『沖縄県史』沖縄戦証言 粟国島編

 

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USMC Monograph--OKINAWA : VICTORY IN THE PACIFIC

 

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

コンコーダンス用資料を公開しています。正確には原典の沖縄県史を必ずご確認ください。

 

粟国村の戦時状況

粟国村浜村長   末吉達幸(三九歳)

空襲

私が村長に就任したのは昭和十八年の二月ですが、もう十八、九年からは戦時体制が厳しくなり食症の確保に苦労しました。とくに十・十空襲以後は、島へ帰る者がふえて、昭和十八年に二、七七七人だった人口が、終戦後の二一年の調べでは三、五二六人ふえていました。粟国は戦前から米は全部輸入(移入)です。ですから非常米として余分の蓄えを取っておかなければならない。十九年の十・十空襲前には、毎月の配給が輸送隊の船でくるわけですが、粟国には非常米として特別二隻分運んできてもらいました。配給米は軍の統轄ですから、輸送隊の清水隊長がくると食糧難の時代ですが豚を一頭ずっつぶしてやるとひじょうに喜ばれて、それで粟国には特別に考えてもらったんだと思いますが、この清水中尉は粟国を象徴するような詩をつくって額にいれて私にくれたこともあるほどこの島が気にいっているようでした。後で渡名喜の村長などはどうしてもらえたのかと不思議がっていました。そんなわけで、粟国では昭和二十年六月の米軍上陸のころまでは食槇はそんなに不自由しませんでした。はじめのうちは、月一回配給場所を定めて役場職員が配給していましたが、三月あと空襲が激しくなると住民は壕にはいって生活していましたので、区長さんを全部集めて蓄えの米を各壊に配給しておきました。しかしこの米は非常用としてであって、戦争はいつまで続くかわからないので、保管米にはなかなか手をつけないで芋やソテツが常食になっていました。実際に思う存分食べたのは米軍上陸のあとでした。

 

昭和二十年二月十日に最後の徴用が陽久丸で那覇に出ていきました。これは海軍の山根部隊に召集されたもので飛行場に配置されたわけですが、これが十数名、ほかに伊江島にやられたのも合せると二百数十名の者が徴用に行っているんですが、もうこの人たちは帰ってこれなくなりまして、沖縄戦にまきこまれて、七七名の犠牲者をだしています。生存者が引揚げてきたのが二十一年の二月末のことで、二二四名が無事帰島しました。

 

粟国に最初の空襲がきたのは三月二十三日のことです。この日は朝七時ごろグラマンがやってきて機銃掃射をやられたわけですが、この空襲で西部落で一人、東部落で三人、港のある浜部落で九人が死んでいます。空襲は港をねらって機銃を浴せたわけですがこの日は船は港にはいなくて流れ弾にあたって住民が犠牲になったわけです。このあと村民は自然洞組や墓生活を続けるわけですが村の行政事務もとまってしまいました。

 

次の空襲は三月二十八日で、この空襲では農業会の建物が全焼してしまい、続いて四月一日の空襲で学校の校舎が全焼、二日には陽久丸が丸められています。

 

この船は六十数屯のかなりいい船で、村有船でしたが、村民の唯一の足でした。三月二十三日の空襲のときはちょうど久米島へ行っていて空襲はまぬかれ、二十五日に帰ってきたわけですが、今からはもうダメだから自分らで沈めておこうという意見もあったんですが、結局そのまま港につないでアダン葉などで擬装してあったところ、かえって目立ったんでしょう、ねらいうちされて燃えあがってしまいました。これでこの島はまったく他の島とは遮断されてしまったわけです。

 

その後も空襲は続き、ずっと壊(墓、自然環)生活が続きました。空襲中いちばん心配だったのはやはり食瓶のことでした。この空襲で民家が三二戸焼けてしまいました。そうして、ようやく空襲がおとろえたのは五月のなかばごろになってからです。このころは住民は全部上部落(東、西)に移って隠れていました。が、雨期にはいって壕生活は苦しくなるし、空襲もおだやかになってきたので、もうだいじょうぶだろうとめいめい部落に帰りだしていました。

 

6月9日 - 米軍上陸

米軍上陸

6月9日未明、突然米軍の大部隊が島に上陸してきました。上空に偵察機がブンブン飛んでその合図でボンボン艦砲がうちこまれてきました。島では在郷軍人会とか婦人会とか巡査などが先頭になって竹槍訓練などやっていましたが、いざ上陸となると自分らが生きるのにせいいっぱいで、替防団を集める余裕なんかもありませんで、みんなめいめい壊に逃げて、後でみんな集められてはじめてああ無事だったんだなあと顔を見合せたものでした。上陸後はやられるならもう仕方ないだろうと覚悟していました。

 

この日の上陸作戦で、艦砲や戦車砲や機銃でやられたのが、この浜部落だけで五六人、上の部落では戦死者はでませんでしたが、家は浜が三三戸、西六戸、東十五戸が焼かれています。

 

また、米軍が上陸してから、逃げようとしたり抵抗しようとして銃殺されたのがいます。郵便局長の屋宜さんはあくまで逃げようとして後から銃殺されています。また水産学校の生徒が、たぶん服装が軍人とまちがわれたのだと思いますが射殺されています。こういうのをあわせて、西二人、東一人、浜二人の犠牲者をだしました。強姦事件が一件ありましたが、これは犯人はすぐ米軍でつかまえています。

 

羽地の収容所への移送計画

羽地とは、沖縄島の田井等収容所の羽地のことか。粟国島も、伊江島などのように米軍基地建設有線のために他島への住民の移送が計画されていたようだが、島内での強制収容にとどまった。粟国でも米兵による放火などの住居の破壊行為があった。

上陸後、ほとんどはその日のうちに捕虜になって、村民は全部学校の裏にある東久保に集められました。それから十二日には浜部落に移動させられて、そこから羽地の収容所に送られる予定になっていました。携帯品は衣類と味噌だけ、あとは何も持ってはいかんと言われてその準備をしていたわけです。その後七月一日になって羽地への移動は中止という命令がきて、村民はまた西と東部落へ移動させられました。私たちが浜部落にかえされたのは十月二十三日のことですが、その間、食梱は米軍から配給されたわけですが、これは島にあった保管米と家畜を米軍が管理して、牛や豚をどんどん殺して配給したわけです。粟国は昔から養豚で経済がなり立っているところでしたので当時二千頭ぐらいの豚がのこっていたと思いますがこれを全部食べてしまいました。農耕用の牛や馬も手あたり次第に銃で殺して配給してしまうわけです。そのほか、豚、山羊など各自で屠殺したのもありますが、とにかく、終戦のころには全滅してしまいました。

 

もっと困ったことは、せっかく焼けのこった家を、汚いからといって放火したり、新代用に壁板や柱をひっぱがして燃やしてしまって、これで全焼が三九戸、半腹が二〇二戸もでたということでした。粟国はもともと樹木の少ない島ですから、本島との往き来ができる二十二年ころまで雨露をしのぐのに困るありさでした。

 

米軍はこの島にキャンプを置き、本土進攻の基地にするつもりだったんでしょうが、上部落に小さな仮飛行場をつくり、戦車隊が照宮名原、砲兵隊が長作原、無線隊が番屋原、陸軍が前原、食糧置場が南場々久保原、コースカー部隊(施設隊)がンナグジ原そして本部を役場にというふうに駐屯していました。駐屯部隊の隊長であるペーイン少佐の話では米軍は四万人がこの島に上陸しているということでした。

 

