「牛島中将自決現場にいた私」『潮』1971年11月号

 

第32軍の作戦参謀、八原博通はあの摩文仁から奇跡的に生還した。そこには彼を生還させるためにえらばれた一人の沖縄人がいた。

 

実に理想的な洞窟だ。私は新垣の猟犬的能力に驚嘆するとともに、信頼の念を深めざるを得なかった。

《八原博通『沖縄決戦』p. 427》

 

八原の手記で新垣上等兵と呼ばれているのは、以下の人物のようである。ほぼ、八原の手記と状況は一致する。

 

「牛島中将自決現場にいた私」

『潮』1971年11月号

新垣隆生 (当時軍属・28歳、現在自動車整備工場経営)

 東宝映画『沖縄決戦』をみましたが、牛島司令官と長参謀長の自害のシーンは違っています。三十二軍司令部付の軍属だった 私は、あの自害のさい、ちようど現場に居合わせていたのです。″沖縄玉砕″の二十年六月二十三日の前夜二時ごろ、牛島閣下が八原高級参謀と牛島中将護衛長の私を呼び「あす最後の総攻撃をかける。おまえたちは、何とか本土に渡り、沖縄の情況を大本営に報告してほしい」と命令されました。


 私たちは閣下と杯を交わし、恩賜のタバコまで頂いて、民間人に変装して壕から出ることになったのです。私は沖縄を脱出し、本土ヘ渡るまでの道案内役というわけです。しかし、私にも無事本土に渡れるかどうか、まったく見通しがたちません。とにかく、八原中佐の命令に従うのみという心境でした。

 

 夜陰に乗じて壕を出ようとすると、八原高級参謀は「もう大本営には沖縄玉砕の無電を打っていたのを知っている。本土ヘ行く必要はない」というのです。私は一瞬キツネにつままれたような気がしました。しかし、ことばを返すこともできません。司令部のあった壕は、迷路のようになっていたので、他の通路から壕内に戻り身をひそめていました。


 映画では、両中将の自決は壕内で行なわれている。長参謀長が「八原!後学のためにわれわれの切腹をよく見ておけ」といい遺(のこ)したように描かれているが、これは事実に反しています。

 

 両閣下は、私たちが本土ヘ向かったものと思っていたはずですから、八原参謀が自決現場に立ち会ったというのはツジツマが合いません。また、自決は壕内でなく、二十三日午前零時半ごろに壕を出て、崖の上の台地で行なわれました。ピストルの発射音が、冷厳な余韻をのこして闇をツンざいたのです。壕からとびだしてみると、両閣下が自決された直後でした。外は真っ暗閤。私たちの姿は誰ひとり気づきません。牛島中将の首は吉野副官が、長参謀長のは坂口副官がどこかヘ持って行きました。いまもって、その行くえはわかりません。遺体は十四、五人いた部下によって壕内のベッドに安置され、毛布がかけられました。

 

 両閣下の自決を見届けた八原高級参謀と私は、壕から壕をモグラのように抜け、海岸線沿いに逃げ出して、民家に隠れていたところを捕虜になってしまいました。収容所では、先に捕まった日本兵が、軍人と民間人の仕分けをしていた、幸い顔見知りの兵隊が、私たち二人を「民間人だ」といってくれたので命びろい。死体収容の仕事などをすることになったのです。

 

 私はともかく、八原高級参謀はよく知られていたので、貧相な汚ない格好に身をやつして、腰を曲げて年齢をごまかしていました。参謀はあくまでも、本土上陸のチャンスをねらっていたようです。けれども、司令部に出入れをしていた元小学校の女教員が米軍の憲兵隊と親しくなり、私たちの身元をバラしたらしく、ある日、住み家を憲兵隊に囲まれ、普天間の米軍司令部に連行されてしまいました。

 

 米軍は八原さんの写真を入手しており首実検が行なわれ、ついで捕虜収容所送りになったのです。私は処刑を覚悟していました。それが、二か月ぐらいで八原高級参謀ともども釈放になりました。牛島、長閣下に次ぐナンバー3の大物が、なぜ放免されたのか、いまだに釈然としません


 私は密偵に任命されなければ、特攻隊入りして死ぬ覚悟でした。多くの友人や親類の人たちは、沖縄の草や海を朱に染めて死んでいったのです。とくに玉砕の前日、いい注射をしてやると細腕に打たれ、パタパタともだえ死んでいったうら若い女子軍属ありさまは、いまだに脳裏にやきついではなれません。

 

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