1944年、南洋諸島からの戦時引揚
海という戦場に投げ出された南洋諸島の移民。サイパン上陸戦を目前に、次々と引揚命令が出される。
1944年(昭和十九)2月16日の夕刻、私は家内と三人の子供を赤城丸に乗船させた。男は島に残され、女性と子供と老人だけが強制的に引き揚げさせられたのである。
… 結局生き残ったのは約三〇人ぐらいであった。阿波連出身の犠牲者は三〇人を越
えたが、そのほとんどが女性と子供たちであった。私も臨月の妻と三人の子供らを一度に失った。内原勇助「赤城丸撃沈される―妻も子も海の藻屑となる―」渡嘉敷村史編集委員会編『渡嘉敷村史 資料編』渡嘉敷村役場 (1987年) 336-337。
海が戦場だった。
米軍に撃墜された南洋諸島からの引揚船。
1993年代の貴重な証言。
生き別れ・不安の中、疎開船へ ~ 8隻遭難、520人が命落とす
琉球新報1993年6月13日
喜屋武幸一さん(78)=那覇市松川=は家族を疎開させるため巡航船でテニアンから疎開船の出るサイパンに向かっていた。1944年5月。テニアンはこの年2月、米軍の空襲を受けた。非戦闘員の疎開が急がれていた。
疎開するのは妻と子供3人。末娘は妻が、二男は喜屋武さんが抱いていた。2時間の乗船。二男が「父ちゃん、水欲しい、水欲しい」とせがむ。
「家族が海のもくずとなるのか、運良く向こうに着くか。もしかしたら私がしぬかもしれない」
不安が喜屋武さんをよぎる。3月、サイパンから出港した疎開船「あめりか丸」が米潜水艦によって沈められた。家族が無事、疎開先の東京に着く保障はない。涙をこらえ、水筒のふたを開けた…。
南洋群島の疎開が本格的に始まったのは、各島が空襲を受けた44年2月以降だ。婦女子、60歳以上の老人が疎開の対象。16歳以上60歳未満の男子は島の防衛のため自由に引き揚げは許されなかった。
家族の別れとなる疎開に在留邦人は消極的だった。また、相次ぐ疎開船の遭難で、邦人は疎開に二の足を踏んだ。
伊礼真栄さん(68)の家族はサイパンからの引き揚げを決めていたものの、あめりか丸の遭難で、疎開を取りやめた。
「うちの母親は、死ぬんだったら陸で死にたいと言っていた。帰る準備もしていたんですよ。沖縄の人はあまり疎開しなかった。死ぬんなら家族一緒がいいと思っていた」
南洋庁職員だった上地永太郎さんはパラオで疎開の業務に携わった。
「港で見送りをしたこともあるんですが、つらかったですよ。生き別れですからね。近所の子なんか、私にしがみついて泣いていました。残された家族は、現地で死ぬ覚悟をしていますから。疎開する家族も無事に着くかだれも保障できない。半分、あきらめですよ。悲惨なもんです」
不安と悲しみを抱えた2時間の航海をへて、喜屋武さんら巡航船はサイパンに着く。港は疎開者でごった返していた。疎開船の出港時間は機密のため知らされていない。別れを惜しむ余裕もなく、妻と3人の子は群集の中に消えた。
喜屋武さんの家族の乗った疎開船は無事、東京に到着。46年3月、テニアンから引き揚げてきた喜屋武さんと糸満で再会する。しかし、疎開では犠牲者も多い。沖縄出身者を乗せ、サイパン、テニアン、ロタ、パラオを出港した疎開船のうち8隻が遭難。520人が命を落とした。
琉球新報1993年6月13日
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