上原トミさんについて

玉城村玉城村史』 (2004年)より書き起こし。引用の際は原典をお確かめください。》

わが沖縄戦体験記

字富名腰  川崎○○ (当時十八歳)

米軍、嘉手納、北谷海岸に上陸 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争は勃発した。それは皇軍のハワイ 真珠湾攻撃の奇襲攻撃によるものであった。大本営発表皇軍の東南ア ジアにおける連戦連勝を連日報じたが、長くは続かなかった。ガダルカ ナル、シンガポールサイパン、グアム、硫黄島皇軍は玉砕した。昭 和十九年十月十日那覇市 は米軍の空爆により焼失し、翌年四月一日米軍 は沖縄本島嘉手納、北谷海岸に上陸した。その数三〇余万人といわれて いる。

鉄血勤皇師範隊

米軍上陸の前日、夕闇迫る首里城内の沖縄師範学校の留魂陰(地上戦 に備えて同校が構築した)前に集まった教職員生徒らに対し、沖縄第三 十二軍(沖縄守備軍)の駒場少佐から「諸君、海上の敵が沖縄に上陸する のは必至だ。天皇の赤子として軍に協力せよ」との命令一下、全校教職 員、生徒四00人余が軍直属の鉄血勤皇隊と称する部隊として編成され た。記録によると編成は、

・軍司令部との連絡調整、食糧の調達及び炊事を担当する本部

・敵陣地に夜間奇袋攻撃や肉薄攻撃を実施する斬込隊(別名菊 水隊)

・作戦中情報宣伝活動や、米軍占領地へ潜入し地下工作活動を 展開する千早隊

・敵前で野戦陣地の構築、対戦車地雷源、対戦車爆の敷設、更に主要交通路並びに 橋 梁の阻絶、破壊を任務とする野戦築城

の四部門で構成されていた。 予科を出て本科一年のわたしは、野戦築城隊に配備され、軍帽、軍服 (半袖・半袴)の支給を受け、軍と協力して守礼門の真下から金武町の東 の端まで約二、000メートルの軍司令部壕掘りをした。土石をトロッコで外へ運び出す辛い長い作業は首里を撤退する五月末頃まで続いた。

 

笑いが一つ

第三坑道口から入ったところの将官室に、軍司令官牛島満中将と参謀 長の長勇中将がいた。首里城が砲撃で崩壊した四月の終わり頃、入口で 参謀長が那覇沖にいる敵艦めがけて立小便していると横から軍司令官が、「閣下危ない。」「閣下のモノは大きいから敵の目標になる。」 「早く引っ込めろ。」といった。居並ぶ作業隊が大笑いした。砲弾雨し きりの中の閣下のこの冗舌はわたしが生きている限り忘れることはな いだろう。

ときに、両将軍は昭和二〇年六月二十三日摩文仁の軍司令部の自然環 において武士道の作法にならい自決した。戦記によると、軍司令官は自 決数日前全兵士に対し、「今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る。既 に部隊間の通信連絡杜絶せんとし軍司令官の指揮は至難となれり。爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者これを指揮し最後まで敢闘し 悠久の大義に生くべし」との命令を発した。

一方、長参謀長は自決に際し、

「醜 敵停滞す南西の地 飛機空に満ち、船海を圧す 敢闘九句一夢のうち一 ばんどう 萬骨枯れ果てて天外を走る」

との辞世の句を残した。

 

スパイのぬれぎぬで

上原トミさん 昭和二二年五月のはじめ、辺りは薄暗くなりかけていた。三十二軍の第六坑道口に、一人の女性が憲兵に引き連れられてきた。 それが「上原 トミさん」だった。三十歳ぐらい。半袖、半ズボンの軍服姿。頭は丸刈り。「スパイをしたら上原トミのようになるぞ。」この憲兵の発した名前が頭に焼きついた。「スパイをこれから処刑する。」と憲兵。沖縄師範学校田圃の中、坑口から二〇メートルほど離れた電柱にトミさんはひざまずいた姿勢で縛り付けられた。壕内にいた朝鮮人従軍慰安婦が 四、五人、日の丸鉢巻を締めてトミさんの前に立った。手には四〇セン チの銃剣が光っている。

慰安婦憲兵の「次」「次」との命令で代わる代わる銃剣をトミさんに突き刺した。憲兵は次に、縄を切ってトミさんを座らせた。少尉か中尉だった。「おれは剣術は下手なんだがなー。」と言って日本刀を抜き出した。その軍人はトミさんの背後に立ち刀を上段から振り下ろした。 ふた振り目に首が切り落とされた。その時だ。 周りで見ていた兵隊や鉄血勤皇隊の何人かが駆け寄り、土の塊 や石をトミさんに投げつけた。 人間が人間でなくなる。戦争の渦の真っ只中に巻き込まれ、学友を失った者たちは「おまえのために」とトミさんの遺体に襲いかかってしまったのだ。「申し訳ないことをしてしまった。」自責の念は消えない。