訊問 - 日本軍はいないか

米軍対村長

私のことになりますが、上陸した米軍は「粟国の村長はどこにいるか、末吉村長はどこにいるか」とさがしたそうです。名前もぜんぶ知っていたわけです。実はこの部隊はここへ上陸するまえに伊平屋に上陸したわけですが、そこで粟国の情報を聞いてきたわけです。伊平屋では村長、青年学校の教官、婦人会などから聞いたそうですが、そこでの話では粟国には日本軍が四〇〇人ぐらい駐屯しているという話だったようです。実際は何もないです。ところが米軍は日本兵を捜査するために私をつかまえて一週間も軟禁状態にしました。-ジープに乗せられて番屋マーラまでつれていかれて、兵隊がいたかいないかと尋問をするわけです。「君は生れは粟国か日本か」とまっさきにきくわけです。僕は粟国ですよと答えると、「妻は日本人ではないか」とくるしまつです。「君は特殊な技能をもってないか」ときくから、「いや、私は何ももっていない。ただの海人ですよ」と答えると、こんどは、「日本へ行ったことはないか」と質問するわけです。「私は水産学校を出て北海道へ行って、それから粟国に帰ってきて村役場につとめるようになったのです」と私はありのままに答えるしかありませんでしたよ。すると今度は、「君は村長にしては若い、軍人ではなかったか」と、軍部とのつながりを追及するわけです。私は三七歳で村長になって当時三九歳でしたから、若すぎるといって疑っているわけです。

 

そのほか、粟国の人がなぜ慶良間に行っているのか、とか、子供たちがなぜ兵隊服を着ているのか、とか、久米島の見えるところへつれていって、あの島には日本軍がいるか、とか毎日毎日追及するわけです。ずっと緊張の連続でしたよ。私はとにかく、この島には軍隊はいない、われわれは軍部とは何のかかわりもない、と説明したんですがなかなか許してくれないわけです。

 

たとえば、在郷軍人をみつけて、あの男はなぜあんなに髪を切ってあるか、軍人ではないか、というわけです。「あれは兵隊ではない。仕事がやりやすいようにするためです。野良仕事では髪がバサバサしては仕事ができないからそういう習慣になっている」と弁解しました。

 

そのころ、在郷軍人会の元陸軍少尉伊佐永篤さんはかくれていて最後まで無事でした。この方などが指導して偽砲をこしらえたわけですが、それで米軍の方も警戒していたと思います。

 

そうこうしているうちに、ある日半裸の大男のアメリカ兵がやってきて、国吉という通訳を通して、「君はウソを言っている」ときびしくとがめてきました。「ウソを言った覚えはない、何ですか」と私がたずねると、「日本兵はいなかったというが、証拠がある」というわけです。私は何だろうと思いながらもどっちみちみんな撃ち殺されるのだと覚悟をきめていましたから、落ついていました。向うがいうのは、役場を掃除していたら押入れにさげたままになっていた日本軍の短剣がみつかったというわけです。これは実は以前に海岸に日本兵の死体が流れついたときに死体は海岸に埋めて短剣だけ役場に持ってきたわけです。これを忘れてみんな逃げまわっていたわけです。

 

私は「その短剣はさびているはずだ、あんたたちならさびた短剣で戦争ができるか。これは子供たちが漂着物をひろったので役場に届けてきたものだ。こんなものが何の役に立つのだ」と言ってやったら、相手は怒って、「ようは兵隊がいたか居なかったかを訊いているんだ」としつこく言うから、「居ないと何回いわせるか。こんなさびたものがなんの証拠になるか」と言い返したら、相手もようやく納得したような顔をしていました。

 

以前にこの島に一度日本の兵隊たちがきたことはあります。四十名ばかり渡名喜の方からまわってきて電波の試験か何かやっているようでしたが、午後三時ごろきて、夕食をすませて夜の九時半ごろ帰っていきました。その一回だけですが、当時軍の方から一村長に対して何の目的で来島したと連絡をするはずもありませんでした。そのこと者米軍に話したら納得していました。

 

そんなわけで、やっと私に対する疑いははれたようで自由にされたのですが、実はこの島には日本兵をひとりかくまってあったんです。友軍の飛行機が引潮のとき海岸に不時着をしたのでその航空兵を救助して部落の人たちがかくまっていたわけです。それは空襲で逃げまわっている最中ですから私も詳しいことはよくわかりませんでしたが、宮里カナさんの家にかくまって、昼はまったく外にださないようにして、役割委員会が世話して、米はないから麦を少しずつ出し合って食べさせていたようです。私は知らんふりしていましたが、そのうち十日も二十日も後のことですが、私はペイン隊長から軍本部のある役場に呼ばれました。行ってみると、小林という朝鮮人の通訳が、「あなたは頭がいい」といって苦笑いしていました。

 

この日本兵は住民を移動させるとき色も白く様子が一般住民と遮うのでバレてしまったわけです。兵隊は学校の前の畑に金網囲いをっくって、あの六月の暑いさなかにパンツ一つで露天にさらされていました。汗がジージー流れて苦しそうだったのを覚えていますが、これも命は助かって、四、五日後には飛行機でつれていかれました。

 

また、こちらの学校にも、十九年に青森出身の軍人が配属されてきています。この人は教員ということになっていましたから何事もなく終戦になってから帰っていきました。(ブログ註・陸軍中野学校の残置離島工作員)

 

八月十五日の終戦は私らは全然知りませんでしたが、あるとき、マウイという米兵がやってきて、「日本はもう敗けたよ」と言ったので、「まさか」と言って信じられませんでした。

 

するとガリ版刷りの日本語新聞を持ってきて見せました。それは石川で刷った新聞で、終戦の模様が書いてありました。日本の天皇がどうのこうのと書いてありましたが、そのマウイという将校が「天皇」という字をさして「この字が読めるか」と自慢そうにきくわけです。彼は日本に七年問いたそうで日本語が達者なわけです。粟国の村長には字も読めないと思っていたんでしょうね。

 

このマウイという将校はこの島の食糧事情の調査に来ていたわけですが、それまで一人一日二合という配給でしたが、これでは足りないからと訴えると、その後ちょっとよくなりました。

 

10月23日の帰村

占領後の村政は私が隊長から任命されて村長をひきつづきやらされ、全島を三〇班に分けて、班長三〇名、巡査三〇名をきめて行政治安にあたらせました。10月23日に浜部落の人たちがめいめいの家に帰されるとやっと村ももとの状態をとり戻しました。11月5日にここにあった軍本部がひきあげていき、翌年2月15日にコースカーという施設部隊が引揚げていくときにコンセットのトタンをもらいうけて学校もつくりました。しかし、ほんとうにこの島がもとの状態に戻ったのは、昭和二十二年になって、粟国、慶良間、久米島、渡名喜が連盟で株組織みたいなものをつくって、軍からLSTを配船してもらって定期船が動きだすようになってからといっていいでしょう。

 

日本軍の部隊もない軍事施設もないこんな小さな離島の者で、結局去る大戦で直接弾にあたって戦死した者だけでも二九九名にのぼっています。

 

無防備の島に上陸作戦

粟国村浜山内○○(ニ八歳)

私たち、戦前は那覇で鰹節を商って生活していました。夫婦と子供四人、子供はまだ小さく長女、次女、長男、三女の順でした。
鰹は本部、慶良間、渡名喜、宮古八重山に工場があり、生産地から那覇へ集まってきました。それを県の水産会で入札にするわけですが、私は入札の権利をもっていましたから、十六年ごろまではこれを地元業者に卸して順調にいっていたんです。それが十七年の六月ごろから鰹がだんだんとれなくなり、そのうえ統制になって統制組合が出荷するようになりました。これは大かた軍の方に送られていましたので軍の買取る値段では私らにはひきあわなくなって商いがやりにくくなってきたわけです。私らには戦争の影響は十七年ごろからあらわれてきました。

 

十八年ごろから兵隊がたくさんきました。十九年には球部隊(第 =三軍)が来ています。軍は十七年ごろから食糧凖術をやっていたわけで、そのうえ鰹船も徴用船として少なくなるし燃料油も配給制になるし自由な出漁もできなくなるしで、それで品不足をきたしたわけです。

