首里高等女学校 瑞泉 (ずいせん) 学徒隊 ナゲーラ壕の石部隊野戦病院壕でおこったこと

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ナゲーラ壕(南風原町)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

 

高等女学校、というと現代の高校みたいだが、旧制の女子中等教育制度で、今の中学生から高校の二年生にあたる。

 

12歳~ 高等女学校1年 新制中学校1年
13歳~ 高等女学校2年 新制中学校2年
14歳~ 高等女学校3年 新制中学校3年
15歳~ 高等女学校4年 新制高等学校1年
16歳~ 高等女学校5年 新制高等学校2年 

 

首里(学校)/沖縄県立首里高等女学校 桃原町校舎 : 那覇市歴史博物館

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明治30年(1897年)4月首里区立女子工芸学校として、首里尋常高等小学校女子部に附設され、明治33年女子部より分離。明治41年首里城内に移転。大正10年に首里市立女子工芸学校と改称。昭和9年、桃原町に新校舎落成移転。昭和12年、終業年限を4年に改正、沖縄県首里高等女学校と改称された。

 

女子学徒動員は15歳から、法的根拠もないまま32軍司令部の申し入れに従う形で踏み切られた。

 

1945年3月27日夜8時ごろ、ナゲーラ壕の野戦病院の原っぱにある兵舎テントで卒業式がおこなわれた。親兄弟の姿はなく、校長と将校と知事代理だけが参列した卒業式だった。そして翌3月28日から野戦病院壕での従軍看護の日々が始まる。

 

この戦争で61人投入された首里高女学徒隊の半数以上33人の女子学徒が亡くなった。戦後、教え子たちの各家を回った教師たちはどんな思いだっただろうか。軍に押し切られたとはいえ、時代だとはいえ、教育現場がこの子たちを戦場に送り出したのだ。

 

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日本の教育現場が少年たちを戦場に送りだしたという紛れもない現実 ~ 35年前の琉球新報『戦禍を掘る・学徒動員』を読み直す ~ 資料『沖縄戦に動員された21の学徒隊』 - Battle of Okinawa

  

ナゲーラ壕 第62師団(石部隊)野戦病院

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 新川に構築された全長約200~300mほどの人工の野戦病院壕として手術室・薬品室・商務室・看護婦や将校の控室・患者室が設置され、看護のために首里高等女学校のずいせん学徒と、沖縄昭和高等女学校のでいご学徒が動員されました。 現在、壕は沖縄自動車道那覇インターチェンジ料金所周辺に一部残っています。

 南風原町の戦跡: ナゲーラ壕 南風原町

  

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ナゲーラ壕(南風原町)| 戦跡と証言 | 沖縄戦70年 語り継ぐ 未来へ | NHK 沖縄放送局

 

琉球新報が記録した沖縄戦から40年後の証言を再読するシリーズ。今回は首里高等女学校の瑞泉学徒隊、ナゲーラ壕についてである。

 

(1)壕の前で卒業式 首里高女41期生 半数以上33人が戦死

 南風原町新川―。第2次大戦中、この集落に石部隊野戦病院壕があったことを知る者は少ない。当時、この壕にいた関係者たちは、かたくなに口を閉ざし、その悲劇を語ろうとしなかった。そのため、人工のものとしては県下で最も完全な形で残っている横穴陣地壕でありながら、その存在を一般に知られることなくベールに包まれたままだ。

 

 通称「ナゲーラの壕」と呼ばれていたこの壕は、今ではすっかり草木に覆われている。遠くから眺めると、とても壕がそこにあることに気付かないし、かなり近づいても壕入り口の穴さえ探すのが難しい。

 

 この病院壕には、沖縄戦当時、県立首里高等女学校の4年生63人が女子学徒看護隊として働いていた。彼女たち「瑞泉隊」は、負傷兵の看護や世話に奔走し、そして多くの患者の死を見てきた。将兵のほかにも、防衛隊や正規の看護婦、同じく看護隊として働いた昭和高女の人たちなどが、爆風にやられ、あるいは熱にうなされたりして息絶えた。

 

 瑞泉隊は半数以上の33人が沖縄戦で戦死したが、このうち3人がこの壕で亡くなっている。かろうじて生き残った人たちは、仲間3人の遺骨がどうなったのか、ずっと気懸かりだった。しかし、この土地を訪ねてきても、遠くから見るだけで近づくことができない。当時のもようは思い出すほどに恐ろしく、彼女たちはだれ一人として入壕することができなかった。

