『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 久米島編

 

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久米島には海軍の鹿山正隊長の通信隊と、具志川国民学校訓導(教諭)として赴任していた陸軍中野学校の残置諜者上原敏夫(本名:竹川実)が配置されていた。鹿山隊長以下35名は住民の虐殺をくりかえしながら、実質的に9月7日の降伏まで、この島を恐怖で支配することになる。

 

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以下、証言の書き起こし。

《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》 

 

渡辺憲央「久米島に生きて」

元陸軍二等兵渡辺憲央(三二歳)

十・十空襲

私は当時、蚊坂(ガシャンビラ)で偉容を誇っていた独立高射第二七大隊第一中隊の第六門の修整を担当していた。修整というのは飛行機の進行と砲弾の爆発点とを合致させる仕事である。昭和十九年十月十日、実際に敵機と対決してみると、私の仕事は何の役にも立たなかった。修整している時間がなかったのである。

 

十・十空襲当月の一番にい繋された那覇港の石油タンクと飛行場の燃料倉庫から湧き出す黒煙で視界をさまたげられてはいたが、第六門は砲身を水で冷やしながら二〇〇発螺った。

 

敵機が一機ファーと片羽をもぎ取られた蝶のように落ちて行くのを見た。結局第一中隊の陣どる蚊坂では、高射砲全六門で撃墜した米機はグラマン一機。撃破は何機かあったはず。ところで誰がどのように計算したのか、「我が隊の戦果三〇機撃墜」ということになっていた。うそも士気高揚に必要だったのかも知らない。

 

四月一日、飛行機と艦砲に援護されて鮮かな航跡を残して数十の舟艇が嘉手納に向っていた。私たちの陣地からは上陸の一部始終は手にとるように見えた。

 

興奮した面持を抑えきれないという風に、大隊長大滝善次郎少佐は、上陸の模様をまのあたりにしながら、敵は我が股中にあり、天一号作戦を展開するから米軍は一兵たりとものがれられないであろう、沖ではすでに神風が吹いている、今やそよそよ、こちらにやって来つつあると、訓辞していた。

 

二等兵の私は年令は三二であった。人生の大切な時期である。大隊長の訓辞は漫画であったが私は冷静にうけとめていた。笑えないのである。私たちの顔はきーっと張りつめていた。兵隊はみなそういう顔をしていた。

 

私は応召するまで、大阪日刊工業新聞社に勤めていた。ジェネラルモータースとかフォードとかのPR映画を見る機会があった。その頃では大変めずらしい、オートメーションで自動車や飛行機を生産していた。私は米国の工業水準を知っていた。日本のそれはトヨタにしろ日産にしろまだ修理工場に毛の生えたようなものだっただけに、戦争が始まった時の私は、どえらいことになったと、ふさぎ込んでいた。

 

地上戦での我が隊五月中旬までの通信既に入る大本営のニュースは沖縄で撃沈した米艦の累計からすると川純の海には米艦は一隻も居ないということになる。私たちが毎日向い合っている船団はいっこうに減っている様子はなかった。

 

五月下旬、泊を下りて来た戦車は今や首里に迫っていた。蚊坂から見る首里は樹木と古い石垣に囲まれた風光明加の町であった。そこへ艦砲は撃つ、戦車砲を撃つ、上空はトンボの如き飛行機が群って爆撃していた。地上には城一匹だに這い出る間もないほど激しいものであった。

 

高射砲は地上戦にそなえて、横穴を掘って各々一定の方向に向けて隠し、「対戦車用に転用」しようということになっていた。もっとも、もう飛行機に向けて一発もうてない状況であった。

 

戦車攻撃には体力を示すといわれていたが、ついぞ試したことはなかった。戦車が射程内にはいった時、艦砲射撃で三門はすでにつぶされていた。もちろん当った砲の砲手たちは肉のこま切れとなって残っていた。

 

残りの三門は砲身があらぬ方向に向いていたために使いものにならなかった。全く無駄なことばかりであった。兵員三分隊が全滅した割には、米軍に与えた打撃は、グラマン一機、このことは生残っている者にとって未だにやりきれない語り草である。

南部への敗走

六月十日頃、東風平を通って具志頭に撤退した。高射砲を棄てると、私たちの武器は手榴弾二コであった。そこへ米軍が糸満に迫っているので、たこ壺壕を掘って待機せよとの命令であった。

 

私たちは班ごと、クリ舟で台湾へ脱出を企てた。クリ舟を求めて糸満に来ると、米兵は、糸満入口にあった共同井戸で小休止の様子であった。手頃な舟をみつけて、海岸に運び、いったんひきかえして、日の暮れるのを待って、再び海岸に出てみると、先客があって、舟は影も形もなかった。一人っ子ひとりも居ないと思っていた町内に私たちと同じ考えの者が居たわけだ。私は班長に米軍に投降しましょうといった。班長はインテリで堂々と戦争批判もやっていた。班内は当時としてはめずらしいくらいに屈託がなく、それだけに、私は投降しようといえたのだと思う。

 

今死んだら犬死だ、おまえに捕虜になるなと、命令するととは出来ない。しかし自分は捕虜になるわけには行かないといってあらかじめ私と行動を共にすることにしていた高橋二等兵とを放免してくれた。

 

私たちは男泣きに泣いて別れた。私はつとめて、あたりまえのように投降しようというたが、それまではさすがに腹の探り合いを演じていた。脱出しても命は助かりたいが、捕房にはなりたくない。一族一家の名折れにはなりたくないというわけである。兵隊は皆そう考えていた。

本島脱出

六月二十日頃、喜屋武部落は追いつめられた人たちのはきだめのように、飢えと傷ついた人間が市をなしていた。そこにも情容赦なく弾は落ちていた。海にどぶんと飛びこんで泳いでいく人がいる。ここは沖縄本島の最南端である。泳いでどこに行きつくのだろうか。ひとごとではなかった。私たちも岬にいた。とにかくこの人間の集団からはなれなければならなかった。海岸には脱出に失敗したのか流れたクリ舟が何隻かあった。その中にプーとふくれた人間が乗ったままの船もあった。

 

喜屋武岬は海岸に面した所は、一枚の岩盤みたように、平べったくくぼみの少ない所である。二メートルくらいの崖ぷちの波打ぎわで人間がころころ波にもてあそばれて、それがどこまでも続いていた。一粒の異様な臭いは毎度のことである。私たちはその座ぷちに身をくっつけているだけであった。

 

そこへ、よたよたとクリ舟が流れついた。ちゃんと帆も準備されていた。奇跡である。七、八名は乗れる大型のクリ舟で、二人ではところもとないし、何よりも、私も高橋も海のことは何も知らないので同乗する者を募ってみた。

 

私たちのメンバーになった、高橋と私に、海軍の兵曹長と水夫、暁部隊の二人、それに中学生と思われる玉城少年である。暁部隊の原田という年配の男は、口が垂く経験もあるらしいので、この男を船長にした。暁部隊のあと一人は、大阪弁の男で、信用できるようなできないようなこの男のことを私たちは天一坊と綽名をつけた。

 

行先きは、慶良間の島嶼、そこなら一晩で着くということであった。本島をとり囲んでいた船団をくぐり抜けて行くのであるから、寝静まる頃がいいだろうということで、出発は午前二時であった。順風にのって舟は矢のように走っていた。大小さまざまな艦船に迫まると、大阪のビルの街のようであった。煌々として明るいが、どの船も米兵一人も見あたらない。

 

私たちは、息を殺してビルの谷間を抜けていった。船長のカンは当っていた。それにしてもアメリカ軍は実にのんびりしていた。いちかばちかであったが、あっさり終ってしまっていた。

 

船団を抜けた私たちのクリ舟は、沖縄を遠ざかって行くかに見えた。夜が明け始めると、沖縄の島々は細い弧を描いて、白々と東天を背景にくっきり浮いていた。

 

手前には今しがたくぐり抜けて来た米艦のマストだけが林のように映えて恥かない。地球は丸いものである。その実感があった。しかしよく見るともう沖縄の島々は攻撃が始まっていた。バンバン弾をうち込まれ、白い煙が数条立ちこめて見えた。中飛行場あたりからは、飛行機が間断なくとび立ち、東方に向っていた。船長は風が悪いといいながら肌を降していた。

 

私たちの舟は今来たばかりの海原へ押し戻されていた。マストだけしか見えなかった米艦に、まるまる見える所まで接近していた。カイで漕ぐのだが、いっこうに進まない。そこへグラマンが一機近づいて来て、私たちの周囲をぐるぐる旋回しはじめた。大阪弁天一坊が「陸さんも海軍さんも覚悟しーやー、これでおしまいやでー、わしらはフィリピンで何べんもこれに会い、やられているんやー、もう助からんで!......」人ごとのようにいっていた。私はこれでおしまいかと、とっておきのブリ艦を雑のうからとり出して格好よく食べてみたが、砂を噛んでいるようであった。

 

グラマンは何回か旋回して、まっしぐらに低くつっ込んで来た。高橋は海に飛び込もうとしていた。私は飛び込ませまいと高橋の足首を摑んでいた。死ぬなら海でよかったと思っていた。泥んこの中にころがっていた戦友みたいにだけは死にたくないと、思っていたからだ。

 

つっ込んで来たグラマンは、何もせずに、来た方向へ飛んで行った。やれやれ、助かったと、思いきや、入れ替りに、大きな飛行艇がやって来た。天一坊の機転で私たちは、あおむけになって死んだふりしてみせた。私は目を開けて、飛行艇の行動を追っていた。ゆったりと、速度をおとして、これもぐるぐる旋回していた。