 

十八年ごろからは品物もなくなったので、何もやることがなくなって、転業しようにも経験もないのでプラブラ遊んでいました。そこで島(粟国)に引揚げる決心をして、十九年の八月に妻と子供をひと足さきに島に帰らせました。私はそのうち家財道具をまとめて帰るつもりだったんですが、ちょうど十・十空襲にぶつつかってしまってみんな焼けてしまいました。

 

それまでの那覇の生活は防火訓練などはあってもわりとのんびりしていたんですが、十八年ごろからは食糧がとほしくなって、泊りこみで田舎へ買いいれに行って、それを隣近所で分けあっていました。豚肉でも町会から切符が配られて組で分けあっていましたが、とにかくだんだん不自由になってきて、それで島へ帰ることになったわけです。那覇には粟国の人がだいぶ出ていましたが、この人たちも生活がきゅうくつになって島に帰るものが多くなりました。そこに十・十空襲がきて、全部焼けてしまって着のみ着のままで船便があり次第島へ帰っていったわけです。

 

私も十日ばかり国場に避難していましたが、ちょうど帰る船があると聞いて着のみ着のままで島へ帰ってきました。沖縄興業銀行に預金があって通帳も持ってはいたんですが、空襲で銀行も焼けてしまってどこにあるかもわからんのでそのままになってしまいました。とにかく島へ帰れば畑をつくって自分で食うだけは何とかなりますから、それだけでよいと考えて十月の末ごろ島へ帰ってきたわけです。

 

粟国島

島の生活はほとんどが農業で漁業は夏だけ、全部サバニで三〇隻か四0隻ぐらいで糸釣りぐらいのもんで、渡名喜、座間味とは違い鰹漁はありません。養豚がさかんで那覇にだいぶ出していました。

 

そのころ、畑はすみすみまで耕やされて、大豆、粟、はだか麦、芋などが多く、さとうきびはめったに作りませんでした。粟は昔から粟国の特産で、別に戦争中だからというわけではありません。ですから、渡名喜島座間味島とくらべて昔から飢饉には強く、向うから粟やソテツを買いにくるぐらいでした。

 

船便は村有船の陽久丸が一隻ありました。昭和十六年に新造して離島航路の花形だと言われていました。 この船はずっと後まで残っていましたが、空襲でここの で焼かれてしまいました。この船が週一回那覇へ行って食糧とか生活用品を運んできたわけですが、時たま何かの用事に徴用された木造船が来ることもありました。 これだけが島の生活の頼みの綱でした。

 

あだとなった偽砲

島には全然軍の施設とか部隊はないわけです。それで在郷軍人の人たちが発案して潜水艦をおどかすつもりで島のまわり五、六か所ぐらいに松の木を切って偽砲をそなえつけたわけです。砲台みたいにつくって、先だけをつきだしてありました。夜中に島のすぐ近くに潜水艦が浮上したという噂もありました。 これでアメリカは軍事施設があると思いこんで上陸してきたと思われます。

 

私が来たころは戦争が近づいたのを察して島じゅうがワサワサしていましたのでもう訓練どころではなくなっていました。当時島にはラジオは一台もありませんでしたが、郵便局に無線がありましたので局員が庸報を知らせてきました。サイバン玉砕はその無線で聞いたそうで、次は沖縄にくるという噂も広まっていました。

 

年が明けて昭和二十年の初めのころから敵の飛行機がプンプン飛んでくるようになりました。もう大変だと、部落から離れたソテッ山へ逃げていって体だけ隠していました。防空壕もまだないのでとにかく体だけ隠すだけでした。それ以前、十・十空襲まえから偵察機は飛んできたようです。後でわかったことですが、 アメリカ軍はこの島の上空から空中写真を撮って島に何があるかよく知っていたそうです。

 

こんなことがたびたび続いたので防空壕を掘るようになりました。屋敷の近くに穴を掘りその上に畳をのせ土をかぶせたり木の枝をかぶせたりして形ばかりはできました。しかし私らはここ(浜部落)は危いからといって空襲がひどくなると上部落(東、西部落) に移っていきました。


三月ごろになると小型戦闘機、たぶんグラマンだったと思いますが、低空で飛んできて、白い星のマ1クまではっきり見えるようなありさまでした。最初は島のまわりをぐるっとまわって通りすぎていくだけしたが、本格的な空襲がはじまったのは三月ニ十三日(昭和一一十年)の朝が最初です。


その日の朝八時ごろ、はじめ四機編隊の飛行機がプーンと通りすぎていってニ度目に低空飛行で港に向って機銃を掃射してきました。みんなは家の中に居る時分でしたので、この最初の空襲で浜部落の七、八人が死んでしまいました。その時に私の親戚の子供で、女学校の三年生の女の子と、小学校一年生の男の子が機銃でやられました。

 

また、私の祖父は家の仏壇の前に座っているところを屋根をつきぬけて弾がとびこんできて、熱いと思ったとたん、すぐ側に弾がっきささっていたそうです。
私たちの家族は上部落の姉さんたちと一緒に墓の中にかくれていました。西海岸の崖の上のお婆さん(妻の母)の墓でした。そこはコ1ヒチ(凝灰岩)の崖で中をくり抜いて自然壕みたいに広くなっています。墓の中にはまだ洗骨を済してない棺もありましたが、ただもう空襲に追われて夢中でしたから臭いとか恐いとかいう気持はなくて、棺をかたづけて隠れていました。ほかの同じ門中の人たちも一緒に来て寝ていました。
私たちが墓に逃げたのは一一十五日の朝八時ごろですが、私たちは那覇で訓練を受けていたので寝るときは身のまわり品とか防空頭布とかは枕元に置いて、朝ご飯も早くすますようにしていたわけです。ところが、その日はちょうど学校の卒業式でどの家でもその凖備をしている頃だったので家にいたわけです。

 

三月二十五日の夜、向うの慶良間の方がまっ赤に燃えているのが見えました。敵が上陸したのだろうと思いました。私らの墓はロがちょうど慶良間の方に向っているので、ここは要塞に間違われるおそれがあるので危いと、次の日にはウカハのガマ(洞窟)に移っていきました。そこはロは狭いが中は広くてたくさんの人がかくれていました。私の末の子はまだ誕生(満一年)ぐらいしかなりませんでしたが、ガマの中にはいるとこの子がワアワア泣きだすし、婆さんが気狂いみたいになって大声で何か叫びだすしまつで、まわりの人たちは、 この子がいたら皆が全滅してしまう、外へ出るか口をふさぐかしなさいと言ってきました。何とか子どもをなだめてその日から洞窟生活になったんですが、食糧は一日分だけ非常用の米でおにぎりをつくり水といっしょに持ってきただけでした。夜になるのを待って家の方に食糧を取りに行きました。その時海を見ると、昨日朝うす暗いうちに見たときは島の近くまで艦隊が近づいてきて、裏側の北方海上にも五、六十隻ぐらいとり囲んでいましたが、 この時みると本島の方へ行っていませんでした。

 

この三月二十五日から六月まで、飛行機がときどきやってきてパラバラ撃っていきました。その間ずっと洞窟住いが続きましたが食糧が不足してきて夜は食糧あさりに畑に出ていました。他所の家は麦とか粟とか貯えが少しはありましたが、私たちは那覇から焼けだされてきたものですから何もありません。米は子供たらに食べさせて、大人はソテッを食べました。 ソテッの赤い実は米と同様なもので、普通はソテッの木を切って、芯は澱粉を取りますがまわりの軸は小さく切って製造をしてから芋みたいに食べました。昼は洞窟の中で寝ていて夜のうちに製造するわけです。妻は乳のみ児をかかえていましたが若いので乳は出ていましたが、ある夜畑に芋とりに行ったら何にも見えなくなってしまっているんです。栄養失調でトリ目になってしまっているわけです。この頃は一日二食、それもソテッばかりですから栄養失調になっていたわけです。

