沖縄戦を生きのびた参謀 ~ 神直道「軍隊の目的は、国民を守るものではない」

 

戦争というものをファンタジーとロマンでしか考えられない身勝手な右翼が戦争賛美をはじめる。

ミサイル基地を置くということが何を意味するのか、自分の頭で考えることのできない者たちが、石垣市議会を牛耳る。

八重山日報というウヨビズ新聞編集長、仲新城誠という人物は、ナイーブにも「『軍神』を忘れた沖縄」などという本を売り出し、沖縄戦を知らない者たちをあおる。

戦争を忘れているのはどちらなのか。

石垣の特攻隊慰霊碑を身内の人たちがどんな思いで建立したのか、そんなことも知らないまま、

最前線に押しだされた若者たちを「軍神」として賛美する身勝手なオトナたち、

そんな時代の妄想に騙されないために、
私たちは常に歴史を伝えていく努力を怠ってはいけない。

今年も3月23日から
今日の沖縄戦シリーズを配信する予定です。

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軍隊の目的は 敵の殲滅 であり、基地を守ること。国民を守るものではない。

 神直道

 

石垣市長は島をミサイル基地の土台にすることで島が守れると考えているようだ。しかし、そういうことは頭を使って考えたらすぐ答えはでてくる。敵ならまずミサイルの土台を標的にする。その時、ミサイルが石垣島の市民を守ってくれるのか?

 

今作られようとしているミサイル基地は石垣を守るためにあるのではない。石垣を足の踏み台にして、どこか遠く離れたところを守るためにあるんだということだ。百歩譲っても、石垣を守るのに必要なのは「陸自」ではない。千歩譲っても、ミサイル基地は石垣を守らない。

 

今日は、あの沖縄戦で生きのびた二人の参謀の、沖縄戦から33年目の言葉をご紹介。

 

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あの沖縄戦で、司令部から「脱出」し、生き残った参謀は二人いる。民間人捕虜の偽装が「身バレ」しても米軍から驚くほど「高級」な扱いを受けた高級参謀八原博通と、沖縄戦の加勢を求めサバニを支度させ本土に渡った神直道航空参謀だ。

 

今回、戦後33年後の 1977年の記事を見つけたので記録しておく。

 

悲しみの歳月 沖縄戦33回忌 参謀二人

片や過去の重荷を背負って三十余年を生きてきたというふん囲気、片や過去の悪夢をふっきって第二の人生を歩み、戦後の沖縄のためにもできるだけのことを積極的にしている―あの沖縄戦の作戦参謀二人の現在は実に対照的にみえる。

沖縄タイムス 1977年6月22日 朝刊>

 

タイムスは、神直道と八原博通を「対照的」にみた。二人とも沖縄戦の真実に向き合うことは難しかった。しかし、神直道は少なくとも沖縄のために大切な局面で「証言」に立つことをいとわなかった。

 

八原博通 「少数の人としか接触はなかった」

民間人も軍とともに戦った

沖縄守備の第三十二軍高級参謀だった八原博通元大佐(七五歳、鎌倉市)の自宅書斎には太平洋戦争、沖縄戦関係の記録、小説、手記のたぐいが書棚に一杯。話の途中にも新聞切り抜きが取り出される。

 

八原氏は、昨年十一月脳血栓で倒れ、そろそろ歩きだして、寝たきりではないが口がかなり不自由。質問に考えをまとめて的確に答えるのは困難で「あの本(昭和四十六年に出した『沖縄決戦』に書いたから、もう言うことも…」「ぼけてしまって」と申し訳なさそうにポツリ、ポツリ。

 

―沖縄で実戦になった時、軍参謀として住民をどう考えていたか。

 「苦しい戦いだったが、民間の人も一生懸命、軍とともに戦ってくれたと思う。直接には司令部に勤めていた少数の人としか接触はなかったが、戦後いわれるような反対の人はいなかった」

 

ほんとに申し訳ない 

   ―スパイ容疑で惨殺されたという話もあり、住民側には軍への恨みもまだ残っているが。

 「スパイ容疑の話などは間接的に聞いたことはある。しかし直接には見たり扱ったりしたことはない」

 

