久米島の戦争を記録する会『沖縄戦 久米島の戦争』インパクト出版 (2021年)

久米島の戦争を知るための必読書

沖縄戦 久米島の戦争 私は6歳のスパイ容疑者 [ 久米島の戦争を記録する会 ]

 

 

証言 1 谷川一家虐殺事件

牧志義秀(字久間地大正2年生まれ)

谷川一家の殺害

後ろから袈裟斬り

… 谷川さんは島の人に慕われていた。ナービナクーをしてあちこち回っていたから。中には彼が朝鮮人だということで嫌いな人もいるわけで、その人たちが作り話で噂を立ててそれが、山の兵隊鹿山に伝わったのだ。久間地にも住んでいてよく知っていたので谷川さんの家族殺害のことはあまり話したくなかった。彼は決してスパイではなかった。

 

事件の発端は、1945年の旧暦7月5日、お盆の日だった。僕は、家の東側で月を見ながら涼んでいた。そしたら山の兵隊が5~6人入ってきた。その中には友達が2~3人いた。電信長といってね、殺害事件の実行責任者で名前は常といったかね。それに僕と同年の宮里という恩納村出身で上等兵後に鹿山隊長に殺された花岡兵曹長。僕は炊事夫の砂川という人とも友達になっていた。鹿山隊長から谷川を殺せという命令が出されたことを聞いて谷川さんは鳥島に逃げていた。殺害実行部隊は、西銘のハッタには、アメリカ兵がキャンプを張っていたので、そこを避けて久間地に回ってきたのだ。僕の家に1時間ほどいて、鳥島にむかった。僕の家の隣には鹿山に殺された仲村渠明勇さんの兄さんが、僕のいとこと結婚して1人でいた。明勇が殺された後だから、自分は明勇の兄弟だから山の兵隊は自分を殺しに来たのだと、兵隊を僕が連れてきたと誤解されてしまった。それまでは、おじさんのように親しく付き合っていたのに、仲直りするのに4~5年かかったよ。

 

鳥島へ行ったのは、兵隊7人はど、民間人は僕と当山君2人であった。その中に鳥島の人がいた。彼は谷川さんが隠れている家を知っていたのだ。久間地から鳥島までは、シミズバルを通って農道があった。なぜ上の県道を通らずにそこを通ったかというと、西銘のハッタには米軍のキャンプがあったからレーダーに引っかかって察知されないよう下のシミズバルを通って腰をかがめ、足音を立てないように鳥島まで行った。

 

2、3人の兵隊が谷川昇さんを隠れていた家から引きずり出してきて護岸の方へ首に縄をかけて引っ張っていった。僕は殺すところは見なかったが、鳥島の青年たちに聞いたのだが首を絞めて殺し護岸から突き落としたらしい。遺体は鳥島の警防団と青年団が片付けたそうだ。谷川昇さんを殺した後そこから引き返して字上江洲に行った。家には妻と子供たちがいた。兵隊たちが誘いだしたらびっくりして、妻は子供を負ぶって逃げた。ンジュノハタ(溝の端)、當間さんの家の前に灌漑用の溝があり、小道が通っていて傍にガジマルの木があった。今もあるかもしれない。その下に母子をつれてきた。電信長は日本刀を持っていた。ワラに包んで肩にかけていた。刀を抜いて後ろからばっさり袈裟切にした。そこから再び谷川さんの家にいった。女の子が2人いて、兵隊が、お父さん、お母さんのところに連れて行ってやるからと連れ出し、今度は山里の方へ行った。山里の西側に松の木が3本あるでしょう。そこに連れて行くので僕はついて行かなかった。女の子たちの遺体は山里の青年団が片付けた。母親と子供は、久間地の青年団が片付けた。ンズノハタの前で、僕は目の前で殺すのを見た。民間人で見たのは僕だけではないかと思う。書かれた記録はほとんどが伝聞で、目撃した人はいない、だから事実がちがうところもある。お盆の日だから皆家にいて見ていない。翌日谷川一家が殺されたことを知ったという人が多い。僕は電信長をよく知っていた。谷川昇さんには、誰かが鹿山の動きを知らせたと思うが、察知して鳥島に逃げていた。まさか家族まで殺されるとは思わなかっただろう。家族は家にいたのだから。

