「日本軍が怖かった」一中鉄血勤皇隊・宮城真一さん証言 (NHKドキュメンタリー「戦場の少年たち」)
「日本軍が怖かった」
宮城真一さん
少年航空兵の志願用紙
僕は、一中へ入学するときは、「ただ中学に入りたい」というあれだったんだけど、「将来、中学には入る目的というあれは」まだ分からなかった。しかし、少年航空兵というのがそのころから募集があっって、一中2年のときだったか、海洋会館という、今の若狭町のあそこに海洋会館というところが、4階、4階まではなかったか、そのぐらいのビルが沖縄では高いほうで、それで覚えているんだけど、そこへ志願に行った。そうしたら志願用紙をもらって、親父のハンコをもらってこいと。うちへ帰って親父に、「国のためだからおれは兵隊になりたい、少年航空兵になりたい」と言うと、「お前、どういう兵隊になりたいんだ」と。「将校になりたい」。まだ中学、このくらいのあれだからね、将校と兵隊との差が、憧れのあれで、格好いいからね、「将校になりたい」と言ったら、親父が、「お前、軍医でも将校になれるんだぞ。軍医は少尉以上は医者で、兵隊のあれだから、それになるんだから、軍服を着たいんだったらそのほうがいいじゃないか」と。「ああ、そうか」と。で、親父にハンコをもらえなくて。だから、そのときでも、少年航空兵、一中から師範に行ったのがたくさんいるわけ。
軍国教育と出征兵士へのあこがれ
国を守るという、国民の義務だと。まず第一番にそれで教育されている。
Q:一方で、日本からだいぶ離れた沖縄にいらして、「国を守るときのいう国」というのはイメージできていましたか、当時、子どもで。
そうね、国という国家観念のそういう国じゃなくて、漠然とした集団というような考え方かな。昭和12年に支那事変が始まっているから、そのときは八重山にいたのね。八重山にいて、出征兵士が船で出ていくのを見ているから。田舎に行けば行くほど、出征兵士が出ていくのが派手なのよ。のぼりを立てて、「祝 入営 なんの誰々」と大きい旗を立てて、楽隊をあれして見送る。今みたいに飛行場はないから、船で行くから、港に見送りに行くわけ。そういうのに憧れたのかな。楽しかったというのかな。そういうのがあるから、国という観念は、あんたがおっしゃるような国家観念なのか、そういうあれとはちょっと違うかもしれないけど、漠然とした日本というのは覚えていた。
やってきた沖縄守備軍「第32軍」武部隊
学校が兵舎になる
動員でね。昭和何年かな、武部隊が入ってきたの。これが第九師団の山砲の、部隊番号を覚えていたけど、4桁で部隊番号があった。戦争のときのあれは9700、歩兵団司令部第五歩兵団。そこの大将は、陸軍中将和田孝助という人だったのね。これが師団の大きさで、師団長というのは中将だから、師団の大きさの砲兵が入ってきたわけ。その砲兵が一中に分宿するわけ。一中を全部、学校舎あけて、そこが兵舎になっちゃって、山砲、兵隊の宿舎になっちゃって、僕たちはそこを出されたわけ。だからあとは、安国寺の後ろで授業をしたり、黒板を持って、野原に黒板を立てて先生が教えたよ。そのころからは、完全な外だから先生の話が全部聞こえるわけじゃなし、景色を見て、戦争が来るな、しかし、みんなは「負けると思ってない」からね。そういう学校だからこそ、「おれたちは必ず勝つんだ」というあれで、授業は少なくなったけど、壕(ごう)掘り、それをいろいろ日程を決められて・・・。
うれしかった軍服、そして軍への失望
軍服で気持ちは、はしゃいていた。おれも一中じゃ、軍国少年の右の方にいたやつなんだから、喜んでいたら、夕方、「宮城!」と呼ぶんだよ。そのときは僕たちを教育する兵隊が入っていた。軍服をもらってからしばらくしてから、いちばん最初に呼ばれたわけ。何回か、聞こえたような聞こえないような、よく分からないから後で行ったのよ。すぐ、頭からどなられて、「お前、聞こえているのになんですぐ来ないんだ、何してるんだ」と。「いや、これこれ、やっていました」と言ったら、「言い訳はならん」と、やられちゃった。そのやられ方も、散々、やられちゃった。壕を掘っていると水が出るよの。その水を排水するためにちょっと壁の方の下に水道を作った。