戦後一四、五年して現場を訪れ、手を合わせた。「トミさんの最期を見た者として、事件を明らかにしなければならない」「当時あの状況の 中でスパイなんてあるわけがない」 五十年余り、トミさんのことを書こうとするが「胸が苦しくなって」ついに書けないでいた。

首里から摩文仁へ退却

昭和二二年五月二十七日は帝國海軍記念日である。これを知ってか知 らずか、空は敵のグラマン機やカーチス機、観測機が一層乱舞し、地上砲火も激しさを増し、日夜、その轟音炸裂は天地を揺るがした。第三分 隊長山田盛廣が敵も記念日を知ってとのことだろう。とつぶやいた。分 隊は当日限り軍命により南部方面へ退却しなければならない。だが、 雨でなかなか出られない。夜半小降りの合間に敵の照明弾の明かりを浴 びながら、隊員一二人は泥沼の中を首里城下から識名園を抜けて真玉橋、津嘉山、金良、兼城、真壁の各村々を通って翌二十九日、朝もやの なか摩文仁部落へ着いた。野田貞雄 男子部部長が迎えてくださった。

「皆、たいへんだった。頑張れよ。」「やがて特攻機が米軍を撃滅する ぞ。」と励ましてくださった。

摩文仁は別天地だ。静かで戦場になっていない。米軍は、おそらく静 かな所を求めて集まる群衆を一気に叩くつもりだろう。いい作戦だ。そう思った。

わが分隊は海抜-00メートルの摩文仁丘の洞窟(垂直球)に陣取った。

隊員の死

久保田博と知念眞一郎は共に玉城村富里の出身である。六月半ばのタ 刻、わたしはサトウキビ五、六本をかついで垂直壕に戻ると誰かが久保 田が撃たれた。死んだというのである。「何を、畜生、畜生。」といい ながら二、三人で近くの弾痕に埋葬した。つぎは我が身か、しかし、怖 いとは思わなかった。それから数日後に知念が垂直塚の上で撃たれ右手 首を吹きとばされ全身血まみれになって「やられた、やられた。」と悲 鳴をあげて垂直域にかかった梯子からずれ落ちてきた。「死ぬな。死ぬな。」と励ましながら三角巾で止血した。二、三日すると右上腕部の傷 口にウジが沸き、痛い痛いと、もがくがどうすることもできない。その 頃、山田分隊長が垂直塚入口で直立のまま顔を砲弾でえぐられ即死し、 照屋寛明が垂直塚入口から三メートル下にいたわたしの側に落ちてき た。見るも無惨に頭は真っ二つに割れ、即死状態だった。 傍らの昇教 官から「手当はいらん、動かすな。」と一喝された。そのとき第二分隊 長の石垣永展が同じように落ちてきた。知名教官が「石垣 大丈夫か。」 といたわったが、右手のひらは丸く大きくえぐられて穴があき、その出血はとまらない。それでも勇敢な分隊長はしきりになにかを口走ったが聞きとれない。とうとう夜明けを待たずに息を引きとった。

分隊海岸へ脱出

六月二十二日、米軍が摩文仁丘を馬乗りし垂直域に迫っている。海岸へ脱出せよ。安里曹長(教練教師)の声。わたしは知念眞一郎を壊入口に担ぎ出し必ず迎えに来るからなあ。と言い残し摩文仁部落からの機関銃 の狙い撃ちのなか五、六人の隊員らと丘を転がるようにして海岸へ出 た。数百人の兵士や住民がいた。沖合の掃海艇から「兵隊さん戦争は終わりました。」「早く出てきなさい。」「心配ない。」等とマイクで投降を呼びかけてきた。低空飛行の観測機もビラで投降を呼びかけてき た。投降する者はいない。捕虜になるくらいなら死んだ方がいい。勿論、投降しようものなら仲間がこれを許さない。刃にかけられるか、銃殺は免れない。誰もがそう信じた。