 

 彼女たち首里高女41期生の結束は強い。戦後間もなく、首里桃原町にあった同校グラウンド跡にずいせんの塔を建立し、亡くなった友を祭った。塔は現在、糸満市米須に移されているが、観光ガイドブックに載ることもなく、同校関係者以外にお参りにくる人はほとんどいない。

 

 そんなある日、首里高女の生存者5人が病院壕跡に行くことを決意した。「一人ではとても行けないが数人で行けば大丈夫だろう」と戦後39年目に心の区切りを付け、去る6日の昼すぎ、壕に向かった。

 

 首里崎山町の方から細い道を下ると、ひっそりとした所に壕はあった。彼女たちの記憶は確かだ。この日は小雨がパラつき、足元がぬかるんでいたが、畑のあぜ道をしっかりと踏みしめながら壕の正面入り口を目指す。

 

 「この辺で卒業式をしたんですよ」と星野正子さんが思い出したように言った。彼女が指さした場所は、病院壕入り口前に広がる原っぱで、今は野菜畑になっている。「昔はここに三角兵舎がありました。その前に張られたテントで卒業式をしたのが3月27日。夜の8時ごろでしたね」

 

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 小波津鶴子さんは「卒業するという喜びがなかった」という。仲西由起子さんも「親元を離れ、不安がいっぱい」だった。ろうそくの灯だけがともる卒業式は、校長、知事代理、将校が参列したものの、父兄1人もいない異例の式になった。

 

 「校歌を歌ったけれど、みんな途中で泣き出して声になりませんでした。私たちには何の希望もなかったですから」と星野さんは声を詰まらせた。

 

 その翌日の昭和20年3月28日、首里高女は、正式に石部隊野戦病院に配属された。

 

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月9日掲載 

 

(2)怖かった死体処理 患者が自爆、飛散した肉片

 那覇市首里崎山町と南風原町新川の境界を流れる金城川(安里川上流)は、戦時中でも、もっと水が透きとおっていたという。薬品室で勤務していた星野さんは「この澄んだ水をくんで薬品の調合などに使っていたらしいですから」と話す。

 

 壕は、この川の南風原側にある。遺体だけを崎山町の方へ運んで捨てた。死体捨て場から見ると、壕はさらに小さな川をはさんで左右に分かれている。卒業式をした正面入り口付近は、現在崩れ落ちて崖になっているため、彼女たちは死体捨て場の方から川を渡ることにした。

 

 「ここに幅1メートルくらいの橋が架かっていましたよ」と真喜屋とみ子さんが言う。「私ともう1人の女の子で死体をタンカに乗せてよく運びました。女2人では重くてねえ。艦砲射撃で大きく開いた穴の中へ、『一、二の三』と号令をかけてほうり込みました。死体処理は一番怖かったです」

 

 川は浅いが、現在では泥水になっているので、草木をへし折って敷き、足の踏み場をつくる。真喜屋さんたちは、あとから渡る人の手を引いて、何とか南風原側へたどり着いた。小川沿いに草木をかき分けながら進むと、目の間には紛れもなく、ポッカリ口が開いている穴がいくつかあった。

 

 「うわあ、全然残ってないと思っていたのに」と仲西さんが声を上げる。ほかの人も一瞬、足を止めた。「あっ、そこは伝染病患者がいた所です。あのころはチフスが流行してましてね。そういえば、郁ちゃん(金城郁子)も伝染病。やがて脳症をおこして死にましたけれど」

 

 星野さんがこう話し、死んだ友を思い出し、たまらないといった表情をした。しかし、一人ぼっちでなく数人でこの壕にやって来たことが、彼女たちの気を強く持たせた。そして、戦後、「瑞泉隊」の生き残りがだれ一人として足を踏み入れることのなかった壕に入ることにした。

 

 大雨で浸食されたのか、小川が当時よりも低い位置にあり、壕入り口は彼女たちの頭ほどの所にある。ここもまた、互いに手を引いてもらわないとのぼれない。彼女たちは既に50代半ばにさしかかっているが、身のこなしは、当時を思い出して若返ったかのような軽さ。そこには女学生の姿があった。

 

 壕の中は、多少落盤があったらしく、足元がでこぼこだった。それでも、「当時とほとんど変わらない」とみんなが口をそろえていう。真っ暗闇の中、数個の懐中電灯がレーザー光線のように壁を照らし出す。死にもの狂い掘ったのであろう。ツルハシの跡が痛ましかった。黙っていると無気味なので、声を出す。

