんは、彼の家族は、識名部落の方に避難させてあるが、明日識名に行ってつれてくる予定だから、軍が使用しているこの壕に入れて貰えなかったなら、私と二人で、ここら辺に壊掘りしようと云ったので、私はまた、豊見城の海軍壕へ戻りました。

 

米子 私達は五月十一日、海軍壕から出て、津郷山の塚へ向って出発しました。途中で私の姉の前原の話では、私の父の友達が金良長堂にいる、とのことを、以前聞いた発えがあるから、ひょっとしたら父は金良部落あたりに行ってるかもしらんとのことで、そこへ向って歩きました。そしたら姉が言った通り、金良で父を見つけて、姉の前原、親子四人は、父といっしょになって、金良部落の方に泊まりました。

 

至近弾が破裂

盛吉 私達は金良部落を夜明け前に出発して現在の南部農林高校近くの小さい橋を渡って、津嘉山部落に入りましたが午前六時だったと思います。突然歩いているところへ爆弾が飛んできて破裂して、私の一番上の姉と、自宅隣りの幸地のおばさんが即死、私も背中と左足踵に破片が入りこみ、明子も右腕に軽傷を負いました。

米子 私は幸い、砲弾破片が側の大きなガジマルの木の枝にさえぎられたため、左手に軽擦過傷でした。

 

盛吉 そこから軍の壕も近かったので、壕の中にある医務室へ、直ぐ行って、手当てを受けました。医務室関係者の方も、知っておりましたので、心やすく治療を受けることができました。そして前日会った、奥原さんの寝室で、一時休ませてもらい、それから、いとこの照屋春子とつれの幸地よし子さん等に、経理部に罐詰の空箱がありましたので、運ぶのを手伝ってもらって、それを利用してにわか作りの寝台で休ませてもらいました。奥原さんの家族を、いっしょに行って連れてくるとの約束も私が負傷したため、彼は別の友人と、出かけて夕方家族を連れてきておりました。民間人は軍の使用する壕には入れないようになっていたが奥原さんが司令部付で、私も経理部で働いていましたので助かりました。

 

陸軍壕でお産

津嘉山の壕に避難して三日目の五月十五口に、長女の勝子が生れました。

経理部長にも、家内がお産した場合のことを頼んでありましたら、部長自らの寝まきを、あかどの肌着やおむつ等に軍屈として働いている女の子等に縫わせて、別にお金五円をお祝として頂いたこと等いまでも忘られません。-約十七日位そこで過したと思っています。米子津嘉山の壊は三十七か所も洞穴があって広びろとしておりました。陸軍病院は、南風原兼城部落、学校のある所で、津嘉山の嫁には、球部隊の医務室がありました。

 

私達が津嘉山壕に留ってるうちに、球部隊全部もいっしょに島尻へ移動しました。盛吉球部隊が移動したのが、五月二十五日でした。経理部長が引揚げる時、我々といっしょについて行けなかったら、壕の中に、食糧罐詰類、毛布や衣服も沢山あるから、使ったらよいでしょうと、言われましたが、二十六日頃、石部隊が入ってきて、私達に出ていくように、言われました。姉の娘明子は、従軍看護婦として、部隊といっしょに、行動するため、兄についていきました。牛島中将も、首里城の司令室が、危くなったとのことで、五月二十五日の夕方、この壕に立ち寄られてから、摩文仁方面へ移動されました。

 

米子 私が津嘉山塚にいる時、石部隊所属の浦添小学校の先生だったか、はっきりわかりませんが、私が奨ている側で、姉の春子との対話を聞いておりましたが、先生の言うには、女子や年より子供など、非戦闘員には、敵もなんにもしないはずだから、「捕虜」になりなさい、と話しておりました。兵隊の出入りは、壕の中で、寝ていてもわかりました。夕方になると、百名ぐらい、戦闘に出かけて、四時間ぐらいしてから、目を撃たれたり足を引摺り、びっこになって帰ってくる者など、負傷者と、合わせて五十名ぐらいしか帰ってきませんでした。

 

負傷しながらの避難

盛吉 それから私達は、五月二十八日頃、兼城村武富、波平部落へ向って津嘉山壕から、昼は敵の攻撃がはげしいので、夕方出発しました。私は足を怪我して、歩くのが、困難でしたので、いとこの春子と、幸地のおじさん等が交代で、モッコでかついでくれて、時どき杖をついて歩きました。

 

米子 赤子の勝子は、生後十三日ぐらいしかたっていませんので、私の母が抱いていました。そして、武富部落に辿りついて、馬小屋で、一日過しました。そこで偶然、私達同部落の名嘉山、玉寄、福地さん等三家族と、いっしょになり、連れが増えましたので、いくらか気休めになりました。

 

盛吉 食糧は敵機のこない時、元気な方達が畑に行って、準やキャベツ、きび等、とってきて、米も少し持っていましたので、飢えを凌ぐことは出来ました。それから翌日、武富から保栄茂部落へ下りて糸照屋部落の方へ向って歩きました。「その日は敵機がこない様子でしたので、昼間出発しましたら、台南製糖高概工場附近の十字路で、敵の偵察機(トンボ型)が旋回しておりましたが、間もなく、榴散弾爆蝶を受け、上空で花火のように、二、三回破裂しているようでした。私はその時、足を引招りながら、物」を披して待避するのに大変でした。

 

何時なんどき飛んでくるかもしれない、艦砲射撃の砲弾や、空から降ってくる爆弾にやられやせぬかと、部落につくまで、いつも不安でした。やっと照屋部落につきましたが、そこでも馬小屋みたいな処におりました。その日は艦砲射撃が烈しくて、至近弾が飛んできましたが、幸い負傷者はでませんでしたが、破裂直後の爆薬の臭いこと、未だ鼻の中に、しみついた感じがいたします。米子それから糸満へ行って、壊も痩せないので、空家に避難、そこで一泊して、翌日名城部落の方へ向って移動しました。

 

米軍の猛爆を受けて「捕虜」

盛吉 名城部落に行ってからも、壕が探せないので、松の木の根っこや、海辺のアダンの茂みなどに隠れて避婚しておりました。その頃、私達の周囲は、敵に追いつめられた友軍の兵隊があちこちにたむろして、敗残兵として、避難民同様に、逃げかくれしていました。六月十八日だったか、私達は、浜辺に近い松林の陰に、ひそんでいましたが、周囲は敵にとりかこまれていましたので、「捕虜」になろうと、出て行く処を、後から友軍の兵隊が「出て行ったら、打ち殺すぞう」と大きな声で、怒鳴られて、またもとの場所へ引返しました。

 

それから避難場所を、海辺の、アダンの茂み側の地下壕へ、移りました。そこの近くに同部落の、名嘉山さん他二家族の方が、同じくアダンの茂みにかくれるように、並んで避難していました。その頃から、私達は敗戦を察知、殆んどの避難民が、ひそひそ話で、語っていました。どうせ犬死するよりは「捕虜」になった方が、或は生き延びるかも知れませんと、私もそう考えるようになっておりました。

