沖縄戦証言 北谷町砂辺

 

コンコーダンスのために便宜的にテキスト化しています。いくつか文字化けなどがありますので、必ず沖縄県史で正確な文章を閲覧してください。

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

北谷町砂辺篇 

砂辺の収容所

与儀○○ (三十九歳) 家事

艦砲がはじまった頃、疎開命令が出て、私はお米を頭にのせて、子供をおんぶして、山原 (国頭ともいう、沖縄本島北部の総称) に向かって逃げました。ところが途中、読谷で四、五日してから、急に四男(七歳)がどこへ行ったのか見失ってしまったんですよ。よその人の後について逃げて行ったらしく、その子は何か月も私の手許からいなくなったんですけれど、そのとき私は、家に帰ったのかもしれないと思って、五男(四歳)をおんぶしたままで、みんなと別れてまた家に帰ってみました。家にはおじいさん一人が残っていました。おじいさん、セイキチはこなかったですか、どこにもいないが、こなかったよ、と言っていました。それじゃ、さ、もう大変だから、一緒に行きましよう、とおじいさんを誘ったんですけれど、わしはこれだけの家畜を捨ててはいけないから、家に残る、って頑張っていました。ですけれど、後で、おじいさんは山原に逃げて行ったそうです。

読谷から子供を探して帰ってくるときには、もう敵は上陸しているよ、比謝橋あたりに、敵がいるよ、と通る人に教えられ、実際に米軍がいるらしく歩けなくなっていましたから、私は速道して屋良を廻って帰ってきたんですよ。それから、家に寄って、一人で逃げるつもりでしたけれど、弾が激しくてどこへも行けないもんだから、砂辺のクシムイの墓に隠れていました。その近くでは、まだ友軍とアメリカーが激しく撃ち合っていました。私の家の裏の家に、泊っていた兵隊さんたち四人と出会いました。覗いて、小母さんこんなところにいるんですか、学校に行く道はどこですか、と訊かれて、私は、学校はあっちからですよ、と教えてやりました。

私たちは墓の中に四人いました。ここにいると危ないということになったんですけれど、その人たちは私が子持ちだもんだから、一緒に歩きたがらなくてですね。その人たちは、日が暮れないうちに行ってしまって、私は一人になって残っていました。私はいったん子供(五男)をおろして、乳を飲ましながら、泣くなよ、泣いたら大変よ、弾がとんでくるよ、と言いきかしてですね。ところが非常に艦砲射撃が激しくなったので、仕方なく、這って逃げました。

そして、むこうにいるのは、友軍の兵隊さんかなあ、道をなおしているのかなあと思って、行ってみたら、アメリカーになっていたんですよ。私は驚いて、キビ畑の中に入って、それから遠廻りして川づたいに、オクマガイという所に行きました。クンノウグスク(国直城)のオクマガイの松林の中に入ってみたら、友軍の兵隊さんたちが何十人も死んでいましたよ。それでも私は、その中を歩いていたら、村のおばあさんが、これから先はどんなにしても通れませんよ、一緒に戻りましよう、とおっしやるもんだから、私は諦めて、また川づたいに歩いて、シンナーグッヤールイの叔母さんの墓を探して、その中に入ったんです。中から砂辺のカマーなのね、どうしてここにきたの、敵は上陸しているよ、とおっしやるから、私は、だからあっちの方まで逃げて行ったけれど、セイキチがいなくなったから探しながらここに来たんですよ、そうなの、じやあこっちに入っていなさい、ということになったんです。

そこには、フィリピンから以前帰ってきた少し頭のおかしい青年がいたんです。その青年が、ぼくがキビもイモも取ってきてあげるからと大声を出してですね、取っても来きれないくせに。私は不安になってですね。あんたはそんな恰好をしていたら、今に兵隊にとられるから、用心して、ボロの着物を着た方がいいよ、と私はおどして着物を着せてやりましたよ。その墓の中には、肋膜にかかって死んでいる娘の死体もそのままになっていました。


砂辺の収容所

そうしているうちに、三日経ったら、昼にアメリカーがきました。墓の入口は、昼二枚と松の丸太で押しつけて塞いであったんですけれど、すぐにそれらはどけられてしまって、二世がデテコイデテコイと言って、アメリカーは墓に懐中電灯を向けていました。そして、墓の主のおじいさんが一番に引きずり出されたもんですから、じっとしていると弾を撃ち込まれると思い、私たちも恐る恐る出たんです。出てから、叔母さんは、どこにも行くなよ、死ぬときは一緒だから、と言って帯で私とつないでですね。隣の墓には、男の人たちが入っていました。その男の人たちが鎌や鍬など持って、アメリカーを殺すといって騒いだんですよ。アメリカーは墓をとりまいて、墓の中に爆弾を投げ込んでいました。バンと、爆発する音がして、墓の中に入っていた三十名余りの人たちは、みんな焼け死んで、ただ一人七歳になる男の子だけが助かっていました。