 

 真喜屋さんが壁を指差しながらいった。「手りゅう弾で自決した患者の肉があたり一面に飛び散りましたね。私は壁に食い込んだ肉をピンセットで取るように命令されたんです。1枚、1枚はがすのが大変でした」

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月10日掲載

 

(3)院長「私と戦死だ」 切断した足持ち川に落下

 首里高女看護隊は、入壕前日の卒業式で、石部隊野戦病院長から「諸君は僕とともに戦死する」と覚悟を促された。そして、看護婦としての正規の被服支給はなかったものの、胸に「石……」と番号、血液型などを書き込んだ部隊表示を付けていた。いわゆる軍属である。

 

 覚悟の入壕ではあったが、まだ10代の彼女たちにとってはあまりにも過激なシーンが多かったようだ。たまたま、担当の薬品室から手術室を通りかかった時のことを星野さんは思い出す。

 

 「明かりを持たされ、手術する負傷兵の傷口を照らすよう命じられたのですが、最初のころはとても怖くて。切断する個所をまともに見ることができず、誤って顔を照らし出したら『だめだ。お前はどこの勤務だ』と怒鳴られました。明かり持ちはよかった方で、足を押さえるよう命じられた時は青くなりましたよ。切り落とした足の始末には腰が抜けたものです」

 

 真喜屋さんも足の切断に立ち会った一人。「壕入り口で手術をしたのですが、怖くて3本の指先だけつかまえていたら、切断と同時に足と一緒に川へ落ちました。あのころは麻酔をかける余裕もなくて、患者はかわいそうでした」

 

 仲西さんは死んだ外間マサさんの話をした。「出向いていた首里高女壕(桃原町にあった自然壕)から私とマサちゃんは一緒にこの壕へ戻ってきたのです。彼女は爆弾の破片で左大腿(たい)部をやられていましてね。傷口が紫色に膨れ上がっていたので足のつけ根から切断することになったわけです。始めは嫌がっていたけれど、最後は観念して『軍医さんよろしくお願いします』と言ってました」

 

 壕内は血のにおいが漂っていた。第一線から次々と負傷兵が担ぎ込まれ、放置されたその患者の上を兵隊が平気で飛び越えていたという。90人の患者を3人で受け持っていた真喜屋さんは「ほとんど24時間勤務。柱にもたれたまま立って眠ることも度々でした。夕方、日課の死体処理を済ませてからが忙しく、夜9時を過ぎると3倍も働かなければなりませんでした」と話す。

 

 5月22日、夜中の1時ごろ。壕の前で夕食の後かたづけをしていた真喜屋さんの近くに迫撃砲が落ちた。「飛び散った破片で大石伍長が即死、私と3人の正看護婦が負傷しました。顔面の片側をえぐり取られた2人は、うめきながら間もなく息をひきとりました。大石伍長にはなぜか名前を覚えられ、いつも『真喜志(旧姓)来い』と呼ばれては仕事をさせられたことが懐かしいですよ」と振り返る。真喜屋さんも大ケガだった。「ローソクの灯で見ると、モンペが真っ赤に染まっていました」

 

 とにかく、壕生活は尋常でない。毎日繰り広げられる惨状にだれもが精神をマヒされていた。「そう言えばトイレに行った記憶がないねえ」と真喜屋さん。また、彼女たちは入壕以来、毎月の生理がピタッと止まってしまったという。「今考えると信じられませんが、栄養不良のせいでしょうか」と仲西さんは珍しそうに語る。

 

 彼女たちは、この壕で死んだ同期3人のことを忘れたことがない。多和田ヨシさんと金城郁子さんの2人は伝染病に侵され、山里富子さんが破片による腹部盲貫で、それぞれ短い命を閉じている。菊の花を携えてきた星野さんたちから、3人の最期のもようを聞いた。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月13日掲載

 

(4)「お母さんの所へ」 看護活動中に仲間失う

 4月下旬、多和田ヨシさんが伝染病に感染、隔離室に入れられた。友達が面会に行っても会わせてもらえず、やがて、脳症を起こして亡くなったとの知らせを仲間は聞いた。「気の弱そうな、おとなしい人でした」と小波津さんは言う。

 

