『沖縄県史 第9巻/第10巻』 沖縄戦証言 ~ 愛楽園 (2)

こちらの資料は《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》のコンコーダンスのための簡易文字おこしです。正確な資料は原典を参照ください。

愛楽園(2)(PDF形式:446KB)

 

 

愛楽園

愛楽園事務長(当時)儀部朝一(三六歳)

食糧が逼迫しましたねえ、全然配給がないんです。配給といっても保管米がないわけですね。これは戦争後の二、三か年位です。戦争前に早田園長と泉正重庶務課長とわたしと三名で那覇の軍司令部に食糧のことで出たんです。ところが当時の食糧営団とか道路公団とかいうのは戦争でやられてからに、みな理事長、団長(食糧営団)は日本に、新里専務は台湾に何かの問題で出張されて、誰にも会えないで、それでどうするかということで、政府は遠すぎるし知事はまだおられんで、もうどこにもあの頃事務所がないんです。


県庁はもう十・十空襲でやられましたからね。やられて行き場所がないんです。その頃庶務課におって、食糧のほうはわたしがやっておったのです。食糧担当ということですが仕事も殆んどわたしのほうでやっていました。

 

愛楽園の職員になったのは開戦後じきで、十・十空襲のときは既に職員。昭和十六年開戦のときは嘱託ですがしかし仕事、政府のほうに当るのはみなわたしでした。そこで、あのときまでも、療養所というと非常に、一般から偏見を受けて屋我地の療養所から来たというたら、組合統制経済などいろいろな物資の組合があるわけですが敬遠するくらいだった。それで療養所の立場を細かく説明して、お互いのためにあれは隔離されておるんだし、隔離されることを彼らは希望しておるんじゃない、何の罪もないし何とか考えてやらなければいかない問題じゃないかというふうなことまで話してようやく説得し、そうするとその間にみなまた聞きたがるんですね。説得が効果があったら特別な扱い同情ですね、しまいには非常にうまくいったんですがね。そこであらゆる業者の組合醬油、味噌、衣料品等一政府関係の人々にも話してわかってもらいましたが、ほんとうは物資があって予算もとられてはじめて安心な隔離ができるんであって、わたしらがどんなにジタバタしたって隔離できないんだ、そこだけは満足にしてくれなければという話もしたら、成程と判ってもらって、それまではよかったんですが、とうと戦争が激化して爆弾でやられるし、それで愛楽園なんかは十・十空襲になったらもう食糧はどうするかという問題になって、早田園長とわたしと泉正重さんと三名で那覇へ行ったら、えらい人なんかみんな会えないで、軍の首里参謀本部へいきましたが、もうあれから食糧はないという、日本軍の話ですね。まだ上陸はしてないんだから、庶務課長の泉さんと、わたしたちみんなバラバラになってしまったんですが、わたしは少し待ちましょうと。それで食糧営団、今の那覇高校、戦前の二中、あの近くの壕に事務所があって。ああ儀さん来たのかと友だちから呼ばれて、何しに来たんですか、実は食糧のことで来たんだがうまくいかないで困っているんだいや食糧のことなら心配いらないから酒のみなさいという、酒のむなら話をしよう、わたしあのころまで飲みよったもんだから。飲むならうまくいくが、飲まなければどんなジタバタしても、どんなえらい人にあっても出来ませんと。そんな馬鹿な話があるかといって、冗談しながら、あなたが出すなら飲もうじゃないかといって、飲みはしないが、相手になって話し合ったんですよ。飲んで交わって話し合いで考えようというが、どうしてそれが食糧を与えることになるのか、知事も政府も出来ないことを。それは誰がも出来ないことであるんだが、そこにおる山入端君という食糧の保管主任がおる、食糧課の移動係の一筆でもって、その食糧の保管指令を出す、これは団長でも誰でも出来ない、あの人だけだと。あんたに配給はできないんだが、儀部朝一個人に何百袋ーどのくらいほしいかというから二百袋位というと、それだけしかほしくないのか、それ一か月分しかないよ、それじゃ二か月分位、五百袋ほしいんだということで、五百袋保管指令をわたしに出したんですよ、百斤俊の二百袋ですよね。これを預っておれば、毎月配給されておる分を二百五十袋位とちょっと使えばいいんじゃないかと。なるほど、うまいことだなと思って、それでわたしも非常にうれしくなりまして、話しあわして、それで指令を出せと。翌日は、それを那覇から取ろうとしてたら、丁度名護に米はあるんですよね、出そうとしたら、屋我地に運搬することができないんですね、船はどうするか、船は、借ろうとしたら、自分らが専用に使っておった運天港がやられたんですね。戦争が激しいもんだから、どうすることもできない。それで県庁の保安部の輸送課というのがあったんですが、その熊崎トシオという人の所に行って、こういうようなことなんだがね、今度だけはわたしの一生のお願いだから聞いてもらいたいとお願いしたら、君、今ごろ船借ろうというのは難しい問題だ、これはわたしらの力でもちょっとできない。何かの方法をつけてできるんでは、わたしの個人の利益でもないしね、あの療養所の大きな問題があるし、患者が丁度九百名位いて、これが食糧あっての収容であって、隔離はしなければならない、食糧がなければならない、食糧がなければ、これがバラバラになった場合には、もう作戦としての患者の収容というものは、わたし個人のことではないのだ、ひとつ沖縄作戦の一環としてこれは考える、食糧は入園者の必要量だけは確保してもらいたい、あなたも考えてくれと。ちょっと考えて、それじゃ八重山丸といって、丁度エンジンを修理したのがあるから、試運転の名目で那覇から名護に回航しよう。これしめたなと思っていると、いいんだといって、それじゃ明日やろうと。そこで営団に馬車二十五台山したんですけどね、馬車がにきて桟橋につけようとするんだが、船へ積めないんですよ、上からボンボンきてね、十・十空襲の後ですね、その年のうちの冬です。それじゃほかにないかといったら、それじゃ羽地にあるのを名護の食糧営団の支所があったんですよ、こっちに―宮城○○という支所長がおって、そこに指令を出したんです。帳簿上米が残っている、まだ何千袋って、これから五百袋は愛楽園にでなく○○に出せと、それですぐわたしはここに来ましてね、名護に那覇から帰って、那覇でできないのでその指令書を持ってきましてね、何かもしておるか、心報かなにかもらったんでしょう、名護へ来たら米はないんだといってやらないんですよ。あんたどうしてやらないんか、こういう指令が出ているのに。こういうのをやらんというのは、米がなくてやらんというのならば、できないんだと一筆書いてもらいましよう、それでいいと、それじゃそれを持ってわたしは食糧営団の保管係の山入端に話をするから。ないということはいえないんじゃないか、むこうでは倉庫にちゃんとあるから、それからいろいろ話をして、必らず恩納村のものからとってくるというんですね。向うから、しかしどういうふうに選ぶかというんで、愛楽園からわたしがこっちさの輸送隊の先部隊に交渉すれば荷馬車を百台も徴用できるから、営団としてはできないんだが愛楽園の仕事としてできるから、向うへ連れて、そういったむつかしいことはできないんだというよなことになったんですね。