私たちは、すぐアメリカーに引張られて、海岸まで行きました。そこでは○○○○〇(黒人)が私たちをひとりずっ抱きあげて、海のに上トラックに乗せました。そこは(現在の)嘉手納村の野国の海岸でした。私たちは海に捨てられるかもしれないと思って、みんな手を握り合ってですね。そうしたら、着いたところは、砂辺になっているんですよ。砂辺の捕虜収容所だったんです。海岸の原っぱで、私たちが最初で、誰もいませんでしたよ。自分の部落だったので、少しは安心もしましたけれど、まわりは簡単に金網が張りめぐらされてありましたよ。私たちは十一名ばかりでした。それから四日間は、放ったらかされて、何も食べませんでした。ときどき、アメリカーが鉄砲を持って現われるので、こわくてですね。それに、何もあたえられないので、ただもうひもじい思いをしてですね。昼は、カンカン照りだったり、雨が降ったり、夜は夜露にうたれて、ただ砂地の上に放ったらかしでした。

私の子供は熱を出してですね。どうしようもないので、ただ心配しているときに、二世がきて、中城村出身と言っていましたけれど、どうしたんですか小母さん、と心配してくれてですね。今から思えばアスピリンだったんですね、薬と水を持ってきてくれました。子供にはこれを飲ましなさいよ、と言ってまた、シーツを被せてくれたりしてですね。その二世がですね、今のところどこが負けるのか、まだ判りやしませんよ、私の兄弟も沖縄にいるし、自分は兄弟を殺しに沖縄にやってきているんですよ、と話していました。私は、その薬は毒じやないかと思って、また周りの人たちも毒だろうといっていましたので、私は自分で少し飲んでみてから、どうもないことが判って、それから子供にも飲ましたんです。それで、熱も下がっていました。

それから四、五日したら、助役さんたちも捕虜になってきて、そこは急に人がふえはじめてですね。自然に共同生活になって、炊事班を作ってですね。みんな部落の焼け残りの家から鍋やお米など取ってきたりしてですね。何もかも配給制にして、みんなにおにぎりの配給がありました。


島袋の収容所

それから一週間ぐらいしてから、命令が出て、アメリカーに引張られて、みんな歩いてですよ、(現在の)北中城村の島袋まで行ったんです。おにぎり一つずっ持たされて、歩きながら食べなさいということだったんでしようね。私は焼け残った自分の家から蒲団を持ってきてありましたから、その蒲団は二十名ぐらいで使っていたんですけれど、それを頭にのせて荷物も持って、子供をおんぶして、ぶらぶら歩いて行ったんです。

島袋では、とても苦労しました。島袋の部落は無傷で残っていましたけれど、沢山の避難民が集められたので、食糧不足だったんです。それから、アメリカーが乱暴するので、こわくてですね。年寄りでも男の人がいるところは、いくらかよかったんでしようが、私は親子二人だけですから......。長男(十九歳)は兵隊にとられていましたし、あとの次男、三男、四男はばらばらになって逃げていなくなっているし、私はおんぶしていた五男(四歳)と二人きりでしたから。

私は子供をおんぶして毎日イモ掘りに出かけました。一軒の家に何十人も詰込まれて、窮屈でしたけれど、外出は割合に自由でした。ただ若い娘は、道を歩いていても、アメリカーから無理矢理に引張られてつれて行かれていました。ほんとうにこわかったんですよ。一緒にイモ掘り作業に行っても、若く見える女は、すぐ引っぱられていました。助けてーしても、男の人も誰も助けることができませんでした。もし男の人が助けようとすると、アメリカーは銃を持っていて、撃つんですから、どうにもなりませんでした。ほんとに撃ち殺すんですよ。

捕虜になった中から、CPといって巡査になっている人たちがいましたけれど、その人たちもなんの役にも立たずアメリカーのいうようになって、何もいうことができませんでした。巡査は、クロ〇○○服をつけて、CPと書かれた腕章をしていたんですが、まだ警棒も何も持っていませんでした。