見せしめに花岡兵曹長を惨殺

見せしめに部下を斬殺

久間地のカンジンバルに墓があってそこに5人の日本の海軍兵が寝泊りしていた、僕は青年団長していたから助けようと思ってご飯を炊いて持っていった。花岡が隊長になって斬り込みに行こうとしていた。斬り込みといっても銃も何も持っていない。山ナタを持っているだけ。そんな状態で斬り込みに行くのは馬鹿らしいので止めたほうがいいと僕が言ったので止めて引き返した。すると鹿山は、隊長命令違反だということで花岡を殺した。僕は現場を見ていないが、現場で目撃した友だちから花岡兵曹長がやられた時の状況を聞いたのだが、日本刀で切り殺されたが、一刀では死に切れず、ギャーともの凄い叫び声を上げて、3メートル位走って藪に倒れこんだ。その時の何ともいえない声が忘れられないといっていた。

 

山の通信隊は、最初澤田が隊長であったが、鹿山に代わった。鹿山は髭を蓄えて人相も悪かった。空襲の時も一人で日本刀を引っさげて一番高いところに仁王立ちに立っていたのを見たことがある。威厳を示すためだったと思う。鹿山は、降伏するとき威厳を保とうと日本刀を下げていたが、それも取りあげられて、PWとかかれたHBTを着せられ惨めな格好をしていた。

 

僕は友だちの兄さんが軍にいたので山の兵舎にはよく出入りしていた。兵隊はみな顔を知っていた。鹿山は人相が悪いだけでなく性質が悪かった。僕は部下の兵隊と付き合っていたので、鹿山隊長には憎まれていた。敬礼の仕方が悪いと殴られたこともある。兵舎は普通の木造板壁の粗末なものであった。隊長の部屋だけは立派で、そこに16歳の愛人を連れ込んでいた。

 

証言 2 仲村渠明勇さんは久米島を救った

喜久永米正(字西銘昭和6年生まれ)

… 米軍が上陸した時、久米島に艦砲射撃をさせないために、道案内を買って出た仲村渠明勇さんがスパイ容疑で鹿山の部下に殺されました。妻と一歳の子供もろとも。明勇さんは、私と家も近くでよく知っていました。がっちりした体格で、正義感の強い人でした。近所の家の人が早朝一人で井戸掘り作業をはじめ、ガスが溜まっていた井戸底で倒れてしまったんです。それを助けようとした隣の男性も腰を打って動けなくなってしまいました。急遽、集まった人たちが木の葉を束ねて井戸底の空気の入れ替えをしたが、誰が助けに行くかということになり、明勇さんが進み出て、腹にロープを巻いて下りて行き2人を助け出したことがあります。明勇さんは、イジャー(意気地のある人)として一目置かれていました。

 

鹿山に命を狙らわれているということで、銭田の村はずれのアダンと雑草に囲まれ
明勇さんたちの小屋は手前の畑の中にあった小屋を借りて親子3人で隠れ住んでいました。

 

明勇さんが鹿山の部下に殺されたと聞いたとき父親はショックで寝込んでしまい、親戚の上江洲智和さんと近所の人と2人で遺体を引き取ってきたのです。遺体はカマスに包んで馬に乗せて運んできました。3人とも黒焦げに焼かれていたそうです。後に本土に移り住んだ親戚が遺骨を引き取りに来た時、私も立ち会ったのですが、不思議なことに3人とも頭蓋骨がないのです。そのころは、火葬ではなかったので骨はちゃんと残っているはずです。明勇さん殺害は、鹿山は部下に命じてやらせています。猜疑心の強い鹿山は、部下がちゃんと殺害を実行したのか、首実験したのではとも考えられます。

 

証言 4 少年兵はがたがた震えていた

上江洲義一(字西銘昭和8年生まれ)