 

ちょっとその前にはですね、それは後の話で、那覇で輸送は舟がやれないと決ったものだから、これをどのようにするかと思って、これを馬車でできないかと、わたし一応家に帰りましてね、馬車で試験してみたんですよ、自分で。愛楽園の馬車を二頭だして職員を三名延れてですね屋我地から午前の九時、馬車を船に積んで真喜屋で組み立ててですね。そこから、わたしも一緒について歩いて、仲泊に泊ったんです。翌日また単に泊ってその翌日は味噌をですね、一台に百二十斤のものを八丁台車に積んで来たんです。あの当時は今ごろの道じゃなく、もう泥んこの道ですね、多幸山なんかもう泥んこで、めりこまして馬車をこういうふうに上げる、荷物をおろして担いでそこをこしてまたんでしたりして、感納へ来たらB29Rが飛行雲をしておるんですね。あのときはじめてB29を見たんですがね、これもう大変だと、わたしら麦畑に逃げたんです、くぼみに。帰ってきたらもうどうにもならんですね、二日でもうー。これで那覇から食材、米を積むということ到底できないと、わたしはすぐ断念して。それで名護からとるようにして、今の話になるんですね。とうとう羽地から取らないと、向うは米がないといって返事ができないもんだから、それじゃ行こうといって、羽地は当時親川滑仁という村長で、助役は上地○○といって、今病院かどこかの庶務課長かしている。あれが羽地の助役時代に、行って彼に話して羽地村が預っている米は少くなっていないんだと、しかし、今度変楽園に米を五百袋渡して、あと食中出に全然これからとらないという。はじめは頼らないんだと断っておるんだが、戦争間際のときは米は打ったのを出さないようにしてからに出し惜しみをするんですね。今度この五百袋までとれば、それ以上は羽地からとらないという約束できるならば渡そうというふうなことで、それで契約を結んで調印してですね。五百夜もらうのに、丁度向うの各字にはみな区長代理で米を保管してるのがおるわけですね。区長から指令を出しておって、それを運ぶのにまたどうするかというと、いかないんですね。そこで荷馬車をですよ、夜だから馬は恐れて、それに空襲だから馬なんか使えないんですよ。園の職員をみな動員してですね、馬車をわたしらがひいてですね、海岸ばたまで行って米を迎んで、わたしも伝馬船といで、飛行機がくれば海にもぐるというような状態で、そういうふうにしてようやく運んだんです。

 