頻繁におこる強姦事件

泡瀬 (美里村) の人で、前に料亭をしていたそうですけれど、その人の家族は二階家に棲んでいました。そのお父さんは、若い娘を三、四人っれていました。実の娘だったかどうかよく判りません。もとの料亭の女の人たちだったかもしれませんね。お父さんは、言葉はよく通じないのに、アメリカーになんでもオーケイオーケイして、アメリカーから煙草やら石線やら毛布やら貰っていました。

ある日また、私の子供が熱を出して、一区のアメリカ病院に私が子供をつれて行ったときでしたけれど、二階家にさしかかったらちようど四、五人のアメリカーが煙草を一箱持ってきて、そのお父さんに渡していました。そのあとで、アメリカーたちは、みんなの見ている前で、そのお父さんの娘を、家の中でつぎつぎとおこなった (強姦した) んです。みんな騒いだんですけれど、アッサヨー (感嘆詞) こわくて、私はよくは見いきれませんでしたけれど、鉄砲を向けて、替わるがわるおこなっているようでした。それからまた、それだけではすまさないで次には、山羊小屋でも、おこなっていました。山羊小屋に引きずり込まれたのは、二十四、五の肥えた女のようでした。

あっちこっちでそれに似たような事件はたびたびあって、若い娘が外に出ると、すぐつれて行かれました。つれて行かれた後、どうなったか、ほとんど判りません。どうなったことか。帰ってこない娘もいます。その頃はもう、桃がなっていましたけれど、桃を取るために木に登っていると、アメリカーは下でおりてくるのを待っているくらいでした。だから娘たちは、屋根裏に隠れていました。あとからは年寄りだけが出歩くようになっていました。私はいつも子供をおんぶして、狙われないよう気をつけていました。一か月二か月と経っと、言葉の少し通じる沖縄の中年男が、アメリカーから物資やら金を貰って、墓の中などで、女の人たちを説得させてアメリカーに替わるがわるやらせて、儲っているようでした。

それでも、夜など寝ているところへ、女はいないかと、尋ねてきていました。また、シード (北谷村の字勢頭) の人の二十歳になる娘が、昼間、もとの壕に親と一緒に荷物を取りに行った帰り、親の見ている前で、○○ンボー (黒人) に引張られて行ったそうです。その娘はそれっきり帰ってきませんので、多分死んだんだろうとみんな噂していました。

島袋には三か月以上古いて、毎日食糧探しをして、共同生活をしていました。食べることはなんとかできたのに、アメリカーのやることはどうにもできませんでした。いちどは、解察の前に、強姦されて死んでいる若い娘が臥かされているのを、私は見ました。その傍には、母親らしい人が泣きくずれていました。私が見たのはほんの一例にすぎません。強姦事件は数えきれないほどあったんです。白人よりも黒人の方が多かったようです。

 

男の人たちや、男のいる家族は、島袋から福山 (旧金武村、現在宜野座村)に行って、自分たちで家を作ったそうですけれど、私たちのような男手のない家族や女の人たちは、宜野座(旧金武村)にトラックで移されました。そこの捕虜収容所は、テント小屋でした。

 

宜野座では、島袋よりももっと食糧難でした。一か月も経たぬうちにみんな飢え死にしそうになっていました。そこの土地の人たちは、避難民だといって軽蔑して、同じ沖縄人同士なのに、どんなに冷たい仕打ちをしたことか。イモの薬っぱですね、カンダバー一っもくれようとしませんでしたよ。私は島袋から味噌やお米を少し持ってきていましたから、最初のうちはそれで凌げたんです。あとからは食べるものがなくて、大変でした。カンダバー(サツマイモの薬やお米や豆類が、ほんの少しずつ配給があったんですけれど、それだけではとても足りなくて、いつもひもじい思いをしていました。おばあさんたちや子供たちから、栄養失調でつぎつぎと死んで行きました。それでも土地の人たちは、カンダバーが畑に沢山あるのに、私たちにはゆずってくれませんでしたよ。

 

軽蔑的な言葉で、「オーベー(金蝉) 避難民カイ、カンダバー、食ッセー」と、カンダバーをやるときでも家畜同様に使われていました。那覇の人でしたが、夜、カンダバーを取りに行ってですね、腕が垂れ下がるほど棒で腕を叩き折られて帰ってきていました。血だらけになって、重傷でした。怪我をさせた土地の小父さんは、私たちがアメリカーと一緒になっていることを怒っていたのかもしれません。戦争はまだ南部でつづいている頃ですから。でも、それだけが理由ではなくて、そこは寒村なので、自分たちの食糧がへるのを恐れていたのでしよう。「ギノザ (宜野座) ノサク、ンジャリムン、ノー、ウランタンド」