 

六月十九日朝十時頃でした。家内の母が、赤ん坊を抱いたまま、顔面を撃たれて即死、不思議にも、赤ちゃんは助かりました。たぶん、赤子をかばうため、体を伏せることができなかったかもしれません。

 

米子 母はふだんは、毛布を身にまとって、出歩きもしないのに、その日に限って、朝も早くおきて、壕から出ておりました。赤ちゃんの勝子は助かっていますから、やっぱり、運命だったんだと、諦めています。

 

盛吉 その頃、敵は私達が前の日いた場所附近に猛攻撃していました。耳をつんざく弾丸の炸裂音、松の木も、へし倒されて、白煙が、たなびいていました。私達も、そこにいたらおそらく死んでいたかもしれません。友軍の兵隊たちは、殆んど死んだと思います。

 

米子 六月十九日が私の母の命日ですから、その翌日、六月二十日に、私達は全員「捕虜」になりました。「捕虜」になるため、真先に出て行ったのが、名嘉山さんでした。竹ぎれに、白いタオルをくくって、降参旗のつもりだったんでしょう。そして褌一本つけて、当時、二歳の娘息子をおんぶして、四歳になった恵美子の手を引いて、抑えられた姿は、今でも忘られません。―それから、私達もつづいて、近くにいた避難民が、続々と、「捕虜」となりました。

 

盛吉 それから、私達は、部落近くで、車にぎっしりつめられて、乗せられましたが、乗車する時、家内は、赤子を抱いてるので、乗り遅れて、黒人が、車のフェインダーに指差して、そこに乘れ、と言われ乘りかかっている処を私は見つけて「そこに乗ったら危い、落ちて死ぬぞ」と言って、降して車の中に、押しこんで乗せました。集結所の地名は、控えていませんが、豊見城から糸満に向って左側の部落でした。一応そこで、女と子供はいっしょにして、男と女、別々に分され家内はその晩、車に乗せられ、私は翌日、越来の収容所に運ばれました。

 

米子 晩から雨が土砂降りで、車の中でも、濡れどおしでした。収容所いくまでは、晴れたり座ったりの天気で、晴れると、焼きつくような、六月の太陽に照りつけられ、生後一か月余りの、赤ん坊の勝子は収容所へついてから、着がえの時わかりましたが、皮肉が赤くむけまして、とても可哀相でした。私が収容された場所は、今のコザ市島袋で、そこで約一か月過して、山原の福山部落に移動になりました。

 

戦傷者の収容所生活

盛吉 越来の収容所へついてから、私が食糧捜しに、部落のはずれを、杖をついて歩いて、疲れてひと休みしているところ、偶然隣り部落の首里末吉町の顔見知りの女の方と出会いました。彼女は、私がびっこで歩くのになんぎそうな様子を見て、彼女のつれの方と二人に私はモッコでかつがれて、部落までつれていかれました。部落についてから、彼女が芋を持ってきてくれました。私も二、三日ろくに食べてないので、あの時のうまさが、いまでも忘られません。怪我はしているし、腹はすいてるので、その時は乞食同様な生活で恥かしいとか、言った気持はおこりませんでした。彼女達は、私等より先に捕虜になって、この部落に落着き、班単位で作業をして、芋掘り等も班でやり食糧は腹いっぱい、食べられていたそうです。

 

それから三、四日過ぎた頃、私が杖を片手に持って休んでる所へ見知らぬ、びっこの若い男が、近寄ってきて、話かけてきました。彼は内地人の兵隊で、本名は千田重美だが偽名を使って、大城重次として、「捕虜」になったそうです。当時兵隊や、郷土出身の防衛隊等は、殆んど屋競収容所に収容されて、ハワイに連れられていかれたそうです。後で本上召集の兵隊が、帰還できるようになったので、申し出て屋嘉収容所に移動しましたが、現在本土で養豚業を営んで、元気で過されているとのことで、年賀状も送ってきます。

 

そして、彼の言うには、私も怪我してみんなといっしょに、作業も出られないし、他に那覇出身の力で、儀保さんという方がおりますが、三名いっしょになってくれませんか、とのことでしたので、私も承諾して、三人で食糧さがしに、出かけたりして、こじき同様な共同生活に入りました。びっこで足を引ずりながら杖をついて、食糧さがすのも、たいへんでした。畑に行っても野菜は見つかりませんので、丘の空間に生えた、チファ葉の茎等、取ってきて、塩もないので、畑でやっと見つけて掘ってきた小さな芋を、水試して、その甘い汁で味つけをして、食べて飢えをしのいでいました。

 

米の配給は、二、三日に一回茶碗一杯分ぐらいしかありませんでした。その頃、大城君がなれない野生の植物等食べたせいか、胃腸をこわして下痢をして、痩せ衰えましたので、同じ仲間の苦しんでいるのを、見捨てるわけにもいけませんので、私と儀保君と二人分のわずかな配給米を二人は食べたいごはんも我慢して、彼に、おかゆを炊いて食べさせておりました。大城さんを、他の班の方に頼んで、医務室に治療を受けさせに行きましたが、怪我人が多くて受付を断られて、診てもらえなかったと言って帰ってきましたので、私は下痢心者を甘く見ている医務室の態度に憤慨いたしました。

 

その頃、他の班のおばさんが豆腐一丁と、班で掘った芋だといってざる一杯持ってきてくれたことなど、只感謝の気持でいっぱいで、いまでもはっきり覚えております。それから私の足の傷も、大城さんより先に良くなり、やっと歩けるようになりましたから、班長に申し出て作業に行くことになりました。作業と言ってもそうきつい仕事ではありません。被服類、食糧罐詰類、梱包された物資の整理や、下水掃除、草刈り等と、きまってはいませんでした。

 

そうこうするうち、大城君も元気をとりもどし、働けるようになりましたので、班には私の名前でカードをつくって、大城君と二、三日交代で、作業に通っていました。仕事場は、屋宜原バス停留所前のイカでした。私も大城君も、作業に通ってからは、ときどきかん詰類も食べられて、二人共体の調子もよくなり、日増しに元気がでてきました。その頃、軍需物資を失敬してくることを「戦果」をあげてきたと言って、当時のはやり言葉みたいになっておりました。

 

従兄と再会

それから従兄が、越来の孤児院で先生をしていることを、私の知人から偶然に聞いて、私は孤児院をたずねて、いとこの兄さんと会いました。従兄さんとも、敵が上陸する前から会ってなかったので、私の突然の訪問で、びっくりされていました。そして敵が上陸してからの、家族や自分達の行動などを語らい、私も足をちんばにされながらも、お互いに、無事で今日まで生きながらえてきたことを喜びあいました。それから、親姉妹や、親族の方が、戦争の犠牲者になったことを話しましたら、兄さんも、涙ぐんでおりました。

 

