以下、沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)の戦争証言をコンコーダンス用に簡易な文字起こしで公開しています。文字化け誤字などがありますので、正しくは上記のリンクからご覧ください。
真栄里 (旧高嶺村)
宮城聡
時 一九六八年五月九日
場所 国吉真孝区長宅
国吉真孝
比嘉樽一
伊敷亀助
玉城千代
島袋勝子
栄里之塔 - 真栄里の犠牲者
概説
座談会の終りで、遺骨について委しく話し合って貰った。遺骨収集には、部落全員が三日間、総動員して行ない、納骨堂に収め、「栄里之塔」と名づけた。遺骨になっていられる人数について、真栄里部落では、心を配ってなされ、正確に努められたことが、座談会出席の人びとの話でも推察された。国吉区長は、自分の屋敷内と、屋敷の周辺だけから、「栄里之塔」の方へ運んだ遺骨が115体だったとはっきり記憶していられる。屋号、新屋国吉小(国吉真友さん)宅には40余人の遺骨があったそうで、一屋敷内に平均15-6体の遺骨があった。部落内、周辺の畑等の収骨は、1万2千数百柱で、その大部分は住民であることを座談会出席者、他真栄里出身の自治体のその方の係りにいる、当時親しく集骨された方などのお話でも、いっちしている。座談会出席者の中には遺骨収集に当って、まるで積み重ねたように折り重って兵火の犠牲になっていた様子を語る方もあった。
栄里之塔は、一九六八年頃までは納骨堂もあったと思ったがその遺骨は識名の中央集骨堂に移されて、塔碑も一時なかったが、最近、永久的の塔碑が建つようになった(昭和四十三年三月、南方同胞援護会の援助によって改装―山城善三著『慰霊塔案内』)。
真栄里部落の一家全滅は、幸いにも6世帯程度であるが8人家族、9人家族から1人しか残っていないという悲しい境遇の人が可なり多くいられるとのことで、平均にして10戸から30人、即ち1戸から3人ずつが犠牲になっているようである。当時の戸数が大体180戸で人口900人くらいだったとのことだから、一戸平均の生存者は2人で、戦争が終った時に生残ることができたのは356人であったらしい。
バックナー中将の戦死が真栄里部落だったからであろう。そのために、真栄里と国吉両部落に対し、米軍が盲滅法に住民を爆撃して大量殺戮を行なったという話が伝わっているとのことだったが、われわれが調べた結果、それは全然無根のデマだったことがわかった。真栄里の本部落は、バックナー中将戦死以前に住民は全部いなかっただろう。占領地区になっているし、バックナー戦死の6月18日以後、前面の田原屋取りは広い地域に人家は少なく、ほとんど人がいなかったことを、座談会出席者たちが語っている。
真栄里も、年老いた琉球松の美しい並木や森や林があったことは、沖縄中の各部落と異なってはいなかった。それが、やはり戦争の壕作りを主とする伐採で切り倒されて、失なわれた。これは案外人の心に止まっていない大きい損失である。伐採をのがれたものも艦砲やその破片で倒され、或いは枯死させられた。松は艦砲に弱いといわれている。
解題でも触れたことであるが、七百人、八百人を入れることのできる自分等の壕を、敗残兵に奪われたことも南部一帯の他の部落異なるところがない。住民が五人から三人の割で犠牲になっているのはもっぱらこの敗残兵に壕をわれたことによると見ていいだろう。
国吉真孝 (二十九歳) 第二次防衛隊
防衛隊 - 患者輸送
糸満の後の壕に集合して、そこに三日いましたが、あちこちへ配置されて、自分たちは東風平村の世名城の壕へ配置されました。向こうへ行きましたら、任務は患者輸送で、第一線、運玉森の後、首里の下、今の試験場のある後のトマ下というところから、東風平の陸軍病院へ運んでいました。
大抵自動車十台くらい連らねて行きましたが、五日目くらいの時ですかな、南風原の国民学校の前の三叉路で爆弾が落ちてですな、その時は九台だったと思うんですが、その中の二台やられましたよ。その時は十三名戦死しましたが、毎日四十名くらいは戦死していました。
その翌日、この南風原の三叉路がまた爆弾でやられて、自動車が一か所から通るようになっていましたよ。その時に、同じ友軍で順番に通るのですが、喧嘩みたいに先きを争いますよ。どこの部隊でみんな自動車から下りて、後を押して、道には甘蔗なども折って来て敷いて、通り抜けさせるわけですが、自分は、どの部隊も同じ日本人だからと思って、余所の部隊の手伝いをしたんですよ。そうしたら、君はなぜ余所の隊の手伝いをするかといって、小隊長に叱られたことがありました。向こうは友軍のよく往復するところとアメリカ軍がわかるのか絶えず壊されて、石などさがし集めて、道を一時間くらいかかって、直してから通りおったです。
この患者運びは夜の九時頃出かけるのですが、当時は毎日雨も降っていましたが、夜出かける時には、直撃当って下さいと心の中で願っておったんですよ。生きた負傷した人たちは、ウジが出てですね、恐かったですよ。恐がるといって、兵隊に叱られましたよ。恐がるなといっても、どの人の顔を見ても恐いのですよ。足がなくなっている人もいれば背中をやられている人もおるし、そうしてみんなウジが出ていますよ。
そうして一度は、アメリカに道が壊されて朝の八時頃になったんですよ、六台に患者を載せて帰る時ですが、トンボが上空で一回旋回したんですが、そうするとじきに迫撃砲が飛んで来たから、みんな車から飛び下りてあっちこっちに隠れましたが積んでいた患者も動ける者はみんな自分で下りていましたよ。その時は五人ぐらい死んでいたですね。飛行機は、自分たちがみんな死んだと思ったのでしょう、帰って行ったので、自分たちはまた道を直して帰ったことがありましたがなあ。その時は、自分たちも明日の命は、どうなるだろう、とみんなそういう気持ちだったですよ。
アメリカの迫撃砲は、道路の真中に、パンパンパンと五十メートルぐらいずつ落ちるんですよ。また先きの方も同じく五十メートルくらいずつバンパンバンと落ちるんですよ。野砲ですかね、三十名くらいで、縄で引っ張って逃げて来るのをアメリカのトンボに見つかって、相当やられたんですよ、その時も自分等は、甘蔗畑に隠れていたんですよ。
自分たちは、約十五日はこういうふうに過したが、世名城の壕から、祖慶隊といって、大里の方ですよ、その時の班長は。その時、自分たち三名は伊敷の壕掘りを命令されて行っていたが、戦争がまあ、その当時は、運玉森から来て、津嘉山あたりまで来ていた時だと思います。そして自分たちの連中は馬乗りで、その壕がやられて、十名くらいは逃げて来たんです。
運玉森の下から南風原へ運搬するが、道は一つです。自動車を止めてある道へ出るまでは、担架で二名ずつで乗せて来るんです。その時は雨ですべて泥道でぬかっているんです。そのぬかるみの道を自分たちは、ふうふう転んだり起きたりして、大抵九時頃(夜)から始めて、トラックに乗れるだけ乗せて、早い時は二時間くらいですが、手間取る時は四時間もかかりましたね。担架で担ぐところは遠いですからね、山の谷底から来ますからな、首里の城の下、運玉森の近くからですな。十台、一遍にはできないですよ、あちこちにトラックは止っているが、機銃弾がヒュウヒュウと来ますよ。約二千メートル先きは第一線の戦争ですからね。百メートルを歩くのに約三十分くらいもかかりましたよ。その時は、真直ぐに行ったら五分間くらいで行くところを半時間くらいかかる時もあります、隠れたり止ったりして。