三十三回忌を迎える感想は

 「那覇市史の戦時記録を読んだが、ほんとうに申し訳ないと思う。われわれとは違う民間の方々の苦労のすさまじさに、最後まで読み通せなかった

 

 対話はなかなか進まず、病後のせいもあるが、八原氏は終始沈痛なおももち。帰る時には、雨の中を不自由な体で門まで送ってくれ、深々と頭を下げていた。

 

ちなみに、八原高級参謀がどれほど住民と「接触しなかった」のか、彼の記録をここに想起しておこう。

『戦闘開始後間もないある日、司令部勤務のある女の子が、私の許に駆けつけて来て報告した。「今女スパイが捕えられ、皆に殺されています首里郊外で懐中電灯を持って、敵に合い図していたからだそうです。軍の命令で司令部将校から女に至るまで、竹槍で一突きずつ突いています。敵愾心を旺盛にするためだそうです。高級参謀殿はどうなさいますか?」私は、「うん」と言ったきりで、相手にしなかった。いやな感じがしたからである。「スパイ」事件はときどきあった。二世が潜水艦や落下傘で、沖縄島に上陸して活動しているとか、軍の電話線を切断する奴とか、そしてこの女スパイのように、火光信号をもって敵と相通じるとか。しかしこれまで真犯人はついぞ捕えられたことはなかった。

私は、ふっと、3月25日午後、首里山頂天守閣跡の広場で見た狂女らしい女を想い出していた。私はそこにあった監視哨に状況を聞くため、一人で広場に立っていた。空は曇り、かなりひどい風が吹いていた。…かなり広い広場に、たった一人の琉装の狂女が呪文を唱えながら、両手を大きく振り、天を仰ぎ、舞の仕草を続けている。あるいは狂人ではなく、沖縄破壊の一大出来と、天に祈っていたのかも知れぬ。

私は、竹槍の一突き一突きに痛い!と、か細い声をあげながら、死んでいったという女スパイが、この狂女ではなかったかと、憐れに思えてならなかった。』(210-211頁)

《「沖縄決戦 高級参謀の手記」(八原博通/中公文庫) 210-211頁より》

 

神直道 「逃げろとは言えなかった」

逃げろとは言えなかった

   第六空軍参謀(第三十二軍航空参謀、第八飛行師団の参謀も兼務)だった神直道元中佐(六十五歳、東京都)については、最近も読谷飛行場問題で話題になったばかり。過去にも学徒隊を突破口に軍人恩給の対象になりにくい沖縄の戦没者を戦闘協力者として位置づけ、援護法の適用を受けられるように奔走したり、西原飛行場の借り上げ問題でも証言したり、地元の要求実現のため側面から尽くしてきた。

 

※神は戦後、沖縄県民のために日本軍の土地の強制接収と返還約束を証言した。「その頃は軍事優先の情勢であり且飛行場設定は緊急を要したので多数の地主の意志を聴取する暇もなく且坪当り土地単価を決定することもしなかった。土地単価は後日決定することとし取り敢えず、地上耕作物の補償、民家立退料を支払うこととし、飛行場の緊急整備に着手した。(中略)参考事項(中略)本飛行場が将来、陸軍として不要となった時は読谷村地主に優先的に返還する旨を口頭で約束している」(前掲 神直道氏回答文書より)。読谷村史 「戦時記録」下巻 第一節 防衛庁関係資料にみる読谷山村と沖縄戦 読谷山(北)飛行場の建設 玉城栄祐

 

 神氏が航空作戦参謀として沖縄に着任したのは米軍上陸必至となった昭和二十年三月一日、「死んだ薬丸参謀が、島田知事を通して南部の民間人は早く北へと要請しても、生まれた村で死にたいと動かない人がいて困るというのを聞いた。弾丸が飛んできてやっとおみこしをあげた人々の行列は、目をおおいたくなるような悲惨な姿だった。ヨーロッパ戦線でも独仏国境で似たようなことがあった」。しかし、当時軍から「悲惨な目に会うから」と素直に知らせた上で逃げろとは言えなかったという。

 

※ 日本軍は実はありあまる食料の備蓄をもっていたとも記録にあるが、一般住民にはカンズメもテントもない。しかも北部も十分なほどのソテツ地獄を味わっている。しかも住民が南部に避難しているのを知りつつ、軍司令部を南に退避させ南部の地獄を招いたのは軍の方。つまり軍にとって足手まといになるからどっかに行けと、そういう要請でしかなかったということだ。