 

飛行艇の横っ腹の大きな窓から、サルマタ一本の赤い米兵が、ニコニコ手を振っていた。飛行艇は、手の届かんばかりに接近して、白い円筒を落して飛び去って行った。白い円筒は、ぱっくり二つに割れて、あたり一面を鮮やかに真白に染めてしまった。

 

私は生きられるかも知らないと思った。次は哨戒艇がやって来て、私たちを捕虜にするだろう、飛行艇の落していったこの真白い液体は、そのための目印に違いないと思った。「私はそのことをみなに話すと、シュンと黙ってしまった。海軍の若いのは、俺はいやだと、手榴弾をとり出して、米軍がここに来たら......と、右手に持ちなおして、今にも信管を抜き取らんばかりであった。海軍兵曹長も船長も天一坊も知らぬふりしていた。幸いに米軍はやって来なかった。

 

夜のとばりは再び私たちをつつんで、風向きがかわって来た。飛行艇の落した白い液体は、べたっとクリ舟にくっついて、クリ舟の進路を固くとざしていたが、帆を上げると、クリ舟はすいすいと定った。

 

船長はまたいった。「夜中に暴風になるからカイはぜったいに手ばなすな」と、少年は水の汲み出し、船長はカイで提とり、他の四名が漕ぎ手であった。船長のいったとおり、またたく間にクリ舟は、エレベーターに乗せられているように、山と谷とをいったり来たりしていた。どーっと谷間におちる時、海水で全身水びたしになって寒い。飢えと疲労と寒さとが低なって私は意識が喉職として来た。夜光虫はその中で、人の顔を異様に照らして、誰とわかるくらいに、青白く光っている。青白い光の中から、戦友の眼がにゅーッと出てそれが顔になり、「渡辺、わしらをおっぱり出して、にげて行くのかー」と、目をむいていた。ふっとして目を覚ますと、船長はあいかわらず梶をにぎり、少年は水を汲み出していた。

久米島

上陸白々と明けはじめていた。風も止んでいた。クリ母は湾に向っていた。満の右手が突出した島であった。湾の奥深く侵入し、這うようにして上陸した。

 

一本の農道を上へ進んで行くと、小川に囲まれた一軒の農家があった。中でこっとんこっとん音がしていた。一人の中年の農婦が米をついていた。この島は「久米島」であるといった。「農婦はびっくりしていたが、心よく招き入れてくれた。私たちが沖縄から来たというと、沖縄はどうなったか、那湖はどうなったかと、矢継ぎ早にきき、那朝にいる身内の者の安否を気遣っている様であった。

 

私たちは小川に入り、べとべとの軍服を脱いで身体を洗い、洗濯をしていた。農婦は、野菜を混ぜた雑炊をたいて食べさせてくれた。力いっぱい私たちの労をねぎらっていた。

 

私たちは満たされていた。そして前後不覚に眠りこけていた。ゆり動かされて目が覚めた時、太陽は西に傾いていた。そこに厳しい顔して海軍が鉄砲に着剣して立っていた。私たちをむかえに来たということであった。

「いやな予感鹿」- 鹿山部隊の陰湿さ

鹿山隊長

婦人からこの島には海軍の電探基地があって二十七名の兵隊が居ると、聞いてはいた。私はいやな予感がした。こんな所まで逃げのびて来て、海軍とはいえ再び軍の指揮下に入るのかと。私は百姓の手伝いでもしながら戦争の終るのを待ち、郷里へ帰ろうと考へていた。私たちは乾かない軍服を着けて、山に入っていった。私は居場につれて行かれる羊みたようなものだった。

 

山の中はかん木の林であった。着いた所は三〇坪ほどの小屋が建てられてあった。私たちは小屋の前に整列した。小屋の中から二人の兵曹長と数名の下士官が出て来て、沢田と名乗った兵曹長がつかつかと歩み寄って来て、大声で、なぜ本島から逃げて来たかと、ひとりびとり熱問していた。

 

私は本島がだめになったので、再起をはかって脱出して来ましたと答えた。本島は決してだめにはなっていないぞ、貴様らは、脱走兵だなあーっと、いい放って、私たちはいやというほど殴られた。気の毒なのは二人の海軍であった。帽子をとり、火のついた煙草を頭のてっぺんにのせ、髪の毛が、ちりちり臭い出すまで焼かれていた。そのやり方が陰気で、しつこいと思った。

 

沢田兵曹長のうしろで黙って見ていた男は目のふちが黒ずんで、あごひげを伸ばし杖を持っていたこの男は鹿山隊長であった。なんとなく暗い感じのする男であった。その晩はにぎり飯をもらい、その小屋で寝た。翌朝早ばやにたたき起されて、陸軍は別に小屋を建てて自活せよとの命令をうけて、私たちは海軍の小屋と山一つへだった所へ小屋を作った。

 

二人の海軍はそのまま鹿山隊に引きとられた。私はこの二人がその後どうなったか、知りたいと思う。この二人は初めから余計者の扱いをうけていた。余計者が生きられたかどうか。この二人とはその後会ったことはない。この二人にこそ、久米島の戦争の証言をしてもらいたいと思っている。

陸軍だけの寄合

世帯私たちの小屋に特攻隊の伍長が現われ、沖縄から来たというのは貴方がたですか、鹿山隊長の命令で、陸軍はいっしょに居るようにということですので、引き取りに来ました、といっていた。彼について行った所は、山城部落であった。山城部落のはなれに一軒の空「家があった。そこは、村全体を一望できる、高台にあった。

先客は、この伍長の他に、特攻隊の竹腰少尉、慶良間から逃げて来たという、特高警察の高橋と木村、それに、米軍上陸まえ久米島に初年兵受領に来て、そのまま帰れないでいる辻上等兵、茶谷一等兵、吉村二等兵であった。

玉城少年は兵隊ではないので逃げかくれする必要もないので、村民に引きとってもらった。

上等兵は重機を一丁持っていて、いつもぴかぴか磨いていた。やる気充分の男であった。二〇歳そこそこの竹腰少尉がいわば陸軍の指揮官であった。竹腰少尉は日大の学生で、戦争の経験も全くなく、私たちに勇猛さを見せつけようとしてはいなかったが、辻上等兵といい竹腰少尉といい、私にはおっかない存在であった。私たちはこの二人にこき使われていた。二等兵は、どこに行ってもつらいことばかりであった。

三日目の早朝、朝もやの中を、私は小川で顔を洗っていた。ひょいと磯田の海辺を望むと、大型の輸送船が五隻、浮いていた。みているうちに、その艦船の、かんのん開きにドアーが開き、水陸両用車が、どーっと出て、一直線に、こっちに向っていた。すーと私は小屋に舞い戻って、兵隊たちを起した。竹腰少尉は、今時あの米軍に、斬り込みをかけるといって、竹槍十本造って持って来いと命令した。はいと、京都出身の吉村二等兵が本当に持って来た。

上等兵は、唯一本ある通路に、山の上から待ち伏せして、撃っといっていた。上陸したばかりの米軍は、二千名くらいにふくれ上って、銭田の浜に、キャンプを張っていた。

そこで竹腰少尉と、特高の高橋、木村は額を合わせて、なにか相談していた。結局私たちは、斬り込みも、待ち伏せもせずに、その家を出て、比地川によって、一時避難することになって、私は重機をかつがされて、ふーふーついて行った。

氏も素姓も知らない者ばかりの寄合世帯であるから、いいかげんであった。特攻の高橋と木村が「大日本陸軍之印」という判コを造り、それを持って竹腰と辻があの村、この村と巡って、米一俵味噌一将とあがなっていた。終戦の時は、現銀にて、支払いいたしますと、書いて借用証みたいなものに、まことしやかに竹腰が、判コを押していた。

この連中と一緒でいると、大変不安であった。各グループ、グループ何を考えているのかわからないし、腹の探りあいをしていた。しかも、おのおの人殺しの道具をちゃんと持っていた。

私は一日も早く、このグループから離れなければならないと考えていた。ある日私たちは竹腰少尉の命令で、川に下りて、豚をつぶしていた。そこへ、あたふたと航けつけてきた村民が、竹炭少尉と激しく問答をしていた。どうやらこの小豚は、特攻の高橋、木村が、やっぱり村民をペテンにかけて、盗って来たものらしい。

戦争はいつ終るかわからない。私はこの先村民の協力がなければ生きて行けないと思っていた。私は高橋とはかって豚を放り出して逃げた。吉村二等兵もついて来たが、途中で引きかえした。

その後私が収容所に入ってから聞いたことによると、陸軍の三つのこのグループは、分れ分れになってしまい、しかも、辻、茶谷、吉村組は、小屋の中で、何者かに手榴弾を投げ込まれて、腹わたを出して死んでいたという。陸軍の他のグループが殺ったと村の人たちは信じている。

 

仲村渠さんの説得

投降

私たちは山の中に一晩中隠れていた。翌朝山城部落に出ていた。まさか白昼日本軍の捜索でもあるまい。若い娘がかけ寄って来て、今仲村渠さんの家に米兵が来ているので、こんな所を歩いているとあぶないという。

 

投降の機会が来た。私は逆にこの娘に仲村渠さんの住いを教えてもらった。娘は目を白黒させていた。私たちはちゅうちょする心はなにもなかった。今や投降こそ唯一の生さる方法なのである。

