勝山事件について ~ 米軍内のレイシズムとセクシズム

 

沖縄戦 - 多発する米兵の性犯罪と軍政府のネグレクト

女性が訴えても、「無かった」ことにされる米兵の性犯罪

第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊の海兵隊員の証言から

それで、7人の男たちが私に、一緒にその家へ行こうと誘ってきました。「そこへ行って、女性とセックスするんだ」と言いました。彼らがそこへ行って女性を性的に・・私は合意の上だと思っていましたが、「私は行かない。お前たちはクレイジーだ」と断りました。それで彼らは行ってしまいました。1-2時間すると彼らは戻ってきましたが、何だかとても動揺しておびえた様子でした。そしてその中の1人が「髪を切って欲しい」と言ったのです。当時、私は仲間の散髪をしてやったりしていたので、ハサミとクシを見つけて彼の頭を切ってやりました。彼は長髪でしたが、全部切りました、次の男は、髭を剃ってやりました。次の男、次の男と、1時間くらいそんな事をしていると、4-5台のジープと武器輸送車が、憲兵かわいらしい小柄な沖縄の女性を乗せてやって来ました。

そのうち、責任者の男は、将校かなんかだったと思いますが、彼が、私たちを全員並ばせて、女性が列の中から自分を暴行した男を5人ほど指さしました。彼女は、残りの2人は見分けられませんでした。彼女が「こいつだ」と言えば、憲兵たちは彼女を信じたでしょう。私は男たちが何をしたのか考えると、死ぬほど怖ろしくなりました。それから、医師が男たちと女性を診察しましたが、レイプの痕跡はどちらにも認められないという事でした。もちろん、医師は米軍側の味方で、軍隊でレイプの罪に問われると大変なので、避けたかったのでしょう。医師は7人の男たちが罪に問われるのを見たくありませんでした。ですから「証拠は無い」と言いました。

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そうして、憲兵たちは去りました。その後で、中尉と少尉がやって来て、まだ島にいて負傷していない数人の兵士に、「MPが君たちを捕まえにやって来る。師団もやってくる。彼らは医師がレイプの証拠はないなどと言っても聞き入れないだろうから、早くここから出て行ったほうがいい」と言いました。それで、1人の男は外に行き、自分で足を撃ちました、次の日、別の男は同じ事をしようとしましたが、失敗しました。… (中略) … 兵士たちが島から外に出てしまえば(負傷兵として別の場所に送られれば)島の司令部の管轄圏外になります。島にいる限り彼らは罪人で、捕らえられ裁判にかけられる事になりますが、そうはなりませんでした。

フェントン・グラナートさん|証言|NHK 戦争証言アーカイブス

 

"Godforsaken Okinawa" - 占領軍のネグレクト

「神に見放された沖縄」「ガラクタの山」… 占領軍のネグレクトにより、沖縄と沖縄人のおかれた状況はますます悪化する。

米陸軍1988年の報告書より

【訳】(1946年から1949年まで) 米陸軍全体において、将校と兵士の間で「最悪のやつらだけが沖縄の駐屯任務に送られた」という印象が構築された。1940年代後半、手厳しい陸軍将校が指摘したように、琉球列島は「陸軍の兵站線のさいはて」となり、捨てられた第二次世界大戦の軍装備と極東司令部から追いだされた人員の「がらくたの山」になった。別のオブザーバーは、この時期の沖縄をGHQ(SCAP)と日本本土からの亡命地、そして野心的な陸軍軍属にとっての無人地帯」と特徴づけた。実際に、1949年3月のマッカーサー本部による特別報告は、琉球列島に割り当てられた人員は報告によると「日本に割り当てられた人員よりも質が悪い」と述べて、この悪評判を再確認したのである。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 71》

