農林鉄血勤皇隊 見捨てられた学徒隊

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農林鉄血勤皇隊

 

  

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 嘉手納野球場前を通り、久得橋を渡ると公園駐車場があります。そこから比謝川沿いに農道を下っていきますと岩肌にくぼみがみえる一帯があります。その下に、農林隊構築壕があります。

 

 戦前、嘉手納には沖縄県立農林学校がありました。卒業生の回顧録に「みんなきちんとした制服を着け、白いゲートルで颯爽とした、その姿はどの顔も賢そうで頼もしく、子供心にも憧れの的であった」とあるように、学校に近い読谷山村からも、入学試験に合格した少年たちが多数通学していました。


 しかし、あこがれの学校生活も戦争の影が色濃くなり、勉学どころではなく、座喜味城跡の高射砲陣地の構築、楚辺から波平に至る海岸沿いの戦車壕掘り、ウマカジー(北谷平安山)の海軍砲陣地の構築、防空壕掘り、軍事教練等であけくれるようになりました。


 1945年(昭和20)3月26日鉄血勤皇隊農林隊が編成され、学徒130名(本隊110名、斬込隊20名)が動員されました。第19航空地区司令部に入隊した本隊110名は、比謝川沿いに構築した牧原の壕に配置されました。この壕の前には長屋作りの慰安所がありましたが、3月29日にこの長屋が空爆を受け、その爆風の砲火を浴びた学徒が一人戦死してしまいました。これが農林生の最初の犠牲者となったのです。沖縄戦による農林生の戦死者は124人(学徒隊23・入隊64・その他37)にのぼります。

(参考資料「沖縄戦の全学徒たち」展『報告書』ひめゆり平和祈念資料館)

33 鉄血勤皇農林隊壕跡(牧原)

 

第19航空地区司令部 特設第1連隊 (青柳時香中佐) の農林鉄血勤皇隊

米軍の上陸海岸(嘉手納正面)では当初の計画通り、特設第1連隊と独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)が戦闘を実施した。特設第1連隊は3月30日まで北・中飛行場の整備・特攻機の発進に協力し、30日夜から読谷山地区の陣地配備についたばかりで、米軍上陸時には防御配備の組織化も出来ていない状況であった。
特設第1連隊という名称ながら、その基幹は飛行場の建設・維持管理、飛行支援を担当する部隊であり、編成されたのは米軍上陸直前の3月20日であった。装備および平素の戦闘訓練等は不十分であり、上陸米軍約4個師団と直接交戦するには極めて脆弱な戦闘力しか保持していなかった。
 

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特設第1連隊の編成 (青柳時香中佐)
連隊本部(第19航空地区司令部)  約45名

第1大隊 (黒澤巌少佐)
第56飛行場大隊      約370名
第503特設警備工兵隊   約800名
* 第1大隊は4月2日喜名東側海軍洞窟付近でほぼ全滅した

第2大隊 (野崎眞一大尉)
第44飛行場大隊      約390名
第504特設警備工兵隊   約800名(2日夜戦線離脱)
要塞建築勤務第6中隊 約300名
誠第一整備隊
学生隊           約170名(2日夜解散)

独立歩兵第12大隊第2中隊  米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入
特設警備第224中隊 米軍上陸後特設第1連隊の指揮下に編入

http://www.okinawa-senshi.com/1-tokusetu.htm

 

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沖縄県中頭郡嘉手納町字嘉手納 農林健児之塔

 

戦禍を掘る 第2部・学徒動員

空襲受け級友即死 壕を出て空き家で休息中

県立農林学校の壕の目と鼻の先にあった日本兵たちの慰安所の中で、1人の農林生が戦死したのは沖縄戦が始まって間もない昭和20年3月下旬だった。たまたま1人で休息していた時に運悪く米軍機の爆撃を受け、やられてしまった。即死に近い状態だったが、さらに炎で焼かれ、顔が分からなくなるほど黒こげになっていたという。

 「彼とは、1、2年の時に同じクラスでね。頭がとても良くて成績はいつも5番以内でした。珠算なんかは誰よりも一番早かったのを覚えています。確か八重山の人。元気なころも日に焼けて顔は真っ黒くしていましたが…」

 当時、農林学校の最上級の3年生だった赤嶺猛さん(57)=那覇市松川=は亡き友をしのんで声を詰まらせた。

 農林学校は3年前の実業学校で、当時の北谷村嘉手納(現嘉手納町)にあった。19年5月ごろから北飛行場および中飛行場の建設に職員、生徒らが駆り出され、昼夜の区別なく従事。10月の那覇大空襲後は米軍の上陸に備え、比謝川上流の栄橋付近に地下壕の構築を進めていた。

 明けて20年、戦況はしだいに緊迫し、日本軍は北、中飛行場守備隊を強化するため農林学校生徒の投入を決めた。そして3月26日、鉄血勤皇隊は編成され、翌27日に守備隊指揮官の青柳部隊に入隊した。

 農林学校は600人ほどの在校生がいたが、3年生はその時、100人くらいに減っていたという。「予科練を志願していった生徒、さらに同じ学年でも年齢が上の者は現役兵としてひと足先に入隊していましたから」と赤嶺さんは説明する。