 

仲村渠さんの家は広い庭を前にして、沖縄独特の赤がわらの古い家であった。米兵は居なかったが、庭で焚火を囲んで五、六人の村民が談話に興じていた。私たちは中にはいって行った。村民は、はたーっ、と立ち上って、武器を持たない私たちでも陸軍二等兵の階級章を付けた兵隊なので、びっくりして、上から下までじろじろ見ていた。「陸軍さんどこから来ましたか」と口をきいた人は、海軍の服装をちゃんと着けていた。仲村渠明勇と名乗り、次のようなことをいっていた。「私は沖縄で捕虜になりました。久米島出身なので本島のような悲惨な目に会わせたくありません。村民と海軍を一日も早く山から下ろして米軍の保設に入るよう推めに来た」といっていた。「私たちは今すぐ投降したいと申し出ると、米軍は捕虜に対して寛大であること、など説明して、明朝九時にここに落ちあって、銭田の米軍基地に行くことを約束した。

 

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仲村渠さんは立派な体格で、目は鋭いがまだ童顔が残っているようであった。お茶を推めながら本島の戦争状況など話している彼は久米島を本島のような悲惨な目に会わせたくないと、先ほど出た言葉が真実であることがわかった。その時、月が煌々と照りつけ、上気してきている高橋の顔がはっきり見えた。私は感無量であった。戦争は馬鹿ばかしいが、何か事大なものを体験して、今それが終ったような気持であった。

 

私はその足で世話になった人たちに別れの拶挨をしようと、郵便局長の安里さんの住いを訪ねた。安里さんは二日前、海軍にスパイ容疑で殺されたと、奥さんは、とり乱している所であった。私を見ると、もーっとかきすがって、一緒に山に逃げてくれと哀願していた。アメリカも憎い、海軍はなお憎い、もう私にはたよれる者はいないと、わめくばかりであった。

 

そこへ父親が現われ、私は、明日投降するので別れの挨拶に来ました、というと、自分の息子がこうなるまでには、具志川ではたくさんの人命が、むざむざ皇軍の名で殺されています。この戦争は負けます。天皇も日本国民もみな捕虜になるはずですから、貴方は投降することを、ちっとも恥と思ってはなりません、といっていた。

 

私はその言葉で、気分が非常に楽になっていた。そうするうちに奥さんも気を落ちつけている様子であった。私は形見にと、時計と、ありったけのお金を置いて来た

 

その後、すぐ後に郵便局長の安里さんの妻は「池に身を投げ自殺」したことになっている。いったいこの状況でこの期に自殺などありえるのか、何が起こったのか。

 

 

今や、私たちは、海軍からも、陸軍からもねらわれている身である。再び山の中に入り、一夜を明すことにした。

 

翌朝早目に仲村娘さんを訪問すると、仲村渠さんは一時間待っても来なかった。私たちを本物かどうか試したに違いないと思った。その次の朝はちゃんと待っていた。「私たちは仲村渠さんについて約一時間も歩いた。米軍の落舎の並ぶ銭田に出ていた。私たちは黙って歩き続けた。

 

基地の入口には、西部劇みたように、丸太ん棒で高くゲートを造ってあった。明勇さんがアメリカ兵と何か話している間、私たちはそのゲートの下で待っていた。

 

裸のアメリカ兵たちが野天でコーヒーをわかしていた。グッド・モーニングといっていた。その日は七月一日、久米島の捕虜第一号は私たちである。

 

大尉が出て来て、私たちを合の中に招き入れた。側にニューヨーク・タイムス社の記者がいて、地能な日本語で、私たちの尋問がはじまった。氏名、出身地、部落名、をカードに書き入れていた。「ヒロヒト」知っているかと聞いていた。「ヒロヒト」を私は知らなかった。「ヒロヒト」を近い中にしばり首にしますと言って私たちの尋問は終った。幕舎を出てみると、もう鉄条網をはりめぐらしただけの十坪ほどの捕虜収容所が出来ていた。そして衛兵が六名ついていた。水かんいっぱいの水と、三〇コ入りレーションケース、それにすこっぷが投げ込まれてあった。

 

七月の太陽は、ビリビリ砂を焼いていた。レーションの空箱を細工した覆いを、浜辺の砂の上であるから、夜は寒く、やっぱり、それを覆っていた。さて、一歩も外へ出してもらえないから、そのまま、そこで排便もする。変だなーと思っていたスコップは、排便の度ごとに穴を掘る道具であった。

 

七月五日十時頃、激しく撃ち合う機関銃の音を聞いた。しばらくしてジープで運ばれた二つの日本兵の死体があった。内田という水兵と地元の仲宗根少年であった。頭に数発うち込まれて、無惨な死様であった。

 

あとで知ったことであるが、城田基地から具志川まで往来しているジープを待ち伏せして重機で撃ったという。はじめはうまくいったが、三連射目の弾をこめる時の充填をやっていた内田があわてて弾倉に弾を逆に入れてもたもたしているうちに、返り撃ちに会ったという。しかしこれが久米島での唯一の米軍との撃ち合いである。ものの十分で終ってしまったが。

 

屋嘉収容所で鹿山隊長と会う

捕虜になって十日目、私たちは沖縄中部の屋嘉収容所に送られた。収容所の入口に近い幕舎は本部で、そこにはMPの下で捕虜の世話をする班がいくつかあった。私はそこで捕虜の写真を撮ったり、現像したりして三人のMPとともに働いていた。

 

ある日、まさかと思った鹿山と沢山の写真を現像していたのである。この人が生きているとは信じられなかった。私はその晩さっそく二人の幕舎を訪問した。二人とも別におどろいた様子もなかったが、鹿山はちらっと私を見て、ぷいと横を向いた。沢田はふたことみこと話の相手をしていた。鹿山はその問終始横を向いたまま、うんともすんともいわなかった。

 

それから二、三日して、鹿山の部下の一人が私を訪ねて来た。この人は久米島では身にあまる事をやり、今、良心に咎められ、訴えに来たといって、久米島のことを逐一話していた。

 

仲村渠さん一家の虐殺は、私はしばらく声も出なかった。私がここで知ったことであるが、仲村渠さんが久米島に渡ったもう一つの理由は、鹿山を説得して山から降すことであった。それはすでに捕虜になっていた鹿山の上官の大尉の強い依頼によるものだったという。海軍のめしを食べていた仲村渠さんにしては当然引き受けるべきだと信じてやったに違いない。

 

久米島で殺した村民二十余名。みなスパイ容疑だったという。しかし朝鮮人一家皆殺しにいたっては、私が鹿山や沢田と初めてあった時の印象を実証してみせているようなサディステックな殺人である。

 

屋嘉収容所では、朝鮮人が日本人を襲ったり、日本人の間では、上官私刑が毎夜行われていた。戦争時の報復である。これらの事件は特筆されるべきであろう。朝鮮人は永らく根強い日本人の朝鮮人への仕うちに対する仕返えしであったろう。日本人収容所では、将校も下士官も、戦争中悪いことをした連中は、毎晩必ずどこかで私刑にあっていた。

 

そのようなある晩、鹿山は一部の部下に私刑され、それに久米島出身者が加わって暴力をうけ、一月ばかり寝込んで作業にも出て来なかった。

 

「谷川ウタは私の娘」

久志村字嘉陽知念カマド

私が夫の仕事の都合でサイパンに渡ったのは昭和十年で、年齢は五十を過ぎていました。そこへ、末っ子の美津が久米島から地豆(落花生)を送ってくれたので、美津が久米島に何をしに行ったのかとしか思っていませんでした。「私が所用で南洋から帰省して、二〇日ばかり滞在していたのは、戦争が始まった翌年の末で、寒い時期でした。あと二日で船に乗るという日に、次男の口から美津が朝鮮人の妻になって久米島に渡ったときかされ、私は気も転倒せんばかりに驚きました。

 

美津は末っ子でしたので、南洋に帰る日までに、一目会いたいと、あれこれ、娘たちに尋ねたのですが、美津のこととなると、みな言葉を左右して、聞き入ってくれませんでした。私は老齢であるし、しかも遠い所へ行くので、心配させるといけないと、隠していたというのです。

 

朝鮮人といえば、街頭で業をして見せたり、路ばたに坐って、鍋の修繕をし、廃品を集めているのを、那覇ではよく見かけておりました。私は朝鮮人がどういうわけか、うす汚れていて、きたなく、また怖い人たちのように思っていました。朝鮮人は、当時、那覇でも田舎でも、そういうように見られておりました。

 

美津が朝鮮人といっしょになったというので、私は世間に顔向けも出来ませんでした。シマの人たちに知れたらどうしよう、私には、もう娘は、はじめから居なかったものと、あきらめる他仕方ありませんでした。

 

次の年、長男が重病に罹って、私は再び帰省しました。港から、その足で病院にかけつけると、そこに美津がいた。ちらっと、私を見たような気がしました。しかし私は美津と顔を合わせてはいけないと思って、ふいと横を向いていました。

 

娘は私が帰省すると知って、わざわざ久米島から出て来たのだと、あとで知りました。私の仕草を、それと気づいて、美津は部屋から出て行ってしまいました。私に食べさせようと、久米島から持って来た鶏が一羽性かれてありました。美津は帰りしな、玄関まで送って来た次男に、親にまで心配かけて、本当にすまないといっていたといいます。

 