最後のこれまでという時はですね、東風平の前ですね、そこで相当にやられたんです、大きなガジマルもあるが、それも吹っ飛んでしまったんですよ。爆弾が落ちて、吹っ飛んでしまってみんな泥だらけで下に隠れて、自分もここをやられて土で、自分では死んだと思っていたんです。五分くらいしたらみんな無事で命があったと笑って帰って来たんですよ。
壕からの追い出し
その夜ですよ、また大雨で、道路の修繕に行ったんですよ。部落の石垣ですね、それから民間の破れ飛んだ屏ですね、道に散っているのを片ずけて、直したんですよ。そうして昼は、自分は家内が生れて三か月経っている子供をつれているので、これをどうするか、と話し会おうということと、付近の人だちがどうなっているかということで、廻って見ることにしたんです。そうしたら、八十歳になる呉我のおじいさんと、自分の家内と子だけが部落にいたんです。最初に自分たちの壕とは五十メートルばかり離れているが、呉我のおじいさんのところへ行ったので、どういうわけで、部落の壕には人がいないのか、みんな何処にいきましたかと訊いたんです。そうしたら、「みんな兵隊に追われて南の方へ行った」といいますので、そうですかといって、自分は、自分の壕に行ったら、家内はひとりいます。家内は、逃げて来た兵隊さんが、みんな壕を追い払いますよという。出て行け、軍が利用するからといって。
その時は、軍曹と伍長と兵長、三名が自分のところに来て、「おい、これは軍のだから、君たちはすぐ出て行け」といいましたので、「いいえ、これは自分たちが掘ってある壕ですから、軍が掘ってあるのではありませんからここに休まして下さい」といったら、「それでは、貴様は軍の命令を侵すか」というので、「いいえ、軍の命は侵しません、自分は今患者輸送で世名城の壕から夜はまた首里の方へ行きますよ」といったがきかないでですね。
やるといって、銃を自分に向けて構えたんですよ。それから、ここの手前のちょっと東がわに、武部隊(武部隊ではない山か球部隊と思う)の方が、墓場にすんでいたんですよ、その兵隊が「これは逃げた兵隊だから追払いなさい」と自分に言いおったんですよ。そして君がやらないなら自分がやるといって、わたしに手榴弾を取ってやるというので、やりなさい、といったら、やりませんよ。それから「おじさん」というので、「はい」といったら、「そこに牛がおるから、貴方殺してわれわれにくれないか」というので「自分はできませんから兵隊さんで殺して、自分の家族にも下さい」といったら、「これは弾が強いから晩になってしよう」といって、軍と手を取って、お互いに協力し合ってやろう、といわれました。
また隣りに儀間小といっておばあさんがおられたですよ。その方は、この兵隊が壕から出すといってですね、「貴様はこの壕から出ないとすぐ撃つぞ」といわれて、このおばあさんは自分のところに来て、「助けてくれ、自分のをこういうふうに出すから貴方で相談してくれ」といわれるので、「兵隊さんは決して殺すようなことをしませんから、この壕から出たら死にますからね」といって自分の壕に帰したら、この兵隊が髪を掴まえて引きずり出しましたよ。そうしてほんとに撃とうとしますので逃がしましたよ。
それからこういうこともありました。読谷の方たちで避難民が大勢おりましたよ。それを兵隊たちがみんな追っ払ってしまったですよ。自分は、それから世名城に七時頃までに着かないといけないと思って行きましたよ。
その翌日は、また患者輸送をやった。自分ら三名で、国吉真盛と祖慶班長といっしょに伊敷の方に穴掘りに来たわけですよ、それで家族はみんなどうなっておるかを見て、また南の壕へ行って、みんな元気だという話も聞いて、そういうふうにいつも嫌掘りに行っているとだんだん戦争が激しくなってですねえ。その時わたしは、今、山形の塔のあるところの壕へ行きました。部落の避難民がいると思って、見て来ようといった軽い気持ちで行ったんでした。
この壕は、真栄里、田原(真栄里のはなれ部落の両方の字民が共同で整備してあった自然壕で五百名ぐらいは無理しないで入ることのできる壕で、長谷准尉がつれている兵隊と民間人がここなら安全だといっていっしょに入っていました。
それでわたしは、ただ、深い考えもなくへ入ったら、一人の兵隊に、少尉だったですがね、「貴様は何でここに来たか」と言われたですよ。それでわたしは、「ここは自分たちの部落の壕でありますから、避難民はみんな、ここにいると思って来ました」
「貴様は誰の案内をやってここへ来たか」
「いいえ、誰の案内もして来たわけではありません」といって自分は出て行ったんですが、その翌日は、伊敷方面で壕を掘って、いましたら、戦争があまり激しくなってですね、高嶺方面から戦争が来た気がするんですよ。もうこの戦争は駄目ですから逃げろといってですよ、それでも、防衛隊は、それからも、三日ぐらいは伊敷の方面へ穴掘りに行ったですが、それで戦争がずっと近寄って来たから、自分たちは、まあこれ近い中に解散する筈だから、と話し合って、逃げたですよ。
海軍兵にもらったカンパン陸軍兵に奪われる
その途中で海軍の兵隊がですね、飛行場はみんな逃げたが、また入れるといって、戦さはみんな当分また西に引っ返すはずだ、といったんです。「そうですか、そうしたら、当分戦さは西に引っ返しますか」「はい、自分たちも西へ行くんですよ」と海軍の兵隊がそういうたんです。「そうですか」といったら、「ここにカンバンがあるからあなたたち食べなさい」と言って自分たちに食べさせたですよ。「これをもっと食べてもいいですか海軍さん」といったら、「はい、自分たちは今晩帰るから、あなたたち食べなさい」と言ってわたしたちにくれました。
それでわたしたちはそれを担いで歩いていると、陸軍の上等兵に行き合ったら、その上等兵がですね、「貴様はこのカンバンを誰の命令で担いでいるか今泥棒をやって来たんだな」と咎めるんです。それでわたしは、海軍の兵隊から貰って来たんですといったら「誰から貰ったか」とえらい剣幕なので投げ出して三名共帰って来たわけです。
それで戦はこの辺に明後日頃に来るから南の方へ行こうといっ0て、おじいさんがた、自分たちの部落民みんな、三百メートルくらい向こうの一か所に集まって壕を掘ったわけです。その時、隣りの小さいに糸満の人だったんですがね、直撃当ってですね、自分たちの蝶は半分くらい掘ってあったが、それが壊されて自分の三男(三番目の弟のこと)が埋められていたが、これを掘り出しました。糸満の方がたは直撃でみんな死んだわけですよ。それで一か所に集まって、葬式だといってやっていたんです。
そうしたら清輝さんがですね、「おい、戦は真栄里に来ている。あなたたちはここで我慢できるか、喜屋武まで逃げよう」というんです。自分たちは二十四名だったんです。「そうか、ここまで来てアメリカに見られてはかなわん」とみんな思ったんですが、もう後の方に迫っていたんです。それは朝の八時頃だったんです。その時二十四名が急いで真壁の方へ逃げようとしたんですが、約二百メートルくらいの後の方からは、機銃弾でしょうね、ピュウピュウと集射撃が来ていたんです。やむをえず道のそばの溝にみんな入ってですね、約三時間くらいそこに隠れていたんです。あんまり激しいので、東の方へ行こうとしましたが、東の方は戦車が十台くらいで火を出しているんです。それで向こうには行けないで、三時間くらい溝にいたのです。