報告される犯罪件数は実際よりも恐ろしく少ない。

【訳】1945年5月初旬、司令官のウォレス将軍は、レイプ事件を阻止するため犯罪者に対しての死刑を喧伝したが無駄な試みであった。… 米兵による重大犯罪の報告はほぼ十年間、司令部を悩ませ続けた。彼らが「沖縄島での恥ずべき混乱」と呼んだ件に関連し、Life 誌は、「1949年9月までの6か月間に、アメリカ軍人が29人の沖縄人を殺害し、18人をレイプしたと報じた。この同じ期間、兵士は16の強盗に33回の暴力で有罪となった」と報告した。汚職の噂や申し立てもまた、司令部の中で広まり始めた。沖縄に駐在する将校や軍属の中には、民間業務の関係者も含めて、さまざまな違法行為に関与した者たちもいた。

《Arnold G. Fisch, Jr., Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950. Center of Military History United States Army, Washington, D.C., 1988. P. 82》

 

三人の海兵隊員の死と戦時中の沖縄の秘された出来事

そんななか、勝山事件が起こる。

2000年6月1日のニューヨーク・タイムスの記事を記録する。

 

時間がないのでざっくりとした試訳を下に記載します。必ず原典を確認してください。

 

三人の海兵隊員の死と戦時中の沖縄の秘された出来事

Calvin Sims, New York Times, June 1, 2000.

 

第二次世界大戦が終わる少し前、アメリカが沖縄戦に勝利した直後、この太陽が降り注ぐ群島に駐留していた3人のアメリ海兵隊員が姿を消した。

 

当初、海兵隊は1945年の夏に、19歳のアフリカ系アメリカ人兵士3人を脱走兵の可能性があると記録していた。1年後、まだ彼らの行方が不明なまま、彼らは作戦行動中の行方不明者であると宣言された。

 

50年間、事件は忘れられていた。それから1998年に、地元(名護市)の警察は、情報提供によって、このリゾートタウンのすぐ北の洞窟で3人の遺骨を発見し、それが海兵隊員のものであることが証明された。長い調査ののち、遺体は今年初め (2000年) に埋葬のために米国の親戚に送られた

 

しかし、この発見は海兵隊の失踪の謎を解決するのにほとんど役立たず、事件を鎮静化するどころか、組織的戦闘が停止したのちもアメリカ人が沖縄人をどのように扱ったかについての地元の根強い憤りを表面化させることとなった。

 

遺骨が発見された場所の近くで育った沖縄の高齢者の幾人かは、今、長く隠された一つの秘密を語ろうとしている。つまり村人たちの一団が3人の海兵隊員を、彼らが毎回繰り返し村の女性たちを強姦しに村にやってきている三人の黒人の海兵隊員だと考え、待ち伏せし殺害したというものである。

 

戦闘後の沖縄人の苦しみの日々について彼らが言っ​​たことの多くは裏付けられているが、これらの3人の海兵隊員がレイプを犯したことは証明されておらず、また村人が実際に兵士を殺したことも確認されてはいない一方、彼らが殺されたという強力な証拠がある。

 

それでも、暗く長く秘された村人の話は、歴史家が戦争の最も広く無視された犯罪のひとつである、アメリカの軍人による沖縄女性に対しての広くおこなわれたレイプの問題に再び注意を向ることとなった。

 

最も多くの犠牲を伴った戦争のひとつである沖縄戦で、沖縄人がアメリカ人と日本人の両方の手にかかった残虐行為については、多くのことが書かれ、議論されてきた。そこでは沖縄の人口の3分の1を含む20万人以上の兵士と民間人が殺された。

 

その後、レイプについてはほとんど言及されてはこなかった。しかし、ある学者の推定によれば、1万人もの沖縄の女性がレイプされ、レイプが蔓延していたため、65歳以上のほとんどの沖縄人は戦争の余波でレイプされた女性を知っているか聞いたことがあるという。

 

ブラウン大学の研究者で東アジア研究教授であるスティーブ・ラブソン氏は、「沖縄の新聞や本でそのようなレイプについて多くの記事を読んだことがあるが、それらについて沖縄で知っている、または語ろうとする人はほとんどいない」と述べた。

(注・1970年代に編纂された「沖縄県史」でもそうだが、女性たちは多くの性暴力の事例を証言してきた。)

 

Marine Corps officials in Okinawa and Washington said that they knew of no rapes by American servicemen in Okinawa at the end of the war, and their records do not list war crimes committed by marines in Okinawa.