その頃の那覇は、物も少なくなり、灯火管制や防空演習がさかんに行われ、非常に暮らしにくくなり、戦争が今にも来るんじゃないかと、私はあたふたと、南洋に帰りました。

 

そのあと、美津のつれ子の和夫から、今度の夏休みには、おばあさんに会いに南洋に行きたいと手紙が来ました。和夫は三歳まで私が手塩にかけて育て、美神が生活が安定したからと親もとへ帰えしたのです。

 

私はこの孫に対する気持とは別に、娘に対しては、決して許するのかと、思っていました。

 

九死に一生を得て、昭和二十一年春、私は南洋から引き揚げて来ました。幸いに戦争で生命を落した者は一人もいませんでした。戦後のどさくさの中で、苦しい生活が続き、私も家の者も、美津のことは口にしなくなっていました。私は心底から、美津がどこに生きているのか、知ろうとも思ってはいなかったのです。

 

ところが、次男が、これは美津のことではないかといって一枚の新聞を持って来たのです。そこに書かれているのは、久米島での朝鮮人一家の虐殺のことでした。記事には、妻谷川ウタ、三八才、大宜味村出身と書いてありました。大宜味村出身は違っていますが美津は幼名を「ウタ」と呼んでいたし、年令が合っていること、更に長男和夫十三才とこれも合っていました。しかし私は内心、間違いであるようにと、祈るような気持でした。

 

ところが、それから二、三日して、役場の調査で、美津に間違いないことがわかりました。スパイでもないのにスパイだと殺し、しかも無惨にも罪のない五人の子供までも。私は強い憤りを感じました。その時、私は、美津に対していた気持は、つぐなえないことを知り、こんな悲しい思いをした事は、ありませんでした。

 

私は米寿を再来年に控えた歳になっていましたが、久米島に渡りました。遺体は、どうなっていたと思いますか。一家ばらばらに、骨もばらばらに、お祀りする人もなく、二十七年間、冷たく、土の中にありました。

 

地元の人たちは、なかなか教えてくれませんでしたが、私が美津の母親であると知って、協力を申し入れた人が現われました。「その人の話によりますと、谷川さんと長女は、鳥島の洞宿に隠れている処を、地元の人に発見され、地元の人の通報で、日本軍がやって来て斬殺し、そのまま溝につっ込んであるのを村の人たちが理葬したそうですが、ある大雨の日、二つの遺体は砂中からとび出し、流れて、海原に消えていったそうです。村の人たちはやれやれと思っている所へ、再びもどって来て、波打ち際を、ころころと往ったり来たりするので、崇りを恐れて砂中深く埋めたそうです。

 

和夫は美津のつれ子です。大変頭の良い子でした。美津が朝鮮人と結婚してからは、会ってはいませんが、小学校に行くようになると、久米島から手紙を書いて来て、私たちの安否を気遣うほどの子供でした。和夫の父親は朝鮮人ではないので、和夫を殺すとき日本兵はさすがにちゅうちょしていたそうですが、こ奴も大きくなったら、何をするかわからんと、いっていたといいます。

 

末っ子と次女と美津は、戸を叩いて、美津を起し、出て来た美津を末っ子をおぶったまま、刺し殺し、次女の遺体と一緒に、子供をおぶったまま、五枝の松の北側百メートルくらいはなれた岡に埋めたそうです。私たちはさっ速、そこを掘り起しました。そこから出て来たのは「二本の金銀のついた下アゴの骨」と、美津の持ち物と思われる、私もなんだか見憶えのある、裁縫箱と懐中電灯でした。ただそれだけでこれが美津だというわけにはいきません。下アゴの骨は、娘たちの話によると、二本金冠があったし、美津に違いないといっていましたが、私には確信はありませんでした。二人の子供の骨も、美津の骨も一体どこに消えたのでしょうか。

 

易者が云うには、美津の遺体は、誰も知らない所にあるということでした。美津はどういう風に殺されてから、骨はばらばらになってしまったのでしようか。私に協力してくれた人が、美津と二人の子供を埋葬したあと、目印に、ミカンの木を植えたそうですが、そんなものも見あたりませんでした。

 

谷川さんと長女の遺体は、その後、護岸工事で(一九五九年)出土したので、箱に入れて、洞窟に安置したといっていました。

 

なんで朝鮮人だからと、このような目に合わなければならないのでしょうか。朝鮮人が何か悪い事をしたのですか。

 

地元の人たちも、何もいってはくれませんでした。二十七年もたっているから余計なことはしゃべるなと、いっていたそうです。私には納得の行かないことが、あまりにも多すぎます。

 

同胞の骨を拾って

那覇市東善

沖縄戦中の朝鮮人

私の同胞が沖縄戦中、数千、あるいは数万人強制連行されたと聞きました。男性は軍夫として、環掘り、荷役作業などに従事していたといいます。女性は日本軍の砲安婦として「はずかしめ」を受けていたといいます。

 

そして厳しい仕打ちに耐えていただろうことは、差別意識の強い日本人のことですから、想保するに難しいことではありません。ましてや戦争は、人間の最も悪い面が、極度に表面に現われることですから、その中で私の同胞たちはどのような目にあったか、沖縄に来て五年にもなりますが、いっもこのようなことに思いを馳せていました。

 

私は出来れば、遺族が居れば、呼びかけ、同胞の霊を慰めなければならないと思っていました。

 

私は沖縄戦の本を丹念に読みあさり、その中で朝鮮人に関する記事に特に注意していました。谷川さん一家虐殺事件ほど、すぐ目につくものはありませんでした。どの本も久米島事件をとりあげ、その顛末には必ず谷川さん一家はスパイ容疑で殺されたと、書いてあります。スパイ容疑なら殺す正当な理由に違いありません。しかし久米島のそれは、どうしても、事実以前に、私たち同胞に対する差別感と蔑視が、殺層の動機に、結びついているような気がします。「私はいても立っても居られず、独自の調査を思いたち、久米島に渡りました。一九六五年のことですから、今から八年まえです。船を降りて、その足で役場を訪ねました。日曜日だということをすっかり忘れていて、日直をしていた職員の方に大変迷惑をかけました。

 

その職員の案内で、仲村村長を訪ね、私が韓国の者であること、戦争中の谷川一家の虐殺について、真相を知りたいこと、出来れば谷川さんの遺骨を発掘して持ち帰り杯国の遺族に返えしたいと、私は一気にしゃべっていました。

 

村長は心よく、協力を約束し、東江盛順さんを紹介して下さいました。東江さんは当時は義勇隊の一人として、義勇隊と鹿山隊との連絡係をつとめていたということでしたが、特にこの人は、谷川さん母子の虐殺を目撃した唯一の土地の証人です。

 

東江さんは、たんたんと話を進めていました。進むほどに、その非道さ、残忍さに、私は怒りが心頭に達する思いでした。また、私はこの哀れな同胞の姿におくめんもなく涙を流しているばかりでした。

 

谷川事件の真相谷川さんが殺された現場に行くまえにと、東江さんは再び私を役場につれて行き、古い住民登録妙を開いて、見せて下さいました。末っ子は未だ登録されていませんでしたが、谷川さんの本籍がはっきりわかりました。

 

谷川さんと子供たち五名との関係を「叔父」としてあるのは、不可解でした。親子は大変睦まじく、はた目には、うらやむくらいだったといいますから何か理由があって「叔父」さんになったのでしょう。むろん、そんなことは東江さんにも知るわけはありません。

 

直接、手を下したのは、鹿山隊長とも、奄美大島出身の「つね」兵曹とも云われ、はっきりしません。ではなぜ殺したのか。奥さんは、縫いものが上手で、近所の人の着物の縫いものは一手に引きうけるほどだったといいます。戦争になると、いかけやの仕事はなくなり、奥さんの針仕事で生活を支えていたこともありました。

 

ところが、当時は針、糸は統制品で、村の人たちは、しばしば奥さんから分けて、もらっていたそうです。現に私は、もらったことのある人に会いました。それら村のある人が妬み、統制品を持っているのは怪しいと山に密告したということが、第一の理由。

 

またいかけ屋の谷川さんは、一千名もいる米軍キャンプのちり捨て場は、格好の材料がころがっていたわけで、そこへ行って拾って来るのを、やはり村民が妬み、アメリカ軍に通じて、心安くしていると、鹿山に密告して、殺した。

 

この二つのことは、谷川さん一家と、つきあいのあった人の証言です。私はそれが真相だろうと思います。私は、こういう事が、スパイ容疑云々と、大そうな理由にされたのではないかと思いました。朝鮮人が殺される時は、いつも、日本人の妬みをかっているのです。妬みだけでは殺人の理由にはなりませんので、いろいろ他に理由をつけます。

 

どのようにして殺されたか陰暦で七月十三日、月が煌々と照りつけている中で惨劇が展開されました。谷川さんたちは、村民の噂で、すでに、身の危険を感じて、裏山に避雄していたといいます。ちょうどその日は、長男の和夫が、風邪をひいていて、奥さんは、末っ子をつれて、上江洲の借家に和夫を看病して家に居たといいます。

 

とんとん戸を叩く者が居ました。奥さんは末っ子をおぶって戸を開け、出て行くと、残忍な日本兵は、赤子もろとも、一刀で刺し殺し、寝ている和夫は「こ奴も大きくなると国を売る」とこれも殺してしまいました。

 

村の青年で組織していた義勇隊に、埋めろと、命令して、逃げた谷川さんを求めて山に登って行ったそうです。その後義勇隊は、月の光の中を三つの死体をモッコにかついで、今、五枝の松といわれている、その松の北側百メートルくらいの所に埋葬しました。

