久米島の日本軍 海軍通信隊の鹿山正隊長と陸軍中野学校の「上原敏夫」

 

久米島の日本軍

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久米島那覇市の西方100 km の東シナ海に浮かぶ周囲48 km、人口約一万数千人の島で、 沖縄戦では米軍の作戦計画 (アイスバーグ作戦) の攻撃目標からもはずされ、日本軍の守備部隊も配置されない孤立した島であったから、本来は戦争の惨劇とは程遠い平和の島のはずであった。しかしこの無防備の小島にも皇軍は存在した。鹿山正海軍兵曹長(33歳) が率いる海軍見張隊 (電波探知隊) 35名の小隊が駐屯し、島の北部のウフクビリ山に電波探知機を設置して、付近に侵入してくる敵の潜水艦や飛行機を探知して小禄の海軍沖縄方面根拠地大本部へ通報する任務を負っていた。

《大城将保 『沖縄戦の真実と歪曲』(高文研 2007年) p.127》

 

6月13日 - 米軍による偵察

1945年 6月13日 アメリカ偵察隊深夜、北原部落に上陸、男子3人を拉致。そのうち40歳ぐらいの男を射殺(偵察隊)。(16頁)

1945年 6月14日 西地区担当 59名(将校2名)駆逐艦 Kinzerで接近 23:15 3つに分かれて偵察第2偵察隊 小屋に寝ていた男を連衡 叫び声をあげて回りの住民に知らせた。沖縄語で話して日本語を話せないのでうまく尋問できず第3偵察隊 2人と出会う、40歳ぐらいの男はこん棒で襲いかかってきたので射殺、16歳ぐらいの少年を捕まえる(非常に頭がよさそうで、捕虜として価値があると思われる)。射殺した男は3000ヤード北の海に棄てた。この少年を駆逐艦 Scribnerに連れて行く。(81頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁の「太平洋戦争の年表」、81頁「艦隊付海兵隊水陸両用偵察大隊 アクション・レポート」の「久米島攻略並びに占領 アクション・レポート」1945.8.15付、「久米島北海岸東地区および西地区偵察報告」1945.6.14付より》

 

6月15日 - 鹿山文書

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通訳兵として沖縄戦に参加したハーバート柳村さんは、捕虜への尋問中に日本の軍人に殺された人が多数いたとの証言を聞いたと話した。日系二世の儀間真栄さんも、アメリアへの忠誠を試された1人だった。米兵として参加していた儀間真栄さんも日本兵によって殺された住民の焼死体を発見したことを証言した。その現場は沖縄の久米島だった。久米島の日本軍は降伏をせずに、米軍から逃げることとなったが、敗走する日本兵は30人あまり。山の中に存在する壕を拠点に逃げ回っていた。

糸満市にある沖縄県平和祈念資料館には、鹿山文書とよばれる指令所が保管されていたが、そこには敵のビラを持っているだけで、スパイとみなされ殺されることなどがかかれていた。

沖縄戦当時住民のリーダー格だった人が書いた日記には、米軍よりも日本兵の方が危険であることなどが記されていた。当時を知る人は、米軍のキャンプが隣に来ただけでスパイと疑われたことなどを証言した。

報道特集 2013年12月7日(土)17:30~18:50 TBS

琉球放送 戦後70年の地平から「久米島での住民虐殺」 - YouTube

鹿山文書

1、敵が一昨日13日に拉致した住民は、青年、壮年、老人の3名とわかった。敵がどのような目的で拉致したのか今は明確ではないが、再び、同じことがあり得るので、海岸一帯の警備を強化すると共にこのよう失敗を二度と侵してはならない。
2、敵が、この三名をどうするのか不明だが、考えられることは、スパイを条件に島へ帰すのか、または敵の道案内として連れてくるのか、どちらかであろう。したがって、三名が島へ帰ってきたら、家族はもちろん、部落の者にも一切接触させてはならない。直接軍当局に引き渡すことである。
3、敵はこれから、宣伝を強化するであろうから、敵の宣伝にのってはならない。敵の宣伝ビラ等が見つかれば、すぐさま軍に届けることである。もし、ビラ等を持っている者がおればただちにスパイとして銃殺する。
4、以上のことの報告は近くの軍部隊にすること。
5、前記1と2に関して違反したときは、関係者と責任者は軍規に照らして厳重に処罰する。