沖縄とワシントンの海兵隊当局者は、戦争終結時における沖縄でのアメリカ軍人によるレイプについてはひとつも知らない、沖縄での海兵隊による戦争犯罪にかんして記録していないという。

 

Gen. John G. Castellaw, deputy commander of the Marine force in Okinawa, said that during the past 30 years, in which he completed numerous assignments on the island, he had never heard of any accusations of widespread rape by American servicemen in Okinawa.

沖縄海軍副司令官のジョン・G・カステロー将軍 (Gen. John G. Castellaw) は、島で数々の任務を遂行した過去30年間、沖縄でのアメリカ軍人による広範囲にわたるレイプの告発などは聞いたことがないと述べた。

 

The New York Times tried to contact surviving members of the segregated 37th Marine Depot Unit, to which the three dead marines were attached. But the Montford Point Marine Association, a veterans group representing the marines who were trained at Montford Point, N.C., said it could not locate any veterans willing to be interviewed.

ニューヨークタイムズは、3人の死んだ海兵隊員が所属していたという人種隔離された (segregated) 第37海兵隊基地ユニットの生き残ったメンバーに連絡しようとした。しかし、ノースカロライナ州モントフォードポイントで訓練を受けた海兵隊員を代表する退役軍人グループ、モントフォードポイント海兵隊協会 (Montford Point Marine Association) は、面談を希望する退役軍人を見つけることができなかったと述べた。

 

協会の前会長である元キャプテンのサミュエル・サクストン氏は電話インタビューで、海兵隊の死についての真実とアメリカ人が実際に沖縄でレイプを犯したかどうかを知ることが重要であると述べた。しかし、沖縄に駐留しているアメリカ人の一部しか占めていない黒人の海兵隊員が、十把一からげに誤って表出されるのではないかと危惧していると彼は語った。

 

「私たちが国に奉仕するため懸命に務めたというのに、私たちみんなが強姦者のかたまりであるという印象を国民に与えるのは公正なことではない」と彼は言った。

 

本、日記、記事、その他の文書は、さまざまな人種や背景のアメリカ兵によるレイプに言及している。

 

沖縄国際大学の石原昌家教授は、戦後の悲惨な時期について「歴史的な記憶の喪失がたくさんある」と語った。彼は、「多くの人々は実際に何が起こったのかを認めたくないのだ」と述べた。

 

米軍がレイプの記録がないと言っている理由一つの考えられる説明は、恐怖と羞恥によって、沖縄の女性が性的暴行をうけたことを報告する例はごくわずかであり、また、報告したとしてもそうした人々は合衆国憲兵によって無視された、と石原教授は語る。さらに、そのような犯罪の実際の被害範囲を測定するための大規模な取り組みはこれまで行われていない。

 

今日でも、レイプされた女性と接触しようとする試みは拒まれるのであるが、それは当事者である女性と話をした友人、地元の歴史家、大学教授によると、彼女たちは公にそれについて語ることを求めていないということであった。

 

名護市の警察スポークスマンは、「被害を受けた女性は恥ずかしすぎて公表できないと感じており、3人の海兵隊員を殺害した犯罪者は恐れている」と述べた。

 

ジョージ・ファイファーは、彼の著書「天王山上:沖縄の戦いと原爆」(Ticknor&Fields、1992)の中で、1946年までに沖縄でレイプが報告されたのは10件未満であると述べている。「それは一部には恥辱と不名誉のため、また一部にはアメリカ人が戦勝国であり占領軍だから」という。ファイファー氏は言う。「合わせて、おそらくは数千人という犠牲者がいたが、被害者の沈黙は、レイプを沖縄戦のもう一つの卑劣な秘密にさせたままである。」

 

インタビューのなかで、歴史家や沖縄人によると、レイプされた沖縄の女性の何人かは異人種間の子供を産み、その多くは出生時に殺されたと言った。しかしながら、そのほとんど多くの場合では、レイプ被害者は村の助産師から中絶手術を受けた。

 