 鉄血勤皇隊として入隊した農林生たちは、北、中飛行場周辺に集めてあった食糧の運搬作業に奔走した。本拠地は比謝川上流の栄橋付近に構えた地下壕で、読谷村牧原にあったことから「牧原の壕」と生徒たちは呼んでいた。

 その牧原の壕の前には畑が広がっていて、そこにポツンと建っていた弊社が慰安所だった。かやぶきの建物で、爆撃されたころは日本兵の姿は既になく、その数日前に慰安婦たちも立ち去っていた。「うわさでは朝鮮人の娼(しょう)婦が何人かいたという話でした」と赤嶺さん。慰安所が爆撃されたわけについてはこう語る。

 「農林の生徒たちは壕の中にばかりいては息苦しくなるので、時々は息抜きにその空き家になった慰安所に足を運んでいたのです。壕とその慰安所をしょっちゅう往復するものだから米軍の偵察機に見られたんでしょうね。それが、たまたまその級友だったのです」

 山の中に建物が見えるだけでも怪しまれるのに、人の出入りが激しい。「日本軍が住んでいると思われてしまっても無理はないでしょう。米軍の攻撃目標にされたのは当然とも言えますね」

 爆撃にやられて戦死した農林生が果たして誰であったか。焼死体を自分の目で見た赤嶺さん自信も断言できない。

 「ただ、その時、田本清君*1 だけが姿が見えず、生徒たちはみんなで田本君に違いないと確認したのを覚えています」

 現場に居合わせた同級生の1人、大城堅輝さん(57)=南風原町津嘉山=も「死んだのは田本君でしょう」と当時の記憶をたどって話してくれた。「慰安所はものすごい炎で、生徒たちがいた壕の中まで煙がどんどん入り込んできましたよ」

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月25日掲載

  

南下か、北上か… 壕の中で“運命の選択”

 農林学校の壕の前の慰安所だった建物に米軍機の直撃弾が落ちてからは、騒然となった。大城堅輝さんがその時の様子を語る。

 「目の前の建物が炎を上げて燃えたものだから煙が壕まで入り込んできました。これは大変だ、壕の中に居たのでは窒息して死んでしまう。外は火が燃えているけれど、一斉に壕から逃げました。逃げ惑いながら何人かはやけどを負ったようです。とにかく大騒動でした」

 赤嶺猛さんは、焼け落ちた建物の中で同級生の焼死体を目にしたという。鉄血勤皇隊の本部はその日の晩、その牧原の壕から当時の越来村倉敷へ移動した。

 倉敷に来てからも農林生たちは飛行場周辺からの食糧運搬などに精を出していたが、空襲は日を増すごとに激化。作業従事中に十数人の生徒が機銃弾を受けて戦死したという。

4月1日、米軍はついに嘉手納海岸などから上陸した。「もう、こんなにたくさんの生徒を引率していては行動ができない」と、農林鉄血勤皇隊を率いていた尚謙少尉は痛感。ざっと100人はいた生徒の中から上級の3年生20人を選抜した。選ばれたのは、いずれも運動神経が発達した動作の機敏な者だった。

 「目つきが厳しく、生徒に対する指導も一段と厳しい人でした」。20人の中に選ばれた赤嶺さんは尚謙少尉について語る。「これからはペンを銃に持ち替え、国のために戦うんだ、という教育でした。言わば、生きて帰ってはいけないという風な精神教育でしたね」

 尚謙少尉は農林学校の配属将校だった人だ。そんな厳しかった少尉も、珍しく生徒たちにたばこを勧めた。

 「もう君たちもたばこを吸っていいよ、と言われました。これは天皇陛下からいただいた恩賜のたばこだから、じゃんじゃん吸いなさいと言って生徒たちに分けてくれました。そんなことは初めてなので驚いたものです。在学中はたばこを吸っているのが見つかると退学させられた時代ですからね。うれしかったと同時に、生徒扱いでなく本当に軍隊の一員として扱っているんだなあという感じを受けました」

 20人の生徒は尚謙少尉とともに嘉手納の飛行場に向かった。しかし、米軍の様子がよく分からない。へたに突撃して行けば集中攻撃を受けるかもしれないと判断、ひとまず引き返すことになった。

 そして、立ち寄ったのが池原という集落。「竹やぶの中にあった民間人の壕に入った」と、赤嶺さんと一緒に20人の中に選ばれた大城さんは語る。

 この池原の壕で再度出撃するチャンスを待っている時、飛行場が既に米軍の手に落ち、とても20人そこらの人数では近づけないという情報が入った。一同はうろたえ、今後の行動について話し合った。

 「その時、意見が二つに分かれました。与那原に南下して首里方面の運玉森で布陣している部隊に参加するか、それとも北上して本部半島の宇土部隊に合流するか。今思うと、運玉森に向かっていたら生きていなかったでしょうね。運命の別れ道でした」

 大城さんは神妙な表情をしてこう振り返った。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月26日掲載

 