 

ほとんどが悪人のようになっていましたけれど、宜野座にもいい人はいました。その人はハワイ帰りでしたよ。そこの家の奥さんは元学校の先生で、校長先生の嫁になっていました。私はそこの家に三か月使って貰って、助かりました。そこの家の人が、私たちに使われないか小母さんといわれ、私は有難く思い、いくらでもいいですからお願いします、ということになって、使われて、どうやら食檻にもありついたのでした。その家の長男も嫁も配給所に通っていましたから、食糧を持ってきて少しずつくれたりしていました。

 

そうしているうちに、私は自分の子供たち(次男三男四男)が、古知屋にいるということを聞いて、逢いに行きましたよ。子供たちはおじさんと一緒に、民間の家で暮らしていました。おじいさんは最初は一人で残っていたんですけれど、後で馬をつれて山原に向かっているうちに山の中で馬を盗まれてしまい、諦めて、それから孫たちを探して歩いて、一緒になったそうです。子供たちはとても痩せていました。やっと親子みんな一緒になれたので、私も元気を出して、宜野座からあっちこっち遠くまで行って、食概の商いをして暮らすようになりました。

 

※ ブログ註

米軍による占領下でおびただしい性暴力事件があったことが証言に記録されている。それらの強姦事件は白人兵と同時に、またアフリカ系アメリカ人の兵士によってひきおこされていたという報告も多くみられる。例・勝山事件など

当時の米軍ではアフリカ系アメリカの兵士は人種差別により厳しく人種隔離された部隊 (segregated unit)編入されていた。比較的早くから黒人兵を受け入れた陸軍では、故意に人種差別の根強く残る南部の白人将校を黒人部隊の指揮官として頻繁に割り当てていたといわれる。また海兵隊は1942年6月に黒人の海兵隊員を派遣するようになる (Montford Point Marines) が、海兵隊では1945年11月まで黒人が将校になることは許されなかった。

また第二次世界大戦の最終局面であった沖縄戦では、これまでのどの戦闘よりも多くの黒人部隊が投入された。しかしそれでも沖縄の海兵隊の黒人部隊の数は 2,000人程度と言われている。第10軍の報告では沖縄戦全体でのアフリカ系アメリカ人部隊は最大で8,024人と報告されている。

沖縄戦の期間中最大で 8,024 人の黒人兵が派遣され、このうち 3個高射砲大隊を除き、黒人兵全員が戦闘以外の任務についていると報告している。沖縄戦の 全期間を通し、18万人から20万人の米兵が駐留したが、黒人兵の割合は全体の5パーセント程度と見てよいだろう。

保坂廣志沖縄戦下の日米インテリジェンス』p. 184》

戦後の沖縄戦経験者の多くの証言には、白人系とともに、アフリカ系アメリカ人兵士によるレイプ事件がおびただしく記されている。アメリカ社会と米軍内の強烈なレイシズムは、駐留地沖縄でのレイシズムとセクシズムをより一層増幅させ、そのうえで、白人、アフリカ系アメリカ人、アジア系の沖縄人、という米軍の占領地でその暴力的階層のもとに落とし込まれた沖縄人女性は日常的に暴力の標的とされ、米軍は軍内のレイシズムを放置すると同時に、駐留地に向けられる日常的な性暴力から沖縄人女性を守ることを怠った。

 

頻繁にあった強姦事件 - SMP の証言

註、区長照屋稔氏補足

当時の強姦事件は、コザ(旧越来村)一帯から喜友名(旧宜野湾村)にかけて、そうとうあったのではないでしようか。私はSMPをやりましたから、およそ判っています。昭和二十一年(一九四六)二月に、戦争が終って七か月後です。その頃も食糧難で、軍物資の配給ではとても足りなかったので、毎日のように大山(同村)の近くの喜友名にイモ掘り作業に(大多数の女たちと少数の男たちがですね)行くとき、私たちSMPは監視について行ったんですよ。そんなとき、アーシャ(感嘆詞)、アメリカーはですね、GMCで三四名がいきなり乗りこんできて、若い女をその場ですぐ引張って行くんですから。それを私たちは防ぐ役目です。

 

作業しているのは、たいてい女が何十名に男が四、五名、男といってもお年寄連中です。私たちが行く一寸前までは、毎日すぐ眼の前でどんどん強姦されて、もう大変だから、なんとかしてくれという住民の強い要望がありましたからですね、私たちももう大変だからなんとか防がせて貰いたいと、いうふうなことを憲兵隊の本部に私たちが話してですね、それから監視に行くようになっていたんです。