3人の海兵隊員の遺体が発見されたという英語での最初の公開された報告は、遺体が回収された直後の1998年にパシフィック版「星条旗新聞」に掲載された。記事の中で、匿名の沖縄の男性は、戦後、遺骨が発見された山間の村、勝山で育った子供の頃の話として、村の長老たちがそのアメリ海兵隊の関わる事件について話しているのを聞いたと述べた。

 

ニューヨークタイムズとの別のインタビューで、同じく村で育った年配の沖縄人は、米国が戦いに勝った後、3人の武装した海兵隊員が毎週末勝山に来て、村の男性に彼らのところに女性を連れてくるよう強制していたと語った。女性たちはその後、山に運ばれ、レイプをうけた。

 

海兵隊員はとても自信満々であったので、武器を持たずに勝山に来ることもあったと村人たちは言った。ある日、村人たちはジャングルに隠れていた2人の武装した日本兵の助けを借りて、川の近くの暗くて狭い峠で3人の海兵隊員を待ち伏せしたと彼らは言った。日本兵は茂みから海兵隊員を撃ち、数十人の村人が棒や石で彼らを殴り殺した。

 

「上の山に隠れていたので、実際の殺害は見られませんでしたが、5、6回の銃声が聞こえ、その後、多くの足音と騒ぎが聞こえました」と、71歳の引退した教師のヒガ・シンセイは言った。彼は当時16歳だった。「午後遅くまでに、私たちは山から降りてきて、誰もが何が起こったのかを知っていました。」

 

他のアメリカ人が海兵隊を探しに来るのではないかと恐れて、村人たちは50フィートの高さの丘の中腹の洞窟に遺体を捨てました。沖縄の人々は、口のすぐ内側で、この事件について部外者に決して話さないことを誓ったと述べた。

 

勝山で育った84歳の岸本喜順校長は、殺害事件は村を離れていたが、兄と姪からその事件を知ったと語った。

 

「人々は、アメリカ人が何が起こったのかを知ればどうなるか、報復が起こることを非常に恐れていたので、関係者を保護するためにそれを秘密にしておくことに決めました」と岸本氏は言いました。

 

勝山に住む沖縄県民は、村を悩ませた3人の海兵隊員は「黒人系のアメリカ人」であり、1人は「相撲取りと同じくらいの大きさ」だったと語った。川は、日本人では「黒人の洞窟」を意味する「くろんぼがま」として地元住民に知られています。

 

米軍当局者は、歯科記録によると、洞窟で回収された遺体は、すべて3人の行方不明のアフリカ系アメリカ人海兵隊員のものとして明確に特定されたと述べた。彼らはPfc (兵卒) でした。ジョージア州サバンナ出身のジェームズ・D・ロビンソン兵卒。シンシナティ出身のジョン M. スミス兵卒、および、シカゴ出身のアイザックトークス兵卒。星条旗新聞の記事によると、罪の意識でその沖縄の男性は、沖縄と日本の兵士の遺骨の回収に携わっていた嘉手納米空軍基地のツアーガイドである稲福節子に連絡を取った。

 

稲福さんはインタビューで、1997年6月に沖縄の男性と一緒に洞窟を探し始めたが、8月に台風が島を襲い、洞窟の入り口を隠していた木を倒すまで、洞窟を見つけることができなかったと語った。 9月に警察に通知されたが、発見に至った人物が匿名のままでいられるように、数か月間遺体を取り外さないことに同意した。

 

海兵隊の関係者は、遺体が軍事施設の外で発見され、沖縄県警察の管轄下にあったため、米軍は犯罪捜査を実施する予定はないと述べた。県警は、このような事件の時効が15年で失効したため、捜査の予定はないとしている。

 

奴隷制と人種隔離政策の長く不当な人種差別の歴史の中で、アフリカ系アメリカ人公民権を求める戦いは、公立学校での人種隔離政策を違憲とした1954年のブラウン対トピカ教育委員会裁判よりも一足早く、1947年、トルーマン大統領による米軍内の人種隔離政策撤廃を求める行政命令を始点として、徐々に現実化していく。

 

タスキーギ・エアメンとして知られる最初のアフリカ系アメリカ人空軍パイロットの活躍、バッファロー・ソルジャーズとよばれた黒人部隊の活躍、どれも厳しい人種隔離のなかにあって、「敵」だけではなく、苛烈な人種差別とも戦うことを強いられる、いわば二重の戦いがそこにあった。