その道に水路があって、人が通れるぐらいの幅があって、奥の方に寝台、いろいろ、そういうのを置いてある。そこへ来た上等兵が、そのベッドか、あそこに座って、おれをそこへ立たせて散々殴った。殴って、あまりにもひどい殴られ方なんで、倒れちゃって、その水の中へ倒れた。その人に、僕は、いま考えると「感謝する」。その日から「兵隊とはこんなもんか、おれは国のためにやろうとしたのに」というあれで、とても心が大きい変化(を)した。「国のために第一線で真っ先かけて働こうと思っていたのに、なんで返事ぐらいのあれで、ちょっと遅れたぐらいであんなに殴らなくてもいいじゃないか」と、顔がふくれて。しかし兵隊からすると、まず、おれを見せしめにしておけば、あとの残りの人は言うことをよく聞くわけ。
ケガっていうか顔。顔がもう膨れて。アザがついて。それよりも、おれの心変わり。軍国少年がね、もうやる気なくなっちゃった。それお陰で、まあ最後まで続きますけどね、その気持ちが。それで、僕は生き延びたようなもんです。
「これ、やくざの作法かなっ」て。人を牛耳る、統率するにはね、ひとつ、そういう犠牲者出しとくとね、言うことあとみんな聞くんだって。でそれが、真っ先にかけたが、いちばん真後ろになっちゃったわけ。そういうことがありあしたな。
チンタラチンタラ。何をするにも、そいつが、いつもいるんだから。心の中はね、銃を、弾を貰う。大東亜戦争、沖縄戦が最後で。鉄砲を貰う。自分で鉄砲を持ってるんだから。弾もらったら「殺してやろう」と思って。
Q:弾もらったら、その兵隊を撃とうと。
そう。撃つとか。本当に僕はそう思った。それくらい僕は痛めつけられた。だから「おれの最後はね、戦死なんかしないで、こいつを殺してから死ぬんだ」と。そこまで思った。
だから「おれが助かった」というのはそこなの。芯(しん)からもう嫌になっっちゃったから、投げ出しっちゃったから。もうちょっとでも残っておれば。最後にアラカワ校長がね、摩文仁の山を二人。あのニシムラ准尉、その人から伝令を受けてね。今ね、「礎」があるでしょう。「礎」あそこはね、今まっすぐ、平らだけど、昔はちょっと谷だったのよ。谷だった向こう側に、うちの小隊か何か部隊がいたわけ。そこに伝令行かされたわけ。それで、伝令行かされたとき、伝令文を、もうみんな忘れちゃったけど、それを2人に命令されて、「行ってこい」って。あいつらバリバリだから。すぐ、それ行けって飛び出た。飛び出ると同時に弾が来た。目やられた。おれは、もうそんなあれですからね、よく弾を見て、ああ今だな。あれで弾というのはね、戦争中の僕の経験からいうとね、呼吸があるんですよ。今撃ったら、一時ちょっと休んで、また弾が飛んでくる。休み。それを計って、おれは行動していたの。もうやる気ないんだからね。もう本当にやる気なくなっちゃったんだからね。今までは中学、一中時代はね、先生に褒(ほ)められたりなんかしたり、先生にあれするから、上級学校行くにも影響するだろうと思って、とにかく、一生懸命だった。
第5砲兵団司令部の壕で
32軍壕周辺の埋没壕 負傷兵を閉じ込め爆破、遺骨は放置されたまま<ふさがれる記憶…壕の保存・活用の課題>9 - 琉球新報デジタル
首里城があって、ジングンジューウスメー(「ウスメー」とは、沖縄の方言で「おじいさん」の意)の墓ってのがね、首里城の崎山に行く道があるでしょう。あれから金城町に下りる、あれがあるね。小道が。そこの、今そこはなんとか会館かなにか造られているところ。あそこだったと思うよ。あそこに壕が、第5砲兵団司令部の壕があって。そこで、ジングンジューウスメーの墓のあの付近にね、縦壕があって。縦壕があって横壕があって。この縦壕掘るときに酸素不足で、兵隊が沢山死んだ。それ終わってから、戦争始まってから、掘った。だからそういう事故があった。おれたちが来たときは、もうその垂直坑道って言ってた。炊事場の煙突代わりになってたけどね。それの前の方でおれが配属されたところは、将校、参謀、司令部だからね。偉い人たくさんいるんですよ。その人たちのね、便所。それのくみ出し。くみ出してたが。道があって、通路があって、そこにね、藁(わら)、カマスって知ってるかな。大豆なんかを入れてある袋があるでしょう。あれを近くに下がってるわけ。下がってる中見たら、便所があって、便所の下に軍のカンメンポとかいろいろなそういう食糧入れてあるブリキのね、箱があるんです。その箱に、便所が入るようになってるわけ。それを引き出して、前後ろで担いで壕の表に出すわけ。そして、しばらく人が見えなくならないところにひっくり返す。そういうのを一日に何回か。それがウチナーンチュの勤務。仕事というのかな。