ま、そのうちには色々なことがあるんですよ、実際は。米を運ぶには、これだけの伝馬船で五百袋は大変なもんだから、それで園長に相談しましてね、この米の五百というのは、ほかの人ではできない仕事だ、わたしでなければ。四百袋配給あるべきものを五百袋にしているのはわたしが......。わたしに二十袋くれといったんです。米五百袋を運んだあとで、酒屋の人から酒を二斗ぐらいつくってもらって、これを部隊の人に持っていってあげたんです。酒にみんな飢えてるんだからね。

 

わたし園の人にもいうんです。今考えてもですね、この仕事だけはね、どんなに偉い人とか、どんなに腕がいいんだといってもやれる仕事じゃない。わたしはこれを自分の生涯の誇りにしておるんだとね。それを聞いて、早田園長とか庶務課長の泉○○とかのわたしに対する絶対の信頼がふえたんです。それに若い人、まあ、そう口では言わないんだが。園長など仕事においてもぼくにきせるんですね、わたしはまた命賭けでなんでもやるんですね。

 

そのころの住いは、屋我地ですね。店をもっておったんです。嘱託で、家族も屋我地におったんです。園の床敷の今の官舎付近ですね。官否はずっとあとの話で、わたしも家作ってあったんです。それで戦争中は早田園長というのは、頭もいいし元気ものでね、またあの人に対する風当たりも非常に多かった。同じように何でもピシャッと押さえてさせよったですからね。愛楽園の壕、あれは早田副長の強行命令なんですね。こういった堅いところにどうしてトンネルが掘れるかといってですね、みんなが聞かないのを、おしきりおってですね、毎日毎日それだけを事にして、それでみんなが助かったわけですね。

 

敗戦の前に、米が上陸しておるときに早山園長が天長節をしたんですよ。壕の中でわたしら職員だけでね。ミニッツ布告で、日本の行事はしていかないと、天長節のときに皇太后の写真を遙拝して天長節したら、これ米軍にわかってからに、みんなひっぱられたんですよ。戦争中はわたしらこわくなかったんだが、戦争あとがこわかった。戦争前から戦争にやったのがみなバレてしまったんですね。だもんだから、みなあのときアメリカの刑務所にひっぱられてから、わたしは銃殺宣告もうけましてね、家内なんかも。

 

今帰仁白石部隊がおって、竹下中尉という人がいた。わたしはものずきでいろんないいものを持っておったのです、兵隊なんかとりたいために、いろいろなスパイ容疑をかけて、それで屋我地から出るときには必らず屋我地の駐在所の許可を得て出るようにしなさいと、白石部隊から駐在に連絡してから、駐在所からわたしに伝達があったのです。わたしはどうしても合点がやかないで、また駐在所の人も、この人もとっても懇意にしておるのですね、わたしが責任を持っから自由にしなさいということで、なんともなかったんです。そのころ米軍は上陸はしておるんだが、白石部隊から竹下中尉つかって、わたしを殺してきなさいということになったのですよ。

 

その三日前に、今仁の宮里政安がおりまして、若いころ友だちだった、今帰仁あたりでは通訳とか校長とか警防団長の謝花睦さんなんか、みなやられた(殺された)のですよ、三名か四名。それで政安さんが、園長と泉○○さん(庶務課長)とわたしと三名が石部隊から呼ばれているから非常に用心しなさいと伝言がきたんです。もうわたしはシャクにさわって、......わたしがそういう意味もないのにこういうことがあると。その後二、三日してから、今帰仁でも四、五名殺されておる。夜来なさいとひっぱられてすぐやられているという情報がはいったのですが、用心しておりますがね。それで政安さんからきたものだから、いいだろうということで、それで竹下中尉(大分の人)がきてからに、屋我地に行くと。それで饒平名のほうに渡っておると、競平名で仲宗根センキチ(もとカジヤしていた)に会って、孫次郎さんや屋我地のセンキチなんか会って、何しに来た、隊長の命令をうけて、儀部、早田園長は危険人物だといって、...あれは絶対そういう人間ではない、非常に日本人に対して熱血をふるっている、非常に好意的である、宜無にしても非常にやっておるのに、まずする前に会ってみなさい、会えばどれくらい協力される人間かわかるよといって帰して、それで人をつかって馬でわたしのところに来たのですよ。

仲宗根センイチというのは、屋我地でいつまでも懇意にしていて、薪もってきたり兄弟みたいにしておったのですよ。竹下中尉が会いたいというふうなことなんだがどうかといったら、わたしは早速行った。そしたらもういなかったんですよ。隊長の命令を受けてから、自分らでもって問題を解決することができないから、隊長に報告してからということで帰って。わたしは運天原の渡しの所まで行ったんです。