次に仕事の話にうつりまして、私は現在軍作業で、ライカムで働いていますが、足がびっこのため一寸こたえます、と言いましたら、それでは「こちらで、働きなさい」とのことでしたので、私も従兄さんと会ってよかったと喜んで、収容所に帰りました。大城さんにも、私が孤児院で働くようになったことを話しましたら、彼も喜んでくれました。彼は軍作業で働きながら、本土へ帰えれる日を待って、仕事場がかわっても当分の間、同居生活は続けることにしました。そして私は、翌々日から軍作業をやめて孤児院に通いました。

 

孤児院では、人事関係の事務を執るようにとのことで、早速その日から仕事に就きました。孤児院長は、渡嘉敷さんとか言われ、いとこの兄さんは、学校の先生をして働いていました。孤児院と学校はいっしょだったそうです。孤児と学童合わせて六百名位だと従兄さんが話しておりました。それから孤児院には、軍需物資のスポイル品といって、軍から持ってきた體詰類も沢山ありました。

 

私達にも、時どきおすそ分けして貰いましたので、夕食のカロリ ーも良くなり、収容所へきた当時、乞食同様な生活をしている頃の痩せ衰えた顔に見覚えのある方に勤務中こどもの調査で行った時にあいましたら、「大山さん、だいぶん変りましたねー」と笑い ながら、挨拶されたことを今でも覚えております。

 

それから、豊見城の金良部光で別れた、家内の父が、山原から食糧さがしに来たと言って、読谷方面へ向って歩いてるのに偶然会ったという知人の話を聞いて父が近くにいることも知り、あちこち尋ねてやっと父の居所がわかりました。そして私の宿につれてきて、従兄の兄さんに頼んで、孤児院の作業人として、働くことになりました。

 

家族の消息

米子 末吉社壇の壕で兄嫁や知りあいの衛生兵に、傷の手当等看護を依頼してそのまま別れた両親の中、母は「捕虜」となって、山原の福山収容所でいっしょになりましたが、母の言うには「父は糸満近くの照屋部落で避難先の民間人の壕で爆風で死亡、密息死だったのか無傷だった」そうです。その時私達同部落の方が二、三家族やられ端ケ覧さん家族は、逃げようとするところを、後から敵に雌たれたとのことです。

 

同部落の方が、終戦首里に移動になってからの話ですが、照屋部落に入る前、私達の両親も、私達が歩いているのも後から見たと話していました。照屋部落では、父母の避難先と、私達がいた場所と、わずかしか離れていなかったと、後で聞いたんですが、何しろ敵に追われて逃げ隠れするのが、せいいっぱいですから。

 

それから、私の父や主人が、孤児院で働いてることを、誰かの速絡で知り、私は母より先に、越米の主人のところへ、山原福山から、移動して、その時は、儀保さんとか言われた方は引越して、本土の方の大城さんはいました。私が行って暫らくして、大城さんらも内地帰還ができるようにな「ったので、屋始収容所へ移動されました。

それから九月頃だったか、山原の福山から母をつれてきました。

 

首里移動

盛吉 越来収容所で約六か月位してから、首里へ移動になり、現在の鳥堀町クラブ附近で、軍払下げの天幕を使用して、生活しておりました。当時は全く、テント村ばっかりでした。それから次第に、民政府工務課からの、規格住宅の材木の配給を受けて、あちこちに茅年の家が延てられてきました。そして私は、軍の自動車修理工場で働いたり、石川の東恩納にあるモータープールや、石川のミシン工場で働らいたりしました。工務課に勤めている時は、軍から払い下げて貰った資材を、各地の規格住宅建設のために運搬する仕事でした。工務課の倉庫内で宿泊したり、運搬用の車で、首里から石川まで通ったりしました。

 

闇商売

その頃、軍作業員に対しては、送迎用トラックがありましたが、一般の人が利用する乗物がなかったので、部品をかき集めてきて自動車を組立てそれで闇の乗合バスとすることがはやっていました。私も自動車の構造については知識があったので、助手をひとりって、一年半で三台も作り上げました。「台は現在の首里高校で、二台は、耳のチリ捨て場になっていた儀保の西森で組立てました。

 

自動車の部品は、普天間を初め各地の日本軍の壕の中から、壊された日本軍車輛の使えそうな部分を取りはずして、各部品を集めるのですが、それは大仕事でした。溶接機があるはずもなく、ひとつの部品を取りはずすのに二人掛りで、二、三日費すこともありました。一台が完成すると、早速、後部にハシゴをかけて乗合バスとして走らせました。

 

主に石川ーコザの間を走らせましたが、一日二、三千円以上の収入がありました。その間にも各地から部品を捜しては、次々自動車を組立てていったのです。しかし、あくまでも闇行為でありますので、警官にみつかると印金、二、三百円課せられたり、説教されたりするので、この仕事もやめてしまいました。四六、七年頃のことでした。

 

首里先発隊

首里市大名粟国〇〇(二五歳)

配給の停止

当時首里には兵隊が駐屯していて、大名にも石部隊の兵隊がいて兵合もあり又その兵舎だけでは収容出来ずにあちこちの民家に分散して入っていました。一軒あたり五~六名のわりで、家の持主と同居という形でした。私の家は三部屋しかなく、兵隊さん達が住むにはせますぎるという事で、石部隊の食糧置場として使われていました。私の家から道を隔てた向いが井戸になっていたので、家が友車の炊事場になり、そこは誰れもが素通り出来る様にしてありました。

 

兵隊さん達はいつもお腹をすかしていて、朝食など作っている問中、そばでじっと待っているという風でした。私達自身もお腹がすいているのをがまんして、まずは兵隊さんにと食べてもらいました。沖縄の人間は情にあついといわれている言葉どおり何くれとなく面倒をみました。

 

当時は軍に協力しない者は「非国民」と云われ人に後指をさされる時代でもあり皆いろいろの形で協力したものです。まず食糧では無理をして切り干しいも供出しました。供出する事によって特配区域になれるというので、喜んで出したのですが、結果は切り干しいもが出せる位も食糧があるのなら農家だと云われ、配給がストップされました。私の家は四〇〇坪位の畑があったので、少しは供出しないと今まであった配給が停止になると聞いて正直に自分達の食べるのをしまつしてやっと低山したと思ったら、こんな目にあったのです。それからは配給もなく食概には困りましたが、ヤマ米を何とか手に入れて食べていました。

 

徴用のあい間に授乳

徴用としては、大名は以前から馬場でしたのでその為道は雨天の時はドロドロにぬかるんでいて、これでは駄目だから石をひいて道を作れと軍から命令され、盛をこわして道を作ったのですが、その時に兵隊さんと一緒に石を運んだりモッコをかついだりして働きました。その頃は、男は皆兵隊にとられたり徴用でどこかに行かされたりしていなかったので、女が主になって、力仕事などもやりました。

 