唯一の戦果

わたしは、死ぬも生きるも一緒と誓った同期の赤嶺清輝(豊見城村出 身)、知念秀雄(泡瀬出身)と安全地帯といわれた國頭突破を目指して港川 に向かって夜の海を一里ほど泳いだ。ギーザバンタの台上に先につい 赤嶺がはやく、はやく。と手で合図する。二人はやっと台上に着いたが 赤嶺はいない。不吉な予感がした。たしかに、その辺りを掃討している 敵に殺されたに違いない。ほどなくして知念がいなくなった。必死に探 した。そのとき後方から大きな敵兵が向かってくるではないか。びっく りして、「山やま、川かわ」と軍の合言葉を連呼した。応答がない。敵 はワァーと大声で後ずさりした。すかさずわたしは身につけていた手榴 弾二つを外し、その一つを地面に叩いて発火させこの野郎と投げつけ た。命中した。爆発は辺りをこだました。同時に敵の手榴弾が、身辺で 爆発しその破片はわたしの両脚を貫通した。少しばかり血が出ただけで 痛みはない。絶壁の一人やっと入れる横穴に隠れ止血した。そこへ友軍 兵が俺も入ると頭を入れた。だが入れるわけがない。頭上で敵の声がす る。間断ない手榴弾の炸裂が分かる。もはやこれまでと死を覚悟した。 いつの問に眠ってしまったんだろう。眼がさめたら二日後の二十五日の 夜明けだった。わたしの戦果は唯一この敵一人を殺したことである。同 日昼間、ギーザバンタの茅の中に隠れていたら裸になった三人の敵が自 動小銃を手に向かってくるではないか。そして銃で頭上の茅をわけて出 て来い、と威嚇した。立てないでいる足を引きずり両手をあげて飛び出 ると、うち一人がバンドの手榴弾をとって「これはなんだ。」と聞くので、自決するものと手で返したら嘲笑した。

この場を四、五〇メートル離れた敵のトラック上から「セイコウ、セ イコウ」とわたしの名を呼ぶ者がいた。それは防衛隊に召集されたはずの糸数清徳(船越出身)ら多人数であった。そのとき助かったと思った。

だが、わたしは米軍のジープの後部に乗せられた。助手席の一人が銃剣 で「君はこれで殺す」と手真似した。ほんとだろうと思った。港川の 県橋の下で傷口の三角巾は包帯と取り替えられた。その際、日本人二世 の米兵から学徒兵はよく戦ったとほめられた。 わたしは具志頭小学校門 前の金網に捕虜として入れられた。そこに鉄血勤皇師範隊の配属将校井口一正中尉がいた。中尉はこれからどうなるだろうと不安気だった。

 

屋嘉捕虜収容所

捕虜になったわたしは、知花の米軍野戦病院で両脚貫通重傷の手当て をうけ屋嘉捕虜収容所に送られた。三ヶ月も体を洗ったことがない。服 にはノミやシラミが残っている。頭から真っ白い粉D・D・T(消毒液 )をかけられ、H・B・T(野戦服)を着せられ捕虜らしくなった。湯上が りの気分でさっぱりした。

この野戦服の胸、背中、膝、尻の四カ所にP・W(戦争捕虜)と黒ペンキで大書された。

収容所は、日本の将校、一般兵、朝鮮兵、沖縄兵を各一区画にして有 刺鉄線で仕切られテント幕舎が並び夜になると監視哨のサーチライトで 昼のように明るかった。食事は米軍のレーション(野戦食)が与えられ た。それは栄養価の高いブレックファースト(朝食)、ディナー(昼食)、 サパー(夜食)であり、空腹を感じなかった。しかし、このレーションで 便秘に苦しめられ指を入れてかき出すほどであった。日がたつにつれ望 郷のおもいがつのり、いつ釈放されるかとあせりを感じた。

捕虜同志の喧嘩も絶えないが、囲碁・将棋・チュンジーや野球・相撲 も楽しみであった。たまには、黒人兵に監視されながら中城城跡や知花 方面、那覇泊付近で道づくりをした。その時の黒人兵のサービスには驚 いた。ジュース、コーラ、チョコレート、チューインガム、タバコ 等々、求めるとなんでももらえた。だから作業にいくのが楽しくなった。

いつだったか殺伐とした収容所内に娯楽として青空劇場ができた。職人といわれる役者、歌手らの演技が見られた。が、笑いを忘れた多くの 見物人は拍手しなかった。 カンカラー三味線(寝台の骨と缶詰缶で作っ たもの)で弾き語る廃想的な軍歌や島歌が流行した。P・W哀りなもん。という即興歌や家族を思い恋人を思う哀調を帯びた島歌があった。 ・懐しや沖縄戦場になやい 世間御萬人の流す涙 ・無蔵や石川村、茅ぶちの長屋 我んや屋嘉村の砂地枕という屋嘉節はこの収容所で生まれた。

捕虜釈放

昭和二〇年八月十五日、日本はアメリカ連合軍に無条件降伏し大東亜 戦争は終わった。しかし、捕虜(七、000人うち二、000人の沖縄 人)の釈放は遠かった。船越にいる筈の家族の生死もわからない。日々 望郷の念にかられた一月のある日、いきなり米軍のトラックにのせら れ、知念村志喜屋で降ろされ七ヶ月ぶりに釈放された。地獄の沖縄戦九死に一生を得たが、國のため殉死した多くの友を思う今でも胸が張り 裂ける思いだ。

友よ安らかにお眠りください。。

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