 まもなく、金城郁子さんも熱病にうなされ、同じく脳症を起こして死んだ。「郁ちゃんはとってもきまじめな人でねえ。冗談が通じないところがありました」と星野さんは学生生活を思い出して苦笑いしたが、「最期は、しょっちゅうベッドから起き上がっては『お母さんのとこに行く』と、うわ言のように繰り返していましたけれど―」と、声を詰まらせた。

 

 小波津さんが続ける。「彼女は金武の出身でなまりがひどく、独特の口調をいつもみんなにからかわれていました」と振り返る。みんなも思い出したようにウンウンとうなずいた。

 

 見舞いに行けなかったため、看護隊の仲間で彼女たち2人の息を引きとる場面に立ち会ったものはいない。真喜屋さんは一度だけ珍しく伝染病棟へと行く用事を言われたことがあったが、「脳症患者に便器を持っていったら小便で顔を洗い出し、怖くなって逃げ出した」という。

 

 野戦病院周辺は連日、砲弾に見舞われていた。ある日、3号外科の近くに直撃を受け、水くみに出ていた山里富子さんが死んだ。ナゲーラの壕における首里高女3人目の犠牲者だった。死ぬ間際、彼女のそばにいた真喜屋さんが「破片が腹部を貫通する重傷で、私がさするとよけい苦しむんです。『早く軍医さんを呼んでちょうだい』と叫んでいました」と、その時のもようを話す。

 

 終戦直後、死んだ郁子さんの遺骨を拾いに遺族が当地へやって来たという話を星野さんは聞いたことがある。この件にについて、ナゲーラの壕の連載の連載が始まった日、郁子さんの妹で首里鳥堀に住む比嘉正子さん(52)から取材班へ問い合わせがあった。「昭和24年ごろ、父とおばの3人で姉の遺骨探しに近くまで行ってみたのですが、壕がどこにあるのか探せませんでした。そこら辺の畑から石ころだけ拾って姉の墓へ入れ、供養しました。でも紙面の地図を見ると全く見当違いの場所だったようです」といきさつを語り、姉・郁子さんの最期を知っている人がいたら話を聞きたいとのことだった。

 

 負傷した富子さんはすでに手遅れの状態で、その日のうちに手術台の上で息を引きとった。爆風を受けてから数時間後のことである。

 

 「亡くなったあと、4、5人で血で染まった服を真新しい軍服に取り替えてあげました。死体処理は私の日課でしたけれど、さすがに友達を埋めに行く気にはなれず、衛生兵に頼んで静かに見送りました。富子さんは足が長く、とてもスタイルのいい子でね。ブルーマのよく似合うバレー選手だったんですよ」

 

 真喜屋さんはこう話しながら、亡き友の眠る地で手を合わせた。星野さんは「終戦から39年にもなるのに、これまで線香の一つもあげることができず、ほんとにすみませんでした」と涙を浮かべる。みんなも「死んだ3人の顔が浮かんでくるようね」と口をそろえ、しばらく黙とうをささげた。空気がやけに冷たく感じたのは、この日から急に押し寄せた寒波のでいだけではなかったような気がした。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月14日掲載

 

(5)死者の数は何百… 捨て場は開墾され畑に

 首里高女看護隊の3人をはじめ、多くの人が死んだナゲーラの壕。死体捨て場の遺骨は一体どうなったのだろう。今なお遺族のもとに届いていない遺骨の行方を追って再度、壕のある集落を訪れた。

 

 前にもふれたように、死体を捨てた所は首里崎山町である。この一帯を地元の人は「シチャーラ」と呼んでいる。実は「ナゲーラ」という地名は現場から少し離れたところにあり、正確に言うと「シチャーラの壕」になるわけだ。しかし、生き残りの首里高女生たちが言うには、壕にいた石部隊の将兵たちが、なぜか「ナゲーラ」と呼んでいたためにそれが通称になってしまったという。

 

 死体捨て場の一部を終戦直後に開墾したという宇座徳誠さん(62)=那覇市首里崎山町=にやっと会えた時は、すっかり日が暮れていた。

 

 「確か昭和23年ごろでしたか。あの辺りを畑にするため掘り起こしたら、ボロボロ骨が出てきたんですよ。頭ガイ骨が九つあったのを覚えていますから、9人分の骨だったのでしょうか。でも、連絡を受けた市の人が引き取りに来ましたよ。識名に持って行くという話でしたので、きっと納骨堂に無縁仏として祭ったと思います」

 