おれは、はい。何でもはい。もう要領よくやる・・・とかそんなもんじゃなくてね。もうぶん殴られないように。言われたとおり。すぐやればいいんじゃないか。そう半分投げやりね。そういう気持ちに陥りましたね
南部への撤退
兵隊が、「宮城、お前は土地の者だから、あそこに人が待っているから、あの人たちに道を聞いて来い」と。「はい。」と言って道を聞きに行ったんです。そしたら、こんな石像みたいな、荷物を置いてその上に人が座っていた。「あのー」と言って月の光で見たら、返事をしない。あれと思って、みんな死んでいる。津嘉山のあそこで。あんな死に方もあるんだなと。みんな座ったまま。休憩しているような感じだった。それを見ておれの方がびっくりしちゃって、初めてそんな集団で死んでいるのを見てね、身辺に弾が当たっているわけじゃないですよ。それがわからないんだけど、結局、道もたずねられないでいて、道を探し歩くのはおれなんですよ。どこへ行くん・・・どこへ行くんだ・・・どこへ行くにはどの道を行けばいいか・・・と、そのたびに方言で聞かなくてはいけない。そしたら・・・ナガドウというところで2泊しました。その後、ニワトリの話は。それからね、新垣がいちばん恐かった。新垣で、与座、中座、摩文仁、与根の近くですけどね、新垣というところと、その間が、真っ直ぐの道路があって、両方田んぼがある。そこをみんな島尻にいるやつで、こちらがいちばんいいからといって来たら、弾がよく当たるんです。あそこは絶壁になっていて、その絶壁に弾が当たるのが見えるんですよ。こっちの方で待っていて、さっき言ったように呼吸があるから、その呼吸を止めて、弾にあたったら人は道端に倒れている。赤ちゃんが助かって、お母さんが全然動けない。そうかと思うと、その逆で、赤ちゃんは死んでいてお母さんが気が狂ったよう。そこをどう渡るか。渡るというんじゃない。あそこまで行くのか。ヒガ君が向こうで待っているんですよ。今の弾の行き方、首里ではまだ自分の計算上で次の弾待ち、次の弾を待ち、なかなか出られない。そういう人がたくさん並んでいるんです。それじゃあ行こうといったら、次の人がずらっと並んでいる。途中で弾が当たったらまたちりぢりですからね。そこからは、歩ききれる途中からは、摩文仁の上もそうだったけど、そういう集団に弾が当たって、いつ死ぬか、どういう弾の当たり方をするか、これからが恐かった。そういう恐い中を兵隊は、摩文仁に行ってからの話ですけど、摩文仁で負傷した兵隊がたくさんいる。
摩文仁
なかなかの道でね、南側に面しているわけ。アメリカの駆逐艦というより、もっと小さい敷設艦がきて、弾を撃つの。向こうからすると稜(りょう)線だけで、こういう野があって、山があって、道がこうなる。この道がセンセイダニの石が置いてある。この石を飛び越すのにゆっくりする。そうするとその影というか、空からはっきり見えたんですよね。弾が飛んでくるんですよ。これを越すのに命がけ。逆にこの帰り、水筒の水の入れ方はこうなんですよ。兵隊から水筒を全部もらって首かけて、誰から習ったものではなしに、こうやって入れるとすごいって人が言ったんだよ。ふたを外しておいて、向こうへ行ったらいちばん前に下がっていて、ひとつひとつ自分の水筒を水に沈める。すぐいっぱいになるでしょう。誰から習ったんじゃなく・・・びっくりしたもんね。ふたをこうやって。わたしの水はたくさんありますからね、あんな小さいところにいっぱいいましたよ。そこまたかき分けて行くでしょう。重たい。水をたくさん持ってきたらみんな喜ぶわけでいいけど、持ってくるのは重たいんですよ。重たいのに今度また斜面を登って行くわけ。