 

洞窟のなかでは悪い病気がはやって子供も大人も倒れていました。あの状態があと一一、三か月続いていたらみんなだめだったでしょうね。上部落にはあちこちにほら穴がありますが、 みんなバラバラに避難しているのでお互いのことはわかりません。粟国でいちばん大きいほら穴はテ1ラというところですが、そこでも全人口の三千人ははいれません。よくはいって千人ぐらいです。私たちが居たウカハのガマには百四、五十人ぐらいはいっていました。そのガマはずっと深く下まで入っていくと波の音が聞こえてくるそうです。

 

年寄の話では昔はムンジョラーというたいまつを七東もかかえて降りていったそうです。最後に私たちが隠れたガマは西部落のはずれにあるエイガーというところですが、 この年は四月ごろから梅雨にはいって雨が降り続いていましたから雨水は流れこんでくるし、明りもない壕生活ですし、子供はワンワン泣いて、おまけにそこらじゅうに便はたれ流しですからその臭さといったら、とにかく息のつまるような毎日でした。この壕生活と栄養失調で私の母も亡くなりました。

 

米軍上陸

六月ごろになると空襲も少なくなるし、壕雄盾もたえられなくなりましたのでボツボッ部落に帰ってきました。昼間は近くのソテッ山にかくれて、夜は明け万まで畑仕事をやりました。


米軍上陸の六月九日の日は、私たちは夜の暗闇のなかをウーブ (島の東側の砂丘)の近くの畑で手さぐりで芋カズラを植えていました。そのころは夜どおし畑に出て明け方近く帰ってくるのが日課になっていました。子供たちは安全な場所にと思って今の忠魂碑の下にある妻の実家の壕に寝かして、朝自分の家で食事をつくって運んでいくわけです。

 

その日も暗いうちに婆さんと妻と三人で芋カズラを植えていたらあっちこつでボンボンと大砲の音がするので、今日はいつもと違うので早く帰ろうと言って帰ってきて、夜明け方子供たちのところへご飯をもっていこうと家を出ると、ポンボンする音がはげしくなって、ひ「返してきました。ガジマルの木に登ってみると、もう島の周囲を全部艦隊に取りまかれていて、艦砲射撃がはじまっているわけです。数えてみると、 二十隻から三十隻ぐらいは見えました。もう大変だと思って、休んでいた婆さんを起こして逃げました。子供たちのいる壕まで行くと、そこから東の方が見わたせるわけですが、艦砲は浜部落の海岸をたたいて、私たちがさっきいたウープの浜の方へ上陸用舟艇が向かってくるのが見えました。私たちは子供をおぶって、上部落の方へ逃げましたが、艦砲は前にも後にもボンボン落ちて、危なくなって途中の橋(暗渠)の中にかくれました。


そのうち夜が明けると飛行機も加わって浜部落の方をさかんに機銃掃射しました。浜部落は港の近くにあるので焼けた家もやられた人も多くでました。近所の棚原さんの家族は艦砲の直撃を受けて全滅しています。カヤぶきの家は機銃弾にあたってほとんど焼かれています。機銃弾はバチパチ発火してすぐ燃えてしまいます。石垣までが弾にあたると煙がでてしまうほどでした。私の家は幸い焼けてはいなかったですが庭のあっちこっちに鋼鉄の破片がごろごろしていました。

 

私たちは、婆さんと子供たちと今の発電所前の橋の下にかくれていましたが、まっさきに米兵がやってきて捕虜になってしまいました。隠れているところへ銃を持った四、五人の米兵がやってきて、日本語で「出てきなさい。出てきなさい。水をあげる。食べ物をあげる」と言ったので、私は女の人は撃たないと聞いていましたので、お婆さんに手をあげるように教えて後から一緒について出ていきました。米兵はあっちこっちの壕をまわって、 「何でもないから出てきなさい」と言って、住民を伊佐先生の家の後に集めました。婆さんは「あんたたちはなぜ壕で殺さないのか。向うへつれていって魚の餌にするつもりか」と米兵に向ってわめいていました。米兵はただ「水あげます。食べ物あげます」と言っていました。

 

私としても、前から雑誌などで読んで、米軍は抵抗しなければ殺しはしないと信じていましたが、壕(橋の下)から出てきて初めて青い眼を見たときは気絶するぐらいおどろきました。

 

上陸した日の午前中にはほとんど捕虜にとられています。婆さんはあいかわらず、「みんなを集めて殺すんだ」と叫んでいましたが、私も不安はありましたが、抵抗しなければ殺すことはないだろうと思っていました。

 

皆がウカハガマに隠れていたころ、村長、郵便局長、巡査などきて、敵が上陸してきたらどうするかという話をしていました。私が、白旗を用意して降参しよう、上陸したら全員降伏しようと村長さんに言ったんです。ところが、村長さんとか区長さんとかは、 「指導者がそんなことができるか」とききませんでしたよ。私の姉の夫は校長をしていましたが、 「もうサイパンみたいに玉砕だ」と言っておりました。私は、 「抵抗すれば向うも先手を打ってくるはずだが、抵抗しないという意志表示をすれば殺さないはずだ」と説得したんです。

 

しかし、こういう人たち、軍事教育を受けている人たちは軍部とか政府がこわいわけです。私は足が悪くて徴兵にもならずに、軍事教練も受けていません。そこで私は「もし日本が勝ったときは私ひとりが殺されても皆は助かるから私が白い旗をあげよう」とまで言ったんですがこれもききいれてくれませんでした。そんなこんなしているうちに上陸になってあっさり捕虜になってしまったわけです。

 

海兵隊

ところが、 やはり抵抗したり逃げたりして殺されたのがでています。在郷軍人会の伊佐先生とか学校の先生方などは別々に逃げています。また、 郵便局長とその娘さんは米軍が上陸して捕虜になってから逃げだそうとして米兵に撃ち殺されてしまいました。捕虜住民の中に水産学校の生徒が二人はいっていましたがこれらはゲートルを巻いているものだから軍人か軍属にまちがわれたのでしよう、 みんなの中から二人だけひつばりだして裏につれていって銃殺してしまったんです。局長さんはこれを見て逃げだそうとするのを運悪くみつかってしまったわけです。ほかに、鎌をもって抵抗しようとしてやられた者もいました。

 

向う側 (西) から上陸した海兵隊はとくにガラの悪いのが集まっているようでした。殺したのはこの連中です。この部隊は捕虜を一か所に集めた後で東原にキャンプを張っていましたが、行ってみると、人相も悪く裸になっていれ墨をした連中が手まねきするものだから何だろうと寄ってみると、手まねで女を探してこいと言っているようでしたが知らんぶりしていました。強姦されたのもいたそうです。
 
捕虜になった住民はその日のうちに郵便局裏あたりに一か所に集められました。それから今度は浜部落に集められて二日間いましたが、また上部落に移されました。家屋はほとんど壊されて屋根しか残っていませんでしたが、そんなところに二、 三世帯、大きいところで五、 六世帯が共同生活していました。アメリカからもらう紙箱をだいじにとって壁をふさいだりしましたが、食糧は軍の物資に頼っていました。浜部落の港からどんどん米軍物資があがってきました。


米軍基地建設 - 電波探知機

米軍は収容所のまわりに基地を建設していました。電波探知機とか発電機などが備えつけられ陣地は向う側につくってありました。住民のなかから作業班がつくられ米兵につれられて作業をさせられていました。女たちは洗濯とか炊事の作業がありました。米軍は浜音落落の方に何か設営する計画のようでした。

 