いないんで、それで翌日は何月何日に会いたいから是非待ってくれというんで待ったんです。あのときには家内にも長にも話して、竹下中尉が来て面会し、いざこざのものは何も話ないんですね。わたしは、それはあのときにわかるんだと。会いたいというのでそれじゃいいだろうといって、家内に竹下中尉が来るから、三名分のごちそうをつくりなさい、高膳にしていろんなごちそうたくさんつくって待たして。夜の十時ごろ米たんですよ。戸をたたいて。わたしはでませんよ、こわくて。話し合いしてからでるなら別だが、戸を閉めて排除して、そうするまでに人間考えるわけですからね。それから竹下さんはちょっと明るいところに立って合図しよったから、ああ大丈夫と思って、部屋に入って、それからいろいろ協力の話、それで食糧の話がはじまって食糧を補給してくれと。そのときはわたしは、くれる(あげる)と言わないんですよ。ただいいでしょうと。園長と庶務課長はくれなさいと、わたしはできないと断ったんですよ。これをすぐくれたということで他にバレた場合には大変だからと、竹下さんをそばに呼んで、彼に、わたし責任をもってやるからといって。そこに四、五名他の人もおりましたからね。それは日本俵の二十五袋ですね。あの百斤、これを半分にみな荷づくりして、馬車四台に夜つめて二、三日にわたって輸送して、アメリカの軍艦がおるんですがね、そのそばをボートでみな、アメリカなんとも言わんです。第一回目のときはこわかったんですよ。電気はコウコウと照っているし、そのものは運んで。そこでまた竹下さんも、一回行って、わたしに涙流して話する位でしたね。...わたしはアメリカの憲兵本部から、車もらって自由でしたからね、いろんなものやったりしたら非常に感激して、これは大本営にも報告するということにしてやるんですね。わたしはそういったことはいらない、わたしは国民としてその位あたりまえだということで。

 

あの当時アメリカの憲兵も一日ごしにですね、四、五名来て非常になどやかになってわたしと話しておる。ところが、一週間ぐらい来ないんですよ。次に来たときには手榴弾や銃で武装して来てる、今日みなひっぱりにきておるからその心構えをしときなさいと。それで第一番目に呼ばれたのが泉正直庶務課長でひっぱられてどこかに連れていかれ、そして二番目にわたしが呼ばれてですね、今の園の教会より古宇利寄りのところの広場の真中へ出て、三名で弾丸とめて取り囲むんです。わからんですわたしは、何のことでそんなふうにするのかと思って、一人ひとりみな連れてきたら、馬車持ちなんか迷れてくる、舟の船頭なんか延れてくる。はあ、あの米の輸送したのがバレたのかなあと非常に不安になって、あのときは身動きもできなかった。口を動かそうとしたら、すぐ拳銃で頭をこういうふうにやろうとするから。そのときに、泉正道さんはどこかで話をつけて許されたのか、米の撤送バレているから隠すなと、わたしのところに石に書いて投げたのが届いたのです。兵隊に見えないように、石に書いてるのを読んだらこう古いてるんですね。ああ、大変なったなあと思ってね、あのときに銃殺だなと思って覚悟したんです。憲兵の隊長がきて、どうしてあなたはここにすわっているの、あんたは関係ないというような言い分で帰りなさいと隊長が言って、うちに帰ったんです。

 

帰って食事も、お風もまだとっていないもんだから。そして園長がこっちからぶらぶらして歩くんです。帰りに、きみはどうして帰ってきたのかと、園長がわたしに叩くので、わたしは、隊長が帰りなさい、と言って帰したといったんです。米の輸送はみなバレておるからね。逃げまわって城でもついたら大変なことになるから、みなバラしなさいと、わたし、長といったがね、あの人もう絶対にバラさないですよ。わたしがっちへ行ったら、みな心配しておるんですね。帰されてから、うちに行くと同時にですね、クロンボと泉事務長が、わたしのうちわかるもんですから、わたしが食事をとろうとするときに、連れてきてですね、わたしはまた引っぱられていったんですよ。もうあれからすぐ、助かしもしなかった。ちょっと身動きをすると、また銃を引こうとするわけだからね。あのときはもうあきらめてですね、ま、銃殺だなあと思って。それで、裁判するようになった。ここで裁判して、米の勝送がわかった。今の名【高校にアメリカの本部があったんですが、泉さんはここに引っぱられて、園長は連れられないでー。それで園長は、陰部がいなければ、この食担当しておるから大変だろう、とたのんでおるんです、憲兵隊長に。裁判したら、きみはこの米の何十袋で日本の兵隊がどのくらい活躍して、アメリカに及ぼす幣害というのはあるのかわかりますか、それでいいのかと言ってね。わたしはもう殺されるもんとしか考えんからね。死ぬぐらいなら堂々として死んだほうがいい、そうすれば家族も国から考えてもらうことしか考えんですわね。国民としては悪いとは思わないんだというとね、この裁判官が二世なんですよ。別にどういうことなくて、きみは今日それでいい

