漢那収容所

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沖縄島に設置された12の民間人収容所

 

金武村に侵攻するとすぐに、米軍は金武後方の池原一帯に飛行場の建設を開始した。上陸前の三月末に飛行場建設予定地一帯に爆弾を投下して地ならしをしていたという。この滑走路は四月下旬にはほぼ完成して、五月には小型機が発着するようになった(金武町発行『金武町と基地』参照)。
 五月中旬から下旬にかけて、恩納岳や久志岳にたてこもってゲリラ戦を展開していた護郷隊(遊撃隊)が金武飛行場を襲撃、五月二十一日には米軍の燃料集積所を爆破した。すでに住民は米軍の管理下にあったが、飛行場に近接する金武・並里の住民は襲撃との関連を疑われ徹底した「掃討作戦」(家宅捜索)がおこなわれた。六月二十日には全住民の中川(銀原、城原)、漢那、宜野座への移動が命じられ、以後億首川を境に金武飛行場区域への立ち入りは禁じられた。金武・並里の焼け残った家屋は取り壊され、移動先の仮小屋建築の資材にされた。このとき伊芸・屋嘉の住民は石川地区に強制移動となっている。

読谷村史 「戦時記録」下巻 第四章 米軍上陸後の収容所

 

安谷屋収容所にいたころ、金武村中川収容所への移動が、米軍隊長より発表されたとき、大方の避難民は不安に動揺した。なんとかして中止させたい、と隊長に陳情する動きもあった。中川の収容所は、山の中の不便なところで、そのうえ敗残兵が出没して、住民をおびやかしているといううわさがあった。それで、あんな物騒なところに行くのはいやだと騒いだのだ。わたくしは家族を北部に疎開させていたので、北部に近づく喜びで、むしろ移動の実施を心ひそかに待ち望んだ。米軍による中川収容所への移動計画は、避難民の意思におかまいなく進められた。七月中旬から米軍のトラックで輸送が始まり、八月初旬までに三万人余りの移動が終わった。

わたくしたちの収容された中川は、金武岳のふもとにひろがる雑木の山とカヤの丘、そして細長い谷の多いところであった。その山の中やカヤ原に、先に収容された人々の手で、一間半に四間の掘っ立て小屋(屋根も壁もカヤ、内部は土間のまま)が何百も建てられていた。それがわたくしたちの住家であった。市長は、北谷村長の経歴を持つ新垣実氏、警察署長には、巡査の経験こそないががっちりした体格を買われた宮平某、小学校長は校長の経歴のある当山真志氏(戦後、立法院議員)であった。隊長はタムソンという少佐で、見るからに温厚そうな知識人であった。さて、こう書いてみると、中川収容所は山間の平和郷のように想像されるだろう。ほんとうにそうであってほしかった。わたくしたちは、どんなに平和を祈ったことか……。終戦のみことのりも下って、米軍も住民を保護してくれるし、敗戦の悲しみはあっても、恐怖にさらされることはなくなっていた。ところが、全く残念なことには、ここ中川収容所には、住民を恐怖のどん底に落とし入れる事件が、夜な夜な頻発した。しかもそれは、敵だった米兵ではなく、わが友軍の敗残兵によるものであった。

 

群盗にひとしいその略奪、暴力ざたをいちいちしるせば、枚挙にいとまないほどである。ここにはほんの身近な例をあげてみたい。ある日の深夜──。「あけろ!あけろ!あけなきゃたたきこわすぞ!」このあらあらしい声に、夢を破られた隣の婦人が、震える声で返事をしながら雨戸をあけると、二個の懐中電灯を照らした数人の黒い影が、どっと家の中へ押し入った。友軍の敗残兵であった。わたくしたちは隣とは同じ屋根の下で、形だけの仕切りで隔てられているに過ぎなかった。わたくしたちは息を殺しておびえていた。わたくしの同居人は十数人であったが、そのうち、男はわたくしのほかに老爺一人でそのほかは女ばかりであった。襲われた隣室は、女と子供だけで男は一人もいなかった。敗残兵たちは「朝ごはんの米だけは残してください」と訴える婦人の悲痛な声を冷笑しながら、米軍配給の米やカン詰め、毛布まで奪い取った。

 

隣からさらに、わたくしたちのところにどやどやと押しかけてきた。わたくしが「隊長とお話ししたい」と申し出ると、「しゃらくせえ」と言うやいなや、一人は日本刀を、一人は拳銃を、わたくしの胸元につきつけた。わたくしは背すじがひやっとした。おそらくわたくしの顔からは血の気が消え失せていたことだろう。「こんどはお前にだまされんぞ!さあぶっ放すか、それともありったけの物を出すか」と、すごんだ。その時、同居の婦人たちが泣きながら「なんでもほしい物を持っていってください」と、カン詰めや毛布を放り投げたので、やっと拳銃と日本刀をひっ込めた。かつて、日本軍人の魂であった日本刀は、強盗用、略奪用にかわっていた。目ぼしい食糧や衣服を略奪して、傍若無人に引き揚げて行く夜盗の群れを見て、わたくしたちは戦争に敗れた日本軍の姿を見たような気がして、ただ深いため息をつくばかりだった。

 

彼らは十日ほど前にも、わたくしたちの小屋を襲った。そのときわたくしが、米軍の発表で知った終戦玉音放送や、米軍の捕虜に対する温かい処遇、住民が栄養失調で健康をそこねている事情などを話したことがあった。そして、一日も早く山を降りてくるくるようにすすめたところ、さすがにそのときだけは幾ばくかの米をもらい、おとなしく帰っていった。わたくしは、敗戦でやけくそになっているとはいえ、愛する同胞だ、話せばわかると信じていた。しかし、今夜まのあたりに、狂犬のごとき敗残兵の姿を見せつけられ、憤りを感じるというより、言いようのないみじめさを感じた。その後、彼らの略奪、暴力はますます激しくなるばかりであった。袋だたきにされた原田貞吉氏(戦後、博物館長)の話、拳銃で撃たれて重傷を負ったK氏の話など、暗い話ばかりがつづいた。こうして夜ごと荒し回る群盗になりさがった敗残兵のために、住民は眠れぬ夜がつづいた。そのころ食糧が乏しく、海草のホンダワラやフキでおぎなっていた難民の打撃は深刻だった。警察は曲がりなりにも設けられていたが、武器の携帯を禁じられたうえに訓練も受けず、しろうとの寄せ集めで、頼むにたりなかった。自警団がほしいと思っても、要員が得られず、そのうえ小屋が山や丘の広い地域に散らばっているので、どうにもならなかった。

《山川泰邦『秘録沖縄戦記』読売新聞社 1969 年》