 

沖縄戦当時は、統合以前であり、まだまだ人種隔離部隊もさほど多くなかったと思われるが、それでも幾つかの海軍建設大隊、陸軍航空工兵隊に至っては半分ちかくが黒人部隊であった。

 

一方、性暴力について、

 

海兵隊の発表とは裏腹に、米軍による占領下でおびただしい性暴力事件があったことが特に初期の証言記録に多く記録されている。それらの記録には、白人兵と同時に、また勝山事件のようにアフリカ系アメリカ人の兵士によっても頻繁にひきおこされていたという住民の証言が多くみられる。実際の性犯罪の訴えの記録が残されていないため、それらの実数をはかることは不可能に近い。こうした人種隔離部隊に関連する地元住民との「トラブル」が、実は駐留米軍のなかでかなり限界に近い状態にあったにもかかわらず、軍はそれに真っ向から向き合うことはなかった。被害にあっているのはアジアの、沖縄の、女性や子供たちであるからだ。

 

軍内の歪んだ人種差別は、駐留地沖縄でのレイシズム (人種差別) とセクシズム (性差別) をより増幅させ、白人、アフリカ系アメリカ人、沖縄人、女性、という重層的な差別構造の最下層に落とし込まれた沖縄人女性は、日常的に暴力のターゲットとされた。また軍政府は日常的な性暴力から沖縄人を守ることを怠った (ネグレクト)。これについては、上記の米陸軍1988年の報告書 Military Government in the Rhykyu Islands 1945-1950 の「ネグレクトと無関心」の項目で若干検証されている。

  

軍政下沖縄の性暴力事件の背景には米国と米軍内の強烈な人種差別と、その差別に由来する軍政府のネグレクトも併せ分析されなければならない。第二次世界大戦の最終局面であった沖縄戦では、これまでのどの戦闘よりも多くの黒人部隊が投入された。しかしそれでも沖縄の海兵隊の黒人部隊の数は 2,000人程度。第10軍の報告では沖縄戦全体でのアフリカ系アメリカ人部隊は最大で8,024人と報告されている。当時の米軍ではアフリカ系アメリカの兵士は人種差別により厳しく人種隔離された部隊 (segregated unit) に編入されていた。比較的早くから黒人兵を受け入れた陸軍では、故意に人種差別の根強く残る南部の白人将校を黒人部隊の指揮官として頻繁に割り当てていたといわれる。また海兵隊は1942年6月から黒人の海兵隊員を派遣するようになる (Montford Point Marines) が、1945年11月まで黒人が将校になることは許されなかった。バッファロー・ソルジャーズとして知られる伝説的な陸軍黒人部隊のひとつ第24歩兵連隊 (24th Infantry Regiment) は、実際に1945年7月29日から (-1947年1月まで) 渡嘉敷に駐屯したが、それらも含めて沖縄戦を果敢に撮影し続けた従軍カメラマンたちがアフリカ系アメリカ人兵士を被写体として記録した写真も極めて少ないと感じる。こうしてアフリカ系アメリカ人兵士の存在は米軍内で、利用されながらも「見えない存在」とされ続けた。

  

日本では、ジェンダー研究やフェミニズムについての意識が周知されているとはおもえず、日本の政治家による女性差別発言が多く世界でとりざたされても、それで辞任に追い込まるということはない。被害者の女性を守ることもできない法律は常に日本の問題となっている。沖縄戦と占領期に関しても言えることだが、女性たちが声をあげていないのではない。上に見るように、女性たちの声が聞かれていない、のである。

 

同様に、人種差別についても、日本の教育現場で公民権教育を学ぶ機会は海外に比較して極めて限定されており、それゆえ、身近にある人種問題を人権の問題として感知できず、日本で人種問題は「ない」と感じている人も多い。

 

このような日本にあって、軍内の人種差別と性差別が重層的に重なりあい、増大する憎悪と暴力の対象となっていったことを、軍と人種問題と性差別の観点から検証できる時期は、まだ来ていないのかもしれない。

 

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