 

 神氏は、中央の作戦本部出身の行政を知らない航空参謀の立場で、地上のことは多少見聞した程度だが、防諜(スパイ防止)問題で軍が対策をあてたとか対処機関を設けた話は聞かないという。「一度だけ首里の洞穴にいるときそられしき者だと連れてこられてきたことがあった。しかし精神異常者だとかで、あとで放免されたはずだ。ほかには電線を切る者があると聞いたが実際のことは知らない」。

 

 ※ 首里の司令部で爪を剥がれ竹の槍で突かれて拷問された女性は八原などの証言にもあるように、精神障害のある女性か精神的に錯乱した女性。槍で突かれて、か弱い悲鳴を上げて死んでいったと八原の記録にある。明らかにスパイではないのに、踏み絵のように竹槍で突かせた。暗澹たる気分だと言いつつも、その無実の女性を参謀たちは助けることもしなかった。

 

 戦後いろいろと告発されている事件については、現場にいて目撃した人が書いたのでない限り、風聞で判断するのは危険だ、とも語った。

 

昔の悪夢は忘れたい

   「軍の参謀としては住民が悲惨な状態になったことには責任がある。昔の悪夢は忘れたい。そう思って学問の世界に飛び込んだが、忘れたいのは個人の願いだ。周期的に社会的な要請は出てくる。沖縄のために何かしたといえるかどうか知らないが、少しでもお役に立てばと思っている」。官職にはつかない。戦争にかかわる仕事はやらないときめた神氏は、自衛隊入りもせず武器を作るような産業にも一切かかわらず平和主義に徹してきたと自負している。

 

 住民を引き連れ、身分をかくして投降、折をみて脱出するつもりだったという八原氏は戦後逃亡して捕虜になった高級参謀というレッテルを旧軍幹部からはられ、二十年間沈黙のうちに過ごした。しかし毎年行われる沖縄戦没者の慰霊祭には欠かさず参列してきたという。

 

 沖縄から大本営に空軍爆撃強化を要請するため派遣され、くり舟で六月一日脱出した神氏は、靖国神社の慰霊祭には出ない六月二十三日には千鳥ケ淵の無名戦士の墓にひとり詣でる靖国神社国営法にも反対、思い出にひたるような慰霊よりは戦争の教訓を生かすこと。具体的には行動することが大切という信念をもっている。二人の参謀は戦後一度も対面したことはない。

沖縄タイムス平和ウェブ 過去の「慰霊の日」企画一覧

 

捕虜になっても高級だった八原高級参謀の戦後については、またのちの機会にまとめたいと思うが、

 

神直道は戦後、官僚にはならず、宗教学者として生きてきた。異端として迫害されたネストリウス派極東アジアで「景教」と呼ばれるようになったキリスト教一派の研究に没頭した。

 

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神直道『景教入門』(1981年)、ぜひ読んでみたい。

 

他に記事もみあたらなく、芥川賞作家の目取真俊氏がブログに神直道の記事を書き留めておられるので、ここで引用したいと思う。

 

神直道「軍は住民を守らない」「作戦の足かせに」

 

「軍は住民を守らない」/神直道氏(元第32軍司令部航空参謀)証言/作戦遂行上 足かせに/戦艦「大和」の出撃も辞退

1992年7月22日、琉球新報の社会面

 

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 【東京】軍は住民を守らないー

 

去る大戦で国内唯一の地上戦が行われ、県民十余万人が犠牲になった沖縄戦で、三二軍は「住民は作戦遂行上は足かせ」とみなし、住民を守ることは(軍事)作戦には入ったいなかったことが、三二軍司令部幹部の証言で、改めて明らかになった。沖縄戦では住民が軍と行動を共にしたのが、犠牲者を増大させることになったと言われてきた。今回の証言で「軍と一緒なら守ってもらえる」と信じ犠牲になった沖縄住民と軍の論理のすれ違いが、改めて浮き彫りにされた。

 