これはいっしょの参加中隊でしたが、一人は大里出身の防衛隊がいっしょになっていたですよ。
註・他の人の発言そこの溝の上に機銃をやるんです。それでそこの中に入っておったんです。ところが儀間という兵隊から帰って来たものがおったが、もうここにおっては駄目、早く逃げなくては............、といって自分は、自分の家族をまとめてほかに逃げたんです。われわれとまた真壁の方の三個所に......、その途中に大里の防衛隊が後から、(その後を国吉さんが引き取って話される)。
これは安里吉次郎といって、同級生だったですよ。その方が約三百メートル後から、防衛隊の服を着ていたが、背後から胸を貫通されたんですね。
(われわれは真壁に向かっていましたがね、あれは伊敷から来る兵隊だった、後からやられたから背後はほんのちょっとで、小さかったです。それで豚脂を持っておったんですからそれをつけてですね、治療して繃帯で巻いて、真壁の部落の近くで、その辺に家はないかというのです。「そこには家はないからね、お前はそこの松の木の陰に休んでいなさい」といったが、もう自分等は、あれに構っていることはできないし逃げるのにせいいっぱい)。弾はですね、雨のようにピュウピュウ来ますよ。運がよかったんですよ、二十四名誰も当らなかったですよ。それで真壁の方へ行こうとすると、そこにいた兵隊が、「あなたがた真壁へ行くとみんな死ぬよ、喜屋武の方へ行きなさい」というので、喜屋武へ向かって逃げたですよ。
喜屋武へ逃げる途中、迫撃砲でやられたですよ。その時は、真暗になって何もかも見えなくなったですよ。そうしてそこでも助かってですね、誰も怪我はやらなかったんです。それは山城でしたかね、山城で日が暮れて、水が欲しくてですね、真栄里の方が一人いたんですよ、新里次郎さんが。その方がどうですか、水を飲もうではありませんか、といったんですが、水一滴もありません、山城の部落は。それで新里次郎さんに、どうですか、二人で汲んで来ようではありませんか、と話をしましたよ。でも二人行ったら命はあるかどうかわかりませんが、大丈夫ですか、といったら大丈夫だという、そうして二人行ったんです。その途中であんまり迫撃砲がひどくてですね、それで山城の小さい牛小屋みたようなところに隠れたです。
そこに兵隊さんが腹をやられてですね、生きているんですよ。助けてくれ、水を飲ましてくれというんです。新里次郎さんは、この兵隊のすごい怪我を見て驚いて逃げたんです。「大丈夫ですよ、自分たちが水を汲んで来ますから待っていなさい」といって自分も逃げたんです。
そうして一斗罐を担いで、二人で、アシカーガー(足カー川)というところに、水汲みに行ったんです。そうしたら、その井戸に入が十名くらい死んでいるんです。それでまた向こうに行こうといって行ったら、また向こうも死んでいるんです。これはどうするかね、井戸はどこもかも人が死んでいるし、といわれるので、「いいですよ兄さん、まあ、こっちで汲んで行きましょう」、「そうか、戦だからこっちで汲んで行こう」といって、死体の前から汲んで行ったです。自分たちの家族のいるところまで五百メートルくらい離れていましたが、四時間くらいかかっていたですよ。いっぱい汲んで行ったが、あっち行くまで三分の一くらいしか残っていなかったですよ。あっちに止まりこっちに止まりしてやっとみなさんに水をあげたんですがね。
つかひな
それから道路の暗渠ですね、そこに隠れていた人が三十名くらい焼き殺されて死んでいましたよ。それで危険だから浜辺へ行こうといって、行く途中、あまり弾が激しくて、阿檀ですね、めいめいの家族が阿檀の中に隠れたですよ。そこで自分のお父さんが破片でやられたんですよ。ただ言葉は、「やられた」と言われただけで、亡くなって、それで葬って、それで持っていた食糧は全部捨てたですよ。自分のお父さんがやられてしまったので。それからまた、逃げて、東辺名(旧喜屋武村)の手前に行ったんですよ。そこもあんま迫撃砲の弾が激しいので、東辺名まで行かない前の東の方に隠れて、それで日が暮れたから、今度は飯を食べないといかないので、そうして水がないと米を洗うこともできない、今度は、他の人といっしょに束辺名の川に行ったら水が漏れて何もない、それでまた足カーの川に行って水を汲んで来て、飯を炊いて食べ、夜が明けたので、喜屋武の具志川城という所がありましたが、こっちの東に行ったら、弾が全然来ないので、いいところだと喜んでおりました。そうしたらまたバラバラ来ました。それでこっちでもいかないから、浜の方へ引っ越したらどうか、ということで今度は浜の方へ行きました。
註・同席者。あそこは迫撃砲も何も来ない、非常に安心しておれました
その前、束辺名の向こうに行ってお父さんが亡くなった際ですね、あんまり弾が激しくて、松の木が破片で伐り倒されるのが凄いんです。その時子供を負んぶした女の方が、自分の後に棒立ちしていたので、「あれ、おばさん、恐いから、そんなに立っているとすぐやられるよ、ここにいいところがあるよ」といって、自分が隠れていたところに「おばさん、ここに隠れて下さい」といって、そこに隠れさせて、自分は松の木の下へ行ったんですよ。そうしたらそれから間もなくですね、そのおばさんが後からやられて、そのまま(即死)ですよ。「あぁ、可哀想なことをした」と思いました。
自分と入れ代ってやられたんです。自分は、このおばさんが立っているので、かあいそうに思って代って上げたんですが、自分は何ともいえない、すまないような気持になったんですがね。
それから、ここにはいられないといって、喜屋武岬へ二十四名の家族たちが行ったんですが、そこに行ったらですね、水もあるんですよ。小さい岩があったので、そこへ隠れていたんですが、アメリカは船をですね、五十メートルくらい先きまで近づけて来て、「命がほしかったら港川へ行け」といって放送していました。その時に自分の妹は看護婦で兵隊さんとそれまで行動を共にして来ていたんですが、自分で薬を飲んで死にました。それで自分は「えらいことをやったな」と涙を流してですね。兵隊さんから貰って青酸加里を持っておったんですよ。
妹が、死んだのは、わたしの長男が生れて三か月になっていましたが、みんなが三日間、全然食べ物を食べていなかったんですよ。それで「自分が死んで、必ず長男を助けるから、わたしはここがいい死に場所である。上の方にはお父さんもいるから」と涙を流していいましたので、わたしは、「いや、お前はわたしが助けるから心配するな」といったんですが、死んだんです。
そうして、呉我のおじいさんの家族とわたしのいとこの家族は、飯も何も無いで食べ物を三日間何も食べないですから、「もう我慢できない」といって上に帰って行ったですよ。その時に糸満の国場さんが「おい真孝、お前たちここで死ぬか、またほかへ行くか」といったんですよ。それで、「はい、自分はここで死にますが、ここで状況を見てから死にます」と断ったんです。そうして二家族は出て行ったですね。自分は、すぐ下は浜辺ですから下りて行って、手も洗って顔も洗って祈ったわけですよ。ここで死んだ方がいい、と祈って、まあ飯もないし、子供も可哀想だから早く死んだ方がいい、と思っていました。