鹿山文書[意訳]

 

6月26日 - 米軍の上陸

1945年6月26日、米軍が久米島に上陸する。

1945(昭和20)年 6月26日 アメリカ軍イーフ海岸に上陸。ジェームズ・ジョーンズ少佐指揮下、水陸両用偵察隊(艦隊付き海兵隊)第7海兵連隊A中隊など戦闘員742人、非戦闘員224人、計966人。(17頁)

6.20 6:44 上陸 7:15海岸に橋頭堡確保。敵の抵抗なし。(81頁)

《「太平洋戦争と久米島」(上江洲盛元 編著/あけぼの印刷株式会社) 17頁の「太平洋戦争の年表」、81頁「第1海兵師団第7海兵連隊第1大隊 A中隊」の「作戦概要 1945.6.22から7.31」1945.8.2付より》

 

久米島海軍通信隊 (鹿山隊) の虐殺事件

そして米軍上陸の翌日から次々と住民を虐殺していった。

 

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6月27日、久米島郵便局員 安里正次郎の殺害

その一、沖縄本島から西方五十カイリに位置する久米島に、海軍通信隊の分遣隊が配備されていた。分遣隊長は鹿山兵曹長であった。彼は無実の住民をスパイの嫌疑で殺して、恐れられていた。

6月26日、米軍が久米島に無血上陸した。その翌日、久米島郵便局の安里正次郎は、避難するところを米軍に発見されて捕虜になった。彼は抗戦の無益をさとり、米軍の命で分遣隊に降伏勧告状を届けに行って、その場で殺された。その後、のカネ子は悲嘆と恐怖のあまり、山田川に投身自殺してしまった。

《山川泰邦『秘録・沖縄戦記』(1969年) 》

 

妻の死は自殺といわれているが、目撃した者はいない。

 

6月29日、区長や警防班長および宮城一家、九人の虐殺

その二、字北原区の区長小橋川友晃、警防班長糸数盛保および宮城栄明の家族三人、比嘉亀の家族四人──計九人が、米軍の上陸と同時に米軍に拉致されたが、その日に帰宅を許された。

6月29日夜十一時ごろ、鹿山兵曹長はこの九人を射殺したうえ、金城宅に集め、火を放って焼いたという。

《山川泰邦『秘録・沖縄戦記』(1969年) 》

 

惨殺し、放火し、「火葬」にしたと語る鹿山隊長。

 

8月18日、久米島の恩人、仲村渠明勇一家三人の斬殺

その三、仲村渠明勇は沖縄本島で米軍の捕虜になったとき、久米島が無防備の島であることを米軍に説明して、島を艦砲射撃の難から救った恩人であった。八月十八日、彼は島に渡り「無抵抗でいるように」と、ふれまわった。そのために仲村渠父子(三人)は、鹿山兵曹長仲里村字銭田(イーフ原)で惨殺された。

《山川泰邦『秘録・沖縄戦記』(1969年) 》

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終戦後に…スパイと決めつけ、日本兵が一家刺殺 久米島 - 沖縄:朝日新聞デジタル

 

妻と一歳になるちいさな赤ん坊まで・・・。

 

8月20日谷川昇一家、無実の朝鮮人系家族5人の虐殺

その四、韓国人の谷川昇一家は、戦前から久米島の字上江洲に住んでいた。彼は貧乏だったが、妻ウタ(大宜味村出身)との間に五人の子供がいた。彼は身におぼえのないスパイの汚名を着せられて、妻子もろとも一家七人が殺された。

《山川泰邦『秘録・沖縄戦記』(1969年) 》

 

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昭和17年ごろ谷川ウタさんが久志の実家に送った親子の写真

 

一家7人の惨殺、しかも「見せしめ」のためだけに。

 

 

9月7日 - 鹿山隊の降伏

 

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27年後のスクープ

1972年4月2日『サンデー毎日』スクープ「沖縄のソンミ事件」より

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〔問〕あなたは久米島の住民を数回にわたって処刑しているといわれるが、真実か?具体的にいえば、小橋川・北原区長、糸数盛保・同区警防団長を含め、四家族九人の殺害と、その家への放火。そして、安里電信保守係の殺害。まず、この二つに限ってお聞きするが、間違いはありませんか。

〔答〕そのとおりです。これはその、スパイ行為ということですね。前者は、私直接には行きませんでしたが、軍隊を派遣してやらせたわけです。処刑は銃剣でやるように命令しました。突くようにね。

〔問〕突き殺して、放火した?

