日本軍基地を拒絶し、住民の命を守った前島
特攻艇マルレの基地が設置された慶良間列島では、「集団自決」で多くの住民の命が奪われた。赤松隊のいた渡嘉敷島では実に島民の半数近くの命が1945年3月28日に奪われたのだが、前島の情況は全く異なっていた。
まず1981年の『琉球新報』の記事を紹介しよう。
虐殺の島、集団自決、玉砕の島と呼ばれ、すさまじい戦争体験を持つ渡嘉敷島。この渡嘉敷の島々のなかでたった一ヶ所「前島」だけは、奇跡的にも砲弾を浴びることなく終戦を迎えた。周辺の島には、間断なく、陸海空から攻撃が加えられたのになぜ、前島だけ真空地帯のまま残されたのか。これには、住民を守るためには、兵隊を島に上陸させてはならぬと日本軍の駐とんを拒否した分校長と、この訴えを「わかった」と決断した隊長との間の隠された戦争秘話が残されていた。
日本軍の基地を拒絶して島を守った「前島」
先月の2月にアマゾンでも購入可能になった伊藤秀美氏『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(紫峰出版、2020年2月1日) も紹介したい。
前島は渡嘉敷村に属し当時52世帯274人が島の東側にある部落に住んでいた。在郷軍人は18人である。1944年10月10日空襲の少し前に渡嘉敷島の基地第3大隊の大隊長鈴木常良大尉以下5人の兵士が島の測量にやってきた。分校長をしていた比嘉儀清氏は鈴木大尉に測量をする目的を尋ねたところ、「住民を守るために一個小隊の兵を置くための準備だ」との答えが返ってきた。比嘉氏は元警官で上海事件に上等兵として従軍した経験等から、兵隊がいなければ敵は危害を加えないとの信念を持っていたので、決死の覚悟で駐兵を思いとどまるよう具申した。
比嘉氏が前島に関して全責任を持つことを条件に鈴木大尉は了承、比嘉氏は青年学校教官、防衛隊長、竹ヤリ訓練の執行責任者となる。その後、渡嘉敷島との交通は遮断され、日本兵は前島に来なくなった。
1944年10月10日以降、住民は、空襲の際には部落北部にある斜面掘り抜きの墓に避難した。1945年4月3日頃 (3月下旬の可能性もあり) 米軍の斥候5人が軍用犬を連れて島に上陸。サンネー壕の前に来たが、犬は吠えず米兵は去った。翌日以降1個中隊約150人が上陸して島に軍事施設がないことを確認して去った。
比嘉氏「いずれにしても戦争している以上米軍が前島を攻めてくることは考えなくてはならない。在郷軍人は十分訓練した。敵が壕に入ってきたらまず私が突っ込んで2、3人は殺す。その混乱に乗じれば相当戦えると話したところが、老人たちは、わしらの孫を殺すのか、という。私には決死の覚悟はあったが自決ということは頭になかった。」
伊藤秀美『沖縄・慶良間の「集団自決」: 命令の形式を以てせざる命令』(紫峰出版、2020年2月1日)
通訳は老人にこう言ったそうです。「この島には民間だけで日本軍がいないので今後は空襲や弾を撃たないから安心して部落へ戻って生活してください。」
中村 文雄『語り継ぐめーぎぃらま 渡嘉敷村字前島』(2012.2)
国民学校の分校長をしていた比嘉儀清さんは元上等兵であり、また元警察官でもあった。…そこで彼はその日本軍と交渉し、駐屯をやめてくれるように頼んだ。…やがて米軍が上陸してきたとき、分校長を先頭に投降して島民は無事だった。
比嘉儀清の証言
渡嘉敷駐屯の海上挺身第三基地隊長、鈴木常良陸軍大尉がやってきた。…軍がいない方が住民は生き残る可能性が強い。そう考えます。…しかし、えらい隊長だった。どなりはしたが願いはかなえてくれた。…一個中隊約百五十人の米兵が上陸した。日本兵もいない、軍事設備もないことを確認して去った。
榊原 昭二『沖縄・八十四日の戦い』(新潮社、1983.5)
那覇とは目と鼻の先にある我が前島こそ、その島である。当時、島には渡嘉敷国民学校の分教場があってH先生夫妻が教鞭をとっていた。或日のことS大尉なる者が部下を連れて島へやってきた。…先生は住民を守るために来られたのであれば、兵隊が居ること自体が住民の為にならないので、お引取り願いたいと隊長に申し出た。…この島にも米軍は上陸してきた。くまなく調べた結果日本軍が居ないことを知った米軍は、この島には一切攻撃はしないから安心して畑にも海にも出てよいと言い残して、その日のうちに引揚げていったとのことである。