ちょうどその時に部隊の兵隊さんがいましたので、「兵隊さん、自分は困っておるんですよ、何も食べさせるものもないし、(自分で)自爆して死のうかと思っていますが、どうでしょうか」、と聞いたんです。そうしたら、その方が、「米一升はありますからね、これをあなたがた食べてですね、状況見て自分たちが委しいことをまた話しに来るからここに待っていなさい」といって米一升をくれたんです。それで喜んで、「有難う」といって「これは命の恩人ですから」といって頂いて、持って行って、それを炊くために水汲みに行ったんですよ。そうしたら、朝鮮の人らしい兵隊だったそうですが、おばあさんたちから奪い取ってしまってですね、帰って行って見たら、もう無いですよ。それでわたしは兵隊のところへ急いで行ったんです。そうして、兵隊さんから頂いた米をほかの兵隊さんに取られたことをいったんです。「どんな兵隊が取ったか」「わかりません、自分は水汲みに行っていたので、班もわかりませんよ」といって、まあ三名でさがそうといって、さがしたが無かったですよ。これは残念といったんです。
その時海上戦車がやって来たわけですよ、まあ夜が明け初めて、その海上戦車は自分たちのいるところから三十メートル下ですからね。自分たちは岩の下に砂を被ってそこにいたですよ。
大嶺(旧小禄村)の方が二人いたですよ。その人たちのところには、何十人という人が死んでいたんです。自爆やった兵隊ですね、二人手榴弾を口に当てていたが、首は無かったですがね。この大嶺の方は、洞窟が無かったので、死んだ人間を被って助かったですよ、二名、一人は国吉という名でしたが、一人は意地(勇気)が強い、一人は臆病だったですよ。この臆病の方は、後では、人間被るのは厭がったですよ。臭くてですね、それで、おい命は助かった方がいいよ、被りなさい、というと、「隠れるところがないから、自分はここでいいよ、まあ、一日命助かったらいいよ」といっていましたよ。
それから、意地の強い国吉は、毎日飯を食べないではいられないから二人で芋掘って来ようでないかというので、上にあがって、二名つれだって芋掘りに行ったですよ。二百メートルくらい上に行ってですね、そうしたらそこは全部焼かれてしまっているんですよ。そこにはあちこちに電波ですね、線が張られている。「この線ちょっとでもさわったら二名死ぬよ」と自分はそう話した。それで約三、四百メートル前の芋畑へ行ったら、この一人の者が転んでしまったんですよ。それで照明弾が十くらい上ったですよ。まあ自分たちはそこに倒れて、死んだ振りをして、またこれが消えてから、約三十メートルくらい前へ行って芋を掘って、帰って行って潮水で炊いて食べたら、その芋が臭くて、沖縄でいう「イリ虫」が入っていてにがくて、とてもまたとこういう芋を食べる気が起るかとみんな笑いながら、食べたんですよ。
暁部隊の兵士に手榴弾「自決」をとめられ
その翌日だったですよ。自分の長女がその頃六つ、五つでしたかな、あまり小便が近くてたびたび小便するために、そとに出ていたが、その時に泣いたんですよ。そうしたらトンボに見つけられてですね。それから一時間くらい待ったら、アメリカの兵隊がいっぱい来てですね、出て来い出て来い、といってやられたですよ。自分の三番目の弟の妻がですね、パンパンと撃たれ怪我して、二か所、足をやられたんです。その時、自分は手榴弾二つ持っておったですが、「おい、こういう場合にはアメリカの弾に当って死ぬよりは、自分の弾に当って死ぬ方がいい」といって、自分たちの家族、おばあさん(自分の母親)も思う存分話もやれ、まあみんなタオルを持ってここに来い、」といって、みんな顔を合してですね、自分は安全栓を取ってですね、みな自爆やるからといったら、みんな涙を流したですよ。「大丈夫、みんないっしょに死ぬから大丈夫」といって、この人もこの人も手榴弾の安全栓を取ってですね、やることになった。ここは自分の三番目の弟の妻、こっちは自分の家内がですね、「止めれ、アメリカの兵隊は、もう弾がないそうだから、アメリカの弾を少しでも損させよう、それでアメリカの弾に当って死のう」という。「君たちそういうが、貴方が死ぬかわたしが死ぬか、誰か一人残ったらどうするか」と自分が言ったんですよ。「それでいい」と、「そうか」といって、手榴弾は安全栓を取ってありますからね、向こうに置いてですね、「今晩にうちへ帰るから、誰でも負傷したら、ここに捨てて置くから、みんなその時は、自分で自爆ができるか」と自分は泣きながらいったんですよ。それでみんな「大丈夫だ」、というので水も腹いっぱい飲みなさいといって飲ましたですよ。それで、水も飲んで、晩の九時頃ですね。その時暁部隊の兵隊さんがですね、「なぜあなた方命を無駄に捨てるか、命は、一分間でも一時間でも余計あった方がいいよ、あなたがた地方人が命を捨てるのは無茶だよ、自分だちが情報を偵察して来るから休んでいてくれ」といってさとされたんです。その方たちから、そういわれ、また情報も聞いて、それからまた三日くらいいたんです。
そうしたら満潮の時には戦車が来て、バンバンやりますよ。自分たちの頭の上から弾は飛んでいますよ。それで、戦車が毎日来るのでここは逃げる方がいいと相談して、ここから出て行きました。その直前自分等に、アメリカの兵隊が手榴弾二つは投げましたよ。レかし助かって、自分の部落へ帰ることにした。波平まで来たらアメリカの兵隊が大勢いたので、また引返して真の方へ行って、それから新垣へ行こうといって、今の白の塔のところへ来たらそこに戦車があったんです。そこに友軍の兵隊が大勢いたですよ。そこに二晩いたんです。そうしたら友軍の兵隊が、「おい、君たちは、ここで子供をそんなに泣かしたら、君たちの命はないよ、今で帰らないと駄目だよ」、といったんですよ。それで、「そうですか、自分たちは、自分たちの洞窟があるから向こうへ行こうと思って、行くんですが」といって、そこから一旦帰って来たんです。
それで兵隊が恐くて、後のおじいさんのお墓へ行ったんですよ。そこへ行ったら、そこに糧抹からアメリカの煙草なんかが沢山ありますよ。それを沢山担いで、またそこは恐いので帰って行きましたが、大きなススキの根元 (場所は国吉部落と真栄里の中間、と国吉区長の奥さんが口をはさんだ) に家族六名隠れたんですね。そこにアメリカ罐詰は沢山ありますが、開け方がわからなかったので、剃刀で切って食べたわけですよ。三日間、塩からい罐詰ばかり食べて水がほしいんですから、溝水を汲んで飲んだんですが、そこには死んだ人があちこちに倒れておるんですよ。銀蠅もたかっているが、それも構わずに汲んで飲みました。
そこに三日いて、ここにもいられないから自然洞窟へ行こうと考えて、自分のうちから蠟燭を持って、燐寸もって、水筒は死んだ兵隊から二つかっぱらって両方の横腹に下げて、家内と三番目の弟の妻には、「自分は自爆するから」といったら、弟の妻が、「あなたに手榴弾持たすと、いつ死ぬかわからないから」と取り上げられた。また自分の母親が「お前一人やると危い、わたしも行く」といって追って来ました。
歩兵第32連隊にスパイとして処刑されかかる
そこへ行ったら、わたしは十名くらいの友軍の兵隊につかまえられた。物も言わさないんですね。そこで北郷大佐、少佐、連隊副官の前ですね、「自分は決してスパイではありません、軍のことも立派にやりましたから、スパイではありません」といってもきかないですよ。それで好きにやって下さい、と頼みました。「それではお前は希望がないか」「はい、自分は、早坂隊長、長谷准尉に、国吉はスパイと誤られて処刑されたと言ってくれますか、よろしくお願いします」といったわけですよ。その時、長谷准尉がそこへおいでになってですね、向こうの部屋、二十メートルくらいのところから出て来てですね。「元気だったか」、といって長谷准尉と握手やってですね。「はぁ国吉、元気だったか」といって、まあ、自分もがボウボウだったんですよ。