 

CPは警棒しか持てないので役に立たないんですよ。だから私たちは、地理に詳しいものから四名一組編成でですね、キャービン銃と拳銃を持ってですよ。キャービン銃のために、弾がなくなったら殺されるからというわけで、興行を四個づつ持ってですね、三日交替で毎日監視しに行ったんですよ。私たちが行ってからも、何回も女を引張りにくるアメリカーとぶっつかりましたよ。私たちは威嚇して、銃を撃っんですよ。イモ掘り作業も危険ですが、こっちも命懸けです。威嚇した場合は、アメリカーも撃ってくるんですよ。すぐ撃ってくる、仕方がないからこっちは隠れてまた威嚇してですね、あれらが逃げるのを待つんです。が、ときには逃げない奴らがいるんですよ。そういうときは、あまり螺ち合ったら危険だから、私たちは一応逃げて、MPを呼んでくるんですよ。それのくり返しでした。そうしたことは、ずっと遅くまでつづいていましたからね。

 

あとで、喜友名の農業班の人たちは、私たちに、あなたたちのお蔭でイモ掘りもできたんだからと、カボチャとかヘチマとか野菜類を食べて下さいと持ってきていました。私たちは憲兵隊所属で、食概も沢山あって不自由していませんでしたから、いりませんと返しましたけどね。また、私たちは、夜になると、やはりキャービン銃と拳銃を持って、MPとジープに乗ってですね、中城、西原、(現在の)コザ、読谷、牧港(旧浦添村)まで廻っていましたよ。そしてたびたび収容所や住民の家の近くで、強姦しにくるアメリカーを見つけて、よく撃ち合ったり追い出したりしたんですよ。

 

クマヤーガマをでて

クマヤーガマ - 砂辺の避難壕

砂辺の人々の避難壕

クマヤーガマは砂辺部落の人々の命の守り神である。米軍 この10・10空襲(1944年10月10日)やそれ以降の米軍の すさまじい艦砲射撃、空からの機銃掃射などの際、砂辺部落 の人々はいち早く同ガマに避難し、砲撃から身を守った。

砂辺の人々は米軍上陸の数日前に全員が同じガマを出て、 山原などに避難したため、ガマの中で戦死者は一人もでてい ない。 同ガマには空気の流通をよくするために空気孔をあけた跡 がいくつかある。また、洞穴内には3つの広場がありそれぞ れ炊事場、寝床などに利用されていた。しかし、洞穴内には 数百名の人が避難していたため、換気も悪く、そのうえ湿度 も高く、衰弱していく者も多かったという。

また、同ガマでは先史時代の遺骨も多数出土しており、長 い歴史の中で重要な役割を果たしてきたことが分かる。

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北谷町の戦跡・記念碑

 

喜屋武○○(三十九歳)家事

私たちはクマヤーのガマ(洞窟)という自然壕に、みんなと一緒に入っていました。もう艦砲がはじまっていました。それで危険になってきて、そこでどうしようかと、村中の人たちが相談して、その夜九時頃にみんな村から出て避難するようにと決まったんです。

 

私たちは嘉手納の汽車の道、その道をたどって北に向かい、それからずっと山原に向かって歩いて、名護に行きました。

 

砂辺を発つときに、夕方、アメリカの船が燃えているのを見ました。誰かが日本の水上特攻隊がやったのだろうと話していました。その一時間前に、北谷のハンビ飛行場(現在)の手前のジャーガルにまがる橋のところで、兵隊さんがバンザイ、バンザイして、特攻隊が出て行くのを見送っているのを、私たちは見ていたんです。その日は、朝からの艦砲がやんで後、出屋武さん(この男の方は後で亡くなられたそうですが......)という村の指導者が壊にきて、みんな出て見なさい、日本の連合艦隊が沢山きているよ、いくさは勝っているんだよ、と言ってですね、私たちは壊から出て海を眺めたんです。

 

そうしたら間もなく、とつぜん軍艦から攻があったんですよ。私たちはあわててすぐ壊に戻って、もうぜんぜん壊から出られなかったんです。それから夕方になって艦砲がやんで、特攻隊が出て行って、あとでみんな避難のために出発ということになったとき、敵の軍艦が燃えているのを見ました。

 

砂辺を発ってから、恩納で夜が明けたんですけれど、私たちはアダンの下に隠れて、少し眠りました。私は長女(十二歳)と次女(五歳)と三女(二歳)をつれていました。長男(十五歳)は農兵隊に出ていました。それから私たちは、恩納から歩いて、名護に出て、さらに北に向かって歩いて、羽地(村)の川上から仲尾次に行って、そこの避難小屋にいたんです。

