沖縄戦証言 粟国島編

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

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粟国村の戦時状況

粟国村浜村長   末吉達幸(三九歳)

空襲

私が村長に就任したのは昭和十八年の二月ですが、もう十八、九年からは戦時体制が厳しくなり食症の確保に苦労しました。とくに十・十空襲以後は、島へ帰る者がふえて、昭和十八年に二、七七七人だった人口が、終戦後の二一年の調べでは三、五二六人ふえていました。粟国は戦前から米は全部輸入(移入)です。ですから非常米として余分の蓄えを取っておかなければならない。十九年の十・十空襲前には、毎月の配給が輸送隊の船でくるわけですが、粟国には非常米として特別二隻分運んできてもらいました。配給米は軍の統轄ですから、輸送隊の清水隊長がくると食糧難の時代ですが豚を一頭ずっつぶしてやるとひじょうに喜ばれて、それで粟国には特別に考えてもらったんだと思いますが、この清水中尉は粟国を象徴するような詩をつくって額にいれて私にくれたこともあるほどこの島が気にいっているようでした。後で渡名喜の村長などはどうしてもらえたのかと不思議がっていました。そんなわけで、粟国では昭和二十年六月の米軍上陸のころまでは食槇はそんなに不自由しませんでした。はじめのうちは、月一回配給場所を定めて役場職員が配給していましたが、三月あと空襲が激しくなると住民は壕にはいって生活していましたので、区長さんを全部集めて蓄えの米を各壊に配給しておきました。しかしこの米は非常用としてであって、戦争はいつまで続くかわからないので、保管米にはなかなか手をつけないで芋やソテツが常食になっていました。実際に思う存分食べたのは米軍上陸のあとでした。

 

昭和二十年二月十日に最後の徴用が陽久丸で那覇に出ていきました。これは海軍の山根部隊に召集されたもので飛行場に配置されたわけですが、これが十数名、ほかに伊江島にやられたのも合せると二百数十名の者が徴用に行っているんですが、もうこの人たちは帰ってこれなくなりまして、沖縄戦にまきこまれて、七七名の犠牲者をだしています。生存者が引揚げてきたのが二十一年の二月末のことで、二二四名が無事帰島しました。

 

粟国に最初の空襲がきたのは三月二十三日のことです。この日は朝七時ごろグラマンがやってきて機銃掃射をやられたわけですが、この空襲で西部落で一人、東部落で三人、港のある浜部落で九人が死んでいます。空襲は港をねらって機銃を浴せたわけですがこの日は船は港にはいなくて流れ弾にあたって住民が犠牲になったわけです。このあと村民は自然洞組や墓生活を続けるわけですが村の行政事務もとまってしまいました。

 

次の空襲は三月二十八日で、この空襲では農業会の建物が全焼してしまい、続いて四月一日の空襲で学校の校舎が全焼、二日には陽久丸が丸められています。

 

この船は六十数屯のかなりいい船で、村有船でしたが、村民の唯一の足でした。三月二十三日の空襲のときはちょうど久米島へ行っていて空襲はまぬかれ、二十五日に帰ってきたわけですが、今からはもうダメだから自分らで沈めておこうという意見もあったんですが、結局そのまま港につないでアダン葉などで擬装してあったところ、かえって目立ったんでしょう、ねらいうちされて燃えあがってしまいました。これでこの島はまったく他の島とは遮断されてしまったわけです。

 

その後も空襲は続き、ずっと壊(墓、自然環)生活が続きました。空襲中いちばん心配だったのはやはり食瓶のことでした。この空襲で民家が三二戸焼けてしまいました。そうして、ようやく空襲がおとろえたのは五月のなかばごろになってからです。このころは住民は全部上部落(東、西)に移って隠れていました。が、雨期にはいって壕生活は苦しくなるし、空襲もおだやかになってきたので、もうだいじょうぶだろうとめいめい部落に帰りだしていました。

 

米軍上陸

六月九日未明、突然米軍の大部隊が島に上陸してきました。上空に偵察機がブンブン飛んでその合図でボンボン艦砲がうちこまれてきました。島では在郷軍人会とか婦人会とか巡査などが先頭になって竹槍訓練などやっていましたが、いざ上陸となると自分らが生きるのにせいいっぱいで、替防団を集める余裕なんかもありませんで、みんなめいめい壊に逃げて、後でみんな集められてはじめてああ無事だったんだなあと顔を見合せたものでした。上陸後はやられるならもう仕方ないだろうと覚悟していました。

 

この日の上陸作戦で、艦砲や戦車砲や機銃でやられたのが、この浜部落だけで五六人、上の部落では戦死者はでませんでしたが、家は浜が三三戸、西六戸、東十五戸が焼かれています。

 

また、米軍が上陸してから、逃げようとしたり抵抗しようとして銃殺されたのがいます。

郵便局長の屋宜さんはあくまで逃げようとして後から銃殺されています。また水産学校の生徒が、たぶん服装が軍人とまちがわれたのだと思いますが射殺されています。こういうのをあわせて、西二人、東一人、浜二人の犠牲者をだしました。強姦事件が一件ありましたが、これは犯人はすぐ米軍でつかまえています。