宇土部隊に合流 本部の伊豆味 銃と軍服支給される

 当時の美里村池原の民間壕にいた20人の農林隊が移動先を南部方面でなく、北部の本部半島に決めた大きな理由は食糧事情だった。農林生の1人、大城堅輝さんは語る。

 「私たちを引率していたのは配属将校の尚謙少尉。少尉は首里の松山御殿の人で、本部半島の伊豆味に果樹園を持っているという話でした。それで、万一食糧難にあってもそこにいれば何とか食い物にありつけ、生きていけるだろうということになり、本部に行く結論になったのです」

 尚謙少尉に率いられた農林生たちは本部半島に布陣している宇土部隊に合流するため、石川、金武、宜野座などを経て名護方面へ向かった。米軍が上陸した翌4月2日の晩だった。

 「夜しか行動できないので、一晩中ずっと歩き通し。強行軍だったので疲労がひどく、ふらふらしながら並木に額をぶつけてしまったこともありました。歩いているのか眠っているのか分からない状態だったですよ」と大城さんは苦笑する。

 昼間は米軍の攻撃が激しく、林の中でじっと息を殺していた。飛行機からの爆撃に艦砲射撃も。「明るいうちはとても歩ける状態じゃなかったですよ。制空権などはあのころから全くなかったですね」と赤嶺猛さんは言う。

 赤嶺さんらは移動しながら中、南部から避難してきたらしい住民たちを多く見かけた。「石川の道路では黄りん弾のようなものでやられている小さな男の子を見ました。頭の後ろの方に火の粉が落ちてくすぶっているのです。これはいかん、と思って持っていたふきんで消そうとしたけれどなかなか消えない。田んぼに頭を突っ込まない限り消えないなどと話していたのを覚えています」

 4日朝、尚謙少尉以外20人のグループは本部の伊豆味国民学校にたどりついた。校舎を陣地としていた宇土部隊、佐藤隊にこれまでのいきさつを報告。部隊への合流を願い出た。

 申し入れは聞き入れられ、生徒たちには軍服が支給された。「軍服には階級章はなかったですが、何人かは銃を手渡され、私もその1人でした」と大城さん。赤嶺さんは「銃がなく、手投げ弾2個だけでしたね」

 この伊豆味には、かねてから話していた尚謙少尉ゆかりの果樹園があり、一同はそこに立ち寄って1泊した。

 「当時、尚家というのはあちこちに国からもらった直轄地というのを持っていたらしくてね。伊豆味の農園もその一つ。ひっそりした山の中にありました。そこではごはんを食べさせてもらったことがとても思い出に残っています。ごはんといってもにぎりめしだけ。せいぜい中にあぶらみそが入っているくらいでしたが、食べ物を口にするのは久しぶり。空腹の絶頂でしたから本当においしく感じたものです」

大城さんと赤嶺さんはその時のことを懐かしそうに振り返った。

 そうしているうちにも米軍の足音はしだいに近づいていた。7日ごろ、米軍は名護に上陸。真部山に移ることになった佐藤隊に付いて、その晩、生徒たちも伊豆味を出発した。真部山、八重岳の一帯で繰り広げられた戦闘はすさまじく、農林生たちも数人、若い命を失っている。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月27日掲載

 

見捨てられた学徒隊 真部山を脱出 「このままでは死ぬ」

 4月16日ごろ、米軍はいよいよ本部半島の真部山まで侵攻してきた。昼過ぎに宇土部隊の佐藤隊は前線防衛の命令を受け、素早く戦闘態勢。間もなく、想像を絶する激しい攻防戦が展開された。

 佐藤隊に付いて真部山まで来た農林生の一人、大城堅輝さんは自らの体験を思い出す。

 「空から米軍機のものすごい空襲。海の方からは艦砲の弾が次々とこちらに撃ち込まれてくる。何百メートルか先には米兵らが近づいているはずだが、姿が見えない。このままじっとしていたら敵が見えるまでこっちがまいってしまい、死んでしまうと思いました」

 農林生たちは最前線で戦っている日本軍の後方に控えていた。「ススキの間から1人の日本兵が機関銃に追われているシーンを見かけたことがあります。腹ばいになっていたところを機関銃がバラバラッと襲ってくる。その兵隊は慌てて立ち上がり逃げ出したんですが、そこをまたバラバラッと弾の雨」。大城さんは身振り手振りで話を続ける。

 「ある時、山の中腹のタコ壷(つぼ)に隠れていた私たち農林生たちは上の方で機関銃の音を聞いたのです。味方の機関銃かもしれない。仲間の1人が確かめてくることになり、じゃああんたが帰ってくるまで待っておこね、とみんなで言ったのです。そうしている間も弾がどんどん落ちてきました」

 様子を見に行った農林生の話では、味方かと思ったら敵の機関銃だった。「命からがら逃げてきた」という。

日本軍は行方知れずになっていたのである。大城さんは言う。「あとで知ったことですが、日本軍は既に真部山から八重岳方面に退却していたのです。結局、農林生たちのことは見捨てたというわけです。死んでもここを守れ、と言われた言葉を信じてその気になっていたのに…。手投げ弾を与えられ、米軍を目いっぱい引き付けてから投げるんだよと教えられたばかりで、裏切られた気持ちでした」