鳥島の少年を斬り込み隊に

具志川国民学校で2年上に仲宗根寿というポナペから疎開してきた先輩がいました。あるとき嘉手刈景勝先生が、全校生徒の前で敵機の爆音が聞こえたら避難する方法を指導していた。「敵機の爆音を聞いたことがある人はいるか」と問いかけるとただ一人手を上げた生徒がいた。南洋帰りの寿さんだったことが印象に残っている。字鳥島の出身。鳥島は、1903年硫黄鳥島が噴火した時、久米島へ移住してきた部落。土地がないので漁業が主で、南方に出稼ぎに行く人が多かった。


私は小さいころ鳥島で商売していた親戚の家に預けられていたので鳥島に友達が多く、寿さんの家にも遊びに行ったことがあた。久米島でも空襲が始まっていたある日の夕方、山から降りてくる寿さんと遭った。石垣殿内の東側に山の兵舎へ通ずる農道があるが、ちょうどモートンダ入り口のあたりで、薄暗い中にもまっ白の半ズボンの海軍の制服を着た寿さんがはっきりと見えた。山の海軍通信隊へ志願したらこの制服をもらった、と誇らしそうに話していた。寿さんは、鹿山が、内田常雄兵曹に命じた「斬り込み隊」に加わり、7月5日、大田の小港で待ち伏せして米軍戦車に発砲、反撃され機関銃掃射を受けて、5人中、内田兵曹と寿さんの2人が戦死した。撃たれた時、海軍の制服を汚すまいと思ったのか服を脱ごうとしていたらしい。力尽きて血染めの制服のまま米軍の戦車にロープで引きずられイーフのキャンプへ運ばれたという。…

住民9人の虐殺に加担した少年兵はがたがた震えていた

6月2日、鹿山の命令で北原の住民9人が殺された時、虐殺に加わった牛田という18歳くらいの少年兵が来て、がたがた震えながら、自分は鹿山の命令で北原の人たちを殺した。区長、警防班長は覚悟を決めていて、銃殺にしてくれと言ったが、命令だから銃剣で刺し殺したと話していた。何も食べていない様子であったので住民が食べ物をあげた。その後、山の陣地でへ米軍の銃撃があり、この時牛田少年兵は銃撃を受け戦死した。西銘の青年団が埋葬した。何年か後、遺骨収集にきたので、私は、西銘の青年団についていき、遺骨が掘り返されるのを見た。

 

証言 5 山の兵隊が武装解除に行く

山里昌朝(字仲地昭和2年生まれ)

年齢が徴兵検査前であったので召集はされなかった。島の若者たちが兵隊や徴用に取られて慟き手が少なく、壕掘り、資材運搬など軍の作業によく動員された。戦争が終わったというので叔父の山里昌久と兄の正嗣の3人草刈をしていたら、いきなりアメリカ兵が来てシンリバマの米軍キャンプに連れて行かれた。体格がいい私を兵隊と思ったのでしょう。そこからイーフのキャンプに移された。手振り身振り説明してやっと兵隊ではないことがわかって釈放された。

 

鹿山は、米軍に連行された者は出頭するよう通達を出していた。タージリのタンメー(じいさん)が私を探しているといわれたが、昌睦叔父に「行ったらスパイとして殺されるから絶対に行くな」といわれ、見つからないように隠れていた。このタンメーは、日本軍に情報提供していたのだが、日本が負けたらすぐ寝返って、アメリカへすりよって軍作業の班長をしていた。実に要領のいい人間だった。

 

私は、日本軍の作業に何度も駆り出されていたので、鹿山ら山の兵隊の顔はよく知っていた。米軍が上陸すると鹿山ら山の兵隊は、分散して身を潜めていた。食事時間になると、どこからともなく現れて、身の回りの世話をさせていた貞子さんの家(ウインズの池の近くのカヤ葺き家)で食事をしていた。まるでその家の婿気取りで振舞っていた。その家の前に私のうちの田んぼがあったので、田起こしをしながら鹿山をよく見かけた。ある日、米軍40~50人が貞子さんの家を取り囲んで鹿山が現れるのを待ち構えていた。いつ捕まるのかと見ていたが、誰かが知らせたのかその日は遂に現れなかった。