 証言したのは沖縄戦当時の第三二軍司令部航空参謀の神(じん)直道氏(八〇)=東京都世田谷区。神氏は、三二軍参謀として、沖縄戦終盤まで首里の司令部壕で「天号作戦」の遂行に当たった。首里司令部壕撤退を決める直前に、大本営への沖縄作戦の戦況報告のために、沖縄を脱出。その後は九州の第六空軍参謀として終戦を迎えた。三二軍司令部の幹部としては数少ない生存者。

 

 神氏は本紙のインタビューに答えて、沖縄戦全体の作戦について述懐した。その中で、沖縄戦で消失した首里城が「戦闘が始まれば消失はやむを得ない」と司令部は判断。また、司令部壕内に二十人から三十人の「辻遊郭の女性たちが炊事要員として軍に奉仕していた」こと、別に「良家の子女十人余が、将校の身の回りの世話をしていた」ことなど、司令部壕内の女性たちについて証言した。

 

 また三二軍の牛島司令官が、沖縄戦開戦当初から死を覚悟し「司令部壕の外に執務用の机を置き、艦砲射撃の放火に身をさらして、早く死にたがっていた」と証言。軍首脳も沖縄戦の「敗戦」を強く意識していたようだ。

 

 また沖縄特攻作戦でも戦艦「大和」の沖縄派遣に、三二軍首脳は「ありがたいことだが、辞退(出撃中止を)申し上げろ」と大本営に返電を指示。大本営が沖縄作戦の切り札として派遣した「大和」特攻でも「情勢は代わらない」と判断。大和派遣の中止を要望したが、すでに大和が出撃した後で、手遅れだったことも明らかにした。

 

 司令部壕内でのスパイ事件もあり、情報参謀が取り調べに当たったこと、スパイなどの取り調べに当たる「軍法務部」が南風原町津嘉山にあり、軍法会議の開催権限を持っていたが「沖縄戦の間は一度も軍法会議は開かれなかった」と証言。沖縄戦で多発したと言われる「スパイ虐殺」事件への軍の対応が、非合法的に行われていた可能性も示唆した〉。

 

〈神 直道氏(第32軍司令部元航空参謀)との一問一答/軍隊は敵のせん滅が目的/撤退は押された結果/首里城、絶好の攻撃目標

 

 神(じん)直道氏との一問一答要旨は次の通り。

 

首里城地下に司令部壕を造った理由は
 神 津嘉山の司令部壕は規模が小さすぎて新たに作る必要があった。首里那覇市内を一望でき、海も平野もすべて視界に入る優れた立地。首里に司令官がいるということで最前線の兵士に無言の支えとなった。

 

首里城破壊について
 神 軍事的一般常識として司令部があろうがなかろうが首里城は爆撃や攻撃の対象になった。米軍も日本軍も貴重な文化財だろうが軍事作戦上必要であれば攻撃した。首里城にしても空から見れば「何か潜んでいそうだ」と絶好の攻撃目標になる。

 

 -「天の巌戸戦闘司令所」の名称について
 神 長参謀長が勝手に付けた。「天の巌戸」という名前を付けるのは不謹慎な話だと思っていた

 

 -壕内に女性がいたか
 神 将校の世話をする良家の女性と女子師範学校の学生も何人かいた。

 

 -「慰安所」について
 神 指令部内に慰安所はなかった。朝鮮人女性や本土の芸者はいなかった。遊郭の女性は二、三十人ぐらいいて、飯炊き要員として駆りだされた。遊郭の女性だというので兵隊の中にそのような行為に及ぶ者があり、壕内の風紀が乱れそうになったから壕内から出てもらった。

 

  1. ※日本軍は「慰安所」という施設を多く作ったが、沖縄戦上陸を前に慰安所は運営不可能になる。代わりに軍は軍令で慰安所の女性たちに応急看護訓練を受けさせた。阿嘉島慰安婦たちは朝鮮から連れてこられた女性たちで、攻撃が始まると彼女たちは「従軍看護婦」として兵士と同じ壕の中で暮らした。重症をおった兵士と心中した女性もいた。これは多くの兵士や学徒が証言している。司令部壕で辻遊郭の女性たちとの宴や「そのような行為」が蔓延したことを八原や神らは快く思っていなかった。司令部壕に「慰安所」の施設建造物はなかったかもしれない。しかし、それは言葉の違いだけであり、司令部壕に慰安婦たちはいた。