長谷准尉が「国吉君は決してスパイではありません、宜しく御願いします。国吉のことはあくまで自分は信用しています」と頼んだわけです。それで喜んでですね、手を取り合って。そこには看護婦さんが大勢いたんです、沖縄出身の。自分の親戚もそこにはいたんですよ、真次郎といって、手を握り合って涙を流して、また自分が知った兵隊も四、五名いたですよ。まあ元気であったか、といって、ここで約一時間ぐらいこれまでの自分のたどって来たことを話し合った。アメリカ軍はどういうふうにやって、戦争をしているということなどを・・・。連隊副官はよくわかっていた。しかし家族を連れに行くというと、また疑がわれた。それで「もし殺すなら、自分の家族がここから約二百メートルくらい向こうにおりますから全部殺してくれ」と頼んだわけですよ。よしといって、そうならいっしょにやるからといって、また長谷准尉がいろいろ事情を聞かされてですね、軽機関銃を持って、自分を五十メートルくらい前にして歩かして、もしアメリカ軍隊と通じていたら殺してからみんな逃げるという考えだったようです。そうしたら自分の家族は逃げていない、そこにいないんですよ。これは大変なことになったと思って、約三十分くらい大声で呼んだら、出て来たわけですよ。それは、話し合いで、こういうふうにやったといって、兵隊といっしょにその壕に入ってですね、いろいろ事情を聞いたらですね、この壕はですね、アメリカが、水攻めで水で死なすといって (米軍は壕内に水がないと考え、水欲しさに友軍は降伏するであろうという意) それから爆雷かけて、一週間テント張ってですね、爆雷かけていたが、それが帰った翌日だったわけです、自分が行ったのは。それでスパイといっ誤解されたのです。爆雷で壌を壊してしもうんです。今碑が立っているところです。
それから北郷大佐に命令されて行っていろいろ話もしたわけでした。「君は防衛隊を逃げたのか」「いいえ、逃げはしません」「それではまた防衛隊に入らないか」「戦負けてまた防衛隊できますか」とはね返したわけですよ。「それでは、軍の協力はいくらでもやってくれるか」「はいそれはやります」「それではあなたは食糧があるところを知っておるから、やってくれ、家族も兵隊同様に待遇するからやってくれ」というので、「はいやります」と答えて、軍服を渡したが、「これは要らない、戦争は負けたのだから」と自分は、はね返したですよ。
この壕はですね、約五百名くらい、兵隊たちがいられたのではないかと思います。
(註、二百名以内が実数と推定されるが、あの時点では、二百名が五百名くらいと錯覚することも考えられる。戦記で見ると、連隊本部八十名、それに第三大隊が加わっているが、大隊の残存者は大抵百名以下くらいに減っている。しかも、六月十一日から米軍の本格的攻撃を受け、「爆薬攻撃、火焔放射によって、惨烈をきわめ、死傷者多数を生じ・」(『沖縄方面陸軍作戦』六〇七頁)とあるが、あるいは米軍の猛撃を受けた国吉の壕に逃げ込んでいた第一大隊百名中からの残存者も、この壕へ逃げ込んで加わっていたかもしれない、すると二百五、六十名の兵隊がいることになる。それらの兵隊は、壕内深く隠れて生きのびるのに、きゅうきゅうとしていたことが、推察される。)
食糧探しの斥候となる
糧秣取りに、北郷大佐の証明書を持ってですね、その任務で出るのは、中尉、少尉で、軍曹では駄目だったですよ。そういう将校の方と、あちこち廻って糧秣をさがしに行きおったです。曹長でしたが、自分が言ったですよ。「呉我のお墓のところに糧秣が沢山あるので、あれを取って来るとこの様で暮らすのはわけないから取って来ましよう」と言ったですよ。それで兵隊さん六名と取りに行ったんですよ。この六名は拳銃持たして、自分には持たさないですよ。約二百メートルくらいの距離ですが、約四時間くらいかかったですよ。立って、坐って、立って坐って、照明弾が上るので、自分が大丈夫といっても、きかなかったんです。
そこにアメリカの話が沢山あってですね、一人の兵隊さんが、自分に、おじさん、と呼びかけるですね、はい、と答えたら、ここに抹ないと北郷大佐に言おうよ、というんです。帰って行って報告してから、この食糧を確保して逃げようという考えですよ。それで自分は、「自分は絶対嘘は言いませんよ、あるものはあるといいますよ」といったら、「ああ、そうか」といいましたが、それは罐詰を食べながらでしたよ。そこでこの詰を食べたら、水が欲しくてたまらないですよ。それで、アメリカの水曜(現在ケロシンを入れて運んでいるものを当時は水曜といって、米兵はそれに水を容れて持ち歩いた由)に三分の一くらい水が入ってあったんです。それで自分はそれに薬が入っているかどうか鼻でかぎ舌でなめて、何でもないと思ったので、兵隊さん水がありますよ、どうぞ。といったら、それは毒が入っているから飲んだら死ぬよ、というんです。自分は渇いているので飲んだわけです。それでも兵隊たちは誰も飲まないですよ、十分間ぐらい。そうして自分に、あなたはやがて死ぬよ、というんです。自分はまた飲んだわけです。三回飲んだから、それからみんな飲んだんですが、兵隊たちは、自分たちは飲まないで、「あなただけ死なして、自分たちはみんな生きる考えだった」、といって笑い話をしましたよ。そうして沢山の煙草を持っまた糧秣ももって帰りました。
その後また、兼城 (旧兼城村) の川のところ (国吉さんの奥さんが「座波」と指摘した)、その壕から座波は直線コースで三キロメートル余で、道の距離は四キロメートルを越すようである)、座波に罐詰が沢山あったですよ。その罐詰取りに行ったのは十一名ですよ、みんな拳銃を持って。そこにアメリカ兵が自動車に乗って来たわけですよ。五メートルくらいしか離れていないんです。そうしてアメリカ兵は歌をうたって、歩き廻っているんです。見つかったら殺されますよ。咳などするとすぐ見つかるし、目は上を見てですね。びっくりして、二十分くらいじっとしていたら車に乗って帰って行ったので安心してですね。それで糧秣の箱を背負って帰りましたが、その途中でまたアメリカ憲兵に大城森(豊見城線廻り那覇、糸満バス線の与座、大里への入り口近くにある丘)であったですよ、それで弾をバンバンやられたので、またもとの所へ帰ったです。追っ駆けては来なくて、誰も怪我もしないで、糧秣も持って帰りました。
そこにいたのは、二十日くらいです。日時ははっきりしませんが、兵隊がですね、「切り込みに行かないか」(この場合は米軍のいるところに物資掠奪に行く意といって自分のところに来たわけです。「はい、行きましょう、どこですか」といったら、「真栄里の前にアメリカさんが大勢いるから行こう」といって、長谷尉、カン野大尉、六、七名くらい切り込みに行ったですよ。あの方がたは手榴弾を持って自分は拳銃ばかりだったです。長谷准尉は、地方では医者だったんですが、召集兵で准尉だったんです。その方が途中で咳をしてですね、そうしたら照明弾の上り方は全く昼みたような、それに弾は機関銃でドンドン来てですね、自分は危くて、仕様がないのでアメリカのところへ行ったわけです。向こうは弾は来ないですよ、それで小さい溝にゆっくり行ってですね、そこにじっとしていて弾が来なくなってからまたアメリカの手前から伊敷の方に行って、罐詰を約五十個くらい持って来たんです。自分等の家族は、もうお父さんはやられてしもうて、亡くなっているといて三時間くらい待ったところへ帰って行って、それでまた笑い話になったことがありましたよ。