 

女の子二人は、上江洲を少し離れた松林の中で、発見され、両親の所へつれていってやろうと誘い、先頭に立たせて、あぜ道を下りながら背後から、突き殺してしまいました。

 

そんなことは何も知らない谷川さんは、山を出て、鳥島の海岸べりの洞窟の中で、たたずんでいる所を、かぎつけて村民が鹿山に通報して、殺させました。こ奴らは埋める必要はないと、いい放って、去って行ったということでした。

あいまいな点

この虐殺を指揮していたのは、奄美大島出身の二人の兵曹らしいということが、最近わかりました。奄美には一字の姓が多いですがこの二人も一字で、ひとりは「恒」と呼ばれていたといいます。この「恒」と呼ばれていた男は、通信を担当していたそうですが、戦争たけなわになるともっぱら村民を、威圧して迫っていたといいます。

 

また、風邪で寝ていたのは、和夫ではなく、三女だったという人が現われました。そもそも殺された最も大きな理由は、その三女が高熱を出したために、谷川さんは思い余って、米軍に薬をもらいに行き、それを村民に見られたというのです。

 

人間の記憶の不明確さは、やむを得ません。鮮血を浴びている子供たちは、きっと誰が誰だか、識別がつかなかったに違いありません。七人が殺されたことには間違いはありません。

 

おしまいに谷川さん一家の任いは、今はキリスト教会になっています。久米島では、ごくありふれた家ですが、仲泊、鳥島を見下ろし、すぐ前を小川が流れ、左手には松が豊かにそびえていました。この田園風球と、二七年まえの、恐怖な、いまわしい事件とは、とてもコントラストが合いませんでした。

 

吉浜智改「戦時日記(抄)」

久米島具志川村農業会々吉浜智改(六一歳)

この口記は故吉浜氏の戦時中の日記から抜すいしたものである。口淡字、旧かなづかいは改めた。あきらかに誤字、脱字と思われるものは訂正した。雄しい決字にはルビをふった。

昭和二十年三月二十三日

深く信頼していた日本の海軍はどうしたことだろう。嫁良間の阿設の浦にも宮古、八正山にもあれだけの特攻隊が備を持しているはずだのにと、つぶやきながら、けたたましく鳴りひびく空襲警報に家族をまとめて帝釈山へと退避した。午後二時、民衆は思い思いに避難所を求めて山手へと移動して行くのである。

私と進退を共にしたのが仲村仁達の家族、吉永純久の家族、仲地長寿の家族を加え惣勢二十一名が祖先の位牌をいだき住家を後にして山へと去った。

二か月余も四〇度以上の高熱になやまされ辛くも杖にて歩行をする身体では実に心細い話である。妻に助けられ避難所にたどりついて見たら龍夫等の掘ッた防空壕は完全ではないが祖珠のあるじき前近くの密林竹山の中である。最悪の場合は立木を削り吉浜一家最後の地と書し処置を取れば祖霊も御守護を賜わるのだという心がまえもできたので、山里付近の壌にいる親類等へは紙片にその旨をしたため、最悪の場合は皆ここへ集合するよう通達をなし一応落ちついた。

 

三月二十四日

初めて本格的空襲(特攻隊員久米島通過)初めて本格的の空襲で島民のウロタェ方ったら一通りでない。それに山手海軍通信部隊よりの情報に依れば無数のアメリカ機動部隊は海を置い沖縄に接近し航空母艦より放つ艦載機の空襲がはげしくなるとの報道に皆がちぢみあがっている。

思うに正月十六日久米島を通過して宮古八重山へ待機に渡った海軍の特攻隊員も相当数の人員であったし、これらの人々が島通過の際は特に慰問をなし、彼等の要求に応じ不自由な味噌類まで多量に提供したことがあった。その特攻隊員等は年齢低か十七、八歳頃、神の如き若者揃いであったが、久米島出発にあたり鈴木隊長(二十歳前後)は、あいさつの言葉に、皆様これが最後のお別れです、敵艦至れば僅か二日間だけ壕内で辛棒して下さい。必ずや全滅させますから、と自信満々たる言葉を残して去ったのだ。それに慶良間には尚多数の特攻隊員が待機しているのだから、今に全滅の浮き目を見るのだと、戦果の吉報をいまかいまかと待つのである。

 

三月二十五日

米軍慶良間上陸亜米利加軍慶良間へ上陸し日本駐屯軍は島民と共に全滅せりとの報に接す。

沖縄に引きつけて叩くのだと豪語した沖縄の守備隊はどうしたのだろう。それにしても慶良間は日本特攻隊の根拠地ではないか。その特攻隊はどうしたのだろう。いまかいまかとまちし吉報も空襲二円目もろくる敵をして上陸を許したとは信じ難い。虚報ではなかろうかと耳を疑う。

更らに無防備の久米島が連日空襲を受けているにも不拘日本機は一機る姿を見せない。早くも制海、制空権共に亜米利加におされたのだろうか。

 

三月二十六日

間断的に空襲あり。

 

三月二十七日

終日たえ間なく熾烈な空襲を受けている。延べ千機以上だろう。全島猛爆撃を受けているのだ。

 

三月二十九日

山手通信部落よりの急報に依れば、仲里村島尻方面より上陸の兆ありとの警報に戦慄せる大衆は無分別に塚を抜け出て皆が遠く山奥へと去るのであるが、小さい島の山ではどうにもならぬ。白瀬付近では仲里方面の反対がわから来た難民とバッタリだ。もうこれ以上行く処がない。

 

三月三十日

竹槍制止ハブに咬まる久米島に敵の上陸することは間違いない。確定的となったが、万「不心得者があり竹槍などにて犬死にし為めに島民に危害を及ぼすようなことがありてはと、村助役及警防団長を通じて無抵抗を主張

した。

この日昼中は展会事務所を往復し、夕刻壊に帰る途中、モウトンラ坂の下にて仲村昌高先生が棒でつついている。何にかと聞いたら五尺もあろう大蛇を逃がしたと云う。気味が悪い。山中はもう暗いのだ。どうして山中の塚までたどりつこうかとまどついていると、昌高先生がこわごわ先頭に立ち、持ち合せの棒であたりを払い案内してくれたので、辛うじて自分の避難小屋までたどりついたまではよいが、どうしてもこの夜は寝つかれない。ハブというのが頭にこびりついて不眠症を起しているのだろう。とうとう寝付かれない。時計は午前四時半夜明けまではまだ遠いが小用でも気がしんきになり何とかなるだろうと小屋の入口に戸代用のたれこもを押しあけ右足を出すやいなやハブの野郎入口にまっていたらしい、中指の付け根に歯を打ち込み逃げていない。サァ事だ。熱病後のロウマチスに不自由な身体をハブにまでやられては泣きつらに蜂とはこんなものだろうか。自分が今死んでは敵上陸の場合家族の処置はどうなるかと心配したが、幸い近隣の壕に看談姉心得のある喜久永良子がいて夜間に時を移さず村役場から血精液をもらい受け注射をしてくれたので御かげで命に別条ないことに安心した。

入口にまち受けていて害するなんて運のめぐり合わせと云うものだろうか。

 

三月三十一日

全島煙幕に包まる。機動部隊が局近くに接近してきたのだろう。慶良間、島尻方面より流れくる煙器に島は終日暗くなっていたが何事もなかった。

 

四月一日

この日嘉手納海岸へ一斉上陸の報あり。ロウマチスで手足の自由を失い其上ハブにやられたので余り動かないようにと壕の入口に板を水き其上に城布団がしかれてある狭い壕内に弱くつではあるが仕方がない。いざ空襲というときに元気な者等の邪嘘にならぬようちヂこまッて夜間まで壕内に寝たツきりでいた。

午前九時浜川村長及宜保校長を初め役場支貝村内有志の面々十数名が見舞に来てくれた。(略)

 

四月二日、三日、四日

煙霧島をつつみ天日暗きも空襲なし。

 

四月五日

午前十時青木兵曹来訪。(青木)吉浜様壕内ですな。御病気はよくなりましたか。(吉浜)ハァ有難う。ハブにやられましてね。(背木)ハブに、それは大変ですね。大丈夫ですか。(吉浜)ハァ大丈夫です。注射をしましたから命には別条ないのです。ハブにやられたら毒でロウマチスが良くなるとのことですが、事実ですな。これこの通り手が自由に動けるようになりましたよ。(青木)それはよかったですな。(吉浜)青木様今日の情報は。(青木)一千数百隻より成る米機動部隊は沖縄の周囲を包囲し、上陸軍は泡瀬、島袋の線に進出セリとの情報ですが。(吉浜)イョイョ本島上陸を許しましたな。(背木)そうらしい。それはそうだが久米島の西方八海里に敵の艦船五〇余隻が接近していますぞ。間違いなく久米島上陸ですな。こんな島に生れ合せたのが因果ですね。(吉浜)青木様たとえ敵が上陸したからとて犬死はだめですぞ。皆様も生き延びらるるまでは生きていてこそなんとかなるではないですか。二十数名の通信隊が戦斗力もないのに敵の上陸に体当りし玉砕したからとてそれは何んの意義もなさないのです。むしろあなたがたが討ち死にしたが為め島民に危害が多かつたと云うことになるとぎゃくです。御わかりなら便衣の準備でもされたらどうです。(青木)有り難う。其時は御願いします。