私も二五歳の働きざかりで主人、私の母、一歳になる長女の四人家族でしたが、主人は那覇の久茂地にある軍の工場で働いていました。主人は支那事変の時に目をやられて、当時は傷い軍人でしたから、本来なら召集もなかったのですが、やっぱり時が時だったのでしょうか現地召集され、白石中尉の部下として、軍に供出する菓子を作る工場に行っていたのです。

 

私は乳飲み子をかかえていましたが、毎日軍の作業に出ました。主に壕作りの時のモッコで土はこびでした。内間、赤田、沢岻、末吉宮の壕にも行って働き、あい問をみては乳を飲ましに帰って、又でかけるといった具合でした。又壕の中に入れる木材として伐採してあった松の木の皮をはぐ仕事もしました。

 

こうして皆懸命に働いて軍に協力しているのですが、友軍は沖縄の人をばかにして「どんな協力をしているのか」などと云ったりしていました。私は少しは教育も受けていたし、年も若く、云いたい事ははっきりいう性格だったので、デパートの店員をしていて話し上手な人、学校の成績がいつも一番だった人と一緒になって三人で友軍の兵隊につっかかっていっては、やっつけていましたが、又親しくもなりました。

 

ヤミの食糧品

だんだん食糧難になって、石嶺あたりにヤミで肉なども売ってくれるところがあるというのを人づてに四くと、朝早くから出掛けて一日がかりになってでも買って来たものです。どこから来るのか知らないのですが、肥おけに肉や米などを入れてもって来ては売るヤミ商売も大いに利用されていました。食物だけでなく衣類などもなかなか手に入りませんでした。私も赤ん坊のおしめなど自分の着物をつぶして作り、他のものもいろいろ工夫して作っていましたが、衣料品類にはずいぶん困りました。

 

首里には兵隊が沢山いたので、それにともなって、ピーヤーといって朝鮮人慰安婦達が本土から送られて来て、平良、赤平あたりに軍が民家を借りて住まわせていました。

 

十・十空襲

十・十空襲の時には昼すぎだったと思いますが、安謝にある大きな工場が爆撃され、その様子がもっとよく見えるところに行こうとして歩いていたところに爆風がきました。立っておれずに伏せなくてはならない程に強いものでした。那覇がひどくやられていて久茂地の軍工場で働いている主人の小が、心配でした。私の家のあたりは、直接攻撃はありませんでしたが、母と赤ン坊は壕の中に入れ、私はあたりを見回ったりしていました。隣りの家に破片が飛んできて火事になったので、この空で学校から帰えされてきた近所の子供達二~三人と一緒になって、水をかけました。その時はひでりで水が少なく、井戸の水は日本軍が使うのでその水も使えず、私の家にあひるをかっていたので、その為にためてあった台所排水(ペンタナシーリー)を使いました。

 

私も主人の事が気になって、見に行こうとしたら那覇の人達が、首里に向って沢山上ってきているのにあいました。那覇は相当やられていて皆続々と疎開しに来ていました。心配していました主人も「会社(軍の工場)の壕に入っていたが、もう少しで死ぬところだった」といって帰って来ていました。那覇が爆撃されて、それでますます食べ物もなくなり、自給自足の様にして幕していました。

 

日本軍は私達に「敵を沖縄におびきよせ、日本本土からも応援を求め敵を袋のねずみの様な状態におとし入れ、やっつけるのだ」と云っていましたし、私達もそれを信じていました。

 

墓が弾薬庫

十・十空襲があってからは、いつも灯下管制をしていました。空襲があると壕に入って、そのまま壕で一夜を明かすという様な毎日でした。近くにある大きな墓や自分達の基を壕として入っていましたが、大名にある墓という墓は全部あけられ、中の骨つぼは一まとめにしておき友軍の弾薬や食糧が入れてありました。このあたりは墓も多かったのですが、骨つぼを動かさない壕はなく、人が壕がわりにしているか、倉庫がわりに使っているかのどちらかでした。

 

爆撃されていつ家がやけるか分らないので大切なものは家の外に出してあって、家の中はカラッポで壕の中に避難していました。空襲が激しくなると皆「もう大変だ」といって壕の中にじっとして外にも出なかったのですが、私はじっとしておれない性分でもあり、母と子供の食種を何とかしないといけない事もあり、日中はじっと壕にいる事もなく、ほうぼう出歩いていました。それでいろいろの事を見聞きする事も多かったのです。

 

下級の兵隊

達大名にいた兵隊さん達の本部は第三小学校(今の実務学園)のあたりにあって、兵隊さんが毎日弾薬や食糖の入っている基などを見まわる様になっていたのですが、その役目にあたった兵隊の中には爆撃が激しい中を見まわる勇気がなく、途中で戻ったりする兵隊もいるらしくそれを又監視する上官がいました。見まわりしないで戻ったといってまだ子供みたいな若い上官になぐり倒されているのを見ました。上官の云う事を聞かなかったといっては並ばされて、顔などをはり倒される様子を見るにつけ、人は「お国の為」というけれど、こんなみじめな目にあわされているのかと、とても可哀相でした。

 

又慰問袋が届くと兵隊さん達は、上官に一応見せてからしか食べられないし、三分の一ぐらいしか本人には渡らなかったのです。兵隊さん達は、いつもひもじい思いをしていて、お金を出してヤミでやっとの思いをして買った黒砂糖を、隊にもち帰って上官にみつかると大変だとあちこちに隠しまわって、少しずつ取り出しては食べたりしている人もありました。あの時はいつどうなるか分らない状態で、お金の値打もなく物が大切な時代でしたが、どんな時代にせよ同じ兵隊の身でありながら、階級が上だと食物にも困らず、どこにいてもお腹一杯食べれるのに、下の人はいつもガツガツしているのを見るにつけ本当に可哀相でした。

 

大名は背から馬場でしたが、戦争になってからも日本軍の馬が、飼われてあったのですが、その馬でも弾にやられるとヒヒーン、ヒヒーンともの悲しい鳴き声をたてて助けを求めてそばによって来られた経験もあります。

 

米軍が北谷あたりに上陸してからは、夕方になると読谷あたりで花火の様にポンポンあがっている、艦砲射撃がみえました。敵はもう近くまできているとは聞いていても、毎日の生活におわれて、日でみないかぎりどこでどうなっているのか、はっきり分りませんでした。もうその時は戦況の悪化で、工場にも行かなくなった主人も一緒に避難していました。

 

低空飛行のトンボへ投石

トンボ(偵察機の事を一般にはこう云われていた)が私の家あたりにものすごく低空飛行して来た時には、袖なしのランニングをつけた二人の米兵が私達をみてケラケラ笑っている表情まではっきり見えました。二人の青年が生意気な奴め、コンチクショーといって飛行機めがけて石を投げつけました。その青年は、日本軍の本部付けになっていたが、戦争の悪化で逃げて帰ってきた兼助兄さんと那覇から帰っていた盛ユウさんでした。二人は、私の家のみかん木の下から投げたのですが、もちろん届くはずはありませんでした。私も「こんな事して後で大変さ」とは云いましたがそのまま啄に入って、翌日出てみたら、あたり一面にガソリンをひっかけられて家から木から皆焼きつくされていました。このあたりは緑でおおわれて逃げ場所も多かったのがまったくの焼野が原になってしまいました。