『渡嘉敷小学校創立90周年記念誌』(渡嘉敷小中学校 編・刊、1977.9)p. 41
ひとつ興味深いことは、日本軍がいなかったことにより、島民が妨害されることなく米軍に投降し、大きな犠牲をだすことをまぬがれた慶良間諸島の前島や伊是名島(本島の北)のような例があることである。
その前島が、、、
こんどはいつの間にか知らないうちに
自衛隊の訓練地にされていたというのである・・・。
口約束の「永久承諾」とはいったいどういうことだろう。
判明したのは2018年。
実にひどい話だったので、ここに記録しておきたい。
前島、慶良間列島の小さな島。
沖縄戦当時は日本軍の基地受け入れを拒否し、住民を救った前島が、いま、なぜか知らない間に自衛隊の訓練場になっているというのだ。
2018年12月13日『琉球新報』
空自が20年近くも渡嘉敷村に無許可で訓練を続けていた。いわゆる前島「永久承諾」事件。島には住民も住んでいるというのに。
2018年12月10日、空自が通知なく訓練を続けていた実態判明
空自、通知なく訓練/渡嘉敷村前島「永久承諾」を主張
2018年12月11日 05:00
【渡嘉敷】航空自衛隊那覇基地が、渡嘉敷村の前島での訓練実施に関し「永久承諾」の取り決めがあるとして、村に通知しないまま訓練を実施していたことが10日までに分かった。一方、村は「永久承諾」について確認しておらず、関連する文書も見つかっていないとしている。村は「どういう経緯で訓練が始まったのか分からない。地権者として村有地の使用を許可しているという認識はない」と困惑している。
空自「理解されているものと…」渡嘉敷村「知らなかった」
空自「理解されているものと…」渡嘉敷村「知らなかった」 訓練の永久承諾、書面確認できず
2018年12月12日 10:07
同日、村役場で同基地第9航空団の管理部長ら3人と村の担当者が協議した。村によると、同基地からは「永久承諾という、通常使用しない文言を、書面で確認できないまま使用してしまった」との説明があったという。
村は「訓練が前島の陸域で継続的に実施されていることは知らなかった。そういう認識はまったくなかった」と抗議。同基地は「理解されているものとして訓練していた」と答えたといい、双方で認識の違いが改めて明らかになった。
座間味秀勝村長は「この状態で訓練の場所を提供することはできない。住民や郷友会の理解を得た上で、今後どうするか検討したい」と述べ、同基地に訓練の自粛を要請した。村によると、既に訓練を自粛しているという。
一方、2000年に取り決めがあったとされる「永久承諾」について、同基地から詳細な説明はなかったといい、村は「現時点では、取り決め自体がなかったと考えざるを得ない」との認識を示している。村によると今後、同基地と訓練に関する取り決めをするかについては未定という。
2018年12月27日、2000年以前から無許可訓練の実態認める
空自、無許可訓練認める 「永久承諾」と誤解 渡嘉敷村前島で2000年以前から
2018年12月27日 07:38
航空自衛隊那覇基地が、沖縄県渡嘉敷村の前島で「永久承諾」の取り決めがあるとして村に通知しないまま2000年以降訓練を実施していた件で、同基地が00年以前にも「根拠は明確には分からない」まま訓練をしていたことが26日、分かった。一方、00年に交わしたとした「永久承諾」については、「2000年に村長からヘリポート使用の承諾書を得たが、期限が具体的に示されていないことから誤解を招くような表現で対外的に説明してしまった」と文書で回答した。
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同基地渉外室が「お知らせ」として発表した文書によると、00年に同村の前島、中島およびハテ島のヘリポートを救難訓練などで使用する承諾書を当時の村長から得て、同基地で保有しているとした。同基地では00年以前も同様の訓練を実施していたと説明。根拠については「何らかの承諾を得ていたと思うが、はっきりとは分からない」とした。