 この真部山で数人の農林生が戦死した。赤嶺猛さんは死んだ同級生の一人、比嘉新政さんのことが今でも忘れられないという。

 「新政君は沖縄戦が始まる前に、春休みで田舎に帰っていたんですよ。田舎というのがこの真部山のある本部の町。自分の家でおとなしくしていればいいものを農林生が来ているというのを聞き、一緒になりたいと申し出てついてきたら運悪く戦死してしまったわけです。参加しなくてもよかったのに、わざわざ死ににきたようなものですよ」

 「かわいそうだね」―赤嶺さんはため息をつくようにしてつぶやく。

 タコ壷の農林生たちはやがて「真部山に残っているのは自分たちだけだ」ということに気づいた。「このままでは死ぬのは目に見えている。脱出だ」。2、3人ずつ組み、次々と日本軍がいると思われる八重岳を目指して出ていった。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年2月28日掲載

 

食料分け与えぬ日本軍 空腹感のつらさしみじみ

 真部山から命からがら八重岳に退却してきた農林生たちは、改めて日米の力の差を痛感していた。伊江島から海を渡って脱走してきた一人の防衛隊員のことを赤嶺猛さんは語る。

 「その人は夜中に島からクリ舟で逃げてきたらしいんです。27、8歳くらいでウチナーンチュでした。山の上から伊江島の様子はよく見えたのですが、何百隻という米軍艦に包囲されていましてね。その人も最初から全然抵抗できないくらいだったと話していました。激しい艦砲射撃で恐らく島は全滅だろう、とね。あれだけの船がいる中をよく発見されずに本部までこれたもんだと不思議なくらいでした」

 八重岳では、農林生たちが激しい空腹感に見舞われていた。しばらく食い物を口にしていない。大城堅輝さんはその時のつらい思いを振り返る。

 「八重岳には自分たちを見捨てていった日本軍の部隊がいましてね。食糧がたくさんありました。生徒たちはもう目を輝かせて缶詰などにありつこうとしたら、軍隊は分けてくれない。退却する日になって缶詰は捨て去られることになったんですが、それでも食べることは許されない。どうせ捨てるものなのに何でくれないのかなあ、とつくづく非情に思いましたよ」

 多野岳に退くことになった晩は軍馬も銃殺された。「足手まといというのが理由ですが、そのまま残していくと敵に利用される恐れがあるとも言っていました」。銃で撃たれ、倒れた馬は息絶えだえに顔だけプカプカさせていたという。

 八重岳では2人の農林生が重傷を負っており、退却に当たってこの2人を担架に乗せて担いでいくことになった。部隊のあとについて出発したものの、途中、今帰仁の呉我山に差し掛かったところで先を急ぐ部隊についていけなくなってしまった。

 「担いできた連中で、もうこの2人はここに捨てていこうという相談をしました。かわいそうだけど、しようがない。近くには避難民もいるからかえってここに残っていた方が安全かもしれないよ、などといい加減なことを2人に言ったんです」と、赤嶺さんは仲間を置き去りにした苦い思い出を話す。

 農林生たちが出した結論に、担架を担いだ一人、松川寛一君が反対した。「こんな病人を捨てていったら飢え死にするじゃないか。僕が彼ら2人と一緒に残るよ」

 結局、松川君の言い出しを幸いとばかりに農林生たちは立ち去るふん切りをつけた。そして「敵の状況はどうなっているか見て来ようね」と都合のいい言葉を残し、出発した。大城さんは言う。

 「時間がなかったんです。軍隊は生徒たちに構わずどんどん進んでいくし、このままでは行方が分からなくなってしまう。急いで追いつかないといけない。多野岳の場所は知らないし、必死でした」

 残された3人はその後どうなったのか。「重傷だった伊是名君と与那覇君の2人は無事でしいたが、面倒を見るため残った松川君がやがて戦死したようです。のちに久志村(現名護市)の三原で捕虜になった与那覇君に出会い話を聞いたら、敵に見つかって殺されただろうとのこと。何か食べ物を探しに行ったきり二度と戻ってこなかったそうです」と大城さん。

 赤嶺さんは「けがをして歩くことさえできなかった2人が運良く生き延びて、あんなに元気だった松川君が戦死してしまうなんて。看病で残ったばかりに…」と語り、声を詰まらせる。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年3月4日掲載

  

電話線の“終点”に缶詰 米軍の高性能銃に驚く

 退却を急ぐ日本軍の部隊に置いてきぼりにされた農林生たちのグルー黄は、行方を追って今帰仁・呉我山の集落近くまでやってきた。そこで、グルー黄の一人がふと前方の路上に電話線のような長いひもがあるのを発見。「ひもをたどっていけば、ひょっとして軍隊に行き着くのでは…」。生徒たちは思わず顔を見合わせ、小踊りしたという。

 「姿の見えなくなった軍隊を捜すのに懸命でしたから都合のいい解釈をしたんでしょうね」と大城堅輝さんは笑って振り返る。「今になって考えてみると、何の根拠もない推測でした」

 電話線は路上から近くの川に続いていた。水のない枯れた川だったので、農林生たちはそこに次々と飛び下り、電話線に沿って足を進めてみた。

 そして“終点”でびっくり。「何と、電話線の先っぽにあったのは魚の缶詰。確か鮭(サケ)だったと覚えています。ざるのようなものに入っていました」と、大城さんは今でも不思議そうな顔つきで話す。