8月29日 - 歩兵第32連隊の武装解除
デテコイ作戦で、8月24日、伊東大尉は捕虜となった八原博通高級参謀と接触、北郷連隊長に連絡。連隊長から投降交渉をまかされる。武装解除は8月29日に決定。
そうしているうちに停戦協定で負けているからと向こう(米軍)は申し込んで来たそうですよ。それでここへ、日本はアメリカに負けておるそうですからいつ、いつかは出よう、といって来たら、「いや、決して負けてはない」といって、それでここから港川のアメリカ本部へ使が行って、帰って来ると「ほんとに日本が負けておるから出よう」ということになったわけです。その翌日アメリカ憲兵が来て、白い降参旗をあげなさい、見えるだけは助けるが隠れているのは助けないといったんです。日本の将校なんか、拳銃なども束にして、一週間はアメリカの兵隊が守っておったですよ。
そうして捕虜になりました。8月の30日(29日)に、北郷大佐もみんなです。看護婦は50名くらい、炊事もいっしょで、それくらいはいました。月の夜で握り飯を食べながら月眺めしました。玉音放送も聞きました。
註 国吉さんのお話について、もっと委しくお訊ねしたいので、名嘉所長と共に一九七一年四月四日に、真栄里のお宅を訪ねた。幸い御在宅で、不明の点をお訊きした。
問「お父さんは埋葬なさいましたか」
「破片で松の木が倒れまして、破片で右の肋骨と腹をやられまして、ああ、やられた、これだけです、言葉は。破片の大きさはわかりません。血が出てそのままです。あんまり砲弾が激しいので、岩の陰に隠れていて、それが止んだからスコップで穴を掘って、二時間くらい経ってから葬りました」
問「あの時読谷の人がいましたか...」
答「あれはですね、自分たち親戚合せて二十四名だったんですが、読谷の人が子供を負んぶしてですね、隠れるところがないので自分の後に子供を負んぶして立っているので、危いですよ、おばさん、こっち御出なさい、といって自分は岩の下にいたので、自分は松の下に行って代ったら、このおばさんは十分も経たないのに、どこをやられたかそのまま、死んでいたんです。子供が泣いていたので、帯をはずしてやって、そのまま逃げたんです。この子供はそこで餓死したでしょう」
間「海岸へ行かれて、妹さんが、生後三か月の国吉さんの長男を、わたしが助けるといって、青酸加里を飲んで自殺されますが、それはどういう意味でしょうか」
答「自分たちは自爆するといって、僕が手榴弾を二つ持っていたんですが、その時はもう薬を飲んでいたんです。まだ死んではいなかったんです。それで家族はみんな生きてくれ、家に帰ってくれといって涙を流していっていたんです。自分が死んでみんなを見守ってやるという意味だったんですね」
問「埋葬はやりませんでしたか」
答「いいえそれはですね、砲弾が激しくて、二十メートル下に海上戦車がおりましたので、戦車の砲弾は百メートルくらい先に落ちて自分たちのところは、落ちませんでしたが...」
問「沢山の人が死んでいましたですね、その時二人の人がいますが、一人は国吉さんといいますね、死んだ人を被って助かるが、あなた方のいるところと、この人が沢山死んでいる場所とは、どんな風になっていますか」
答「自分たちは、上ですが、死んだ人たちはすぐ下になっていたんです。臆病で死体は臭くて被らないといった方は海岸で死んだそうです。後でこの具の国吉という人が話していました」
問「暁部隊はどこにあったわけですか」
答「すぐ近くの壕で、子供にくれるものがないので食糧さがしに行く時に、同じく並んでいるところですよ」
問「暁部隊がくれた米を朝鮮の人らしいのが取ったといいますが、どうして朝鮮の人というのですか」
答「朝鮮の方が三十人くらいいたんです。この人たちは、手を上げて、下の方にいたんです、捕虜されるために。潮につかって、それで後から日本の兵隊さんが、バンバン撃っていたんです。アメリカーの船に乗るといって」
問「こっちの壕に来られて兵隊に取り巻かれて捕えられた時、連隊長のところに行かれたのですか」
答「壕の中の前の方です。連隊長に訊問されたので、連隊長のいるところは真中あたりです」
問「スパイの疑いで、いよいよ処刑されようとした時、お前何か言うことはないか、といわれて、早坂隊長と長谷准尉に、国吉はスパイの疑いで処刑されましたと伝言して下さるようにお願いします、といったら、二十メートルくらいさきの部屋から長谷准尉が出て来られたといわれるが、長谷准尉は、あなたがつれられてのを見なかったのでしょうか」
答「部屋が横穴の方にあったので、連隊長が命令で長谷准尉を呼ばしたのです」
筆者は、壕の長さについて訊いた。約百メートルくらいといわれた。真栄里部落とその屋取りになる田原の部落全住民でも無理に入ると収容できるというから百メートルの深さはあるだろう。
降服の日は戦記と一日違って八月三十日と国吉さんは記憶していられたが、家内が自分より確実にわかるといわれ、奥さんを呼んで同席して貰った。奥さんは、国吉さんの三十日ということを聞いてはいられなかったが、戦記と同じ二十九日に捕虜になった、とはっきり記憶していられた。
国吉さんが、危く処刑されようとした時の内の兵隊、看護婦、炊事人など人員も奥さんは、百七十人くらいではなかったか、といわれた。ほぼわたしの推定と一致していた。一週間の水攻め(水を飲まさないこと)と爆雷攻撃を受けているので、内部相当の死者も出ていると見られる。
北郷連隊長(大佐)をはじめ、将兵、ならびに看護婦、炊事婦、壕内民間避難民、それに付近の避難民等が、揃って、1945年(昭和二十年)8月29日に捕虜になったが、国吉さん御夫妻のその時の推定人員は、全部で500名くらいと話し合っていられた。
財団法人沖縄戦没者慰霊奉賛会による山形の塔の紹介文に「歩兵第三十二連隊が軍旗を持して九月中旬まで勇戦...............」とあるが、戦記にも連隊長以下が武装解隊され、捕虜になったのは八月二十九日であり、国吉夫妻によっても、明かに九月中旬らんぬんは間違いである。また、近寄る住民をスパイの疑いで警戒し、夜間の食糧あさりのみに汲々として、壕内に隠れていた実状が「勇戦し」と形容されている。
比嘉樽一 (三十四歳) 第一次防衛召集
真栄里アミヤ原の特攻艇秘匿壕で
防衛隊召集を受けましてね、東風平に行ったが相当の人が集まっていました。訓辞を受けましたが、そこには一日もおらないで、糸満小学校へ行ったんです。それから療生活です。われわれは球部隊で、壕は糸満の南、真栄里ですな、そこで海の特攻隊、船舶特攻隊のが掘られてあったんです。天川、あみや原というところです。真栄里の後の山になっていますからな。真栄里へ入る前に船舶隊の壕が幾つもあったんですよ。船一つ入る壕ですね。役割りが四つくらいあったはずです。穴は深く掘って、枠をはめて、線路も敷いてあったんですからね。タイヤーつきの車に乗せて海へ持って行く。けれども泥のぬかる道ですからね、思うように運ぶことができないですよ。浜辺へ持って行ったら、砂の上ですから砂にめり込んで、なかなか巧いことはいかないですよ。満潮の時ですと、そこへ持って行ってそのまま置いたらいいが、いつも潮の干上る場合に連絡は来ておったです。壕にいてもゆっくり休むことはできない。夜の夜中でも連絡が来たら皆出て行くんですよ。出て運搬して、向こうに出して大抵潮が引いておるので船の浮ぶところまで車で持って行って、船を出してまたその車を持ち返して来てですね、壕の中に隠して擬装して、もうそれで済んだと思ったら、上げてくれという連絡が来て、一日に一回くらい。それは毎日が毎日あるわけではありませんから、出すのはよく憶えていませんが、それは五、六回はあっただろうと思います。でもあの調子から見たら、出て行っても向こうまでは行くことができないで、戻って来る場合が多々ありましたね。戻らない時もありましたがね。