〔答〕ええ、火葬にしました。家といっしょにね、それから、あと片づけをするように、村長に命令しました。ええーと、ワシの見解はね、当時スパイ行為に対して厳然たる措置をとらなければ、アメリカ軍にやられるより先きに、島民にやられてしまうということだったんだ。なにしろ、ワシの部下は三十何人、島民は一万人もおりましたからね、島民が向こうがわに行ってしまっては、ひとたまりもない。だから、島民の日本に対する忠誠心をゆるぎないものにするためにも、断固たる処置が必要だった。島民を掌握するために、ワシはやったのです。

〔問〕安里電信保守係はどうしたのです?ピストルで撃って、ドブに蹴落としたといわれているが………。

〔答〕それはですね。ドブではないですよ。ちゃんと見張所の近くに埋める穴を掘って、そこに銃殺して埋めたということなんだ。これは私みずから、拳銃で処刑しました。ええ、拳銃を一発撃ってね、一発では死にませんから、苦しんでいる。かわいそうだから、兵隊にちゃんと銃に着剣させといて、両側からこうやって、息を引きとらせたんですよ。

〔問〕仲村梁(なかんだかり)さん一家、それに谷川さん一家の処刑も本当なんですね?

〔答〕ええ、まあ、スパイ行為で、何人かあったと思います。谷川というのは、朝鮮系で家族は二人だったか、三人だったか。命令して部下にやらせたのです。ワシが直接やったのは、電信保守係だけですが、その男はですよ、ワシの拳銃で撃たれるとき「どうもありがとうございました」と謝辞を述べてから、銃剣で息を引きとったんだ。

(ブログ筆者注・よくある日本兵の証言ではスパイ疑惑をかけられいわれなく処刑された島民が「ありがとうございました」と、処刑する日本兵に感謝した後、処刑されたと語る証言が多い。アメリカのアフリカ系アメリカ人のリンチ処刑の歴史研究でも同様だが、スパイの公開処刑はある程度、様式化 (ritualized) されていたことが推察されうる。

〔問〕殺されるのに、ありがとう、なんて言いますかね。

〔答〕日本国民で、しかも公務員がですよ、スパイ行為をして、指揮官直接に拳銃で撃たれたんだ。罪をみとめたわけですよ。だから悔いなど残りません、と。

〔問〕いま、あなたはどう思っていますか?

〔答〕少しも弁明はしません。私は日本軍人として、最高指揮官として、当時の処置に間違いがあったとは、ぜんぜん思っていないからです。それが現在になって、法的に、人道的に悪いといわれても、それは時代の流れとして仕方がない。いまは、戦争も罪悪視する平和時代だから、あれも犯罪と思われるかもしらんが、ワシは悪いことをしたと考えていないから、良心の呵責もない。ワシは日本軍人としての誇りを持っていますよ。

 

1972年5月28日『琉球新報』より

問い 久米島住民虐殺のあなたの言動について沖縄現地、とくに久米島の人たちが憤慨しているが。

答え どういう点を怒っているかということが問題ですね。

問い 二○日発売の『サンデー毎日』(四月二日号)を見たか。

答え 私とのインタビュー記事についてはその通りいったし、問題はない。

問い 反省していないのか。

答え 戦争中に取った行動に対しては当時の最高指揮官として、その時点において最善を払った。弁明は一切しないし、全部責任を持つ。

問い 住民を殺害した後、家に放火したことについてあなたは "火葬" したといっているが説明してほしい。

答え ああ、家ごと火をつけたことですが。まあ、それは、それは火葬ということでしょうな。正式には火葬という意味ではないでしょうがね。戦争中に家ごと焼き払ったということでしょうね。

問い 殺害したあとは、ほとんど家に火をつけているが。

答え 火をつけたのは北原だけだ。二七年前のことなので正確には記憶がない。

問い 良心の責め苦もないのか。

答え 良心の責め苦といってもね。いまの時代に考えればいろいろあるでしょうが当時の指揮官としての立場から最善を尽くしたこと、それに対していま時代が変わって、あれこれといわれても言を左右するということは日本の軍人としてはとらない。ワシは日本軍人としての誇りがある。(引用者注:太字部分は原文傍点)