 

野岳の負傷兵

そこにも艦砲がとんできたので、そこから山の中に入って、多野岳のあっちこっちに逃げ隠れていました。もう食楓は何も持っていませんでした。多野岳には、日本の海軍がいたんです。海軍の小屋から少し離れた山の下の岩穴に、沢山の米俵が積まれていました。それは友軍の米でした。朝の七時頃から番兵が立っていました。だから私たちは、ちようど朝の七時頃までに、山の急坂をおりて行って、その米を少しずつ盗んできたんですよ。

 

それから多野岳にも弾がとんできたので、私たちは逃げて、山を越えて東側の、久志村(現在名護市)の三原というところに行きました。三原というところは何もないところで、川端に、自分たちで茅を集めて小屋をつくって、食糧は山のあっちこっちの畑からイモを掘って食べていました。天仁屋(同村)までも行きました。

 

野岳から三原にくるときは、砂辺の部落の人たちも何人か一緒でした。みんな友軍の米を取ってきて持っていましたから、三原では、その米を節約して食べていました。ところが、山の中から出てきた敗残兵のような日本兵が、米を持っている避難民からつぎつぎと取り返して、また山の中に行ってしまいました。

 

私は多野岳から三原にくるとき、子供たちをつれていることだし、米は持てそうもなかったので、山の中の役に隠してあったんですよ。それをあとで取りに行ったんです。部落の娘さんをつれて多野岳にまた行ってみたんです。そしたら、三原の山の中でも防衛隊や日本兵の二、三人の死体を見ましたけれど、海軍の野戦病院の小屋まできたら、小屋の席の下に、何人も死体がころがっていましたよ。生きている兵隊が三人いました。一人の兵隊は、両手がなくなっていて、空罐のころがっている前に坐っていたんです。もう動けないようでした。その人が、おばさん、と叫んだもんだから、私は驚いて、はいと返辞したら、水を汲んで飲ましてくれないか、と言うんです。そしたら、足を怪我している兵隊と、どこか怪我してやはり動けないで寝転っている兵隊とが、自分たちにも水を飲ましてくれ、と頼むんです。三人眼だけパチパチして虫の息で生き残っていたんです。弾はときどきとんでくるし、私はどうしたものかと迷いましたよ。水を汲んでやらないと、その前で弾があたりやしないかしら、また水を汲んでいるうちに弾にあたりやしないかしら、と私は心配しながらも、岩の間からぽたりぽたり落ちる水を空缶にためて、それを三人の兵隊に口まで持って行って飲ましてやったんです。

 

三人から感謝されましたけれど、寝転って起ききれない若い兵隊は、ありがとう小母さんとくり返し言っていました。その言葉遣いから、私は沖縄出身と判って、にいさんは沖縄人でしよう、はい沖縄人ですよ、それじやどこなの、泡瀬のカンジェクグワ、金細工小)というところのものです、そう、それじやゆっくりゆっくりでも道って歩けたら、一緒につれて行くけど、と私は言ったんです。どうも動けませんよ小母さん、ねえだから小母さん、もし泡瀬の人に逢ったら、泡瀬のカンジェクぐわの息子が多野岳で倒れているから、っれに来れるんだったらつれに来てくれって伝えてくれませんか、というもんだから、私は、じやそうするよ、と言って別れたんです。

 

それから三原の山の中で、偶然にも泡瀬の男の人に逢ったんですよ。それで私は、さっきの怪我した兵隊のことを話したんですよ。そしたら、ああそれは親兄弟以上にはどうにもなりませんね小母さん、と言っていました。それじやカンジェクぐわの親兄弟にもしったら、そう言い伝えて下さいね、と言ってその人とも別れたんです。

 

それから、米を持って三原へ帰るとき、道をまちがえて、馬の死んでいる所に出たんですよ。そこから引返して歩いているとき、部落のウマニーぐわ(屋号)のおじいと出会いました。おじいは荷物を背負っていました。ゆっくりゆっくりおりて来るところでしたけれど、急に荷物と一緒にどんどん転って行ったんですよ。それでも私は助けることができないもんだから、そのまま三原に行ったんです。三原の山の中で、またも日本兵の死体と出会いました。そして三原に行ったら、山の中で転ったおじいは大した怪我もせずに帰ってきましたけれど、そのおじいは間もなく栄養失調で亡くなられました。また、あとで誰かが多野岳に米を取りに行ったら、もう米もなくなっていて、海軍の小屋も焼き払われていたそうです。