斜面の下の方で待っていて、上を越す。真っ暗になったらそんなことないですがね。夕方のころは、西日が当たったりいろんなのがあって、はっきり、敵も見えたんだろうな。だから、「水くみに行って来い。」「水くみに行って来ます」と。朝晩それをやって、その間に負傷している兵隊の包帯を洗濯する。「洗ってこい」と。さっきから言うように「おれがおかしい人間になっている」から泥棒をやった。山砲だから、馬がいるでしょう。馬用の包帯というのを見つけたんですよ。摩文仁の山の近くに集積場があった。そこへ取りに行って、自分の思うところから摩文仁の山に、僕たちが行ったころは、まだ、方々空いていた。古井戸に隠しておいた。「負傷兵は若いやつらに洗濯してこい」と言って、「はい、洗濯ありがとうございました」と、洗濯をさせてもらうんだよ。「包帯交換、ケガしていますから包帯を交換してくれ」と。交換するのはないですから、洗濯は今みたいに水があるわけじゃないんだ。すぐは洗濯できないですから、結局隠していて、何とか兵長が「どこから取ってきたんだ」と。「新品がすごくありますから」ね。「悪いことするなよ」と言われたりね。悪いことするのは泥棒ですからね。それで包帯をやった。その兵隊たちがどうして負傷したかというと、山に登った日なんだ。夜中、伝令に行って来るといって、近くにある部隊まで行ったんです、一人で。帰ってきたら寝るところがないんですよ。沖縄のカマは知っていますよね。田舎へいくと土で作ったカマ。それが後ろに、1間ぐらい間があるかな。こっち側に川がね。みんな入り口の方に寝ているわけ。カメの後ろの方に寝ているわけ。おれが伝令から帰ってきたら寝るところがないんですよ。しかたなくカマの後ろは・・・好きじゃないから、狭くて、だからそこでに寝たんだ。翌朝4時、5時ごろうちの方へ弾が飛んできた。1発目でカマの前に寝ていた人は全部死んじゃった。おれはそこが入ったから助かった。カマがあったから。
これは海岸の方の降りて行っての水で、もう一つは、今、言った事務所の「礎」の、あそこは洗濯場を兼ねた水場で、こんこんと水がわいていましたね。僕たちのところから下の方に見えるんですよ。壕を朝出たらね。それで女の人は洗濯に来たり、食べ物を洗ったり、女の人が支度しているんだ。それを見ているうちに弾が急に飛んできて、それで「礎」に逃げるんだけど、もう2、3人は動かない。それは、ほんとに映画を見るような感じで、山の上から見えたですね。
だから、水も臭いが大変なんだ。うっかりするとね、白いものが流れのある所から流れてくる。具志頭でそうだったな。そしたら、上の方で兵隊が死んでいるんだ。ウジがわいて、そのうじが流れている。その水を飲んでいる。知らないで。
解散
「真一、解散だよ」と。「解散って何よ」。兵隊に来て解散というのを聞いたことにですからね。方言で「解散ってヌーガヤ」と。「もう軍はない」と。「軍がないとはどういうこと」か、意味がわからないんですよ。戦争して負けたわけじゃない。米軍が目の前に来たわけじゃないから。戦争の第一線では、もう(敵)が居なくなった。だから、ヨシムラ准尉が、「もう戦況もあれがないから、本部の指揮班の、何とか軍曹の居所書いてあるから、それを返してくれ」と。おれはそれを持って行ったんですよ。「おれのところのヨシムラ准尉から、これを返してくれということで持ってまいりました」といってすぐ帰った。その帰りに解散と聞いたんです。解散って聞いたからもう壕に帰らないでそのまますぐ帰りに。
島尻から国頭へどうしたら逃げていけるか。国頭で米軍は後方だからもう少し緩やかなはずだ。あすこで反乱を起こして、後方、かく乱しようと。そう考えて、関東軍が残って居るはずだから、関東軍が沖縄に向かったはずだから、沖縄がこんなになっているということを知っているはずだから、向かっているはずだ。それを後方して、おれたちもアメリカ軍の後方かく乱をやろうと、そう考えた。
Q:じゃあまず崖(がけ)側にそろそろ下りて行きますよね。そのとき崖の方はどんな状況でしたか。