 赤嶺猛さんは「これはきっと米軍が仕掛けたもので、毒が入っているに違いないと疑った」という。

 ところが、よく見たら缶詰は日本製のよう。生徒らは「これなら毒が入っている心配はいらないだろう」と判断、喜んで缶を開けた。以前に八重岳で缶詰を食べ損なっていただけに味は格別だった。

 けたたましいトラックの走る音がしたのはその時だ。「敵が来た」。缶詰を手にしていた生徒たちは一斉に隠れ場所を探した。

 現場は山あいの谷間。道路とがけっぷちの間を川が流れている格好になっている。その急傾斜の斜面に数人が隠れることのできそうな茂みがあったので、みんなは慌ててよじのぼった。大城さんがその時の様子を語る。

 「茂みの中から道路の方に目をやると、米軍のトラックがひんぱんに通る。見つかるとやられてしまうのは目に見えているので、傾斜にしっかりとしがみついて息を殺していました。力尽きて下に滑り落ちては慌ててはい上がったり。日が暮れるまで緊張の連続でした」

 やがてあたりが暗くなった。冷や汗をかいていた農林生のグループは、いったん川に下りて反対側にある道路にはい上がった。大城さんはその時、米俵を転がしながら行き過ぎようとする一人の住民を見かけた。

 「この米俵はどこで探したのか、どこに持っていくのかと尋ねたら、近くに日本軍の兵隊がおり、彼らに頼まれて運ぶ途中とのこと。えっ、近くに日本軍がいるのか、と歓声があがりました。何度もその人に念を押したものです」

 この住民の案内で、農林生たちはやっとのことで軍隊に合流することができたのである。

 再び軍隊と一緒になった尚謙少尉の率いる農林鉄血勤皇隊は、呉我山から伊差川を抜けて多野岳にやってきた。多野岳では軍隊が前線で米軍と交戦していたが、赤嶺さんたちは戦った記憶はない。ただ、両軍の武器の違いを知って、あ然としたことがあった。

「白人兵が死んでいると言うんで見てみたら銃を持ったまま息絶えていました。アメリカ人の死んでいる姿を目のあたりにするのは初めてで、とりわけ銃を見てびっくり。何発もグルグルと弾の出る、いわゆるライフルのようなもので、1発撃ってまた1発という日本の小銃とは比べものにならない高性能。これでは日本軍はとてもいくさなんてできないなあと思った」と赤嶺さんは言う。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年3月5日掲載

  

距離20メートルの戦闘 突然襲った連射銃弾

 多野岳まで行動をともにしてきた農林生たちは、さらに退却するに当たって二つのグループに分かれることになった。以前に本部の伊豆味国民学校で銃を支給されていた大城堅輝さんらのグループは引き続き宇土部隊と一緒。銃を持たない赤嶺猛さんらは尚謙少尉が引き連れて別行動をとることが決められた。

 「多野岳に来るまでに何人かの同級生が戦死しましたが、移動しているうちに地元にいた農林生たちがグループに加わったので実数は勤皇隊結成時とほぼ同数の20人はいました。それが二手に分かれたので、ざっと10人ずつになったはずです」

 多野岳の山中で別れわかれになった時の人数をこう説明し、赤嶺さんは自分たちのグループがその後、体験した悲惨な出来事を語る。

 「尚謙さんに連れられて多野岳から目指したのは東村の内福地というところ。内福地に向かう途中、周辺の集落から話を聞きつけた農林生たちが何人か駆け付けてきてくれたので全部で14、5人にはなっていたでしょうか。戦争前に田舎に疎開したり、避難していた連中でしたが、積極的に仲間に入れたほしいと申し出てきたわけです」

 内福地では米軍の激しい攻撃に見舞われ、尚謙少尉をはじめ7、8人の農林生たちが最期を遂げた。20年の4月末ごろだった。赤嶺さんはその前の晩のシーンがなぜか頭に焼き付いているという。

 「その晩は月の光がいつもより輝いていた気がします。グループの行動というのは米軍が攻撃の手を休める夜に限られていて、その時も内福地の川沿いを行軍。非常にいい天気でポカポカしていたので着ていたシャツや軍服を脱ぎ、川の水で洗濯したのを覚えています」

 そして翌日―。太陽が真上に差し掛かっていたころ、突然、パンパーンと銃声が2発ほど響き渡った。内福地の川を臨む丘の斜面の木の上で体を休めていた農林生たちは音のした方向を見下ろした。武装した米兵が2、30人。間もなく激しい戦闘となった。

 「敵との距離はほんの20メートルくらい。武器は向こうの連射銃に対し、こちらは手投げ弾がたったの2個。結果は知れていました。投げた手投げ弾が近くの木に当たってはね返り、自爆した形で死んだ仲間もいます。とても歯が立たないと思い、敵に背を向けて夢中で丘を駆け上がりました」

 赤嶺さんは身振り手振りですさまじさを再現する。ただ、その丘の一帯は草木がおい茂っており、米軍の兵たちも銃の照準が定まらない様子。幸運なことに赤嶺さんは逃げ延びることができた。それでも丘を駆け上がりながた背中を弾がかすめ、「その時の傷は今でも背中に残っている」。