村に通知をせず訓練を実施していたことについて、同基地は年に1度、村の担当者に電話で連絡をしていたため、「都度通知しないでも訓練ができると誤解していた」と釈明した。訓練は承諾書に記載されていない前島のヘリポート以外の陸域や海域でも実施しており、同基地広報担当者は「村の承諾を受けているものと誤解していた」と述べた。
同基地ではこれまで、那覇救難隊と那覇ヘリコプター空輸隊が前島での離着陸訓練や模擬遭難者のつり上げ訓練、人員物資の輸送訓練を実施しており、17年度は112回、18年度は9日現在で41回に上る。
担当者は「村や住民に迷惑と心配をかけた」と述べた。
2018年12月28日 05:00
一方、村が確認したのは1999年11月から1年間の使用に限る承諾書だけ。これによる訓練は2000年4月から実施されており、それ以前の承諾書は確認できていないという。同基地も自ら訓練の根拠とした00年の承諾書自体を公表しておらず、承諾書は、その存在すらあいまいと言わざるを得ない。
訓練を続けるにあたって同基地は毎年1度、村役場の担当者に連絡や調整を行ってきたと説明する。しかし、これについても村側は「覚えがない」と食い違う。
問題を受け同基地は過去2年間の同島での訓練内容を開示した。それによると離着陸訓練や模擬遭難者のつり上げ訓練などの災害派遣訓練を17年度に112回、18年度は12月9日までに41回実施した。
ヘリポート以外での訓練は、 そもそも同基地が根拠と主張する承諾書にも触れられていない。そんな曖昧模糊(あいまいもこ)とした取り決めを基に、これまで延々と訓練を続けてきたとすれば異常事態だ。
渡嘉敷村長 vs. 前島郷友会
前島に自衛隊を押しつける渡嘉敷村長
前島の「前島郷友会」は反対しているが、渡嘉敷村長は訓練再開を自ら要請。これも前島に負担を押しつけているだけじゃないか、村長は、大丈夫か。
基地を受け入れ訓練を受け入れないと、急患空輸など国民としての最低限のサービスが受けられないとでも思っているのだろうか、この座間味秀勝村長は。小学校から公民を学び直した方が良い。
それは基地を受け入れなければ本土から認められない沖縄だけの拷問のようなものなのか、それとも75年前に渡嘉敷の村長が経験したことをすっかり忘れたのか。再び自衛隊の受け入れにやぶさかではない渡嘉敷の座間味秀勝村長、しっかりしてくれ。
前島の郷友会はむろん反対している。
2019年7月1日
会合で座間味村長は「住民や島の利用者に影響がないよう調整しなければならない」とした上で、訓練の範囲や内容などを示した計画書の作成を自衛隊に求めた。村は今後、作成された計画書を受けて、郷友会と再度協議していく予定。 郷友会は、前島の訓練使用に反対の意思を村に伝えている。会合後、中野衛会長は「村との協議には応じる」としながらも「(訓練使用は)反対だ」と話した。
なぜ慶良間列島の悲劇は起きたのか
歴史に学べ
そもそも慶良間列島には、沖縄戦当時、海上挺進戦隊3部隊の基地が敷かれ、海の特攻マルレが300隻配備されていた。
そのせいで、1945年3月26日の慶良間列島米軍上陸とともに、基地配備されていた島々では次々と「集団自決」の悲劇が引き起こされ、700人の住民の命が奪われたと言われている。
慶良間列島の人々の命をここまで軽視した、この三つの戦隊が保有した300隻の海上挺進マルレは、どれだけの「戦果」をあげたのだろうか。
出撃したのは300隻のうちのたったの4隻。
報告された「戦果」は無し。
あとはすべてマルレを自壊、自沈、放棄して、山にこもった。
住民には「沖縄には非戦闘員は一人もいない」「軍官民共生共死の一体化」を押しつけながら、3人の戦隊長は生きのび、やがて軍令はなかったなどと名誉回復裁判まで起こす。
比嘉儀清分校長の信念は、上海事件の教訓から学んだものだった。
比嘉氏は元警官で上海事件に上等兵として従軍した経験等から、兵隊がいなければ敵は危害を加えないとの信念を持っていた
そしてその経験から導き学んだ英知が、結果的に前島の52世帯の人々の命を救った。
人間は弱い。銃暴力から身を守るためにさらなる銃を求め、核兵器戦争を抑止するためといっては核配備を加速させる。恐怖にまたたくまに思考を奪われ、権力や金目に目を奪われる。
しかし、だからこそ我々は、歴史から学び、先人の英知と勇気とに生き抜く力を学ばなければならない。