特攻隊に関する仕事がすんでからは、われわれは東風平の壕に移動したんです。あの壕へ移動して行くころからは、もう首里の方からは友軍の兵士が引っ返して来おったんです。われわれは糸満の方から向こうに行きましてね、野砲を馬に引っ張らして、軍のトラックに載せるんです。南へ下って行くんですね。
それからまた玉城村の糸数の壕へ行きました。糸数には大きな立派な自然があります。そこから那覇(旧真和志村)真嘉比、今の古島ですよ、そこへ弾薬運びです。そこにちょっとした即砲の陣地がありましたよ。一回運んで行って、帰ることができません。われわれはカンパン持っていましたから墓の中に入っていました。上には砲の陣地がありますから、アメリカの迫撃砲や、飛行機からも爆撃するんですな。
われわれは墓の中におったが、友軍の方からも弾は撃ちましたよ。そうですから向こうから激しくやり返すんですよ。飛行機からも爆弾を落したが幸いにわれわれの墓には当りませんでした。そこに昼中は泊った。アメリカの兵隊は夕暮れ時に煙幕張るんですよ。敵が煙幕を張った時に小隊長が、さあ今だ、といって出たんですよ。そうして皆駆けて上間ぐすくの下に、横切って来たですからね。そうしたら迫撃で追われておるんですよ。その時に小隊長が迫撃でやられたんですよ。そして歩くことができない。これは現役の兵隊だったんですが、本土から召集で来られていた。幸いに担架も付いていたから、担架でまで連れて来たんですね。
それからわれわれが弾薬を運搬して帰る場合に、津嘉山の前の道路は臭くてですね、倒れた人が腹は膨れて、そこは歩きにくかったですよ。迫撃が飛んで来た場合は、低いところをさがして大丈夫だなと考えて駆けて来おったですよ。道端は死体がいっぱいです。
それから壕まで行きまして、その晩に高見さん(小隊長)は死んでしまってですな。その係りは、別の方が代った。壕は津嘉山の前を通って東風平の宜次・外間の部落の後の方にはあったですからね。
それからまた移動して、具志頭の与座・仲座へ行きました。与座へ行ってからはもう民家ですよ。そこへ行ってからは、小隊長は球部隊の土井少尉、あの方ですから。その時、与座にはもう部落の人はいません、どこへ行ったかわかりませんが。
あの辺の状況は見られませんでしたな、昼中は出られませんからな。夕方なったら飯を取って来たり、飯を食べたりそれくらいの余裕しかないんですよ。また晩の集まりがあったり、いろいろあったですから。点呼とかもあったので、なかなか自由に歩ける余裕はなかったですよ。そこでは二、三日あるいは四、五日くらいだったと思うですな。
それからその部落の上の壕へ行ってですね、山に、もう壕は無いんですから今度はめいめい具志頭部落の与座の後の山の石の陰に隠れた。弾薬運搬もできない、壕がなくてあっちこっちに散らばっておるので連絡も取れないでですね。今度は退く命令がありましたからな。わたしは向こうから真栄平部落に来てですね。その時は、わたくしの甥も同じ防衛隊におりました。わたしは壕を出ると同時に飛行機から機銃でここやられてですね、もうこれは困ったといってつかまえて、ドンドン、ドンドン下って来たですよ。やられたもんだから水が飲みたくなってですね、水飲ましてくれといったが、水は絶対飲んではいかんといわれました。
飛行機は飛行機でわれわれを狙っておる。それからまた音聞いたら南の方ですね、真壁の方は太鼓をたたくようにポンポン、ポンポンでドンドンドンドン艦砲射撃はやっておるんですからね。それで今度は真栄平部落からドンドン下って来て、やっぱり自分の壕がここにあったですからね、つまり自分の真栄里部落へ戻って来た。それからは行くことはできないですもの。あんまり激しい真夜中になって。
それから自分の甥は真栄里部落ですからね、あれたちの親たちのおるところまでつれて行った。今度は帰るのに、それがなかなか帰られないですよ。わずかな距離ですけれど、夜になってから出て家帰るまで明け方になっておったんです。
もう何日になっていたか、わからないんですね。今度は飯食べる箸がないので、外に出て箸をちよっとさがそうとしたら、破片にやられてしまってですね、ここ(まま)が残っておりますよ。ここですね、ここに破片を打ち込まれたからもうそれから動くことができなかったです。腫れてしまってそれから二、三日してからの前は擬装してあったが火砲で焼かれてですね、それで自分の娘たちも出たから、わたしも出たんですよ。最初真裸で出ていたが、また引っ返して姉さんの着物を着て出てそうして子供をつれて行ったんですが、幸いまた手榴弾一つは用意して持っていたんですよ。そこ出たらこの家の後に小さい丘がありますよ。そこに壕があったんです。そこでアメリカ兵が上半身裸になって、小銃をかまえて黒人兵といっしょに、そこを狙っているんですよ。そこは連隊壕だったんですから。それで蘇鉄のそばに隠れてですね、ここで兵隊に気づかれて今見られたら大変だと思って、蘇鉄の上から手を出し手拭を握ったんですよ、そうしたら向こうは指吹いて来い来いと合図するんですね。それで駈けて行って捕虜になったんです。
この辺はその頃になると家は全然なかったですからね。人間もここからはなかなか歩かなかったですよ。しかし横切って来ましたからな、この畑あたりは、相当に死んだ人がいたですよ。いのちがけですから、何が何やらわからないくらいです。
われわれが与座にいた時は民家は残っておったですよ。小隊長は山の壕にいました。
伊敷亀助 (三十八歳) 引揚者
わたくしたちは、昭和二十一年の十一月の半ば頃に帰って来ました。一期、二期といって団体生活の規格建物がありましたので、二期までの家を作りまして、規格建物といっても合同生活をやっていましたよ。
一班から六班までありました。一つの規格建物に四所帯くらいず入っていたんです。
わたしたちが帰って来る頃から部落の方が、引揚者に同情しましさつま芋の配給をやっておりましたよ。もうわたしたちが帰って来る時からは、芋はもうついていて、配給していたんです。遺骨はほとんど片ずけてありましたが、畑の中からは遺骨がよく出ていましたよ。
芋はよくできていましてね、多分、亡くなった方がたの関係で芋はよくできていたのでないかと思いますね。
遺骨収集は、部落の中はほとんどすんでいました。部落の西がわにですね、ちよっとした自然壕がありますが、そちらに集めてありましたよ。
それでわたしたちが帰って来てからですね、一九五七年頃と思うんですがね、畑の中はみんな集めてですね、部落の西がわに集めてありましたがね、残っていたのが六十余り、入りませんので焼いて灰にしてから入れましたからね。そのまま入れたらとても入れることはできませんでしたよ。また遺骨が三十柱合せて九十余りでした。これは戦争がすんで十三年目になっていたのですがね。