から、また呼ぶかもしらんから、三日間はどこにも期かないでうちにいつも待機してなさいという命令でした。それで毎日待機して、自分のうちの屋我地にですね、三日目に泉さんが向こうから、済井出の坂で手を振っているんですね。部さん、償部先生、脚とび方がわかるでしょう、早く逃げなさいという意味でか、何かわからない。しかしあの人の声であれはいい情報じゃないかと思ってー。裁判にまぬかれて、それから仕事をするようになった。

そういうようなことです。それがどうしてバレよったかというとですね、竹下中尉が戦死したんですよ、呉我山で。その戦死した手帳には、わたしらがやった行動もみな書いてある。それからわたしが呼ばれて、また引っぱられてね、田非等に四日間ぐらい前立されました。園長にわたし、泉正耳の三名、留置されてね、みな部屋は別々。(三、四回ぐらいいきましたかね。いろいろな問理があって、感賜の軍刀を回しておるというのがあったり)それでわたし夜中引っぱられて。田井等に透兵本部があったんですよ。嘘ついている者は通らないですよね。実際についているというし、自分はつかんというし。

あと威嚇をパンとして四発ぐらい竿銃を撃ったもんだからね。わたし、あんときに泊にきてですね、見たら、こっち側歩いとったところの写真とっているから、わたしがそれに嘘ついているとわかるので行かなかった。向こう写真とっているんだが、正直にあとから話したら帰れといった。あれからですね、アメリカの兵隊、人殺さんと思った。あの程度のことで、日本人ならすぐ殺しますよ。伊平品もちょう食棚のことで、あの為のことだから、食郡がき

れてですね、どこへ行っても、交渉したけれどラチあかないんですよ。戦争後ですね。アメリカの補給がないんで海軍の補給倉庫へ行ったらないしー。それで伊東の食祉会社の米が本部に、自動車で込んで船に標んであるんですよね。だが伊平屋の村民の了解を得なければこれを誤らん、それを相談しに行くと「施がでてしまえぼまた逆になるからね。船が行かんうちにいかなければいかんということで。運天港でしかわたしら脚をのっていなかったんですが、わたしのクリ冊ですね、機械、モーターつけて行こうとしたら、低気圧なんですね。水もちょっと無理だというんだが、ぜひ行かなければいかんから行ってくれというふうにしたんです。五名です。わたしと船頭の二人がボートの係、ほかの三名は電気とか機械がうまいからね、垂れてったんです。海にも、漁船なんかでのっている、またわたしの下の海軍あがりの玉城―。それで五名で、占宇利のうしろに行ったら、もうは、波荒くてですね、これもう大変だな、はじがぬれたらいもんだから大変だと。それどころの話じゃないんです。機械が故隠したりして。波がかぶってですね、これはもうどうなるかなあと思って。それでも引き返しはせん。引き返すと米がとれない。大変だから。行けるところまで行こうじゃないかと言って。古宇利のところと伊平屋の間ぐらいが一番波が荒いんですね。舟がもうわれるようにして。二時間ぐらいしても母は大丈夫で。また底でもぐるんですよね。やっぱり上にあがる。これは沈みはせんのだというふうなことを一瞬思って。それに機械の故障がある。なおしてはする。渦巻くところがあるんですよね、むこうに。したらもうこれ大変だと思って、ちょうどあの辺の危険なところにきようとしたら、また機械かける。五名でかけるんですがね、動きもしないですね。それでようやく、朝出たら、当通なら三時間半ぐらいで行くはずだが、腕しか着いてない。韓れると、みな赤信号もってからに、救助してくれと。それでわたしは、あのときにもし万一のことがあったらいかんからといって、帆柱のなにを舟にくくってですね、機械のボルトを下、みなネジをはずして、ひっくりかえったら機械すぐ落とす態勢とったんです。命賭けで行って、それで着こうとしたら、むこうの運搬船が、風があるんだといってイカリを五つぐらいおろしてからに、風向きにエンジンかけているんですよ。近づいてみたら知り合いだって、わたしらが戦前にずっと前に専用しておった船長なんですよ。ああ儀部さん、それで上陸してからにねむこうでそうめんを、御飯をこんくらいいれてもひもじいんですね。あの辺のお椀が、そうめんなんかー。もう見てびっくりしてね、食べることもできない。それで村の有志を集めて、話をしてもらうようにして、それですぐまた翌日は出なければいかんからね。世気技師と船頭のほうは、あんたと一緒に行かない、あんたと一緒に行ったら命をとるから。来たときは向い」だが、今度追い風だから今度の場合は危なければ伊是名につけてもあんたらにまかすから、来たときにはわたしは指押しとるから、絶対帰れない、行くところまで行きなさい、そういうふうにしたんです。一応成功した。帰えりは朝早くから、腕械はずして分解して、オーバーホールして、かかるようにしたんですよ。帰ろうとしたら、巡扱船から、きみ、そんなにしたら大変だ、それできないー。帰えりは追い風であるしね。何も危険ないから帰ろうと思う。海は、ぼくらは素人