 

首里立退命令

米軍の上陸後は攻撃も激しくなる一方で、友軍から「敵はもうこの辺の近くに来ているからここから立ち退きなさい」と命令が出され、次々と首里から立ち去っていく人も多くなりました。今の時代と違って昔は、沖縄内でもあちこちに行く事もなく、せいぜい首里から那覇に芝居を観に行く程度だったので、地理には詳しくなく「どうしたらいいのかね」と途方にくれましたが、そうかと云ってここにもとどまれないので、近所の親しくしていた人に「一足先に行ってるからね、生きておれたら又いつの日にか会いましょうね」といって手をとり別れのあいさつも済ましました。もうその時にはすでに隣りのおじさんが、爆弾でやられて亡くなり皆でたこつぼに人れ、葬っていました。

 

生れ故郷の大名を後にしたのは四月の末頃だったと思います。赤ちゃんを背中におぶり持てるだけの荷物を持ち、主人、母と一緒に家の近くの末吉宮から下って、マカンジャーラ(兵始比)に着いた頃は、口が暮れてきたので、その日はマカンジャーラあたりのあき塾をさがして人り一泊しました。雨が降って、ビショ、ビショのに、行中の赤ん坊は、ぐずっき乳も飲まなくなるし大変でしたが、識名めざして歩きました。誠名には、同じ部落の人も沢山いっているから、と元気を出してがんばりました。職名について、安全と思える大きな站で二~三日は過しましたが、赤ん坊は乳を吸う体力もなくなり、泣くばかりでどうしようかと思っている時でしたが、「こっちはもうこんなに一杯人が入っていてどうにもならないから後から来た人は出ていってほしい」と云われやむなくそこを出て、今度は小さな姿をあけて入り、そこでも二~三日過したいと思ったら今度は、前に迫出された壊は大きくてがんじょうな盛だったのに目をつけた日本兵がそこを立ち退く様にと命令し、そこを立ち退いた人達が入るのに使うという事で、結局は、私達が出るはめになってしまいました。

 

弾はどんどんおちてくるし、今度はどこに行けばいいかと考えましたが、私もどこといって行くあてもなし、主人は長い間の大阪暮しでその後は兵隊にとられほうぼうにいっていたので、沖縄に詳しくなく困りました。だがどうせ死ぬなら、こんな知らない人の基で死ぬより自分達のお墓で死ぬ方がいいという事になり、又首里の方に戻ったら、途中友軍の兵隊から「もう首里は激戦地になっていて、道も破壊され歩ける様な状態でないから戻りなさい」と云われ戻されてしまいました。又壕をさがして歩きまわらなくてはならず、歩き疲れて入った造には、中に入れてある棺からの臭いでとてもくさかったのですが、次の壕をさがして入る元気もなくもうどこでもいいからと棺を外に出しただけで、眠りました。

 

親友の死

その翌日の事でしたが、前に私達が入っていた壕が直撃にあい七~八名は下敷になったままで後の人達も黄燐弾にやられて死んでいたり、虫の息になっている、とその壕に入っていた人が知らせに来ました。知りあいも沢山いたので、あわててかけつけたところその中には、私が妹の様にして仲良くしていた又吉のシズさんが半身を黄燐弾でやられ身動きも出来ず苦しんでいました。シズさんは私を見て「姉さんと一緒の壕にいっていたら、こんな目に会わずに済んだのに」といっていました。私より三つ年下で「姉さんと一緒なら、どこにでも行くよ」とかわいい事をいっていたのに、若々しく元気だったシズさんが、こんな変りはてた姿になっているのを見ると悲しくて何ともいえない気持でした。シズさんのお父さんも即死だったので、そのお父さんが持っていたお金を私に渡し、半分は私に後の半分は私のいとこでシズさんの兄さんと結姉の約束が出来ていた知念のツル子に渡してほしいとたのまれたが「私だってどうせ死ぬんだから、こうして子供もおぶって、いつまで逃げられるか分らない身だし、お金があっても何にもならないので、私は預れないから」と云って、その場にいて元気だったシズさんのおばさんに預けました。そこでやられたのは、ほとんどが大名の人でした。ついこの間までは親しくつきあっていた人達の不幸に直面しても看設さえしてあげる事も出来ませんでした。シズさんからも「姉さん私をこのまま捨てないで!おかゆでも炊いてからどこかへ行ってね」と云っていました。もうその場を離れる時は本当に後髪をひかれる思いでした。

 

ぬかるみの中をあてもなくさまよい歩きました。どこをどう歩いたのか、何日たったかも分らずただ歩いていて、疲れたらどこか壊をさがして入って眠り、又歩くといった具合でした。真玉橋に来た時でしたが、術はこわれていて、そのあたりにはちのすごく大きく脹れあがった死体がころがっていて、無数のハエがブンブンたかっているのを目をつぶり、息をのみこんで、ようやくの思いで通りました。

 

雨中の壕追い出し

夜はいつも照明弾が上っていましたので、その明りを利用して「ああ、こっちに道がある」といった具合にして進んでいきました。子供をおぶり、母の手をひき、荷物をもった私達ですから、思う様には進めませんでしたが、具志頭にきて、そこでは具志頭郵便局の嫁に入りました。こっちでも二~三日位入っていたと思ったら友軍の兵隊が来て「日本が勝つためには皆さんに協力願わねば」とその壕のあけわたしを云われました。出された時は日も暮れ、雨も降っていたので困り、大名で近所だった玉那覇のお母さんや次男が、近くの壕に入っていたのでその壕に行って、入れてほしいとたのみましたが、子供づれは嫌がられて、ことわられました。壊をみつけても「こっちに入りなさい」といってくれる人は誰一人としてなく唯もう自分さえよければ、という態度ばかりでした。しかたなく又どこかのお墓をあけてかめを一まとめに出しそこに入り眠るといった連続でした。もうその頃からは食糧にも困りだしていました。それまでは米は友軍が貯えてあった米を安全な場所に運ぶ仕事をすると報酬としてもらえたので、その時もらったものを持っていました。また、芋、豆、それに畑からとったキャベツなどもあり、それらを日が暮れたいっとき攻撃もやみ静かになるのでその時をみはからって、みぞの中(アモシ)に身をかくし、畑がたたない竹を使って、炊いていました。主人、母、子供は壊の中に入れておいて、私一人外で食事を作り、巡んで皆に食べさせていました。

 

共同で食糧捜し

逃げる途中一緒になった近所の長堂家の主人は、糸満漁夫だったので力もあり、食想などさがしたりするのがとても上手でした。私のところは主人が目が悪かったので姉の私が出て、お互いの家族の食糧を一緒にさがしまわりました。畑から野菜類をとっただけでなく、空家に入って食瓶や道具もとりました。あの戦乱の中では、生きんが為にはそうする他ありませんでしたし、又そうしてもよいと云われてきました。だから鍋でも何でもその場で使ったものを企てて、又次の場所ではみつけてくるという風にしてやってきました。