私らは、もう戦さに負けてアメリカに攴配されたんだから何でも生きのびていけばいし1という気持になっていました。何をされても負けたんだからと覚悟していました。
そうするうちに八月になって戦争に目鼻がついたという知らせがありました。私は、戦争がまけたと聞いたとき、まっさきに、 これで命が助かる、 と思ったものでした。

 

戦争が終って二、三か月して部落に帰ってきて、 やがて米軍も引揚げていくと、まず最初の仕事はボロボロに壊された家を修理することでした。私の家など、天井ははがれる、床もはがされる、壁もはがされるで、残っているのは柱と瓦だけでしたから、那覇に船が通うようになって、本島産の木材と島の豆を交換して一枚一枚板から張っていきました。

 

戦争中いちばん気の毒だったのは、弾にあたって死んでも、いっまた空襲がくるかもわからないので、ちゃんと葬式も出してやれないし、墓は生きた人間がはいっているわけですから、 入口のところにコモをかぶせてころがしてありました。私のおばあさんなどは誰もいないので墓まで運ぶこともできず、前のアダン山に入れてあったのを上陸してきたアメリカ1が頭を取っていたずらしていたそうです。

 

空襲・上陸・学校

粟国村 教員 上 原 英 吉(三七歳)

私は昭和十八年に安里(真和志村)の国民学校から郷里の粟国の学校に転任になり戦争中からずっと島にいました。

 

島には郵便局に無線がありましたからそこへ戦争の情報を聞きに行くわけですが、ガダルカナル戦やフィリビン戦などの大本営発表を聞いてヒャ1ヒャ1と いだものです。
十・十空襲のときは本島がやられるのを眺めていました。この島にも飛行機は飛んできましたが何ごともなかったです。この島からは久米島、渡名喜、鳥島(久米島)、伊江島がよく見えるし、本島の首里あたり、 それから天気のいい日は伊平屋まで見えます。だから、本島が空襲されているときも、私らははじめは学校に詰めて警戒していましたが何ともないので、校長住宅の方から見ていると、那覇西海岸あたりで飛行機が燃え落ちたり、煙や火の玉がポンポンあがるのが見えました。

後で島の親戚関係の避難民が船でやってきて、那覇は焼野原になったと聞いてびつくりしたもんです。

 

この島の戦争の備えは、もちろん軍もいましたから、郵便局の無線で警戒警報がきたらサイレンを鳴らして避難することになっていました。また、在郷軍人会があって竹槍訓練や防火訓練をしたり偽砲を備えつけたりしていました。

 

竹槍訓練は、当時島に大城という血気さかんな巡査がいて、 この人の指揮でやっていました。この人は死ぬことを恐れないような言い方をして、敵が東海岸から上陸したらまっ先に行け、と訓練していました。東海岸の砂浜で一泊して訓練したこともありました。この巡査は敵が来る前に伊江島に転勤になって、 ああいう気性の人だから向うでも同じことをやっていたんでしよう、伊江島の戦闘で自分からつつこんで戦死したと聞きました。ここでは後で、 一般の在郷軍人の人たちも、あの巡査がいたらみんな死んていただろうと言っていました。

 

偽砲というのは在郷軍人会会長の伊佐栄徳先生などを中心に海岸線に丸太の偽砲を備えつけておいたのですが、 その前に、 座間味にいた球部隊が演習にきたときに伊佐先生は隊長に、在郷軍人会が偽砲をつくることになっているがどうしたらいいかと伺っていました。敵は偽砲を見て逃げる場合もあるし逆に攻撃してくることもある、と隊長が言ったようでした。案の定粟国の場合は米軍の大部隊が上陸してきて、後で伊佐先生は在郷軍人会長として非難される目にあいました。

 

佐々木という先生 - 離島残置工作員

また、学校には佐々木という先生が来ていて探偵みたいなことをやっていました。三重県出身でほんとうは軍人でした。この人の話では南方へ行く予定だったが戦況が悪くなったので沖繩へ来たと言っていました。校長に世話をしてもらって、西部落の私の家の近くの農家に住んでいました。食べ物も校長がめんどうをみているようでした。スパイ道具を入れた箱があって生徒を使って雑木林の中に隠したりしていました。 この人はゲリラ作戦をやる要員だったらしいですが島へ来てから一か年ぐらいしたら毎日のように空襲ですから訓練どころでなく自分から逃げて歩いていました。私も空襲のとき民間壕で一緒になったことがありますが夜中に地図をもって戦況はどうなっているかとか政治の話などしましたが、この島の作戦については聞いたことがありませんでした。ずっと後になってからのことですが、米軍の飛行機から燃料補助タンクが落ちてきたので、ひとりで壕の近くまで持ってきてマッチで爆発させたことがありました。 これ以後みんなからこれはスパイではないか、 大変だと言われて、佐々木先生も困ったはすです。この先生は後で米軍に捕虜にとられて、病気になったので軍病院にいれられて、間もなく元気で帰されたはすです。


学校の方の対策としては戦況が悪いという情報がはいってからは授業は中止して子どもたちを家に帰し、先生方は学校を守ることと御真影を守るために詰めていました。それ以前は防空壕を掘ったり防火訓練とか避難訓練をやっていましたが、空襲になると御真影を安置するのにあっちこっちの壕に移ってお供していました。この御真影は後で本島の嘉手納に移すことになって比嘉盛義校長が最後の船で運んでいきました。三月の末ごろだったと思います。 この月は教員の俸給が郵便局に送られてこないので嘉手納の帰りに俸給を取りに行かれたそうですが、このときはもう陽久丸は沈められてしまってとうとう島へ戻れなくなりました。先生はその後病気でなくなられたとう話でした。家族は内地に疎開していたそうですが家族の方と会われたかどうかも知りません。

 

陽久丸がなくなったので、私たちの俸給はもらえずじまいで、本島との連絡もとだえて食糧も入ってこなくなりました。島にあるだけしか食べるものはありませんから、夜、畑にでて植えるだけは植えたんですが、この年は芋が虫にやられて饑飢状態になってしまいました。とくに教員は給料生活ですから困って、芋掘りに畑へでました。この島には米はないからほとんど芋ばっかり食べていました。島には小さい店がいくつかありましたが売るものはなくて、農協(農業会)からは配給がありましたが船が断たれてからは全然手らよくなりました。

 

三月一一十三日の空襲の日はちょうど学校の卒業式の日でした。実は初めは二十四日を予定していたわけですが情報が悪いので二十三日にくりあげて前の晩に卒業生を交えて謝恩会、分散会などやりまして、二十三日の夜が明けるともう空襲です。前の晩話し合った末吉ふさ子さんなど翌日は機銃で亡くなってしまいました。卒業生の浜部落の子供らが機銃でやられています。

 

はじめこの飛行機は敵なのか友軍なのかわかりませんでした。もし敵機ならば空襲警報を発令するはずだが係の仲村さんが本島や慶良間に連絡しても応答がなく、やっと伊平屋の方から敵機だという連絡があってそれからサイレンを鳴らした次第です。 それまでにはもう浜部落は機銃掃射をされてあわてて逃げだしていたところです。この空襲の後は学校も休みですから生徒も教員も各自めいめいに自然壕の中にかくれて生活していました。

 

慶良間に米軍が上陸したらしいことはよくわかりました。海岸にいくと軍繿が島かげにかくれていました。マハラの下から見るとタ方になってその船はでていきました。日本の船だなあと思っていたのですがアメリカの軍艦でした。夜になると慶良間と渡名喜の島のあいだで軍艦の電燈がキラキラ輝いて島のようになっていました。これは一一十三日以後のことですが、 それより前に村の青年が私のところにとんできて海から潜望鏡みたいなものが見えると言ってきたんですが調べてみてもよくわかりませんでした。とにかく二十三日以前は島には攻撃してきませんでした。米軍もこの島が無防備だということは知っていたんじゃないかと思います。