印象に残っていることは、山の兵隊が武装解除に行く場面である。空襲の時、燃えやすいのでカヤ葺屋根のカヤを取り外して仲地のウシマー(闘牛場)に積んであったので、私はそれを取りに来ていた。すると字具志川の方から山の兵隊30人くらいが鉄砲など武器を担いで隊列を作って行進しながらやってきた。その中にいた鹿山が「オイ山里君元気だったか」と声をかけてきた。米軍に投降して行くところであった。その時までは、一応隊長としての虚勢を張っていたのだ。ところが、帰りは全員背中に白いペンキで「PW」と大きく書かれたHBTを着せられ、缶詰など食糧が入っていると思われる段ボール箱を担がされ、うなだれて具志川方面に歩いて行く様は、何とも惨めで滑稽でした。人間がとうも変わるものかと驚いた。… pp. 40-41

 

証言 6 鹿山のビンタを張った

東江芳隆(字鳥島大正11年生まれ)

私が捕虜となって屋嘉収容所に収容されたのは1945年9月5日であった。捕虜収容所は、将校、下士官、一般兵、朝鮮人、沖縄人、そしてハワイ部隊 (捕虜になりハワイに移送され帰ってきた兵) に分かれていた。それらは有刺鉄線のフェンスで区切られていた。所持品の点検の後、私は少年班のテントに配置された。翌9月6日に久米島で鹿山隊にいた宮里という主計兵長が私を探して訪ねてきた。彼の証言によると久米島通信隊の隊長鹿山兵曹長久米島での行動は、友軍と思えないほど島民を苦しめ、スパイ容疑で住民を何人も殺害したとのことであった。私はびっくりして、海軍はそんなことはしないでしょうと本気にしなかった。ところが彼は、どこの誰々がと名前を挙げて報告するので事実かもしれないと思った。鹿山は、9月8日に久米島から来るという。私は久米島出身の先生方にも話し、何とか実情を知ろうと思った。・・・

 

納得できない私は翌日また鹿山を呼び出し、今度はハワイ部隊の幕舎へ連れて行った。久米島での殺害の説明を求めたら、「スパイ行為をしたので殺したのだ」と言い張った。鹿山は、がっしりした体格で、ハブカクジャー(あどが張っている)で見るからに強情そうな面構えをしていた。久米島の先輩がたも言いくるめてしまうほどだから一筋縄ではいかないと思った。私は覚悟決めて語気を強めて追及したら「20人くらい殺した」と言ったので、怒ってビンタを張った。一家7人を鹿山に虐殺され朝鮮人の谷川さんは、鳥島に住んでいたのでよく知っていた。奥さんのウタさんは、国防婦人会の会長をしていた。ご馳走を作って山の兵隊に差し入れをするなど熱心に軍に協力していた。私は、皆余裕がないからそんなにまでしなくてもいいのではないか、と言ったことがある。そのウタさんの家族が殺されたと聞いて、許せないと思った。

 

その場には糸数栄助さん (鹿山に殺された郵便局員安里さんの妻カネ子さんの義兄)、小橋川さん (米軍に拉致された住民の帰還報告が遅れたとして殺された北原区長のいとこ) など殺害された方の関係者もいた。正義感の強い小渡良吉さん (鳥島出身の青年) などは怒りを抑えきれず鹿山に殴りかかった。久米島出身者の怒りはものものすごく、かわるがわる殴った。私はこれ以上やると危ないと思って制止した。彼の久米島での殺害行為の詳細を一つ一追及したら「自分が悪かったので、久米島に一緒に連れて行ってくれ、自分がお詫びする」と言ったので皆「なにをいまさら!このばか者!」と一斉に殴りかかった。私は、ここで死なせては困ると思って皆をなだめて鹿山を幕舎へ連れ戻した。

 

宮里兵長は、鹿山は、アメリカ兵と付き合っているとして字山里の具志川校周辺の住民を皆殺しにする計画であった。武闘訓練までしていたと言っていた。(pp. 42-44)

 

 

 

 

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