玉城千代 (二十三歳) 家事
うちの後の方には、山部隊の兵舎があって、わたしはたまに炊事や何やで行って兵隊さんに協力することがありました。うちには七十を越えるおじいさんがおりました。うちのおじいさんは、兵隊さんたちとよく喧嘩をやっておりました。沢山芋を煮てあるのですが、沢山芋を煮てあるのに全部あなたたちに上げて、自分たちはいつもひもじい思いをさせるのかといって、喧嘩をするのです。
昼は来て兵隊さんが持って行っても、わたしはおじいさんとの間に立って、上げていましたが、夜から来て芋を炊いてくれといって、寝ているのを起される場合もあったんですよ。
そうして戦争が次第しだいに激しくなって行きましたが、うちは最後まであったんですよ。中頭方面からの避難民もうちに住んでいたんです。家いっぱい、屋敷いっぱい、大勢いたんですよ。戦争がひどくなりましたのでわたしたちは壕にいましたが、家に来るのが危険ですから、そうして区長さんから部落からの立ち退き命令があったので、大里部落(旧高嶺村)のルズンですかね、あっちは。高いところ、あっちに避難していたんですよ。避難は親戚が揃って後はどうなるかしらないから一つの壕に入っていた方がいいだろうといって、みんないっしょにいたんですよ。そうしたらあっちの方で、爆弾がつぎつぎ落ちて来るんですからね、また自分の家の薬に帰って来て、そこでわたしたちは捕虜取られたんですよ。
まあ、大里のルズンというところから、うちのおじいさんは衰弱しまして、夜も夜通しで家に逃げていらっしゃる時もあったんですよ。昼はおじいさん、トンボに見つかったらいけませんから壕に入りなさいというんですが、絶対入らないんですね。いくら壕に入りなさいといってもおじいさんは、きき入れないのですよ。そうして二、三日来ますます弾ははげしくバンバン来るんですからね。それでもいくらおじいさんに壕に入って下さい、といっても入りませんので、自分の壕がいいといって夜どおしかかって逃げて来たんです。戻って来てを大きくして入ったんです。壕には大勢ですよ、五、六十人です。
その時は、兵隊さんも民間の壕を盗んでですね、入って来るわけですから。うちの壕の前に友軍の兵隊さんが怪我を受けて倒れていたんですよ。そしたらこの兵隊さんは出なさいといってもきかないですね、その前に電話で、若いものはどうしなさい、年寄りはどうしなさい、と知らせがあったので、若いものは奥に入って、老人は前に並んでいたが、アメリカの兵隊にが囲まれてですね、手を上げたんですけれど手榴弾を投げられて、老人は揃って亡くなったんです。みんなで十三名でした。中には大勢人がおりましたから怪我を受けた人もおって、そのまま捕虜取られたんですよ。それは六月十六日でそこから伊良波へつれられて行きました。
島袋勝子 (十八歳)
昭和十七年頃から女子青年も動員でですね。小隊長で石山にハッパかけに行きおったんですが、何日間といって、そこに泊り込んで作業するんですよ。小禄飛行場をつくりにですね、十七年、十八年ですね。
それで食糧といっては何もないですね、繊維のあるひどい芋でつくったウムニー(芋をつきくだいたもの)、それを食べさせるんです。それに味噌がないので、潮水でお汁をつくってそれを飲ますのです。それでみんな我慢ができないので、家へ逃げ帰って脂味噌をつくって持って行って、それを食べおったんですけれどね。それで一週間くらい休んで交代で帰ってまた十日くらい行って、つぎは何小隊といって行ったんですけれどね。女子青年です。その間にまた竹槍訓練とかそれから敵が上陸したら敵を越えさせないといって石垣をつくるんですけれどね。
そうしてそのうちに十九年の何月頃だったかしらん、武部隊が入り込んで来ました。武部隊の栗野隊といっていましたがね、その頃は。そうして最初は事務所とか部落の産業とか、それから陣地構築ですね、その時は。そうして順番が廻って来たら、三日に一ぺんくらいの割合で、兵隊さんといっしょに飯炊きに出て、飯を兵隊さんのいる場所まで運んで行くわけです。
部落には若い男といってはほとんどいません、すべてが召集されておるのですから。それで女が「日の丸作業」といって何でもやるようになっていました。
また訓練ですね、組をつくって何の訓練でもやることになって、すべてが女ということになりました。竹槍訓練なんか今から考えるとおかしいんですけれどね。司令官ですか、向こうから来るんですよね、それで小学校の運動場で「カシラー右」ですか、そんなふうにやって、竹槍を持ってですね、先は鋭くけずったものですが「敵が落下傘から下りて来たら突くのはこうしてエイッ、ヤアッと掛け声をかけて突きなさい」といっていました。勇ましいような格好ではありますが、今から考えるとこっけいな感じがします。
疎開から帰還
註、島袋さんは、宮崎県に疎開して、昭和二十一年十一月に帰郷しているので、これからの談話は、帰郷後の話である。
疎開から帰って来ましたら豆の配給とか、ポテトの配給とかありましたが、夫婦二人では、どうしても食糧が足りません。それで余所のかたからわけて貰って何とかしのいでいましたが、引揚げの時持って来たお金はB円と交換前の日本金の二千円で、もうほとんど遣って無くなっているわけですよね。それでまだ子供ができなかったから、まあそんなこんなして開墾しながらやっていたわけですけれど、それでもいかないから役所に勤めたらということになって、役所に入ったわけです。
この役所というのが国吉に、艦砲で飛ばされなかった人家があったわけですがね、そこに役所があったんです。そこに勤めたら、初の月給がB円の二百五十円でした。煙草のラッキーが一ボール(紙巻煙草二十本入り十個)そのくらいでしたから、ちょうど一ボールで一か月使われているわけですね、一か月に吸う煙草は、この一ボールでは足りないわけです。それで鋏で切ってキセルで吸ったり、また巻き直して小さくして吸ったりしていました。
これは聞いた話ですけれど、アメリカ兵に壕の中にいるのを撃たれて、他は死んでしまって二人は残ったのがいますけれども、この人たちはの入口にいたので助かって、奥にいるのは全部銃でやられていたそうです。それでこの人たちの話を聞いて見たら、このアメリカ兵が事務所(役所)の方から上って来たところは全部やられたわけですね、壕を全部あさって。
註 部落の前面で日本兵、避難民の男子を一列横隊に並べて、大量殺戮をアメリカがわが行なったということを、聞いた人がいる、ということを語っていられるが見た人から聞いたのでない。この真否は国吉部落の座談会でもはっきり摑まれなかった。国吉部落では、出て来い、出て来いというのでから出て、怒って石をさがして、それをアメリカ兵に投げつけたので、石だからアメリカ兵は当っても何でもなかったが、反対にやられて死んだ人の家族も現にいます。
それから疎開して行って、命を助かりに行ってる気持とね、果して帰って来たら自分の同級生とか、残っている人たちが怨みはしないかという気持ちと、すまないというような気持ちを持っていましたが、帰って見たら部落の人びとが、よかったね、と喜んでくれて、向こうで考えていたのとは反対でした。
疎開した人はみんな自分たちは命を助かりに行って、残された人たちは、どんなに自分たちを怨むだろうとそう思ったんです。
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