 

嘉手納の上陸などこちらには正確な情報ははいってきませんでしたが一般住民のあいだではやられているだろうな・と感じていました。しかし、迷信深いユタ (巫)などが戦争には必す勝つんだと言っていましたし、誰も負ける話など口にだしませんでした。本島が激戦のころこの島にも友軍機が三機ぐらい、 マハナの岬あたりに落ちてきたそうです。

 

島の人たちのなかには日本はどうしても勝つんだ、 一時はやられても必ず勝つのだと信じている者が多いようでした。またそんなことをさかんに言いふらす人もいました。そうし、いながらも食糧はだんだんなくなって栄養失調になっていきました。壕の中では子供が泣くとみんなから敵に発見されるから出ていけと言われて、母親は一緒に死のうと思って首をつろうとしたということもあります。 その人は今でも生きていますが、自分では話しませんが他の人が話していました。私は子供の泣き声が飛行機に知れるというのは疑問でした。泣き声が聞こえるはずはないよ、 と言ったんですが、声をだしたら危いという恐怖心があったんでしよう。普段はこんなことはないはずですが、戦争になるとお互いに心がすさんでそうなったと思います。

 

それから、六月になっていよいよ米軍が上陸してくるわけですが、艦砲でたくさんの 牲者がでています。浜部落では大城ふさおさんの家が一家全滅したほか、 たとえば比嘉のおかあさんは浜にひとりで住んでいましたが、 この日はたき木を取りに行って艦砲でやられ、 その家もつぶされてしまっています。収入役の末吉さんの家で奥さんが機銃でやられました。

 

戦時体験

国村東 教員 安 里 寛 吉(一三歳)

戦争中いちばん強い印象は空襲で連続的にやられて。ハラバラと機銃に追われたことです。私たちは学校にいましたが、部落の中にいると危いと、学校から逃げていくと、機銃が追ってきてまわりのススキの葉をハシバシと撃っていくわけです。 それが少しはずれたから良かったようなものです。


私たらが学校にきたとき学校が空襲を受けているので、窓からとびこんで中のものを取りだそうとすると、飛行機が旋廻してきて。ハラバラ撃ってくるので危くて、このままではみんな焼けてしまうと考えて、非常持出しの学籍簿など、水タンクの中にいれて上から蓋をして、それから校舎の火を消そうとしたのですが機銹掃射がはげしくていっ死ぬかわからない状態でした。民家が焼けたときは機のくる合い間に消しに行きましたが、校舎がやられたときは村の人たちはみんな逃げていって誰も消しにくる者はいませんでした。 こんなところにいたら大変だと思って逃げていったわけです。今の交番所のところに郵便貯金の金庫が置いてありましたが、それと風呂場の間にかくれて弾をさけていました。あっちこっちに艦砲の破片がっき剌っているのは無残でした。 ウ]'フ山の前に行くと直径十メ 1トル位のカンボウ穴が口をあけて池みたいになっていました。学校は焼野原になってしまいました。

 

それから、米軍が上陸してくると、西部落の上に戦前からの用水池がありますが、そこへ女たちが死ぬつもりで飛びこんでいました。しかし粟国の人はみんな泳ぎができますから、すぐには死ねないで、アメリカ兵がやってきて手をひつばってみんな助けだされました。

 

捕虜になると一か所に集められて、班長を中心に組分けして、村中の人ぜんぶつれていって農作業をさせられました。われわれはその監督をやりました。畑は誰のものといってはなく、各班ごとに耕やして収穫は配給といった生活に移りました。米軍が上陸したあとはわりとのんびりしていました。食糧は配給があるし、食べたこともない肉罐詰など配られたりしましたから。

 

基地建設と学校の再開

そのうち、米軍の方から学校を再開する話をもちだしてきました。子供たちが不発弾などいたずらして危いし、米軍の工事のじゃまにもなるから学校で子供たちを遊ばしてくれと言っていました。通訳の国吉さんに何を教えたらいいか、ときいたら、 何でも、お話でも聞かして楽しく遊ばしてとにかく子供たちをはなさないでくれ、と言っていました。

 

学校は焼けてしまって教科書もないから、 とにかく子供たちを集めて五十音など教えていました。それでも子供たちは親のあとを追って作業にいったりして学枝に来るのはわずかで困りました。後ではお菓子などやるので喜んでくるようになりましたが。米軍は教員に対しても簡単な履歴を聞くだけで何も追及はしませんでした。上陸からしばらくしてからコンセットをもらい受けて校舎の中で授業をやるようになりました。

 

八月十五日の終戦は作業へ行っている人から聞きました。米軍の持っているポータブルラジオで日木語の録音が聞こえたそうです。

 

私はその話を聞いたとき、そんなはずはないだろうと、樰じられませんでした。だから、敗戦といってもそんなにショックは受けませんでした。

 

ある日、民家を借りて授業をやっていると、グレームという大尉がやってきて、 これからは友だちになります、と握手をしてきたから、なぜかなと思っていたら、もう戦争は終りましたから友だちになってください、とあらためて挨拶して、お祝いにと言って罐入りのビスケットなどくれて楽しそうに帰っていきました。 このグレーム中尉は米軍が引揚げる十一月ごろまでいて、粟国の学校教育関係の係で、いろいろ学校のことを世話してくれました。宝具が欲しいと言うから海岸へ行ってとってくるとたいへん喜んで煙草を一、二本くれたりしました。


しかし、私たちはポツダム宣言を読んでもまだ日本が敗けたとは信じられませんでした。これからあと日本はどうなるかなあ、というよりも、どうせ最後は勝つ、あれは米軍の宣伝だろうぐらいに思っていました。

 

シチブヤーの小飛行場

作業班の人たちの中にも日本は勝っているだろうという人がいました。米兵のラジオで大阪の漫才の放送が聞こえたそうですが、勝っているから呑気に漫才なんかやっているんだろうなあ、と言っていました。また、米軍はシチブヤーという所に五〇〇メートル位の滑走路をつくっていましたが、大型輸送機が飛んできて荷物を降ろしたときも、あれは逃げてきたに間違いない、日本はまだ敗けてない、と言うありさまでした。

 

空襲のとき水タンクの中にかくしてあった書類は全部米軍に持っていかれてしまい何ものこっていません。米軍がこの島から完全に揚げていったのは上陸した年(二十年)の十一月でした。

 

youtu.be

 

渡名喜島の戦争体験

渡名喜村教員比嘉松吉

渡名喜は昔から漁業に頼る島です。耕地面積が狭いので畑仕事は女にまかせて男たちは海に出ていました。昭和七、八年ごろから近海漁業はゆき詰りになって、新漁場を開拓しようと現地視察などやって、サイパンパラオなどへ南洋出稼ぎが始まりました。漁船ごと南洋へ行って村の人たちがった魚を現地の工場へ売るわけです。戦争のころには一一〇〇名の村民のうち三〇〇名あまりが出ていました。そのころは南洋からの仕送りで島はうるおって、今のような瓦ぶきの家がそろいました。那覇へ出る学生(中学生)の学資が月十二、三円のころに、南洋からの仕送りが三〇円から四〇円、多いときは一〇〇円になることもありました。おかげで上級の学校へ進学する者がふえてきました。こういう景気が戦争の二、三年まえまでは続きました。

 

しかし、島は周りがわずか三里ぐらいで、山があるので水はありますが、食糧は自給できません。私の小さいころ大きな飢があって、粟国まで蘇鉄をとりに行ったり芋粕を砕いてボロボロ雑炊を食べたのを覚えています。平常は芋が主食ですがこれだけも自給できなくて配給米で補っていました。もちろん米を食べるのは正月とか折目のときだけでした。ですから、戦さになって第一に困ったのは食糧のことでした。