尚謙少尉は戦死。隊長を失った農林勤皇隊はこの日から解散状態となってしまった。

 命拾いした赤嶺さんは、避難先の東村の有銘という集落で県立二中の配属将校だった高山中尉に出会った。当時、有銘地区は避難民でいっぱい。その避難民たちから耳にしたのか、高山中尉は「そっちの配属将校だった尚謙さんは内福地で死んだそうだなあ」と話しかけてきた。

 「遺品を拾ってこいと命令されたのです。髪の毛でもいいから、と。現場に行ってみて思わず顔をそむけたくなりました」

 あれから3週間近くたっていたため、一帯の丘には半ば白骨化した遺体が散乱していた。どの遺体がどの生徒か判別できないほど腐乱している中で、あごひげの生えていた尚謙さんだけははっきりと確認できたという。

 赤嶺さんは尚謙さんの髪の毛にかみそりを入れた。

(「戦禍を掘る」取材班)

  

尚謙少尉の遺髪手に 戦場は目を覆う惨状 

 尚謙少尉の率いる農林鉄血勤皇隊が最期に戦った場所は、東村の福地川上流、現在の福地ダムを臨む山中にある。戦闘から20日ばかりたって現場を訪ね、半ば白骨化した尚謙少尉の遺体から髪の毛を切り取り、持ち帰ったという赤嶺猛さんが当時を振り返る。

 「散乱する遺体の中でただ一つだけ、ほおとあごにひげがあり、尚謙さんだと確信しました。ひげや髪の毛が残っているといっても頭ガイ骨にわずかに付着しているという感じ。40歳くらいでしたか。性格的にはとても厳しい人で、親しく話したという記憶はあまりありません。冗談も言わない人でしたから。首里の尚家のえらい人だったらしくて大政翼賛会か何かに関係していると聞きました」

 戦闘のあった現場は目を覆いたくなるような惨状だったが、転がっている遺体を哀れんでいる余裕はなかった。

 「いつまた米兵がやってきて襲われるか分からない。県立二中の配属将校だった高山中尉に命令され、遺品を探しに出たのも日が沈み、暗くなってからでしたから。戦闘で受けた背中の傷の痛みが少し残っていたころで、現場に行くのは本当に恐る恐るといった感じでした」

 尚謙少尉の遺髪を手に入れた赤嶺さんは一時も早く、その場を立ち去らなければならなかった。はやる気持ちを抑えてほかに遺品がないか探したが、米軍が持ち去ってしまったのか日本刀などは残っていない。死んだ生徒たちは白骨化してだれがだれか判別できなかった。

 赤嶺さんは「たとえ危険な場所であってもせめて仲間の遺体くらい穴を掘って埋めてやるべきでした」と今更ながら悔やむ。

 内福地で戦死した同級生のうち安次嶺幸寿君と大城喜孝君の2人は、越来村(現沖縄市)倉敷で20人が特別編成された時からずっと一緒だった。

 「幸寿君はスポーツマンで100とか200とかの短距離をやっていました。スラッとして背が高かったけれど、割と控え目な性格でした。剣道がうまかったのが喜孝君。足が少し悪かったけれど、それでもクラスで1、2番の強さでした」

 中里甚勝君や1級下の2年の平田清君、1年の平良恵春君らは、北部方面で移動中にグループに加わり、戦死してしまったという。

 「恵春君は銃剣術の猛者でね。いつもナンバーワン。甚勝君の場合は成績優秀だったのを覚えています」

 戦火に巻き込まれる前の楽しかった学園生活を振り返る赤嶺さん。元気だったころの親友の顔を一人ひとり思い浮かべて懐かしがったが、友を失った寂しさは隠し切れない。

 赤嶺さん自身も生きて帰れるという考えは全く抱いていなかった。「20人が選ばれて特別に編成された時、後輩に何か遺品となるものを持たすことになり、家族に届けてほしいと自分の写真を託しました。写真の裏に、もう恐らく元気で帰ることはないはずだから、と走り書きして…」

生徒のだれもが日本は必ず勝つと信じ切っていた。「戦いながら敗色濃厚になっても神の国が負けるもんかという気持ちでいっぱい。先に召集されていった農林生たちから届く手紙も靖国で会おうという内容ばかり。国のためには喜んで死ぬつもりでしたからね」と、赤嶺さんは軍国主義教育の徹底ぶりを語る。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年3月7日掲載

  

墓標はダム底に 40年前の戦闘場所確認

 「尚謙さんの遺髪はちゃんと遺族の元に届いただろうか」

 危ない橋を渡ってまで手に入れた遺髪のその後を赤嶺猛さんは気にかける。遺体から切り取ってきた遺髪を赤嶺さんから受け取った県立二中配属将校の高山中尉は間もなく収容所に移り、そのあと、すぐに本土に帰ってしまったという。

 「混乱の中でとても遺族の消息を尋ね歩くゆとりなんてなかったでしょう。恐らく遺髪は持ったまま本土に戻ってしまったと思います。高山中尉は当時、20代の半ばごろ。見習い士官を終わって間もない感じでしたが、つい4、5年前、亡くなったというのを新聞で読みました」