岩という岩に、みんな人間が、入るところもない。弾がしょっちゅう来ても、その弾に避難する場所がない。だから米軍も船を持ってきて、さっき言ったようにバンバン撃っているわけだね。これを海岸の下で見ましたら、上から米軍がおれたちに向かって弾を撃っているんです。それをどこに撃つかは知らない。着弾を見てああこうだったんだなとわかるんだけど、下は人の波ですからね。海岸に沿って、そして、おれたちもチリジリになり、一人行動だった。あんまりにも、人が多すぎて恐いから、もう少し暗くなるまで待っておこうと待っていて、泳いできた。摩文仁の海岸まで岬がありますよね。それを真っ直ぐ行けばいいんだけど、山だし、登るのも大変ですよ。上からまた撃たれるかもしれない。泳いで回って、そしたら夜中の2時、3時ごろかな。時計はないんだが、お月様がこうこうと照っていたことは覚えている。泳いできた。一人とおれは思っていたんだけど、たくさん泳いでいる人がいた。おれ一人じゃないんだなと。みんな頭が見えるんですよ。静かな入り江みたいなものがあった。それを、ゆっくりゆっくり泳いでいた。おれは、子どものとき、八重山にいるとき、泳いでいて、泳ぎは向こうでは遊びだから得意だった。泳いでこの付近でいいだろうなと足をおろしたときに足が届かないで、急に慌てたことがあるわけ。そういうことがあったから、摩文仁の海で、しかも夜ですからね、そういうことがあったら大変だと思って、ゆっくりゆっくり、砂に引っかかるまで平泳ぎでゆっくりゆっくり行った。そしたら兵隊に触るのね。この人は、しかし、反応がないんだ。恐る恐る触って立ち上がってみたの。そしたら死んでいる兵隊が浮かんでいる、いっぱい。その中を一人で泳いできた。おれがそれを見たときには、銃声、一発もないね。夜はたいてい撃たれたりするがね、それが一発も聞こえない静かな日だった。お月さんがこうこうと、真ん丸いお月様。周囲は死んだ兵隊を照らしているわけ。
立ち上がってそのまま、どうすることもできない。その前にね、岩の間で、赤ん坊の鳴き声が聞こえたから、泣き声をあれして、たどって行った。そしたら赤ちゃんが泣いている。お母さんは死んでいる。しばらく抱いて「どうしようかな」と思ったのよ。自分のことを忘れて、この子を連れていってもおっぱいがあるわけじゃなし、おれの食うのもないんだから、置いて来たときの気持ちが、今でも心が痛む。あの子は、その後生きたのかどうしたのか。お母さんの、また、懐に返してね。そこを離れるときは、ほんとに、今でもたまらんね。
後ろから撃つ日本兵
摩文仁のそこで、岩の間で、ちょっとおれは高いところまで行って、あまり高いところへ行くと米軍のあれだから、適当なところで生活しているというか、食うのもないし、何もないし、便所もでないし、何もできない。生活できない。ただ隠れているだけ。そしたらパンパーンと音がした。アメリカの船が来ているんだね。それに向かって兵隊が泳いでいくの。泳いでいると(日本軍が)後ろから撃つの。だから泳いでいるのは兵隊、撃ったのはもちろん兵隊だろうな。それは米軍が撃つんじゃない。米軍は岩を伝ってくる。そしておれは手りゅう弾を2発持っていた。人がいないところでやろうと思って、そこで弾も来ないし、寝ていた。明け方になったら何か人の声がした。「兵隊さん、兵隊さん、そこで死ぬんじゃないよ」と言う。方言で「死なんよ」と言ったら、兵隊さんは「ウチナーンチュヤイビーン、死んじゃあナランドー」と言う。「死んじゃあいけないよ」と言うからね。そして、おじいさん、おばあさんは奥の方、おれはこっちから入った。ちょっと天井が高かったからね。後ろを振り向いたら米軍がずらっと並んでいた。後ろから、おれ一人囲まれた。あのときは恐かった。鉄砲をみんな持ってね。僕はタバコを吸わなかったね。タバコがくれたんだけどね、どうしていくかね。そして米軍に連れられて、「ちょっと下に来い」と言った。そしたら、「あそこに兵隊がいるから、あっちで説得してこい」というようなことを言っていた。さっぱり何を言っているかわからない。指差してね。米軍がたくさん並んでいるんだよ。そしたらその人がね、日本人の兵隊でそういう人もいるんだね。鉄かぶとをかぶって、銃剣に日章旗をかけて、岩の間を逃げて行く。米軍はどこを狙っていいかわからないんだよ。兵隊でない人もいるんだからすぐ撃たないわけ。ほんとに日章旗と、軍服をちゃんと着て、鉄かぶとまで。あれは爆弾でやられたけどね。