 

昭和十九年の初めごろになると、いつ配給がとぎれるかもわからん、と配給米は大事に蓄えるようにしていましたが、それでも二十年の三月から配給がなくなると間もなく蘇鉄しか食えない状態になりました。当時村に残っていたのは七〇〇名ぐらいでしたがこれだけの主食も自給できなかったわけです。麦や粟も少しは作っていましたが、これはおもに味噌を作るもので、結局蘇鉄だけしか残らなかったわけです。

 

当時船便は天候のいい時で週一便、十五屯ぐらいの木造船で、今みたいに桟橋もありませんから少しシケになると干瀬にたたきつけられるおそれがあって船がとまってしまいます。私など、国民学校の教員をやっていましたが、那覇で一日の講習を受けるために三週間もかかったことがありました。船は島の人の個人もちでした。夏場は漁船が二隻動いていて燃料補給に那覇へ行くのに便乗させてもらうこともありましたが、冬になるとそれもなくて、急患などが出た場合など、二、三名を雇ってクリ舟で漕いでいくありさまでした。この船が二隻とも空襲に沈められてからは本島との連絡も中断されてしまい、三月ごろから米軍上陸の九月ごろまで、世の中の動きがまったくわからなくなってしまいました。

 

戦争の気配が感じられてきたのは、私らのところには部隊の駐屯はありませんでしたから、サイパン上陸の噂が伝わった頃からでした。サイパンパラオには村の人がたくさん渡っているので皆心配していましたが玉砕になったのを知ったのは二十年の九月、戦争が終ってからです。国民学校や青年学校などでは軍国主義教育が徹底して行われていましたが十・十空襲になるまでほんとの戦争のことは何にも知りませんでした。

 

十・十空襲もほとんどアッという間のできごとでした。あの空襲も島にはやってきませんでした。私は午前の授業が終って子供たちを帰した後でしたが、村の漁船が入砂島の近くでグラマンの機銃を浴びているのを見てはじめて空襲だとわかったわけです。その朝二隻の漁船が平常通りに漁に出たわけですが、久米島の東奥武島沖のリーフで餌をとっていたところ、久米島の真泊港グラマンが運搬船をねらい撃ちしているのを十二、三キロのところから眺めてい780たそうです。それでも友軍の演習だろう位に思ってそのまま漁場に向い、漁の帰りを襲われたわけです。島にはラジオも電信もないし、全く情報がなかったので戦さが始まったとも思わなかったわけです。とにかく、一隻は何とか難をのがれたのですが他の一隻は私らの見ている目のまえでやられ、西浜にたどりついたときには六名が死んでいました。

 

その時から皆も戦さだとわかって、その船が積んできた魚はもう那覇にはもっていけませんから皆んなで分けて非常用として鰹節にしてたくわえておきました。那覇が焼け野原になったことも後で知りました。幸い渡名喜出身には犠牲者はなかったですが、村民のショックは大きいもので、それで勝った勝ったという新聞の情報を疑いだしたわけです。それでも十・十空襲はそれ位ですみました。学校も次の日から平常通り続け、三月の卒業式までは授業をやっておりました。

 

日本軍の駐留の話

それから後、村民はさすがに不安になっておりましたが、その年の11月末ごろ、座間味島(村)から将校をまじえた十名ぐらいの兵隊がやってきました。目的はここに通信隊を置きたいということでした。島のあちこちを調査した結果おそくとも来年の一、二月ごろまでには駐屯するから安心しているようにということでした。その時兵隊たちが持ってきたラジオで初めて大本営発表というものを聞かされました。こういうことだったら戦さが始まってから避難するにも都合いいな、と兵隊がくるのをひじょうに期待していました。結局これは実現しなくて結果的には幸いだったわけですが、当時としては、兵隊がくれば自分たちを守ってくれるだろうと、不安な気持で軍がくるのを待ち望んでいたものです。

 

島には戦さに備える対策というのは何もありませんでした。県や軍からの疎開命令もなかったし、非常用の食糧というのも蓄えていませんでした。強いて武器といえば青年学校の訓練用の木銃と竹槍ぐらいのもので、訓練といっても私らが教官を兼ねて、師範学校時代短期現役で習ったことをくりかえすだけでした。村役場では各戸に壕を掘ったり山に避難所をつくるよう指導しましたがこの壕をつくりだしたのも十・十空襲のあとからです。

 

隣組も形だけはありましたが、いざとなると親戚どうしで行動していましたから有名無実です。後になって、敵が上陸するかもしれないと考えたことはありましたが、竹槍と実弾では戦えるはずもないのでただ逃げることばかり考えていました。要するに軍ではこの島のことはまったく眼中にはなかったと思います。

 

防空壕は各戸につくりましたが、砂地に穴を掘ってその中の周りを石で積んで、天井は丸太を並べてその上に戸板をかぶせて埋めるわけです。入口は石垣に向けたり山の方に向けておきました。それでも、二十年八月の最後の空襲のとき機銃弾が壕の天井をつき抜けて頭をやられて即死した者がでました。

 

部落が焼かれたときのことを考えて山にも壕をつくりました。部落から二キロ位はなれたところにアンジェーラとかユブクというところがあるんですが、そこは山の麓で、水は豊富にあるし自然の岩たくさんあって、そこら辺に避難することにしたんです。翌年(二十年)の三月二十日ごろ、ぎりぎりのところで最後の徴用が那覇から帰ってきて、それっきり本島とは連絡がとだえてしまいました。その前に、二月には最後の召集兵を送りだしました。また、軍への供出は十九年末から二十年二月ごろまで魚、豚、牛などを運んでいきました。この頃の船便は、運搬船(定期船)が十・十空襲でやられているし、もう一隻の鰹船もやられていますから、残った一隻を動かしていましたが、これも三月の空襲で沈められて渡名喜の船は全部なくなってしまったわけです。

 

三月からはしょっちゅう空襲がありました。グラマンが二、三機ずつ飛んできて低空で空襲をやりました。焼夷弾が落されて家が三軒焼けました。学校をねらって爆弾が五、六個落されましたがこれは近くに大きな穴をあけただけで校舎は無事でした。

 

慶良間に米軍が上陸した頃は村民は全部山に避難していました。学校も閉鎖して子供たちはめいめいの家族にあずけて、教員がときどき空襲の合間とか夜間に各壕をまわって子供の健康状態をきく位のことしかできませんでした。

 

慶良間への上陸のときは、三月二十三、四日ごろですか、私らは山上に登って艦隊がくるのを眺めておりました。はじめは敵なのか友軍なのかもわからないので見物していたわけです。久米島の南側の海上から点々と軍艦が現われて、それが渡名喜と慶良間の間をずんずん通って東側の方へぐるりと廻っていくわけです。

 

そうしながら座間味の海岸線に艦砲をうちこんでいくんですね。向うには特攻艇がかくされていたということですからそれをさぐるためなんでしょうかね。そのうち、私らのところにも二、三発うちこんできたんですよ。東側の海岸は切り立った崖で何もないですから、それっきりでした。

 

慶良間が全島燃えていくのは皆が見ています。座間味、渡嘉敷に、島じゅうに艦砲がうちこまれて夜どおし島が燃えていました。そのころはこの島も空襲が激しくなっていて、やがてこの島にも上陸するだろうと予想して、軍もいないところですから心細い思いをしていました。

 

船便がとだえて、供出がなくなったかわりに、県からの米の配給も二月ごろからはとだえてしまいました。われわれは各家で一斗と五斗とか大事に蓄えていましたがこれはなかなか手をつけませんでした。麦とか豆とかも、これは来年の種子にとっておかんといかん、これを食べてしまえばもうおしまいだ、と思って大事にしていました。しかし、これもやがて尽きてしまって、あとは蘇鉄だけになりました。畑のものも取り尽し牛豚も殺してしまっているので何にも食う物がなくなったんです。