 

上陸後、ほとんどはその日のうちに捕虜になって、村民は全部学校の裏にある東久保に集められました。それから十二日には浜部落に移動させられて、そこから羽地の収容所に送られる予定になっていました。携帯品は衣類と味噌だけ、あとは何も持ってはいかんと言われてその準備をしていたわけです。その後七月一日になって羽地への移動は中止という命令がきて、村民はまた西と東部落へ移動させられました。私たちが浜部落にかえされたのは十月二十三日のことですが、その間、食梱は米軍から配給されたわけですが、これは島にあった保管米と家畜を米軍が管理して、牛や豚をどんどん殺して配給したわけです。粟国は昔から養豚で経済がなり立っているところでしたので当時二千頭ぐらいの豚がのこっていたと思いますがこれを全部食べてしまいました。農耕用の牛や馬も手あたり次第に銃で殺して配給してしまうわけです。そのほか、豚、山羊など各自で屠殺したのもありますが、とにかく、終戦のころには全滅してしまいました。

 

もっと困ったことは、せっかく焼けのこった家を、汚いからといって放火したり、新代用に壁板や柱をひっぱがして燃やしてしまって、これで全焼が三九戸、半腹が二〇二戸もでたということでした。粟国はもともと樹木の少ない島ですから、本島との往き来ができる二十二年ころまで雨露をしのぐのに困るありさでした。

 

米軍はこの島にキャンプを置き、本土進攻の基地にするつもりだったんでしょうが、上部落に小さな仮飛行場をつくり、戦車隊が照宮名原、砲兵隊が長作原、無線隊が番屋原、陸軍が前原、食糧置場が南場々久保原、コースカー部隊(施設隊)がンナグジ原そして本部を役場にというふうに駐屯していました。駐屯部隊の隊長であるペーイン少佐の話では米軍は四万人がこの島に上陸しているということでした。

 

米軍対村長

私のことになりますが、上陸した米軍は「粟国の村長はどこにいるか、末吉村長はどこにいるか」とさがしたそうです。名前もぜんぶ知っていたわけです。実はこの部隊はここへ上陸するまえに伊平屋に上陸したわけですが、そこで粟国の情報を聞いてきたわけです。伊平屋では村長、青年学校の教官、婦人会などから聞いたそうですが、そこでの話では粟国には日本軍が四〇〇人ぐらい駐屯しているという話だったようです。実際は何もないです。ところが米軍は日本兵を捜査するために私をつかまえて一週間も軟禁状態にしました。-ジープに乗せられて番屋マーラまでつれていかれて、兵隊がいたかいないかと尋問をするわけです。「君は生れは粟国か日本か」とまっさきにきくわけです。僕は粟国ですよと答えると、「妻は日本人ではないか」とくるしまつです。「君は特殊な技能をもってないか」ときくから、「いや、私は何ももっていない。ただの海人ですよ」と答えると、こんどは、「日本へ行ったことはないか」と質問するわけです。「私は水産学校を出て北海道へ行って、それから粟国に帰ってきて村役場につとめるようになったのです」と私はありのままに答えるしかありませんでしたよ。すると今度は、「君は村長にしては若い、軍人ではなかったか」と、軍部とのつながりを追及するわけです。私は三七歳で村長になって当時三九歳でしたから、若すぎるといって疑っているわけです。

 

そのほか、粟国の人がなぜ慶良間に行っているのか、とか、子供たちがなぜ兵隊服を着ているのか、とか、久米島の見えるところへつれていって、あの島には日本軍がいるか、とか毎日毎日追及するわけです。ずっと緊張の連続でしたよ。私はとにかく、この島には軍隊はいない、われわれは軍部とは何のかかわりもない、と説明したんですがなかなか許してくれないわけです。

 

たとえば、在郷軍人をみつけて、あの男はなぜあんなに髪を切ってあるか、軍人ではないか、というわけです。「あれは兵隊ではない。仕事がやりやすいようにするためです。野良仕事では髪がバサバサしては仕事ができないからそういう習慣になっている」と弁解しました。

 

そのころ、在郷軍人会の元陸軍少尉伊佐永篤さんはかくれていて最後まで無事でした。この方などが指導して偽砲をこしらえたわけですが、それで米軍の方も警戒していたと思います。

 

そうこうしているうちに、ある日半裸の大男のアメリカ兵がやってきて、国吉という通訳を通して、「君はウソを言っている」ときびしくとがめてきました。「ウソを言った覚えはない、何ですか」と私がたずねると、「日本兵はいなかったというが、証拠がある」というわけです。私は何だろうと思いながらもどっちみちみんな撃ち殺されるのだと覚悟をきめていましたから、落ついていました。向うがいうのは、役場を掃除していたら押入れにさげたままになっていた日本軍の短剣がみつかったというわけです。これは実は以前に海岸に日本兵の死体が流れついたときに死体は海岸に埋めて短剣だけ役場に持ってきたわけです。これを忘れてみんな逃げまわっていたわけです。

 