問い スパイ容疑での処刑はどのような証拠に基づいて実行したか。

答え その時の状況は各部落とか村とか警防団からの情報を総合して処刑した。また、日本の国土防衛の点から考えてやった。

問い スパイと見たら、すぐ処刑したのか。

答え それまでには相当な日時があるし、島の人からあれはこうだ、これはああだという情報の注進があり、その情報が主になっている。ワシが勝手に独断的にやったものではない。

問い 処刑には軍法会議などの手続きが必要ではないか。容疑者のいい分は聞かなかったのか。

答え われわれの部隊は少人数で大部隊のように軍法会議を開いてそういう細ごまとした配慮をするヒマはなかった。

問い あなたは当時、久米島の人たちから大変恐れられたというが。

答え 部隊の中には久米島出身の下士官や兵がいたが島に残っておれば、その人たちにもインタービューをしたらよくわかると思う。われわれは部落の田植えなどを手伝い感謝されたこともある。ワシの判断ではアメリカの軍政下というか、アメリカの勢力範囲にある現在の沖縄では日本に協力した人たちが下積みになっていることが問題だと思う。

問い スパイ容疑と家に放火したことについて、もう少し説明してほしい。

答え それはスパイの巣くつというか、根拠地ということですね。その家でスパイ行為の謀議が行われたということで、その家を焼き払ってしまえということですね。

問い もう一度聞くが良心の責め苦はないのか。

答え いまさら良心の責め苦といってもワシはいいたくない。

問い 殺害された人たちに謝罪する気持ちはないのか。

答え 日本の軍人として取った行動であって、それが謝罪して元にかえるものでもない。あやまったからどうなんだというような立場は取らない。極端にいえば広島、長崎に原爆を落としたアメリカの最高指揮官または大統領がすまなかったとあやまればそれでことが済むかということと同じだ。日本国民として対米戦争に参加して命をマトに、もちろん生きて帰る予定でなくて、こういうことが起こったことにあやまるということは日本の極東防衛のために散った人たちに対して、ひとつの冒とくになると思う。

問い 沖縄現地の自衛隊反対についてどう思うか。

答え 日本、日本人が虐殺をやったり、いろいろやったりしたからそれで反対だということでしょうね。それに米軍がおっても同じことですし、米軍自体が沖縄で戦争をして日本をやっつけた。沖縄の人たちも痛めつけられておりますね。米軍がおってあまり反対しないのに日本が行って特別な反対があるというのは少しおかしな話ですね。

 

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久米島では、昭和20年8月15日の「終戦の日」のあとも、旧日本軍が半月にわたって降伏せずに潜伏し、住民に平穏が訪れることはありませんでした。こうした中、軍や住民が、異常な行動に駆り立てられていくのを目の当たりにした男性がいます。
あの戦争と今も向き合い続けている男性の思いを伺いました。

久米島町 久米島“戦争の異常"|戦世の証言|沖縄戦|NHK 戦争証言アーカイブス

 

その後の報道

中野学校「上原敏夫」と久米島のスパイリスト

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沖縄玉砕後も「ゲリラ戦続けろ」 民間スパイ機関が暗躍か | 沖縄タイムス

 

 離島残置工作員「上原敏夫」の戦後 

 

 

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  1. http://www.f-take.com/watanabe-book.htm
  2. http://www.f-take.com/watanabe-taura.htm
  3. 沖縄タイムス | 久米島諜報員の素性判明 徳田さん島袋さん 姉妹で追跡 本出版 陸軍中野出身 戦後関西で教員91年没
  4. 日本兵が島民を殺す 久米島の戦争 – 世界を視るフォトジャーナリズム月刊誌DAYS JAPAN
  5. 戦わぬ軍、住民スパイ視 1945年・久米島「鹿山隊」20人虐殺(上)【心縛「共謀罪」と沖縄戦・12】 | 沖縄タイムス+プラス プレミアム | 沖縄タイムス+プラス

  6. 軍が監視、住民同士が密告 1945年久米島「鹿山隊」20人虐殺(下)【心縛「共謀罪」と沖縄戦・13】 | 沖縄タイムス+プラス プレミアム | 沖縄タイムス+プラス