で、あれらは経験者ですからね。知らないー。いや、今度はもうあんたらにまかして、他所だと思えば伊是名に書いてもかまわんから、わたしは口出ししない。今度は追い風ですよ。サーラナイ。すぐ本部に着いて。本部の船はまだ天候が悪いから出ないんですよ。伊平屋はわたしが行ってきたといったら、あんたらこっちに来て相吸しにくればいいのに。これができあと思えばね、そんな危険はおかさなかったー。すぐ直行したほうがいいんだー。そして米を借りたんですよ。その話を一週間ぐらいして比始!雄先生にしたわけですよ。あの人、牧師かなんか、なにか官房長かしておりましたがね。この前もうひどい目にあって命おとすかと思いましたよといったら、そんなこともあったのか、それじゃわたしが話してその余裕の分はなんとかしてあげる方法を図ってみようと言ってー。善雄先生に働いて、今度三か月分の余裕を、浸とか何とか言ってきてもらったんです。

しかし、園長も職員もみな苦労しましたよ。一生懸命ですね。今頃あのようなことやろうと思っても絶対あつかえませんよ。五、六名、いつもですね、朝、職員集めて作業の命令をするんですね。輪送のほうはわたしのほうで、米輸送で政府へ行ったりするから、強いものをすぐ五名ぐらいとってですね、そのあとで限の作業に使いよったからー。米輸送するとき、母を動かしながらですね。飛行機の空襲がくるでしょう。わたし練になってからね、舟の底にもぐったり、陰にいったりですね、いったことを何回もやったんです。まだ上陸しない前にー。ちょうど村上設郷隊の隊長の、恩思組ですね、村上大尉!あれは

たいしたもんでしたがね、戦争前は→その人のいろいろの情報なんかをわたしがこういうふうに聞いてきよったんですが、それをわたしがまた情報して―本当の情報かよく知らないんだがー、ちょうど舟が屋我地の沖の軍艦のところにきてですね、敵機が来処するんだとー。その前は毎腕運天港から魚雷いがでるんです、月の腕に、何十愛とー。魚雷艇の音わかりますね。今日も何愛いくんだなあと、耳もとで数えるんですね。どのくらい温るんだかなと、いつもお祈りをしてですねー正式にはやれなかったー心の中でお祈りをして、元気で違ってきてーと。そういうふうにするんだが、違ってくるのは遅く、もうイライラ。あ、何か月の開に、一、二隻打ったですかね。それが長く乾いてだんだん」は近くなってくるという情報を開いてですね。今の愛楽園の水道の練があるんですよ、双眼鏡を者ってですね、上にのぼったんです。見ようとしたらですね、向うに敵の戦艦が、大砲の穴ですよ、目の前にきておるんですよ。ポ艦はみえないですよ。すぐでたところがすぐ大砲の砲身の穴ですよ。レンズのいっぱいにかかっているのに、わたしびっくりして、肉眼でみたら軍艦で、こりゃ大変だといって、敵艦もうすぐというので、それで壊に待機したんですよ。大変でしたよ軍拡は、もう際はないですから。昼ですね。アメリカ人は相当やられてるですね。物資の流れてくるあれで、みな救っておりますよ。物資の輸送船、食郡、油、Kレーション...海にみな流れついている。みな海に近くいって、アダンの下に居て、これら来るのを待ってとりよった。

艦砲射撃始まって、艦砲射撃の話をきいたのは、五メートルぐらいの山も撃ちぬくくらいということを聞いたもんだから、大変だと

思って、わたは園の校しで興でやられて、はねとばされましたよ。塚公園に関の取の山あるんだが、山みなトンネルしてですね。トンネルの間に家族塚みな風ったんです。わたしがですね、こっらに爆弾、日の前、埃の前に落ちたんです。爆風サアーといってからに、然なんかも吹き飛ばされますね。それでわたしら吹き飛ばされて、ちょうど自分の際のところにおさまってしまってー。子どもらはみな安全でしたね。反対側のほうはもう思弾の爆爆がして、兵階でもの見えないんです。ふさがれてどうにもならないー。それでわたし小さい子どもひとり脇に抱いてですね、逃げようというにどうするかと思って、私はしないー。誰もこうやっていききれない。わたしツルハシもって、スコップもって、向こうに行って、ちっとも見えない時な脚に、手ざわりしてからに、自分でー。そして向こうがこのぐらいあいたら、あかりが見えるんですね。ああ、もうしめたと思って、そこをみな戦いがあけて満たわけですね。

園長とわたしとがあ就どのぐらい落ちたか、説はこれを計算しないといけない。家族は知らん置して、うちの環にきたらみないないんですよ。後楽園おったら大変なことだ、みな部落のにー。探しもとめて、ちょうどの中にみなはいってるんです。左の骨をみな園の解貝のとこに、なにはいってー。それが一週間ぐらい続いて、また別の塚に移って、したんだがー。