 

高良では飛行機からの攻撃が激しい中を誰もいない民家から、みそと芋を掘る為のくわをとってきて、さあとろうとした時に爆撃されたので、あわてて地面にみせたほんの少しの間に爆弾でとばされたのか他の人にもっていかれたのか、せっかく苦労してさがし出したものが全部なくなっていました。

 

又ある時でしたが、すでに一城六か月になっていた子供がカチューユー(かつお節のお汁)が食べたいというのでかつおをさがしていたら、長堂の主人が「あった」といって持って来てくれたのをよく見ると、人間の肉片の様でした。橋の下から拾ってきたので間違いないと思いあわてて捨てました。

 

戦場の日本兵

 

島尻に下るときからは、戦闘も激しくなる一方で、食植を持ち、っえをついて夜のぬかるみ道を雨にぬれながら下っていくのですが、戦死した兵隊さんが、足もとにくろぐろと横たわっているのを尻目にあれも死体だったねこれも死体だねと、お互い無言のまま顔だけでうなづきあいました。

 

両手、両足をもぎとられて、お尻だけでいざっていた兵隊さんも見ましたが、何か与えて勇気づけたいと思っても自分の食べ物もない状態でそのまま通りすぎました。こうして下っている間でも友軍の兵隊さんに親切にされたり、優しい言葉をかけられたりすると、いつも壕をおい出しに来るにくらしい兵隊でも個人、個人は案外優しい人も多いのかもしれないと思いました。そんな兵隊さんも集団になったり又軍の命令をおしつけてくる時には私達にはとてもおそろしい人間にみえるのです。

 

私は若かったからかもしれませんが、ほしくてもなかなか手に入らない貴重品のマッチや兵隊さん達が靴下に米を五合位も入れて持ち歩いているのを「どうせ私達兵隊は戦死するのだし、持っていてもしかたないから奥さんにあげましょう」といっては何度かもらいましたし、兵隊の中でも体い人だと思いますが「奥さん御苦労さんですね、もうすぐ終りますからね。後少しのしんぼうですよ」と励ましもしました。

 

飛行機からの攻撃などは一機、二機どころではなく一○機も二〇機もがブンブン飛んで来て爆弾を落すので大変でしたが、私には飛行機からの爆撃よりもいつどこからくるか分らない迫撃砲がおそろしい存在でした。島尻に下るたびに、生れたところで死んでほおむられたかったのに、どうしてこんなところまで来てしまったのだろうかと何度も思いました。特にあられもない格好で死んでいる女の人を見た時などは、死んでから後もそんな姿を人にさらしてはじをかきたくないとそればかり考えて、自分はそんな目に会わずに死ねるかどうかと不安でした。

 

子供を大ぜい連れている人は、電波探知機か何かで泣き声をさぐられるとか云われて、どこの場にも入れてもらえませんでした。私達はまだ一人だったので何とか入れてもらえる事もありましたが、中に友軍の兵隊がいる場合は、泣き声がちょっとでもすると叱られるので、とても気を使いました。あの戦争で子を持つ親は二重にも三重にも苦労をして、気のやすまる時とてなく本当に大変でした。

 

飢えた負傷兵

あちこちの壕には、けがをして動けなくなった兵隊がいて、看護されるでもなく、食様も与えられずに、もうほったらかしにされたままでした。私達が入った壕にもそんな兵隊がいて、私達が食事でもしようものなら近くに来てじっとみるのです。もう今にも死にそうになっていて、その臭さといったらたまらない位でしたが、飢えて血の気も失せたその兵隊に見られると、ぞっとして居たたまれない気持になり、「私達には子供や年よりがいて食物もこれだけしかあげられませんが、この壕にいる間は食物は私が何とかしてきますから、済みませんがこの場からちょっと移って頂けないでしょうか」とたのみました。ひもじい思いをしているのでしょうが、あれが友軍の兵隊なのかしらと思いました。何もかもなくなってからのあの人達は、本当にわけの分らない子供達より始末におえない存在でした。

 

いろいろな目に会いながらも何とか墓や壕に入れた内はよかったのですが、それもまったくなくなり民家や馬小屋でもいいから入ろうとさがしても、どこもかしこも焼野が原でした。みんなも下って行くにしたがい壕もなく困っていました。木が残っている森という森には、背人が避難していました。

 

袋小路

真壁新垣部落に来た時には、もうどこに行っても戦場だと思うと逃げる気力もなく行くところまで行ったという思いだったので、そこで壕をさがし、とどまる事にしましたが、やはり壕らしきものは皆人が入っていて、私達が入りこむ事も出来ませんでした。岩があったので、持っていたくわでその岩の下に穴をほり、かれたさとうきびの薬を床にし、木でおおいをしただけの簡単な壕を長堂の主人、私、私の主人で作り、私達の家族四名それに長堂の一家と合わせて十名位が入りました。壕というより地面に穴をほっただけのものでしたが、やっと壊に入れた安心感で、その夜はぐっすり眠り朝起きてみたらそこは、雨水が流れこんで池の様になっていましたが、身体がビショビショにぬれているのも気づかずねむっていました。

 

私は死ぬかくごはとっくに出来ていたので、どんなに爆弾がおちてもものともせず、畑にいっては、キャベツや豆をとってきていました。命をつなぎとめる為には他人の物だからとってはいけないなどという事も余り考えませんでした。私達が入っていた家の近くにはやはり私達の様に穴の中に入っていた人も多かったのが、井戸に水をくみに出る時など「元気ね」「元気よ」と声をかけあいましたが姿は見えず、どこにいるかは分りませんでした。

 

又父親は現地召集されていないのかどうか分りませんが、母親一人で五名位も子供を連れていた家族がありました。その中の子供が爆弾にやられて死んだのを、やっとの思いでたこつぼに入れほおむった矢先又別の子供がやられて死んでしまったという事もありました。母親はもう涙もかれはて放心状態でした。こんな事を見るにつけ身につまされて何とも云えない気持になりました。

 

夫の最後

この真壁新垣部落の壕に入って一週間位たった六月十八日に艦砲射撃をうけ、その直撃弾で主人は死にました。この壕をほる時に主人は「今まで逃げてきたけどこっちが最後だね」と云ったものでした。その言葉通り主人にとってここが最後の場所となりました。その日は、死ぬ時は身ぎれいにしていたいとかねがね心がけてきていたので、しらみがでていた髪を、前日の十七日に洗ってさっぱりし、その日の朝起きて髪をとかしていました。そこにあの直撃をうけたのでした。私は主人をいつも大切にしてきたので「外にはなるべく出ない様に」といって、危険な事はほとんど私がやってきていたのに、事もあろうに壕の奥にいた主人が直撃で死に入口の方にいた私は、大けがでしたが生きているのですからこの時程皮肉な運命を感じた事はありません。