 宇座さんは、終戦後、熊本から来沖。この約1000坪の土地を手に入れた。そして畑をつくり、イモ、サトウキビ、ゴボウなどを栽培した。時折、当時壕にいたという石部隊の人が沖縄観光の途中に立ち寄り「少しも変わっていないねえ」と話しながら、手を合わせていったと言う。

 

 宇座さんの話では、開墾した際、タンカに乗ったままの遺骨が発見されている。タンカごと穴に放り込まれたのか、それとも運んできた人たちも一緒に砲撃でやられてしまったのだろうか。「碑文でもあれば遺族の方に遺骨を届けることができたのに」と悔やむ。

 

 一報、壕内にも遺骨があったことは推測される。しかし、現在では木の枠が取り外されており、終戦直後に地元の人が入壕したと思われ、宇座さんも「その時に収骨したのではないですか。あのころは壕あさぐりが流行し、集めたたきぎで家を造った時代でしたからね」と説明する。

 

 いずれにしても、遺骨はたった9柱ではなかったはずだ。瑞泉隊の話によると、死者の数は何百にも上っている。死体捨て場だった場はだいぶ開墾され、ほとんどが畑になっているが、一部は戦後一度も掘り起こされることなく原野になっている。

 

 宇座さんは「あの部分は戦後、土地ブローカーによって持ち主が転々としているようで、遺骨がどうなったのか知っている人はいないのではないでしょうか」と話し、何で今ごろになって遺骨捜しを―という顔をした。

 

 話を聞き終えて宇座さん宅を出ると、外は真っ暗だった。時刻がちょうど午後8時で、39年前に卒業式が行われたころだと気付いて壕の近くへ足を運んだ。が、「ここら辺は夜になると、白い服の看護婦がタンカを運んでいる姿が見られるとのうわさがありました」と宇座さんが話していたのを思い出し、背すじが寒くなった。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月15日掲載

 

(6)戦死の状況手記に 「ずいせんの塔」に霊まつる

 昭和19年暮れから始まった第9師団(武部隊)の台湾への転用配備にともない、代わりに首里方面の防備についたのが第62師団(石部隊)である。首里高女の校舎は、石部隊の司令部として取られ、女生徒たちは民家での授業を余儀なくされた。

 

 戦時中、首里高女で国語を教えていた久高友章さん(77)=那覇市首里仲町=は、ナゲーラの壕に配属された41期生のことを今でもよく覚えている。友章さん自身は入壕していないが、同窓会名簿に「戦死」と記された教え子たちの名前を見るたびに、楽しかったころの授業風景などが目に浮かぶという。壕で死んだ3人について語ってもらった。

 

 「多和田君はとても控えめでかわいい子でした。あまり前に出るという性格ではなかったけれど、いつもニコニコしていましたね。山里君は背の高いスポーツマン。金城君は父親が教育熱心で、しんのしっかりした子でした。死んだのはおとなしい子ばかりですよ」

 

 久高さんが持つ41期生の印象は、連日の辛い作業にもかかわらず、みんな明るかったようだ。「夏のカンカン照りの日でも、壕掘りなどの作業を朝から晩まで休みなしにやっていました。ほんとうにきつかったはずなのに、冗談を言い合ったりして」と懐かしがる。

 

 戦後まもなく、同校の嶺井強衛校長をはじめとする何人かの職員は、亡くなった教え子たちの家を訪ね、戦死した日時、場所などを確認して歩き回った。久高さんもその一人。

 

 「21年の1月でしたか。首里の学校跡を訪ねたら校旗がボロボロになっていました。運動場のスタンド近くに約400人が入れる学校壕(自然壕)があったので、まずはそこから調査を開始しました。旧首里市地区の遺骨は、農耕や家屋建築の時に出てきたものを地域の人々が集め、首里当蔵の万松院内にあった「天衣無縫の塔」に納めたと聞いていたので、ナゲーラの遺骨もそこに納められているだろうと安心していたのですが」と久高さんは話す。

 

 昭和28年1月、首里高女の職員、卒業生で組織する「ずいせん同窓会」は、那覇市壷屋の沖縄高等洋裁学院で遺族にも集まってもらって懇談会を開いた。その時、戦没した33人の瑞泉隊員の戦死状況を旧生徒の証言をもとにまとめている。彼女たち瑞泉隊のほか、戦災死した会員48人、旧職員15人を合わせた計96人の霊は「ずいせんの塔」を建立してまつった。

 