わたしは御形成っておるんです。このにー。あのときは、そとに出血する人が元気そうなのはいなくて、おじけるものだから、園長がわたしを呼んで、これ大事にしてくれないかと。浴するの、わたしやります。しまいに上陸間際でしょ。あのとき上陸した

ら、引きだされて殺されるとしか考えていない。上議した場合には大変だし、そこまでわたし責任もちえないんだよ。そのときには、きみのいいように処理してもいいというふうなことでしたよ。それならお預りしようと。

その前にです、薬の中に幅のはいるくらいの強みをつくって、白い布はってかかげて、一日一回毎日人のぞきよった。この辺の壕の人が遙拝しよったんですよ。写真があるといって、ほかの人がこわくてですね、これなんとかしてくれよ。何をあんたは言うのか、日本国民としてね、こういったことは不故な話じゃないかと言って。それをお承りしておるのが、これもしとられたらわたし大変でしよ。これもう大事にして、よその壕つぐらいつくってですね、毎日移動ですよ。一緒につくった人が、どこにあるとしても、もしわたし人に知られたら大変だー。自分で秘密の環三か所つくってー。

そして艦砲がきたもんだからね、もう上陸間違いないんだと、許井出のところにちょっと川があるんだが、そこをもぐりながらですね、園長にいって相談して、上陸するのは近い、御真影お返ししましょうといったらね、先の話のように、万一の場合、どんな処認でもいいから、責任はわたしがおうからやりなさいということで、してわたしが預って最後までもっていたんです。

園長は、今度の問題に対しては、一番きみらがすべてのものを知っておるから、皇太后陛下に必ず宮中から呼ばれるから、洋服もどういった洋服をつくっていくとか、またどういうふうな報告をしなければいかんということ、その段取りしておるわけだから、そしてわたしもそういうふうにするつもりでー。わたしひとりでしたっ

て、また周囲からみても行かないからということでしたが、園長に呼ばれましてね、皇太子様にお会いしているんだ。上原信雄さんも呼ばれました。上原さんなんか、あまり何もしていないんだね本当の話。わたしがやった功細を上原さんがー。これはどっちでもいいがね。「皇太后産下の歌碑ですね。あれ逃天港のまん中に沈めましたよ。舟にのせて、心者がこいで。アメリカが来てから。古宇利との間にですよ。戦後処県のひとつですよね。

軍隊との関係は、国としては直接ないんですね。兵隊の新田という中尉が、ライと作戦とはいつも伴うものだといって、作戦するに必ずライから片付けなければいかんというのが原則らしいですね。その時に医者の軍医の連中がきてライ収容したんですよ。わたしのほう、だいぶあのとき夜まで歩きましたよね。車をもって。泊るところは、ほとんどわたしらの家でしたね。歯の交際場所ですね。物資はあるし、人はあまりいないし、料理つくったり、うちの中が勝手であったり...軍とのつながりはその程度のものでしたね。七百名ぐらいだったのが、肌がきて三百名近くは収容したんじゃないかと思うんです。千名近くー。

屋我地村には米軍の兵隊五、六名、海軍がいました。運天港からつながりの内海があるもんだから、ウイリアムスという軍曹がおったり、あんまりい人はいなかったです。こっちにずっと転化するのではなく、帰ったりしたんじゃないですかね。係として食抵の品分の担当なんかしておったんですよ。わたしらの世話もしてくれよったですよ。

ところで戦争中、わたしらのうちに(国内)日本兵が逃げて来て療して、そこでやってですね。白衣を着ておるんだが、官舎なんにみな分散しておるんですがね。アメリカ兵が来ると、わしらとおんぶして山に逃げよったこと、何回もあったですよ。おってくとなったら大変でしたよ。どこの部隊とわからない山に入り乱れ"敗残兵ですよ。屋我地には食糧があるということでくるんでしょ

わたしらも、物を買ってから、機を作って神ぎかた教えたりしし、逃がしたのたくさんおりますよ。というのも相手はしろうとだり、こうこうするといえば逃がすよりないですよ。途中どこかで、正ききれないとどこかで死ぬんでしょう。まあそれで三十分ぐらいしすね、雅の使い方ですね、手をとって教えてやったりー単に切れるものじゃないから基本だけでもですね。わたしはまた、座我地に何十年もいて、舟は遊具みたいなもんで。アメリカは祝日、裾となく来ますからね。村上さん (護郷隊村上治夫大尉) なんかし、わたしのうちに子分を連れたりして三、四日泊って、すぐまた退郷隊長村上を捜して米軍の憲兵がきたといって、伝令がきますからね。そのときには、すぐ引き揚げさして、それからすませて、また知らん顔してぶらぶらして、目キ。ロキョロして、あのときすぐ逃がしてー。