 

主人の他に長堂の長男、次男が死に、長堂の主人とおばあさんが大けがをしました。自分の目の前で直撃弾で死んでしまった主人の事がいつも思い出され、今に至るまで何度かあった再婚話も九分通りととのっていても、あの時の主人の姿が目にうかんで来てどうしても再婚にふみきる事は出来ないのです。まわりの人からは「馬鹿だね」と叱られますが主人の「あえない最期」を見てしまった私には一生忘れ去る事は出来ません。

 

主人が死んでからは死にたい、死にたいとその事ばかり考えていました。ふと気がつくと私も相当やられているし、抱いている子供の頭から背中から全身血でまっ赤になっていたので子供もやられたと思い、調べて見てもどこといってけがもしてなくて、私の頭から流れた血でした。子供を殺して私達も死のうといって私の母も手にしたカマを、首のところまで持ってきていました。子供と母をどうしたらいいか分らず、こんな時に手りゅう弾があったら直ぐ死ねるのにと手りゅう弾がほしいなあと思いました。同じ死ぬなら生れ故郷の首里の方を向いて死のうという事になり、そこを出て上にあがる事になりました。長堂のおばあさんはけがをしていて「私はどうしようね、どうしようね」と云っていたがそのままそこに残されました。私の母も主人の死にショックをうけたのと長い壕生活で骨と皮になりすっかりやつれて、ふらふらと歩くのがやっとでした。私は子供をおぶり、杖をついて中風で歩くのが困難な母の手をとり歩きました。

 

捕虜

大けがをして身体には弾の破片が入っていましたが、これで死ねると思ったので割合と元気でした。上にあがる途中、友軍の兵隊が私の弟として一緒に逃れていってほしいとたのみました。海軍の兵隊というその人は民間人にみえるよう、かすりの着物などもつけていました。「ハイ」とも「イイエ」とも云わなかったが、その人も一緒に上にあがったら直ぐ目の前にアメリカ兵が銃を持って立っていました。けがをしてたんかでかつがれていたアメリカ兵が私をみてパンをくれた。とろうとも何ともしないで見ていたら、そのアメリカ兵は安心させるため、自分が食べて見せたりしていました。そこでハワイの二世と思われる人が日本語で「安全な球、安全な環」とトラックを指さして云っていました。ああこれが話に聞いていたスパイというものだなと思い。刃物でも持っていたらあのにくらしい奴を殺して自分も死ねば少しはお国の為にもなるのだけどと思いました。当時はそんなにまでしても国につくしたいと思っていました。そこでアメリカ兵にかこまれトラックに乗ったのですが、安全な埃と云っているのはきっと生地めの事だなと思っていたが、「捕虜」として知念に収容されました。

 

その途中でしたが、私はけがをしていたので手当をする為に百名あたりにあったアメリカ軍の病院で降ろされる事になり、母や子供と離された時は、もうどうなるかととてもおそろしい気がしました。テントばりの野戦病院ではけが人は治療を、重病人は入院させられました。私はそこで治療をうけ髪も切られて、知念につれて来られました。そこには母や子供が待っていたので一安心しましたが、知念の収容所で会った近所の名端山然和背年は、もうずっと前に々捕虜々になっていて、米兵の帽子をかぶりアメリカ罐詰のせいか体格も良くなって別人の様でした。それを見たらはりつめていたものが一度にくずれバカバカしくてしかたありませんでした。

 

足を引きずりながらの作業知念の収容所が一杯で入れなくなったので今度は、同じく知念村にある久手堅に入りました。捕虜になってからは、一世帯に一人の割合で作業に出なくてはならず、母と子供だけの私達の家族では、傷もまだ治らず、ふくれた足をひきずりながらも私が出ました。作業は家を作る為に必要な木をばっさいしたりかやをかったりする仕事でした。そのかやをかりに久手堅から三キロも離れた玉城村に行った時は足がはれて痛くなりとうとう帰りは動けなくなりました。こうして無理してでも働らかないと配給ももらえないのでがんばり通しました。

 

その他いもほりの仕事や海にいって、アメリカ兵が船から捨てるメリケン粉(外側はぬれても中の方は使えた)や肉の罐詰を拾いました。アメリカの兵隊は何でもよく捨てたので両手に持ちきれない程もありました。それらは共用のものとして保管され、そこから配給といっていくらかずっもらっていました。

 

恐ろしい米兵

作薬に行く時は班長として「赤帽」と呼ばれていた私達のめんどうをみてくれる人が一緒でしたが、アメリカ兵が女達をおいかけまわして大変でした。私達は顔にすみや泥をぬっていてもごまかせず海にいても畑にいてもおいかけてくるので一人では何も行動しませんでした。班長といっても、捕虜の身ですから何も出来ないので、金や物で女達を自由にしようとするアメリカ兵におびえ通しでした。私達の身を守る為についてくれる男はせいぜい一~二人でしたから、どうにもならず、棒をブンブンふっては逃げるよりしかたありませんでした。

 

その時分でしたが玉城村でいちほり作業をしていた主婦が、黒人兵につかまえられたのを助けようとした人が、その黒人兵に射殺されるという事件がおきていました。沖縄の女性は何か月もの長い間、爆弾の恐怖から逃げ回りやっとの思いで解放されたら今度はアメリカ兵から身をまもるのに必死にならなくてはならず、本当に苦労の連続でした。

 

敗残兵を弟として偽る

こうして嫌な目には会いましたが、私が作業にでてもらう配給とアメリカ兵が投げてくれるタバコを拾ってそれをかつお節と交換したり、長堂の主人が海岸でたこなどを取ってきてくれるので、とうるとかえたりしていたので毎日の食事には困りませんでした。あの当時は食用油などもなかなか手に入らず、モービール()で料理を作っている人もかなりあった位でしたから、それを掲えると私はめぐまれた方でした。

 

着るものは、友軍の兵隊の肌着や洋服などをもらったり、拾ってきたりして、男もの肌着は洗流しただけでそのまま着け、洋服類はモンペ等につくり直して着ていました。

 

私の身体には、直撃弾をうけた時の弾の破片がまだ残っていたので、それをとる為、志喜屋にあった仲間先生の病院に通いました。そこに一緒にいっていたのが、私の弟と偽って、捕虜のになった海軍の兵隊さんで、その人もけがをしていました。その人は兵隊である事をかくしていましたので、私の子供にもおじさんと呼ばせ、町内会長や婦人会長の名前も私から聞いておぼえていましたが、いっも自分の身分がばれないかとおそれていた様です。

 

名前も私の姓を使って、あわぐにですといっていましたが、沖縄では、あわぐにと書いてあぐにというのですよと教えていました。二日位一緒に通院していましたが、丁度その頃民間人といつわっていた日本軍の少尉がそのうそがばれ制裁にかけられるという事件があり、みせしめの為にかそれを私達にも見せていました。そんな事があってその人も制裁をおそれて「本当の事を云いますから姉さんによろしく伝えて下さい」と伝言して名乗りでたらしいですが、何という人だったか名前すら聞いていませんでした。