 

 -スパイについて
 神 男がスパイ容疑で薬丸参謀の取り調べを受けていた。たぶん処刑はなかったと思う。沖縄戦の間、軍法会議は開かれていない。

 

 -捕虜について
 神 一人いた。二人も殺したという話(本紙連載)は信じ難い。私が見ていないだけで、実際にあったかもしれない。士官・幕僚クラスならハーグ条約(捕虜に関する国際法)を知っていたはずだが、一線の兵士はほとんど知らないはず。

 

 -情報戦について
 神 情報参謀は結構米軍情報を傍受、かなりの精度で収集していた。

 

 -武部隊の台湾移動と増援中止について
 神 武部隊移動の影響は大きいが沖縄も台湾方面軍の指揮下にあったから従うほかなかった。(その後)姫路の一個師団が派遣中止になったが、その師団がいても沖縄戦は勝てなかった。

 

 -持久戦について
 神 「持久戦」と言われているが第三二軍としてはあくまでも「決戦」(攻勢を主とする作戦)ととらえていた。「沖縄決戦」は大本営で決定された。首里から南部への撤退は、「持久戦」のためではなく「押されて下がった」というのが本当だ。

 

 -沖縄戦をめぐって第三二軍司令部内の対立は
 神 「持久戦」か「決戦」かでもめた。八原高級参謀は終始「持久戦」を主張したが、長参謀長は気が強くて右翼。作戦遂行上は「持久戦」しかないと理屈で分かっているが攻撃に出たくて八原と衝突した。総攻撃をかけなくても兵力はどんどん減っていた。「持久戦」を続けても、そう大した差はなかったと思う。

 

 -沖縄戦の主力は空軍か地上軍か
 神 沖縄は離島。離島作戦になると航空が主要な兵力になる。当然の話だ。八原高級参謀は航空に対して信頼していなかった。沖縄には特攻機を合わせて七、八千機の航空兵力が残っていた。沖縄には二十数隊の陸海軍特攻隊を配置する予定だった。

 

 -戦艦「大和」の出撃について
 神 無謀とは思わないが、(出撃しても)情勢は変わらなかったと思う。

 ※ 神は本土からの出撃養成のために沖縄から脱出して本土に向かったはずだが。

 

 -首里の司令部壕放棄
 神 参謀長や司令官の二人の間で極秘に決定した。

 

 -沖縄脱出後、大本営に報告した内容は
 神 沖縄のためにもう一度攻撃してほしいと要望した。報告の後、参謀次長は「それは無理な話だ」と言った。

 

 -住民対策について
 神 非戦闘員対策は県当局が行うべきもの。民間人に軍は命令できない。米軍上陸前に県知事を通じて北部へ疎開・避難勧告した。自分の家で死にたいと、疎開しない者もいたが、戦闘が始まってからいよいよ慌てて焦ったようだ。それで軍と一緒に南に下がって犠牲になった。

※これも事実誤認。

 

 -「軍隊は決して住民を守らない」という意見について
 神 その通り。軍隊は敵のせん滅が役目。住民を守ることは作戦に入っていなかった。住民は大事だが作戦にとっては足かせになる。純粋に軍事的な立場からは住民を守るゆとりはない〉。

資料:神直道氏(第32軍司令部航空参謀)の証言 1 - 海鳴りの島から

 

琉球新報は神直道に沖縄の住民や女性たちのことを聞いているが、ストイック軍人な参謀の神には、住民や女性たちのすがたは、もうまったく目に映っていなかったに違いない。無実の女性が竹槍で拷問をうけ悲鳴が聞こえても、参謀の誰一人として助けに行こうとはしなかった。

 

いつの時代も同じである。軍は島を守るという名目で島にやってくるが、島の住民を守るためにやってくるのではない。住民がどんなに軍に貢献しようと、そんなことは最初から作戦に入ってなどいないのだ。

 

言葉と記憶の揺れがある。

しかし神直道が、自ら参謀としての経験から、戦後一貫していい続けたことはこれだ。

 

軍隊の目的は 敵の殲滅 であり、基地を守ること。国民を守るものではない。

 神直道

 

 

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