   ◇   ◇

 去る2月下旬、赤嶺さんは40年前の戦闘場所を探して東村を訪ねた。福地川上流の福地ダムのあるあたりだったと記憶していたが、確信がない。「内福地ならもっと奥の方ですよ。でも今は人は住んでいないんじゃないかな」などと近くの民家で教えてもらい、川沿いをさかのぼる形で車を走らせた。

 聞き込みを続けているうちに、ダムに行く手前の宮城という集落で「現場を知っている」というお年寄りに会うことができた。終戦直後にシベリアから帰り、この地に住みついたという新里松吉さん(66)で、当時のことを思い出し、話してくれた。

 「あの辺は激しいいくさがあり、たくさんの人が亡くなったと耳にしました。当時の青年会の人たちが遺骨を集め、どこかにまとめて祭ってあるはずです。戦いのあった所には、松山御殿の人が亡くなった場所として墓標が建てられ、靴などが遺品として墓前に並べてありました」

 現場を案内しながら新里さんは、そこから見える川の水面を指さした。「墓標も今はダムの底です」。さらに一帯の草むらを見渡して言った。「足元には今でも銃の弾などが転がっていますよ」

   ◇   ◇

 沖縄本島南部で戦いがやんでしばらくした20年7月10日ごろ、赤嶺さんは北部東海岸の大浦湾を望む瀬嵩で捕虜になった。その時の模様を赤嶺さんが語る。

 「いっぱいいる避難民の中に学校の2期先輩くらいの人がいて、黒人兵なんかと一緒に炊事をしているんですよ。つい最近まで鬼畜米英と言って教育されてきたのに、こんなでいいのかなあと首をかしげたくなりました。炊事係をしているから太っていてね。だんだん仲良くしているのがうらやましくなったものです。みんなひもじい思いをしている時期だったので背に腹は代えられないという気持ちも理解できていたわけですよ」

 数日後、大浦湾に南部方面から避難民を多数乗せた船が入った。行ってみたら赤嶺さんの田舎である南風原からの人が何人かいたという。顔見知りの人を見つけて話を聞くと、南部は全滅だということだった。

 「母や祖母、2人の妹、それに親類のものもすべてやられてしまったと言うのです。あんたの家も全滅だと言われた時は本当にガックリ、すっかり肩の力が抜けてしまいました」

 何とか気を持ち直し、赤嶺さんはその足で兄嫁が疎開したと聞いている宜野座の松田に向かった。そこでは日雇いの作業に出て1個のにぎりめしをもらったが、「山の中でソテツばかり食べていたのでおいしかった」という。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年3月8日掲載

 

食糧求めて争う 生徒もバラバラで行動

 「食い物の争いは人を変える」とよく言われるが、大城堅輝さんは沖縄戦でこのことを身にしみて感じた。「あんなに親しくしていた生徒たちが仲間割れするはめになってしまったのですから…。苦い体験でした」

 多野岳で農林鉄血勤皇隊のメンバーは二手に分かれて行動することになり、銃を支給されていた大城堅輝さんらのグループは引き続き軍隊に付き、東村の慶佐次に向かった。別れた尚謙少尉の率いるグループとはその後、二度と会うことはなかった。

 「慶佐次の集落に着いたら早速、食糧探し。口にできるものはほとんどなく、イモを見つけるのもひと苦労でした。そのころ耳にしたのは本島南部で味方の軍隊が勝っているとのうわさ。食糧もきっと豊富だろうなあ、とうらやましくなったものです」

 この慶佐次では、イモを手に入れてきても思うように食べることができなかったという。悔しくてたまらなかった胸のうちを大城さんが明かす。

 「取ってきたイモを食おうとたき火で焼いていると、軍隊の人たちが寄ってくる。もう焼けているころじゃないか、と言ってはたき火の中にはしを突っ込み、勝手にイモをさらっていった。生徒たちは2等兵だから何も文句が言えませんでした」

 「こんな兵隊たちと一緒にいたらいつまでたっても食い物にはありつけない」と農林生たちのあせりは募るばかりで、ついに、軍隊と分かれて別行動しようという話が持ち上がった。生徒たちの決意は固まり、食糧が豊富だと聞いている南部を目指して突破することになった。

 ひそかに慶佐次を抜け出した農林生たちは、東海岸沿いを南下して大浦湾までやってきた。ところが、そこで米軍の陣地を前方に発見、これ以上先へ進むのは危険な状態になった。

 「道は一本。左手は海が広がり、泳いで陣地の向こう側に渡るとしても見つかって海上を狙い撃ちされる恐れは大きい。かといって右側は急斜面の山。先へ行くにはどうしてもこの一本道を強行突破するしかなかった」と大城さん。

 強行突破は果たして可能か。グループの1人が米軍の様子を偵察するため忍び足で出て行った。間もなく戻ってきたその生徒は両手を左右に大きく振った。「とてもとても突破は無理。見つかったらイチコロだ」