それは二十年のはじめのころですが、もう入り乱れて日本もアメリカもなかったんです。終戦になっても日本兵隊を捜して米軍兵隊は歩きよったです。「敗戦のラジオを聞いたのは、園長とわたしと二人でしたかね。ち

ょうと屋我地を飛行場にするとかいうことであったらしいですね。それで獲所を今の奥間ビーチに、向うに移すということでして、どういうふうに移すかというと、わたしらより詳しく、量でもら。んと計時しておるんです。一応現場検証ですか、それしなさいと言って、わたしと園長と二人、アメリカの車に乗っていったことがあります。その途中、羽地に行く途中でラジオで叫きましてね、行かずにとめたんです。八月十五日ですね。あと一退間ぐらいしたら、もう心岩移場しておったんです。それまではあまりわからないんだが、あとでねに知らせが。これはもう大変だというふうなことでしたがね。このこと(飛行場建設)がもれたのは、軍医の誰かが思者の誰かにもらしておるのですね。わたしらわからない。こっちはあとで聞くと、飛行場にするとか、そういうふうな話をあとで聞きました。

大東亜戦争の開のときのことは覚えてないですね。そんなにまで展いではいないんですね。ラジオは、電気はついておるしね。サイパンが落ちたときですね。あのときにはちょうど議会しておるのですよ、日本の国会。あのときの総理大臣は小磯総理大臣。陸軍大臣の小磯が兼任しておるんです。議会の答弁ですね、ちょうと夜ラジオ聞いたんですが、園長とわたしと泉さんと。サイパンがやられたと。それで本土上陸作戦とした場合に一読会での報告ですねー国民皆兵で水際で戦わなければいかんというふうな、総理大臣の小磯さんの答弁ですよ。わたしあのときに聞いてね、国民が出て水際で戦うというのはよほどのことでなければならんと、あのときわたしは敗けると思ったですね、サイパンがおちたときに。

 

サイパン

沖縄爆撃の強制労働

南洋興発会社現場主任(当時)長堂松次郎(四十歳)

勇竣/サイパンへ大正十一年、私が十八歳の時、南洋臭発会社がサイパン島における従業日の芽集を沖縄でやっておりましたので、両親の反対を押切って応募しました。その頃家が貧乏で上級学校にも行かして貰えないので未開の地で一旗あげてこようという野望に満ちていました。

当時の南洋航路には「筑前丸」「筑後丸」「八幡丸」「山城丸」などが就航しておりました。私の乗った船は「筑後丸」でしたが、サイパン高まで一週間から十日位はかかりました。

上陸後、島民の風俗にはおどろきましたが、会社では一心不乱に働きました。仕事を終えてからも会社幹部の家で風呂炊きなどをしてらいたので、月収五五~六〇円にもなりました。若いたときは郵便局がどこにあるかもわからず、現金をフンドシにぬいつけて、水浴する場合も目を離さず、肌身離さず持ち歩きました。

二か月目に親元へ100円を電信為替で送金しました。沖縄を発つ時の文展念として七〇円借金してきたので、まずその返済をしなければならなかったのです。その時、電報を打ちました。「借りた金を返えせ、酒一升、宝箱一杯のごちそうと元利を添えて返えせ」という内容でした。あの時、父は私の電報も持って送済しにいった

そうですが、なお二〇円あまったようです。

たった二か月で100円もの大金を送金し、その後も毎月五0円親元へ電信為持で送金するので、村中で大評判になってしまったそうです。こんな例はハワイや南米へ行った人の間でさえなかったとでしたので、サイパンはハワイよりも良いらしいということになり、その後続々と名からサイパンヘ山てきました。

しかし、その当時州純に増産会社が二つあったがいずれも経営不振で大正三、四年国南洋興発会社が買収して、神起の従業員をサイパンで働かせていたので、石川、名方面からも、かなりの人が私が来る以前からサイパンで働らいていました。

私がサイパンへ行った時、屋慶名からは一0名位一緒でしたが、私の評判でその後、数百人次々やってきました。そして私が受入れ先になってしまい船が着くたびに、沢山のスイカやバナナを持って出迎えに行き、その人達に南洋興発の適当な場を紹介して仕事つかせていきました。

サイバンは本当に楽園でした。魚類は素手でとれるほど無数におり、スイカやバナナなどは食べきれないでくさらすほどありましたので、なんの仕事につかなくても域の心配はない状態でした。

私は沖縄からきた連中の布をさいて南洋興発の鉄道敷設工事、工場建設工事、農場などの現地に各々乱させました。「私は最初から鉄道機関区に勤めました。まず汽車の揺除夫から、まり、車家、機関のかま炊き、味士と年月をねながら勤めていきました。運転士を十年も勤めたら、運転士の試験官もやらされ、更に色車係などの事務職もやらされるようになりました。