 

仲吉良光先生

収容所にいた頃、私達のめんどうをなにくれとなくみて下さったのが、日本復帰をまっ先にとなえられた仲吉良光先生でした。仲吉先生も首里市長をされていたのですが、私遂と同じ様に知念で捕虜になり、そこでけが人や避難民の世話をされていましたが、廃墟と化した首里に一日も早く人が住める様にしようと運動をされました。この仲吉先生とは戦争前、私が女子青年団の団長をしていた頃、ね仕作業の一つとしてりゅうたんの池の掃除をしていた時におしゃべりでめだつ存在の私を見てよく話かけてこられましたので知っていました。後になって首里に戻れる事になり「首里に戻れたのも先生のお陰です。ありがとうございます」とお礼を申し上げたところ「首里に帰れたのは問題じゃないよ、この沖縄が日本にいつかえれるかが心配だ」と云われたが、沖縄が本土から切り離されてるとは夢にも思わなかった私には変なことをおっしゃるもんだと思いました。

 

首里先発隊

この久手堅には相当長い間住みました。その間には本当にいろいろの事がありました。家といっても米軍がいらなくなったテントをもらったり、海で流れてくる板ぎれを拾ったり、ふとんさえすててあるとひろってきたりで何もかも利用して生活していましたし、お風呂もなく井戸のまわりに集まって、男も女も区別なく皆裸で水あびしたり洗濯していましたが、米兵などはこの様子にびっくりしていました。

 

作業している私達に悪ふざけする米兵をけいかいして罐をカンカン鳴らしたりして用心しました。ここで台風にもあい一部屋に六〇名位もおしこめられておりかさなる様にしてねるという事もありました。その頃、仲吉先生をはじめとして首里に帰る運動をされた人達の願いがかなって首里先発隊が編成され、私もその先発隊の一員として首里に帰る事になりました。その首里も焼け野が原で何もなく本当に見るかげもない程の荒れ様でした。首里のどこにいっても遺骨があり、それは家の中、壕の中、井戸の中にもといった具合で何をするにしても大変でした。私達が先発隊だから一生けんめい回いて、皆を首里に呼び寄せる様にしなくてはとがんばりました。男は家を作る為の木を国頭あたりまで伐採に出かけていました。

 

私はけがをして余り重労働も出来ないので千原先生と馬場さん(末吉宮のお坊さん)に相談して自分の治療をしながら病院で看護婦として働いていましたがその頃から世続々と首里に帰って来ていました。その人達の中で看護婦資格のある人に仕事をゆずりました。私は看護婦の資格もなかったし、第一、病院にいては食糧も余りなく、母と子供の食糧を何とかしなくてはと思い配給所にまわしてもらいました。

 

配給所勤

務配給所とはアメリカ軍が戦争が終っていらなくなったもの、たとえばフトン、カヤ、洋服、道具、食糧などをトラックでもってきてくれるのを倉庫にしまって皆に分配していたところです。「その配給所で働いている時の事でしたが、友軍の使っていたトラックをくみたてたボロ車で糸満に行っての帰り、真玉橋あたりで黒人の車と白人の車の二台からおわれたのです。こちらは男四名に女が四~五名ものっていましたが、二台の車とも私たちが何も出来ないのを知っていて、追跡してくるのです。もう最後はとびおりようと思っていましたが、どうなる事かと恐くてしかたありませんでした。アメリカ人同士が意地をはりあってずっとおいかけてきていましたが、その内黒人の車がびったりくっついて車から車にまたごえしてきたので、大さわぎになりましたが、助手席にのっていた男の人が気転をきかしていた指笛に、その黒人兵はMPにつかまると大変と思ったのかどうか、離れていったので、命びろいしました。

 

この配給所では男と同じ様な重労働をしていたので、身体を悪くしてしまい、とうとうたおれてしまいましたが、その時ちょうど部長、課長など上の人に行なっていた特配の件で配給所に働いていた人達が次々警察に呼ばれて一般の人の配給物を上役達に特配するとはけしからん」と叱られたりしました。皆んなは警察でしらべをうけたとワーワー泣いていましたが、私は悪びれずに何んでも云って平気でした。その配給所も人員整理があったり、又例の特定の件のトラブルでうるさくて軍作業の方に変りたいと思っていました。

 

軍作業生活

当時の軍作業に出ている人は留多少にかかわらず「戦果」をあげていたので、私も母と子供を捨うには配給所よりゆとりがある軍の仕事をしたいと前々から思っていましたので、まずは家を何とかしなくてはと、そろそろ大名の屋に行っては住める様に準備しました。母と子供は作業に出てもらえず赤平の規格家において、自分はカヤ刈り作業に出てはその屈の一時間の休みの間に、壕に入れてあった薪をかついでは大名の屋に入れたり、掃除もしたり又畑でいもを作ったりしてせっせと働きました。その内、労働部長をしていた名嘉山恭助さんの世話で軍の作業に出る様になりました。最初は水道工事の為の穴掘りで、トラックにのって、ライカムや垣花あたりにでていましたが炊事の仕事に必る様になり、ウェイトレスもしましたが、朝早く夜の遅い仕事で子供と過す時間もなかったので父のいない子供の事を考えるとふびんで、学校に入る頃にメイドの仕事に変りました。

 

私が軍の仕事をする様になって食物には全然不自由しませんでしたし、時々はアメリカ兵の洗福をしたりしてたばこをもらったりしましたが、ある時、そのもらったたばこをゲートでみつかった事がありました。自動車を運転していた人に、あげるからと渡したところをみつかってしまいました。その運転手に妻や子供がいてやめさせられると悪いと思い、「私のです」と名乗りでて取り調べ事務所に連れていかれ、アメリカ人の取り調べ官に訳をいったので、直ぐ帰ってよろしいと云われホッとしましたが、もう帰宅用のバスもなかったので、「あんた達が私をここに連れて来たのだから車で送ってほしい」といいましたが、当時は、皆アメリ兵にそんな口をきく人も少なかったのでしょうか、その事務所で働いていた沖縄の人もびっくりして大笑いしていました。私の事を心配してくれていた近所の人達より先に家について皆をおどろかせました。

 

もうメイドをしてからでも何十年になりますが、今では娘も結婚して孫まであるし、毎日が楽しく、幸せだと思っていますが、自術隊が沖縄に入って来ていていろいろの話を聞いたりすると、やはりあの悲惨な思い出がよみがえって来て不安になります。「あの戦争だって本土をまもる為にとこの小さな沖縄に兵隊が一杯入ってきて、その為にあんなにも激しい戦いになったのですから、そしてこの私だって戦争さえなかったら主人と不自由なく暮せただろうし、ケガもする事なく又あんなにみじめな思いをしたり見たりする事もなかったのにと自分をふり返ってみるといつも、戦争の一番の被害者は女だと思っているのです。 

 

 

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