 話では、米軍は野営テントを張って大勢でたき火をしていた。場所は道のすぐそばの草むら。たき火の明かりで道が照らされ、見つかるのは目に見えている。

 生徒たちは突破を断念した。とたんに張りつめていた糸がプツリと切れ、力なく瀬嵩の山の中に引き返して行った。

 「その時、農林生は10人くらいいましたかね。その10人が食べ物のことでもめ始めたのです。みんな疲れ果てて食糧を集めに行く元気がない。だれか一人が手に入れてくると、それを10人で奪い合い。以前に慶佐次で日本兵にイモを奪われたことがあり、その時はじっとこらえたが、生徒の間となると話は別。けんかですよ。で、結局、生徒たちも今後はバラバラに行動しようということになりました」

 大城さんは、最も仲の良い友達と2人でそこを立ち去った。

   ◇   ◇

 「戦争体験を周りの人に話すことはめっきりなくなりました」と赤嶺さんは言う。子どもたちに話しかけても「イモばかり食べたわけが分からない」とか「戦争するなんてばかみたい」としか反応がないというのが理由らしい。歳月の流れをかみしめているようだった。

(「戦禍を掘る」取材班)1985年3月11日掲載

 

帰り場所を失った本島南部、宮古や石垣出身の学徒が

県立農林学校学徒、戦死10人名前判明 

琉球新報

2015年6月7日 14:20

 沖縄戦中の1945年4月28日、東村内福地で米軍との銃撃戦で死亡した県立農林学校の学徒10人の名前が6日までに判明した。昨年、東村宮城に建てられた「県立農林学校隊最期の碑」そばに、隊長を含めた11人の名を刻んだ刻銘板が設置される。内福地では配属将校の尚謙少尉を含めた同校の「肉迫攻撃隊」の11人が戦死したとされるが、学徒の名前ははっきりしていなかった。

沖縄戦から70年が経過してようやく、犠牲者数としての「11人」から、誰が亡くなったのかが明記されることになる。


 沖縄戦当時、農林学校の生徒だった名桜大学前学長瀬名波栄喜さん(86)が、同窓会名簿、生存者の手記、新聞記事などの資料や遺族、他校の元学徒の聞き取りなどを通して10人の名前を明らかにした。

 農林鉄血勤皇隊には約170人の生徒が動員された。学徒たちは幾つかのグループに分かれて行動していたり、解散と合流を繰り返したりするなど動きが複雑なため、最終的に内福地まで行ったのが誰なのかも不明だったという。

 沖縄戦から70年が経過し、関係者は死去していたり、生存していても高齢のため記憶があいまいだったりして当時をたどるのは困難を極めた。瀬名波さんは「遺族はどこで亡くなったのかを知りたい。生き残った者の務めとして11人という数字ではなく、誰がここで亡くなったのかをはっきりさせたかった」と話した。

 名前が分かったことで、内福地で死亡した学徒の出身地、年齢も分かった。当初3年生で構成された「攻撃隊」だが、最後は1、2年生も参加しており、ほとんどが本島南部や宮古八重山出身だった。瀬名波さんは「解散後、帰る場所がなくなり、攻撃隊と一緒に行動したのだろう」と推測する。

 

 刻銘される戦死学徒の氏名は次の10人。(敬称略)
 【3年生】安次嶺幸寿、大城喜孝、大城甚勝、我部操、狩俣栄【2年生】神谷仁助、島袋寿夫、新本弘吉【1年生】仲村禎信、平田清

 

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  1. 農林鉄血勤皇隊 状況1 飛行場の構築作業、戦車壕やタコ壺壕掘り作業 - YouTube

  2. 北部の山中で農林の鉄血勤皇隊をめざすが断念(勝連朝蒲さん) - YouTube
  3. 県立農林学校学徒、戦死10人名前判明 瀬名波さん調査 刻銘板設置へ - 琉球新報

 

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蛇足【ネトウヨ沖縄戦

ネトウヨ・チャンネルの資質

いかに歴史修正主義チャンネル桜」キャスターで統一教会機関紙「世界日報」ライターの沖縄戦知識が、無知と妄想と希望的観測ででき上っているか。情報の断片のみを切り取り、間違いに基づいた間違った解釈をさもありがたげに拡散しているか、本当に物笑いの種である。これが歴史修正主義のクオリティー、一連の記事の一部だけ切りとり、何を喧伝しているかご覧ください。 →  二中の恩人高山大尉 - 狼魔人日記   危険な地域に遺骨を取りに行ったのは少年であり、高山大尉ではない。尚家に遺骨を渡したかどうかも確認できていない。しかも、

「それに比べ県立二中だけが那覇にある学校でありながら、北部に移動したため比較的死傷者が少なかったといわれている。そのためか、「二中健児の塔」現在どこに建立されているかを知る県人は少ないし、二中や那覇高校関係者でさえもほとんどが知らなかった。」

北部に行ったから死傷者が少なかった? 知らないのは自分だけ。本当にどうしようもないドシロウトである。比較的死傷者が少ないとはどういう意味だろうか。勤皇隊よりも通信隊が多かった二中では、戦死者率 82%、115人の戦死者だが。チャンネル桜統一教会機関紙世界日報の水準とはこの程度であることを認識してほしい。詳しくはこちらを。

【Archive 2-10】沖縄県立第二中学校 二中通信隊 「歩けないなら自決しなさい」 - 首里~摩文仁~ハワイの収容所へ - Battle of Okinawa

*1:2019/8/16 沖縄タイムスの記事より

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