 

三原ではお年寄がほとんど栄養失調でつぎっぎと亡くなってしまいました。三原にはもう食糧になるものが何もなくなって、みんな一緒に私たちは大川(旧久志村)に移りました。

 

大川では、名護の方まで山からおりて行って、イモ掘りに出かけました。甘藷はいくらでも取れたので、食糧には当分困らずにいたんです。ところが、あとからは、捕虜をつかまえにアメリカーが廻っていましたから、私たちはもう名護の方にも行けなくなりました。そしてとうとう、大川にもカチミヤー(捕虜をつかまえる人)がきていました。

 

その頃、名護には、アメリカーが多かったもんですから、私は子供たちをやらして、アメリカーから煙草ぐわを貰ってくらしたんです。その煙草ぐわを持って、私は安部、嘉陽、天仁屋まで行って、イモや食糧と替えてきたりしていました。MPが通らないうちに、明け方に行って、ときにはヒージャー(山羊)の肉とも取り替えてきました。天仁屋の学校には、那覇の人たちがいました。那覇の人たちは、反物も持っていましたけれど、食糧難で飢えているのですから、私は食糧としか交換しませんでした。

 

捕虜になるときは、男の人たちはみんな大川の山の中に逃げてしまって、女子供だけが残っていました。私は小さい子供はおんぶして大きい子供たちは手をつないで、捕虜にはなるまいと思って、逃げるつもりでした。そしてカチミヤーがきたときには、小屋の裏からそのへんをおろおろ逃げ廻っていましたけれど、アメリカーに追い廻され、囲まれてしまって、とうとうつかまってしまったんですよ。

 

それから捕虜はぞろぞろ歩いて、古知屋・潟原(旧金武村)の方へっれて行かれました。歩いているとき、アメリカーもついていました。私はバーキ(ざる)に米五合ばかりと、ウサ叔母さんから預っていた油鍋を入れて、頭にのせて歩いていたんです。そのバーキの中の鍋を、どういうわけかアメリカーは取って道に捨てるんですよ。鍋は預りもんだから、なくしたら大変だと思い、アッサミヨー(感嘆詞、私は拾って、またバーキの中に入れたんです。すると、また取って捨てるので、また私が拾いに行こうとすると、アメリカーは捨ててはみたものの、自分で拾ってくれて、仕方なさそうに私のバーキの中に入れてくれました。

 

古知屋には、日本兵が山から出てきて、避難民から食塩を貰いに来て、まる一日イモ掘り作業に出てから、また山の中へ逃げて行きました。髪もぼうぼうして武器も持たず、見るからに気の毒な姿でした。

 

私たちは戦争が終って後もずっと古知屋で開墾作業をしながら暮らしていました。

 

漢那の捕虜収容所

国場○○(二十歳)農業

私の主人は、兵役で南方に行っていましたので、私は二歳になる長女をかかえて、一人で農業をしていました。

 

三月二十三日でしたか、クマヤーのガマにいるとき、艦砲が鳴り止んだあと、村の喜屋武さんが、みんな出てきてみなさい、本の連合艦隊がきているよ、と言う声が聞こえたので、出て見たら、ずっと那覇の方の海から慶良間諸島近くまで、真黒く、軍艦や輸送船がつないでいました。そしてみんな喜んでですね。そしたら、間もなく、むこうから弾がとんできてですね。は、これはもう大変だ、日本軍じゃない、アメリカだと判って、またみんな壊に戻ったんです。それからはもう艦砲が激しくなってですね。飛行機の爆音も聞こえて、爆風がどんどん壊の中にも入ってくるんですよ。それでみんな生きたここちもしないで、おびえて、日本軍も私たちの城に入ってきてですね、国頭(沖縄本島北部の総称)の方へ避難するようにと言っていました。区長さんも、羽地の仲尾次に避難するようにと言われたんです。その壕は、クマヤーと呼ばれていて、部落民全部が入れるような大きな自然壕です。そこに沢山の人たちと一緒に私たちも入っていたんですけど、その晩、そこから出ました。

 

クマヤーから出たものは五、六百名でしたけれど、那覇の方からも避難民が歩いてきていましたから、砂辺の前の県道は、ぞろぞろ人が行列しているようでした。私たちは、晩の八時頃、壕から出ました。そのとき私は敵の軍艦が燃えているのを見ました。

 