私は「その短剣はさびているはずだ、あんたたちならさびた短剣で戦争ができるか。これは子供たちが漂着物をひろったので役場に届けてきたものだ。こんなものが何の役に立つのだ」と言ってやったら、相手は怒って、「ようは兵隊がいたか居なかったかを訊いているんだ」としつこく言うから、「居ないと何回いわせるか。こんなさびたものがなんの証拠になるか」と言い返したら、相手もようやく納得したような顔をしていました。

 

以前にこの島に一度日本の兵隊たちがきたことはあります。四十名ばかり渡名喜の方からまわってきて電波の試験か何かやっているようでしたが、午後三時ごろきて、夕食をすませて夜の九時半ごろ帰っていきました。その一回だけですが、当時軍の方から一村長に対して何の目的で来島したと連絡をするはずもありませんでした。そのこと者米軍に話したら納得していました。

 

そんなわけで、やっと私に対する疑いははれたようで自由にされたのですが、実はこの島には日本兵をひとりかくまってあったんです。友軍の飛行機が引潮のとき海岸に不時着をしたのでその航空兵を救助して部落の人たちがかくまっていたわけです。それは空襲で逃げまわっている最中ですから私も詳しいことはよくわかりませんでしたが、宮里カナさんの家にかくまって、昼はまったく外にださないようにして、役割委員会が世話して、米はないから麦を少しずつ出し合って食べさせていたようです。私は知らんふりしていましたが、そのうち十日も二十日も後のことですが、私はペイン隊長から軍本部のある役場に呼ばれました。行ってみると、小林という朝鮮人の通訳が、「あなたは頭がいい」といって苦笑いしていました。

 

この日本兵は住民を移動させるとき色も白く様子が一般住民と遮うのでバレてしまったわけです。兵隊は学校の前の畑に金網囲いをっくって、あの六月の暑いさなかにパンツ一つで露天にさらされていました。汗がジージー流れて苦しそうだったのを覚えていますが、これも命は助かって、四、五日後には飛行機でつれていかれました。

 

また、こちらの学校にも、十九年に青森出身の軍人が配属されてきています。この人は教員ということになっていましたから何事もなく終戦になってから帰っていきました。(ブログ註・陸軍中野学校の残置離島工作員)

 

八月十五日の終戦は私らは全然知りませんでしたが、あるとき、マウイという米兵がやってきて、「日本はもう敗けたよ」と言ったので、「まさか」と言って信じられませんでした。

 

するとガリ版刷りの日本語新聞を持ってきて見せました。それは石川で刷った新聞で、終戦の模様が書いてありました。日本の天皇がどうのこうのと書いてありましたが、そのマウイという将校が「天皇」という字をさして「この字が読めるか」と自慢そうにきくわけです。彼は日本に七年問いたそうで日本語が達者なわけです。粟国の村長には字も読めないと思っていたんでしょうね。

 

このマウイという将校はこの島の食橙事情の調査に来ていたわけですが、それまで一人一日二合という配給でしたが、これでは足りないからと訴えると、その後ちょっとよくなりました。

 

占領後の村政は私が隊長から任命されて村長をひきつづきやらされ、全島を三〇班に分けて、班長三〇名、巡査三〇名をきめて行政治安にあたらせました。十月二十三日に浜部落の人たちがめいめいの家に帰されるとやっと村ももとの状態をとり戻しました。十一月五日にここにあった軍本部がひきあげていき、翌年二月十五日にコースカーという施設部隊が引揚げていくときにコンセットのトタンをもらいうけて学校もつくりました。しかし、ほんとうにこの島がもとの状態に戻ったのは、昭和二十二年になって、粟国、慶良間、久米島、渡名喜が連盟で株組織みたいなものをつくって、軍からLSTを配船してもらって定期船が動きだすようになってからといっていいでしょう。

 

日本軍の部隊もない軍事施設もないこんな小さな離島の者で、結局去る大戦で直接弾にあたって戦死した者だけでも二九九名にのぼっています。

 

 

無防備の島に上陸作戦

粟国村浜山内○○(ニ八歳)

那覇私たち、戦前は那覇で鰹節を商って生活していました。夫婦と子供四人、子供はまだ小さく長女、次女、長男、三女の順でした。

 

鰹は本部、慶良間、渡名喜、宮古八重山に工場があり、生産地から那覇へ集まってきました。それを県の水産会で入札にするわけですが、私は入札の権利をもっていましたから、十六年ごろまではこれを地元業者に卸して順調にいっていたんです。それが十七年の六月ごろから離がだんだんとれなくなり、そのうえ統制になって統制組合が出荷するようになりました。これは大かた軍の方に送られていましたので車の買取る値段では私らにはひきあわなくなって商いがやりにくくなってきたわけです。私らには戦争の影響は十七年ごろからあらわれてきました。

 

十八年ごろから兵隊がたくさんきました。十九年には球部隊(第三二軍)が来ています。軍は十七年ごろから食糧準備をやっていたわけで、そのうえ鰹船も徴用船として少なくなるし燃料油も配給制になるし自由な出演もできなくなるしで、それで品不足をきたした