青木兵曹、郷里では四国で電気会社の社長格で堂々たる紳士だが軍隊は仕方がない、堕山の如き山猿に支配せられ、とこぼしていた。

 

四月十六日

空襲再び本格的に入り仲泊、鳥島、儀間に火災あり。

十七日、十八日、十九日、連続空?熾烈をきわめ、毎日毎日各部落に数軒ずつの火災を見る。

 

四月二十日

空襲特にはげしく大屋辻石垣の壕へ避難す。二十日、二十一日の両日は各部落共に猛火に包まる。

 

四月二十二日

もっば本日前例なき大空襲あり、専ら西銘、上江洲、山里へ爆撃集中セられ猛火は忽ちにして全字をなめつくさんばかり西銘だけにて二十六戸を焼失した。内間仁五郎方にては父と祖母の二名が敷地内の仮造りの壊にて焼死セリ。此日再び帝釈山へ移ル。

 

四月二十三日

阜天後の豪雨にて壕内ことごとく浸水し地獄の感あり。沖縄侵越一ヶ月目午後に一回小空襲あり。自

四月二十四日至二十七日空襲下の増産

引続き小空襲あるも民衆は早や空襲に馴れて来たようだ。空級の合い間合い間を見計り農耕作付をなす者が日に多くなる傾向あるは喜ばしき至りである。四月二十八日午前午後各一回小空襲あり。組合は此間休みなく配給事務に従事す。(略)

 

四月三十日五月一日

大海戦五月三日両日又も大空襲あり。久米島西南海面六海里沖合にて夕刻希有の大海戦あり。大型艦船六隻品沈するを目す。日本よりの特攻隊員が夕暗にまぎれ体当りをなしている光景を目のあたりに見ているのだ。

涙なしには見られない。海軍の特攻隊は慶良間、宮古八重山、共に何処に影をひそめたのか一向出て来ないが航空隊の体当りは最近連続的に行われている。久米島の周辺では殆んど毎夕遠方海上の艦船の二、三隻から辞間的に対空砲火の一斉射撃をあびることがあり時には誰沈する光景を毎日の如くに見受けるのである。特攻機は日本を出発する時は十機或は二十機と編隊で出発するであろうが途中で米戦闘機にやられるのだろう久米島まで到着するのは確か二、三機にすぎないが此の日に限りめずらしくも十数機の多数飛んできたようだ。刻限はきまって夕階にまぎれる頃大嶽山の後方上空より金属性の爆音と共に機影が島の上空をかすめて海面上空にツたと思う頃になると艦からはめくら滅法に集中砲火をあびせているが特攻機はそんなものにはこだわらず一直線に矢のように敵艦目掛けて飛び込むのだからたまらない。

あれだけの艦載砲から全面射撃を受けるのだから機が艦近くまで来た頃には搭乗者の多くはやられているのであろうが闘魂は死せず霊の力で機は真ツしぐらに艦を目掛けて飛び込むのであろう。あの爆音と共に天を突く掘場の跡に艦船は見えなくなる。呼鳴壮惨極まりなく人皆声なし。

 

五月四日

昨夕の体当りで亜米利加艦隊は多少後退をなしたであろう。今日に限り沖合は艦影を見ず。終日海上は哨戒機が飛び時折り小空襲あり。

 

五月六日

爆弾投下始まる。島内に施設があると思うているのか今日からは島内各所に大小爆弾の投下あり。五月八日-夜来の衰雨にて出水蝶内没水す。龍夫が腹痛でウチバンナアシに硬ていると云う。雨を犯し行ってみたら胃ケイレンで苦しんでいる。医者もいないし兎に角灸をしたら意外に痛みがとれてしまった。

 

五月十二日

久米島北方無人島へ上陸の報あり。兵謝沖合に大海戦の兆あり。五月十三日午前仲地広信の四男隣りの山歴に生る。竹林一帯には竹の子が地目を裂いて無心に伸びている。は前の小川の流れに和して法華経を唱う。

爆音山谷を噛むが如く乱射は烈しい。

 

五月十五日

夜間空襲始まる。本日より夜間空襲あり。昼間ナシ。

 

五月十六日

午前中大空襲あり。専ら西銘及校へ燥弾投下す。百雷一時に落ちるが如く大地震助す。この爆撃中モウトンラ橋近在の壊に直撃弾投下、仲村栗智郎長女の顔面負傷す。

 

五月十七日

午後七時鳥島海面に特攻機一機墜落せり。

 

五月十九日

爆弾空襲及夜間空襲は英機なりと云う。

 

五月二十七日

五月二十日以来は雨期に入りし為めか空襲極めて困である。従来の艦上機は稀れに来襲あるも猛果なし。多く大型水上機の哨戒あるのみ。慶良間は米軍の水上基地になりしと云う。

 

五月二十八日、二十九日小空襲あるも住民は空襲にひるまず農耕をなす。

 

六月一日

入山四十一日、空襲七十一日目。刻々と迫る運命の島はどうなることやら。午前十一時只一機小空襲あり。本日宇地知に退避壕山廃造り初め。六月四日敵中増産

首里、那翔、与那原を結ぶ線は侵入せるも県民は敵中増産昼夜の別なしとの情報あり。

生きている県民もいるのか敵中地産とは虚報のようだがこの情報は久米島島民に最も感を強くせしめた。一人でも多く生き残れよ。犬死にするな。島民よ学べ増産だ食無だ。域死は人間の恥ちだぞと。私は声を高く放送した。一、午後四時点尻山方面に瀕死の火柱四ケ見ゆ。敵艦船が日本特攻隊にやられたのだ。

漂流物資一、先月以来島の周辺一帯海浜にはアメリカ物資の漂流物がいくらも島民に拾得せられている。過難艦船からの漂流物には間違いないが最近に至りては殊更数量を増し食粧品から衣類毛布畑に至る。島の四辺に流着するのだから退難は島の四辺にありしものと見る可きか。

 

六月五日

空襲なし。

 

六月六日

午前中長時間グラマン機四、水上機一空襲す。慶良間からの状報六月の四日、字鳥島の住民が二名(仲宗根某、宜野湾小)が慶良問から帰来、之等の話に依れば、

一、米人は住民に危害を加えていない。慶良間でも抵抗する者以外は全部健在である。

一、吾々が居たヤガビ銅山に上陸してきた米通訳は熊本県民の二世であったが坑内にいる工夫等に呼夢に出て来いと云うていた。危害を加えないことがわかったので皆が出て来たら責任者らしき米兵がおまえらは永久にこの島で生活する考えか引続き採掘に従事する考えかと丁寧に聞いた。一ツも危害を加えない、親切だと云う。

 

六月九日

1、本日に限り午前十時より日本通信部隊所在地ウフクビリ山上を空襲し午後四時よりB以上空より山上座地へ乱射す。日本軍の根拠地が探知されたらしい。ウシジ山魔屋根フキ終ル。

 

六月十四日

北原住民拉致せらる一、昨夜十一時頃暗に乗じ米兵上陸北原区住民比嘉某外二名拉致せられたりとの報あり。一、北原の牧場内に一冊の掘立小屋がある。此小屋には本部町の人とか宮城某と云う人が内縁の妻と妻の弟中学生と三人生活している。宮城某は本部村農業組合の資金で牧畜をなしていたが多年シンガポールに居たと云うので英語も達者だというていたが彼れの平生の行動から一般の人々に彼れはスパイでないかと云う疑視を向けられていたようだ。

宮城君は平日よく農業組合にも顔を見せていたが今日は上衣の左腕がちぎれそうなのをそのまま、巻きげーとるも古びたもので完全に巻かれていない。粗末な竹の杖をもちのこのこ組合仮事務所の縁に腰をおろし、つかれ切った表情でやれやれと云うていた。

こちらから、宮城様今日は、とアイサツをかけたら、

(宮城)今日はお忙しいですな。

(吉浜)まあ御あがりなさい、今日はどうなさったの、洋服がチギレかかっているでないか。

(宮城)有難う。これは今日のでないですよ。昨夜の災難で切れたのです。

(吉浜)災難?何か災難があったのですか。

(宮城)昨夜十一時頃ね、米兵が十四、五名上陸して来て私の家族と前隣りの比嘉君を拉致したのです。

今日は配給もなく事務所には数名の役員だけしか居ない。宮城の話を聞いて皆が沈黙の状態であった。宮城は更らに言葉を続け、もうだめですな、屹度上陸でしょう遠からず。

(吉浜)あなたはよう助かったな。

(宮城)深夜前の方面でワイワイ云うているからなんだろうかと皆が起きて声を呑んでいると、営業がちがう変だ、と思っている内には私の家も既に包囲されている。英語で、あかりを見せろと云うていたから、すわ米兵だと妻をウラに逃がし自分は床下にもぐっていたら中学生を引っぱって行った。

(吉浜)あなたは言葉がわかるから話してみればよかったのに。

(宮城)いや、とっさでそんな考えなんか出ませんよ。上陸ですね遠からず。

 

六月十七日

1、仁達、龍夫の二名は弾雨下新田原に甘誌の植付けをなす。

 

六月十九日

本島戦は糸満小禄、具志頭にて一進一退滅戦中との報あり。花田少尉来訪花田少尉は姓から見れば鹿児島の花老翁の子孫ではなかろうか。夜間遅く午前一時頃闇の中を一人の少年に案内されて来ていた。

 