 「誤れる旧日本軍閥の犠牲となり卒業式を防空ごうで終了、直ちに郷土防衛最初の学徒看護隊として戦線に参加、幾多の青春の夢を抱きつつ華々しく散った元県立首里高女学徒隊三十三人を祀る」

 

 翌29年7月21日付の「沖縄日報」は、ずいせんの塔についてこう報道している。

 

 ナゲーラの壕に話を戻す。現在、この壕の真上に南伸道路建設が予定されている。戦時中の原形を残す貴重な人工壕であるだけに、地元では「破壊されてしまうのではないか」と心配する人も多い。日本道路公団沖縄建設所によると、昨年3月に用地買収を終え、11月2日には工事に着工している。具体的にどうなるのか、設計図をもとに説明してみよう。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月16日掲載

 

 (7)真上を南伸道計画 平和教育に病院壕活用を

 沖縄自動車道は、本島の名護市と中南部都市圏を結ぶ基幹道路として新設される自動車専用道路で、このうち名護市から石川市までの北部区間は既に供用中である。南部区間石川市から那覇市までも「高速自動車道」として建設が予定されており、一部では工事に着手している。

 

 この、いわゆる南伸道路の南端は、那覇市首里崎山町にできる那覇インタチェンジで、料金所は崎山と境界を接する南風原町新川に建設される。このため、新川にあるナゲーラの壕が工事区にかかってしまったというわけだ。

 

 日本道路公団沖縄建設所によると、現在、3件の工事を発注済みで、その一つがナゲーラの壕の真上を通過する南風原工事である。同工事の区間は、高架橋のできる西原町池田から南風原町新川までの全長1927メートル。昭和61年3月20日の完成を目指し、昨年11月2日に着工した。

 

 ナゲーラの壕一帯は、約1年前に用地買収を済ませているという。死体捨て場だった土地を所有していた宇座さんも約600坪を道路公団に買収された。「あの辺りはまだ遺骨があるかもしれませんよ」と宇座さんは語る。

 

 南伸道路の建設設計図を見ると、崎山町から新川に臨んだ右側の壕の上に道路が架けられることになる。「当然、壕が壊されることは予想される」と、南風原町の戦跡調査をしている吉浜忍さん(34)=同町兼城=はいう。

 

 「この壕の価値は、戦時中の形をそのまま残している人工の野戦病院壕というところにある。これまで、平和教育としいて県内の生徒たちや本土からの修学旅行団などに使われてきた壕は自然壕(ガマ)ばかり。人工的なナゲーラの壕は、ガマでは味わえない沖縄戦追体験ができる」

 

 入壕したことがあり、壕の現状保存を訴える一人の吉浜さんはこう話し、道路が建設された場合を想定した。「左右の壕の間を流れる小川は排水路にされるのではないか。そうなると両サイドにセメントの壁が造られ、壕の入り口がふさがれてしまう。また、道路の橋げたが壕に位置すると、壕内が崩れる恐れもある」と心配する。

 

 道路公団は「設計の段階で南風原町側からは何も言ってこなかったし、土地所有者からも壕があるから壊さないでほしいという話は全く聞いていない」と前置きしてから、「壕の間を流れる小川は地下にカルバートボックス(四角いコンクリート構造物のこと)を抜いて工事をするので、壕の入り口がふさがれることはない。橋げたについては、壕の厚さにもよるが、道路の下は一面に土を盛るので大丈夫だろう」と説明する。

 

 いずれにしても、ランプ橋の部分には2本の脚ができるし、各種の付帯工事で壕が何らかの影響を受けることは免れない。それに盛り土をすると、遺骨収集は永久に不可能になりかねない。

 

 「ナゲーラの壕は、換気口があるなどガマでは見られない構造になっていて、当時の日本軍による陣地壕造りの見本も分かる」と吉浜さんは付け加えた。

 

 壕の生き残りである小波津さんは「美化され、観光化されるのはいやだけど、だんだん戦争が忘れ去られていくこのごろだから、できるならナゲーラの壕を残して『戦争というものは映画で見るようなきれいなものではない』ことを語り継ぐ場にしてほしい」と結んだ。

(「戦禍を掘る」取材班)1984年2月17日掲載

 


 

 

南風原町の戦跡: ナゲーラ壕 南風原町

瑞泉看護隊がみたナゲーラ壕での地獄図 | 証言 | 戦世の記憶 戦争体験者多言語証言映像

 

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