 

私の家族は夫婦と中学一年の男子を頭に六名の子供をひきずっていましたから食糧には苦労しました。毎日が蘇鉄です。この息子は一中の一年生でしたが、三月二十日の最後の船で帰ってきました。そうでないと、学徒隊にとられていたところです。

 

ソテツ地獄 - 蘇鉄の食べ方

ソテツは太くて短いのが澱粉があります。これを切ってきてツメ(爪?)といっている表皮を削り落すと中に繊維質のもう一つの皮と中にアーシという芯の部分があるわけです。この繊維質の部分と芯の部分を指の長さぐらいに薄く刻んでからからに乾かして、これを二、三日ぐらい水漬にしてアクを抜くわけです。これをさらにコモなどかぶせて朽すわけです。手をいれるとあつくなるぐらいまで発酵させるわけですね。そうすると指でポキッと折れる位まで柔らかくなります。これをそのまま炊いて食べることもできますし、また干して臼でついて粉にして料理してもいいわけです。こうやって蘇鉄の毒を抜くのに一週間から十日位かかるわけですが、それでも中毒するのはこの粉にカビが生えた場合です。このカビは猛毒です。比嘉さんといって、母親と子供三人の家族がこの犠牲になりましたが気の毒でした。父親は南洋にいっているし長男は商業学校の生徒で学徒隊にとられているんですね。それが母子三人避難して蘇鉄ばかり食べていたわけですが、蘇鉄中毒で三名とも倒れてしまいました。母親は何とか助かったんですが次男と三男は死んでしまいました。


こんなふうにして命がけで食べた蘇鉄ですが、水で煮て糊みたいにして食べても、その味はいいものではありません。土質によってとくに味の悪い蘇鉄もあるんですが、食べなければ死ぬと思って食べているだけでした。

 

山の中の生活でとくに思いだされるのは、どこから湧いてきたのかシラミがいっぱい湧いてきたことです。もともと島ではシラミをみかけることがめったになかったものですが戦さが始まったとたんにどっと湧いてきました。着物の縫目にびっしり並んでいて避難生活の退屈まぎれにしょっちゅうシラミつぶしをやっていたものですよ。
そのかわりにハブがいなくなりました。この島は昔からハブどころで、季節もちょうど出まわるころですが、どんな深い山の中を歩きまわっていてもハブにぶっつかったことはありませんでした。戦後になって皆にきいてみたんですが、ただ一人だけ一度見たというのが居ました。ハブに咬まれたというのは一人も居ませんでした。

 

4月頃からの食糧難

四月ごろからは栄養失調で亡くなる者がでてきました。年寄りなどが顔や足がふくれあがるとやがて死んでいきます。六月ごろからはどんどん倒れていって十月ごろまで続いています。七〇歳以上の年寄りはほとんど死んでいます。私の部落、東では三〇戸ぐらいのうちから十名ぐらい死んでいます。

 

食糧事情でもう一つ打撃を受けたのはほとんど唯一のタンパク源である魚が四月以降まったく獲れなくなったということです。島の周囲は遠浅の海ですから釣や潜りで魚をとったり夜の干潮のときは漁火をともしてタコなどとって、これが村民のタンパク源になっていたんですが、いつ何どきグラマンが襲ってくるかわからん状態ではそれができないわけです。私は一度六月の末ごろ昼間に海に出たことがあったんですが、すぐ機銃掃射でパラパラやられてしまっ逃げることもできず水に潜って難をさけたこともあります。こんな状態で、食うものといえば蘇鉄とヨモギと苦菜といったありさま、それで栄養失調で死ぬのが続出したわけです。

 

六月の初めごろ、私は蘇鉄をとりに北の山に登っていくと、向うの粟国島がぐるりと艦隊に取りまかれて、軍艦からはさかんに艦砲を撃っているのが見えました。ドーンと音をたてると砲煙があがって、島で爆発して何かが燃えあがるのも見えました。粟国は渡名喜と同じように軍隊のいない島でしたから、いよいよ次はこちらだなと思いました。

 

しかし、それからしばらくたっても上陸の様子はないし、この頃からは空襲も止んでいましたので、もう大丈夫だろうとそろそろ村民は部落へ戻りはじめたんです。もちろん当時は沖縄戦が終ったことも知りませんでした。まだ戦さは続いていると思っていたんです。そうやって、六月、七月、八月と平穏に過ぎていったんですが、八月はじめ頃、突然二機のグラマンが低空してきて西から東の方ヘパラパラと機銃掃射をやりながら通りすぎていったわけです。皆安心して家に居るところだったので、このたった一回の機銃掃射で六名がやられてしまいました。グラマン久米島方面から沖縄本島へ帰る途中だったと思います。たぶんいたずら空襲だったと思います。


六名のうち四名は即死です。重傷を負った者も、島には診療所もない時代ですからどうすることもできず死んでしまいました。そのうちのひとりは桃原善勇という人で、腕を貫通されていましたが、私が毎日通って手当てをしました。私はオキシフルとか赤チンキなどはもっていましたから、それで傷口を消毒して手当をやったんですが、四、五日で破傷風になって死んでしまいました。

 

九月半ば頃、米軍の舟艇がやってきて初めて戦さが終ったことを知らされました。それを聞いても、アメリカ兵の姿を見ても、島の人たちはそんなに驚きもしないで、女たちまでが物珍らしそうに見物に集まったものです。アメリカ兵は民家をまわって国旗とか国防婦人会のタスキなどを出せ出せと言ってきました。たぶん記念品にするつもりだったんでしょう。私らはけしからんと思って、後で将校にかけ合って返してもらいましたが。

 

その間に将校たちは役場へ行って、戦さは終ったと伝えたわけですが、村長たちは半信半疑で宣撫工作ではないかなあと思ったそうです。こういう場合は、一般の人たちはどうせ負け戦さだろうという意識が強かったんですが、私らのような立場の者には口にはだして言えないしそういう態度もとれないわけです。そこで米軍では、座間味まで一緒にいったら証明できるからと、村長とか郵便局長とか三、四名を舟艇でつれていったわけです。その人たちは死ぬ覚悟でついていったそうです。

 

向うへ行ったら、どうもほんとらしいとわかって、それで同じ舟艇でひっかえしてきたわけですが、その時食糧も一緒に積んできたわけです。私らにとってはその日が終戦の日といっていいでしょうね。

 

渡名喜で忘れてならないことは、島で弾にあたって死んだのはわずか十二名だけですが、サイパンパラオなどではずい分死んだととです。私は以前学校の卒業生名簿を整理したことがありますが、そのとき痛感したことは、私が卒業した大正十年の二九期生(尋常科)から昭和十四年卒の四七期生までの男たちが大半戦死していることです。たとえば、私と同期の男は十三名でしたが生きのこったのは四名だけです。ほとんどは南洋で漁船が沈められたあと現地召されて陸で戦死しています。私が教えたのは昭和七年卒の四十期生からですが、この教え子たちのうち男はよくて三分の一しか生きのこっていません。


なかでも気がかりなのは、二十年の二月に四七期生のなかから四、五名の新兵を送りだしたのですが、これは沖縄戦の直前ですから死ににやったようなものです。その時久米島では船がないからと断ったそうですが、ここからはわざわざ鰹船をだして送っています。生きて帰ってきたのは又吉治雄という青年ひとりでした。こういうのを全部あわせると島では二〇〇名以上の戦死者をだしています。あの頃、私は忠君愛国だとか国策だとかと聖戦だとか言ってこの子たちを教えてきたんですが、その結果はあたら尊い教え子を死へ追いやってしまったわけです。これを思うと心底からお詫びしなければならない気持になります。南洋で死んだ人たちはほとんど追骨もかえってきていません。

 

 

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