夜は遅いしあたりは静かであったが小雨が降っていたので淋しい夜であった。山庵の中は三家族スシ詰で寝ているから外に物音でもあればたれかが聞き付ける。人の来る気配に耳をすませていると外の方より御免なさい御免なさいと連続的に若者の声がきこえる。アクセントから島の青年でないことがわかる。ハテナこの深夜に忍び込むとは鹿山の野郎いよいよ迫害だなと瞬間全神経は家族の避難に自らの処置等を考えつつ妻へマッチ、ローソクの準備を命じ、だれか、とすいかしたら意外にも温順しい声で、花田少尉ですと云う。山には海軍に少尉級の人はいないはずだが、ハイ左様です搭乗員の花田です。

 

あーそうですか、わかりました。どうぞ。

鹿山組でないことがわかったので安心して小屋の中へ入れたが余りにもせまいので膝と膝とがつき合っている。御用件は。ハイ、夜遅くから誠に済みませんがたった一つ御願があってあがりました。実は何れ近日敵の上陸は確実です。最悪の場合に臨みまして不覚を取る様では、そればかしが心配です。あなたの御許にあがれば叶わぬことはあるまいと存じ御やすみの処をおどろかせたのです。どうぞ御情けです。日本刀の一振り御貸し与え下さいます様にと頭を下げている。

 

花田様よくわかりました。然しあなたは死ぬつもりですか。死ぬつもりなら御探し巾すことは相成らぬ。あなたは先日不時着の時に既に死んでいるべきだがそれが死なずに今生きているのだからこれからは敵が上陸したからとて死んではいけない、どんなことがあっても生き永らえるのだ、敵は大軍あなた方は僅か数十名それも武器なしに玉砕したからとて日本が勝つのではない、結局犬死だ、それよりは日本の敗戦後は生き残りし人々が相集まりて日本民族の組織をするのだと云うことを強く考えねばならぬ。わかりますか、其時にあなた方の実戦に於て求められし浮い体験を生かして次の日本に報いるのです。それが真の忠と云うもので、体験者のてを砂させることは戦後の民族組織に大なる損失です。生きると云うことは神に対する忠実です。あなたはこういう南海の孤島で既に死ぬる時を失したのだ、死に場がわるければ死ぬる時でないことを御わかりですか。

 

死ぬる覚悟で来た花田少尉初めて夢からさめたような気持で、吉浜様よく判りました。有難う存じます。どうぞ今後共宜敷くと、妻の差出す黒砂糖のかたまりを大事そうに感謝して帰った。

 

六月二十二日

本日村内実行協力委員会あり。会員は各字区長。

協議事項一、世出の件一、戦斗中作物種子保存に関する件一、戦斗中家畜家禽の繁殖用保護の件

1、一般配給停止となる場合自給自足の件(略)

 

六月二十三日

(旧三十日)入山六十三日目空襲九十三日目沖縄の地上戦は将さに風前の燈の如し。島民よ頑張れ、たとい如何なることがありても只生き永らえるの

だ。

 

六月二十四日

甲子祭りと稲穂祭りを同日に行う

 

六月二十六日

丙寅米軍上陸入山六六日目 空襲九六日目 午前八時 仲里村イーフ浜に米軍無血上陸す。島民は皆山へ山へ奥へ奥へと蜘蛛の子を散したが如く四散した。米軍の素相の判明する迄は努めて発覚を避け山奥へ山奥へと移動するのであるが小さな島の範囲内ではどうにもならぬ。

 

私一家ではウジジあたりが適当の場所とし退避はしたが此日からは農薬会の役員等も各自思い思いに離散した為め日軍への食糧支給の手が切れたので責任者は二方面の敵に警戒せねばならぬ危険に置かれているのである。

 

最も米軍上陸せば軍への食根支給に困るからと云う予想で字婦人の夜薬で米搗きを頼み軍に対してはあらかじめ余分に支給はしてあるが軍属を加えて四十余名の人間を賄う飯米としては十日分の食概には不足するかも知れない。もし糧食つきて窮すれば彼等は民間に喰い入るか農薬会の費任者を求めて強要することは疑いない。こうなると会長と専務は大に警戒を要すると云うことになるのである。殊に鬼畜の如き虚山のことだからむしろ米軍よりも危険率は多いと云うことになり之れに対する対策をも講じて置かねばならぬ。状況の如何に依りては日耳を民間へ割り込ませ便衣隊を造るにしても現金の必要を感じるが農業会も永く日軍をまかないし為め殆んど資金を使いつくしいくらもない。小金を所持しては良案も出ず心細い極みである。

 

六月二十七日

米軍早くも具志川へ侵入すまだ聞いたこともない戦車の音上陸用舟艇の爆音が海にも陸にも鳴り響くので島民がチヂミあがっている。戦車が大田橋を通過する時など音響が高いのでもうじき手前まで来ているようなサッかくを起し皆の者が老幼を擁し石垣、吉浜、仁達、前ヌル松、吉永、長寿の家族一行四十四名がウシジ山を出て富祖久山へ移り午後八時夜間にまぎれ再びウジジ山へ帰ってきたがどの山へ行っても同様避難民が右往左往している。

 

六月二十八日

米国旗久米島ヒルガエす米軍は時を移さず各字へ侵入したらしい。暁新山応を出て一行は上方の仰地高松の山座に退避し午後四時帰した。昌松の山応は住い心地もよく場所柄もよいが歌人は日中一人も居ない。応の草かべに位牌がサカサに抑込まれてあるのが特に目に立つ。ハテナここまで来たら特に位牌は大事にせねばならぬ信仰の的であるにかかわらずどうしたことだろうと取り出して見たら内間仁考君祖先の位牌ではないか。内間君の祖先と私の祖先は一つであり結局自分の祖先の位牌がサカサにして草壁に押込まれてあるのだ。勿体ないと直ちに行季を並べ仮仏壇を造り安置して御茶を供へた。内間君なども山をウロタエまわっているのだろう。儀間と鳥島及上田森には米国の国旗が立てられていると云う。占領宣告の族だろう。

 

六月二十九日

仲泊部落の住民が白瀬川上流ウテザンナー(往時宇江城中城按司が逃れた場所)にて米兵七十余名に遭遇した。一行は逃場を失いウロウロしていると米兵の中から小造の男が出て来た。見ると何んと見覚えのある西銘の仲村渠明勇ではないか。明勇はニコニコしながら皆様早く家へ御帰り下さい。米兵は良民を害せずむしろ愛撫するのだから安心して山を出て下さい。そして早く農業に精出して下さいと説いている。皆は明勇が米軍の中に居る事実がどうしても腑に落ちぬから不思議そうな顔をしていると、明勇は話をつづけ、実は皆様私は捕虜になったのです。米軍が久米島上陸にあたり先導の任務を命ぜられ久米島出身の者が数名来ているはずです。米軍は上陸前に艦船三隻から艦砲射撃をすることになっていたが島の無防備を説き中止させたのです。安心して帰って下さい、と云う。このことが伝えられ続々と下山する者多シ

 

七月一日

掃討戦午前七時より字具志川、仲村渠方面より大嶽山、ウフクビリ山上

へ向け大砲、機銃射撃あり。盛んに日本軍陣地へ打込んでいるが日本軍陣地からはヒッソリとして応戦なし。

 

七月二日

米軍良民を害せず午前八時西銘の東部モウトンラ坂の上に米兵百余名休憩している。共前を知寛の妻カメ智元妻カナが通過してきたが何んのこともなかったと云う。企時刻上江洲智郎、仁送、赤概等も通過してきたが危害を加えなかったと云う。

又一方では字兼城徳門の新品某並字山里の林野委員新里某の二名は逃走せんとして射殺せられたりと伝う。にげだしたので疑われたのだろう。七月三日掃討戦字仲村渠方面より撃ち出しているのであろう、大嶽山上へ向け迫繋砲にて猛攻しているが山上よりは何等応戦の答なし。

 

七月四日

浜川村長戦死の報|七月二日湖城山上にて浜川村長戦死し三日午前死体発見セリとの報あり。

浜川村長は常に武装していた。巻ゲートルに望遠鏡、塗銃は昼夜身を放さず、身を堅めることは陸軍の兵士以上であったから日本軍人と間違われたのだろう。(略)

 

七月五日

日本軍の切込み鹿山兵曹長己れは某の娘手ごめにし山奥を転々とにげまわり安逸をむさぼりながら、切り込みと称し部下には五、六名を一組に一、二挺の銃器を与え、残りは竹槍にて米軍の通過する道路及適当の場所を見計り狙撃させていた。

この日、午前九時頃、富祖久山下譜久里専務の山麓を通過して行った内田兵曹の一隊五名が小港坂の下にて米兵の戦車に向って狙撃をなした処、早くも所在発覚され機銃にて掃射され内田兵曹、及、鳥島青年一名戦死、二名重傷にて敗滅せりとの報に接し、譜久里専務の山庵へ行って見たら二名の海兵が傷の手当をなしていた。米軍の前には全く児戯みたような鹿山の措置は感心出来ない。昨夜紅葉散る夢は内田兵曹の死のことか。

 

投稿する住民はスパイとして処刑すると宣言

七月六日

鹿山兵曹長民衆を脅迫す。

民衆が山から出て住家に帰れば、山に残る者は軍人だけと云うことになり、米軍の掃討には便利である。それで、女をつれてにげまわっている鹿山は山中人無くては都合がわるい。そのため民衆の退山を不喜若し (よろこばずも) 退山する者は米軍に通ずる者として殺害すべしと云う宣伝せし為、下山する者ナシ