私は子供をおんぶして、荷物も持って、頭にも荷物をのせて、歩いて行ったんです。夜が明ける頃には、恩納についていました。昼間は敵の攻撃が激しかったので、私たちは海岸端のアダンの茂みの中に隠れていました。夜になってから、みんなぞろぞろと歩きはじめました。翌日は安富祖(恩納村)につきましたけど、そこの部落はほとんど焼かれていました。その日は、私たちは生芋を食べてすごしました。日が暮れてからまた歩きはじめて、翌日の夜九時頃、仲尾次についていました。その夜は、日本軍の掘った壕に一泊して、翌日山の中の避難小屋に移ったんです。

 

それから一週間ぐらいしたら、米軍がきたんです。米軍は、そこら一たいを焼き払っていました。私たちは山を越えて三原に逃げました。私たちは、七十歳になるおじいさんも一緒でしたから、多野岳を越えて、山の中で一泊してから、人志村(現在名護市)の三原におりたんです。

 

山の中で、二人の日本兵の死体に出会いました。また、三原から汀間(同村)にイモ買いに出掛けたとき、竹槍を持った防衛隊の死体も見ました。汀間の部落民は、イモを売ってくれないんですよね。私たちは五名でしたけれど、どこの家に行っても売らないもんだから、空家の小屋にイモが沢山積まれてあるのを見つけて、どうせ売らないから取って行こうじやないかと決めて、みんなで南京袋にイモを詰めていたんです。もし主が来たら、お金を払おうね、と話しながら、イモを取っているとき、ちようどその部落の区長らしい人が回ってきたんです。あんたたちはイモを盗んでいるのか、と言われてですね。いいえ、お金を払うつもりですから、売って下さい、とお願いしたら、それは売るもんじゃないから、こぼしなさい、その代り、山の方には沢山米があるから、米を買って行きなさい、と言われたんです。私たちは喜んでその人について行ったんです。そしたら、山の方には部落の人たちが集っていて、米を売るどころか、みんなガヤガヤ私たちを罵って、泥棒あつかいして、私たちは非常に軽蔑されたんです。米があるというのは嘘だったんですよ。みんなから顔をじろじろ見られてから追い返されたんですけど、私たちは帰っても食べるものが何もありませんでしたので、思い切って、さっきの空家の中に積まれてあるイモをそれこそ盗んで持って帰りました。

 

それから幾日かして、三原には何も食べるものがありませんでしたから、私たちは自分のシマ(自分の出身地のことを方言でシマまたは村という)に帰った方がいいと思って、その方向へ歩きはじめたんです。そうしたら、大浦(旧久志村)にきて、そこには米軍がちゃんとテントを張っているんですよ。私はあのとき二十歳でしたから、若い女はさらわれるという話を開いていましたから、急いで薬罐や鍋の底についている黒墨を顔に塗りたくって、着物も裏返しに着てから、そこを歩いたんです。米軍は道端で休んでいましたけど、私たちが歩いて行くと、可笑しく思ったのか、何もしないでみんなかがんでじろじろ下から私を眺めていました。

 

無事に通過して、翌日は大川に一泊してから、朝から歩いて宜野座(現在)のドゥ村(字宜野座のことを同字という)に行ったんです。私たちは九名で、年寄りと女子供だけでした。捕虜になるっもりもなく、ただ歩いて行って、米軍のいる中を通って、いつの間にか捕虜収容所に入っていたわけでした。

 

宜野座では、集団で畑からイモやキビを取ってきて、春らしていました。食べものが少なくなって、金武(金武村字金武、すなわち金武のドウ村)に行きたいと思っていたんですけど、金武までは行けなくて、近くの漢那(旧金武村)に行って、そこで何か月も、長い間いました。

 

漢那からは、どこにも行けなかったんですよ。中川(金武村)めたりに、米軍のキャンプができていて、それから先には通れませんでした。金武や石川(旧美里村)は、食盤事情がとてもいいという噂を聞いていたんですが。漢那では、一人一週間分として米二合しか配給がありませんでした。私たちは、私とおじいさんと子供の分の配給でしたけど、それだけではとても足りないもんですから、私は毎日イモ掘り作業に出掛けていました。

 

惣慶(伯金武村)に五名でイモ掘りに行ったとき、私だけが危険な目に逢ったことがありました。私たちがイモ掘りを畑の中でしているときでした。突然ジープに乗ったアメリカ兵が来たんですよ。そしたら、私の隣にいるおばあさんが、ジープに向かって歩きながら、手を出して、煙草ぐゅうたびみそうり(煙草を恵んで下さい) .... < 後に続く >

 

 

沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》

北谷町砂辺篇