 

七月七日

米軍宜撫米雷民政部は宣撫班を組織し各字へ立入り戸毎に人無き家は片ッパシからホジクリ返している。

 

七月八日

米兵の非道

山手に近い部落は山の危害をおそれ退山に躊躇していたが平地部落では多く下山し自家に帰っている者が多かった。米兵が婦女子を辱かしめると云うを伝え一般婦女子は再び山へ山へ退避する者あり。

 

七月九日

鹿山隊山賊化す

山を出て自家へ帰れば日鼠之を不好帰家する者は危害を加ふベシと云う宣伝がきびしく流布せられ今や島民は皇軍に対し山賊の如く怖れをなし退山する者が西銘、上江洲、仲地、山里、具志川、仲村薬には目立ちて少かったようだ。

それに米兵は一日も早く退山して帰宅耕作すべし、左ならずば口本軍と看做て山を掃討すべしと云う布告を発せられたからたまらない。民衆は山に居れず里にも不居、里と山とに迷う皇軍を怖れ敵に怯え帰する所を不知。呼々信頼セシ皇軍は完全に山城と化シ民衆の安住を妨害す。民衆は一日も早く山を出て耕セざれば生活に窮迫を告げている現状を不知、只管自己の安逸をむさぼる距山兵曹長いつまでにげまわるつもりだろうか。七月十日帰宅入山八0日目午前八時山田方面に銃声あり米軍の掃討戦ならん。本日夕刻家族は神仏を奉持し仁達家族も合同し当分吉浜の家に生活せしめ自分らは距山の動静を見る為め大屋辻の石垣の山麓に仮寓す。

 

七月十一日十二日

上田森運動場に米軍陣地敷かれた

 

七月十三日 

三日間引続き西南海面に海戦らしき音響あり。

 

七月十四日

米軍裸体者等が民家を荒しまわるので再び退避騒ぎあり

 

七月十五日

米軍空家を荒らし家畜家禽を害する者多し海軍陸戦隊だと云うが裸体者等は見られたものではない。上田森陣地一層堅岡を加う。

 

七月十六日

今尚ホ米軍の暴行を怖れ山から山をウロタエサマヨエル小娘の群がここかしこありと云う。

 

七月二十六日、

本日初めて自分の家に寝た。久しぶりに我が家に寝る心地は何んとも云えぬ。

一、本日若者の全部拉致取調べの結果具志川人民に混ざりし日本軍人三名引致された。

一、黒人軍来る。交代の為め見たことのない黒人軍来る。化物ミタイダ。

一、米軍には民政部もあり憲兵の配置もあるが、治安は治まらず、北原では女関係で二件の殺人事件ありしと云う。

 

八月一日

仲村駐屯米軍は全員引揚げたらしい。

 

八月十三日

午後一時、曙旅館に議員、区長、更員、職員、有志、警官、郵便局員等百余名集合。

米軍大尉は

一、今より六時間内に日本より降伏の回答あれば戦は止むのである。左すれば北原、大原に飛行場は造らぬでよい。

一、米軍は人民の生活を保障するから安心セヨ

と布告せり。

八月十五日

午後二時米軍は民衆の前にラジオを開放した。ラジオの前には無数の民衆が立ち塞さいでいたが、日本降伏の放送に、民衆は呆然自失声なくここかしこに、すすり泣く。鳴呼、三千年の歴史の.....。

八月十六日

午後一時上原君来訪(特派将校)。日本軍人は天皇の命に依り、日本武士らしく降伏すべしと痛哭止まず。上原君は偽名で教育武官だが去るまで本名を語らず。

 8月20日の谷川家虐殺と食糧問題

八月二十一日

(旧七月十三日)旧七月盆祭りを営む。鹿山兵曹長の趣七月の初日字北原の宮城一家族及識員、区長等計九名を凶殺してから八月十八日の夜は仲村渠明勇妻子共三名を仲里村字比嘉にて惨殺し、引きつヅき二十日の夜は朝鮮人親子七名を字上江洲と為島にて惨殺した。

鹿山兵曹長はそれにても尚示やまず次ぎは農業会長を初めアメリカ軍と接触する者等をカタッパシから暗殺すると云う計諜ありとの内密通報する者もあるが、あらかじめ通信部隊へは当方から密目を差しまわし鹿山の行動を監視付きにしてあった。そして万一の場合があれば島の在郷軍人を招集し米軍の授助を求め鹿山の山城を討伐せねばならぬ状腺まで近づいていたのである。

 

鹿山兵曹長、彼れは四国の生れとかにて性極めて凶暴で戦地にありながら部下を愛せず常に凶悪性を有した生意気者で一般民衆からのきらわれ者であった。

 

ウフクビリ山西に通信部隊として駐屯して以来海軍本部からの補給の途が杜絶し食糧難になってからは専ら島民の供出物資に依り維持せねばならなぬ状態に置かれたので、画村では両村農業組合の協力により補給することになったのである。

 

然るに駐屯地が具志川村に近く地理的関係から鹿山は具志川農薬組合に惣てを求め仲里村では何端の交渉もないと云うわけで具志川村の負担が甚だ過重となった。それで再三に及び仲里村農業組合と五分五分に負担させてもらうよう交渉したが横暴な鹿山は命令だ軍の都合に依り供出させるのだ具志川に物資がなくなったら仲里に要求するから車の命に従うべしとぬかして応じない。共為め具志川村悠業組合は飯米の提供、諸野菜類及牛豚肉、鶏肉、鶏卵に至る彼等の要求に応ずるには火の車になって組合職員がテンテコマイしている。それも最初の一ヶ月は計腕に現金支払をなしたが二ヶ月目からは脅迫されて無償供出と云うことになり、組合は赤字だらけで組合の維持にさえ困難を来たしていた。

 

鹿山兵曹長はそんなことには無頓着で一日組合の退避先なる西銘の仮事務所へ来り、曰く戦争は日に悪化し供出に困るだろう。民衆から取り立てに困難なら軍自体で徴発するから現金三万円程提供したらどうか。若し君等がこれに応じ兼ねるなら銃弾と交換してもよい、と日本刀仕込の軍刀に手をかけ脅迫をなした。

 

居合せた仲村渠昌高訓導其他二三人がスワ一大事と色をなしにげ去ったが私は斯くの如き脅迫には応ぜなかった。

 

銃弾を送るなら送れ、日本刀が飛ぶなら飛べ、軍が島民と共に苦しみ最後まで協力して戦い抜くと云うなら兎も角だが島民を搾り軍だけが米食肉食を続け、あげくは凶暴に出るなんて死すとも民衆の為め斯くの如き暴行には従わぬと云う決意が読めたのか、抜刀切り付けんばかりの彼れの手は軍刀のツバを離れ、覚えて居れ、と陰険なセリフを残して無言のまま立ち去った。

 

ところが同行してきた青木兵曹だけは去らず居残っていて、誠に相済まぬと云う表情で、吉浜様誠に済みませんがよろしく御願致します、私は食糧の係りですから実は自分の貯金まで引出して使いつくしたのです。鹿山はあんな性格だから地方の事情なんかで話せる人間でないのです、と挨拶をなしている。全じ四国の人間でありながら青木氏は電気会社の重役で人間はできている。堂々たる紳士でありながら軍隊では仕方がない。鹿山の如き者の部下で勤務するとは気の毒にもつらいだろう。

 

私は青木氏の人格を無視するわけにはいかない。青木様御心配せんで下さい。万一最悪の場合はあなたが来て下さい。あなたがたが民間にもぐりゲリラ戦の準備はこちらで考えて置きますから兎に角鹿山のようなゼイタクを言わないで下さい。民衆も食糧は欠乏していますからな。

 

青木氏は立派な態度で帰ったが性極めて暴悪な鹿山は自らは一婦女子を掲へ山間をにげまわりながら部下には切り込みを強要し、数日帰らない一兵曹を自ら殺害する外、北原の住民宮城、比嘉の家族及び議員区長団長等九名を一時に殺害する等、其凶暴は実に言語に絶するもので、更らに仲村架明勇の妻子三名鮮人家族七名の幼児等を殺害せる凶悪は史上永遠に残る皇軍の汚名と営わねばならぬ。

 

九月七日 日本兵調印 久米島に駐屯していた日本軍は通信部隊の外不時着した特攻隊の搭乗員及慶良間より避難し来れる軍属其他最終応召兵引取の為め派遣されて来た渡辺上等兵等を加え四十余名の兵員が亜米利加の軍門に投じ本日調印終了米軍陣地に収容された。これで鹿山の危害を免れた人々がホットしたことである。応召兵引取りに来た渡辺上等兵一行三名はハンノウ山にて自殺をとげたとの噂もあったが距山等とは行動を共にしてなかった。応召兵は両村で六百名の予備役のつわ者等であったが今日が乗船と云う日(三月下旬)に米軍の空襲で船は一隻も残らず轟沈せられ応召不能になったのであるが船が轟沈されず六百名の若者が応召していたら之等も全員沖縄地上戦の犠牲となり島は若者の全員を失うていたのだろう。龍夫もその一員であったが応召を免かれたのである。

 

九月八日本日アメリカ軍の一部及投降日皿全部久米島を去る。ハンタ、礎田辻陣地引揚ゲ。

 

九月九日些会小務整理をなす。

 

《沖縄県史第9巻(1971年琉球政府編)および沖縄県史第10巻(1974年沖縄県教育委員会編)》