収容所に日本兵がやってくる
日本兵は夜間、食糧を出せと収容所にやってくる。
恐い。かえって、日本軍が恐かった。日本軍は友軍、友達の軍で友軍と言っていたが、友軍が恐い。夜、襲われておった。それは、まだ後の話だけどね。トミザトとオオヤマという人が来てね、アラザトイサオのお母さんにそこで偶然会ったわけ、捕虜になってから。そのアラザトイサオのお母さんが、いろいろ、おれを息子さんの代わりに、シラミがたかっている洋服を洗ってくれたりしていた。ある晩、このお母さんの残っている民家に、そこで寝ていた。「あんたたちは奥の方に寝なさいよ」と言われた。「表の方はわたしたちが寝る」。「逆じゃないの」と思ったんだけど、「女が外の方に寝るとあれじゃないの」と言っていたのよ。夜中に兵隊が3人来た。起きろ、食糧を出せと。おばさんたちが説得した。ここに僕たちが、男がいたら、男は連れていかれて、もしあれだったら殺される。あのときはほんとに困った。そのおばさんたちのグループがいろいろ「兵隊さん帰ってちょうだい」と。「わたしたちは女だけしかいないから、恐いから帰ってくれ」と。帰って、それを翌日までに米軍に報告したら、すぐ米軍の兵隊が来てね、家探しじゃない、野良探しをした。恐かったね、友軍が。夜中から何をするかわからない。
戦争が残した心の傷
もうおれたち同級生は、みんなそうだけどね。酒飲むとね、みんな泣いちゃってね。気持ちが荒れちゃって。戦争の被害というのが。ちょうど、ベトナム戦争のときは米軍がそうだった。おれたちがそうだった。だから、それ治るまでは20年以上かかったね。つい最近まで、何かのときはもう思い出して。だから、家族が大変なんだよ。どう慰めていいか、どう処理していいか、わかんない。
特に大きい力の前ではね、どうしようもならない自分の微力というのか、それを痛切に感じるところじゃないかな。本当に自分の力が何もならないんだ。懐かしいじゃなく、悲しい。でもないのよね。昔に帰りたいんでもないんだよ。思い出して、あのときはこうだった。あのとき、こうすればよかったということでもないのよ。何か知らないですよね。あの最近写真に出ていたキユナチョウケンていうのは死んじゃったけどね。あいつも同じだった。2人でその話もできないのよ。2人とも友達で、酒一緒に飲むんだけどね。ほとんど戦争の話、何も触れない。何ていうのかなあ。あの気持ちだけは本当に、あんた、今、質問された、何か自分でも解きたいとは思うけどね、どうだろう。わからない。何だろう。
Q:でも涙は出てくるんですね。
何か知らないんだよ。本当に。泣きたいというのがね。泣きたいでもないんだよ。「暁に祈る」いう歌、聞いただけでもね、涙が出るしね。カラオケあったけど、この前カラオケを歌ったらね、「宮城さん、泣いてる」って言われちゃってね。本当に、「あ~あ~ あの声で あの顔で 手柄立ててと 妻や子が ちぎれるほどに 降った旗 遠い雲間に また浮かぶ」。これ一番。「あ~あ~ 軍服も ひげ面も 泥にまみれて 日も身近 捧げた命 これまでと・・・」なんだったっけ。「月の光で 走りがき・・・」っていう歌ね。その歌聞くと、ま、それは壕の中でね、散々歌ったんだよ。それほどに歌うだけで、あの当時の雰囲気になる。気持ちになっちゃうね。ごめんなさい。
【戦場の少年兵たち ~沖縄・鉄血勤皇隊~】
昭和20年3月に始まった沖縄戦では、住民を巻き込んでの激しい地上戦が繰り広げられ、日米合わせて20万人以上の死者を出した。
この沖縄戦では、沖縄県内の17歳未満の中学生、師範学校生たちが初めて兵士として召集され、戦闘に参加させられた。「鉄血勤皇隊」と名付けられた少年部隊である。
昭和20年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な戦力で沖縄本島に上陸、砲弾の雨を降らせた。当初は後方支援要員であった少年兵たちは、戦闘が激しくなるにつれ、命令や連絡を走って伝える伝令や、負傷兵の世話、食事の準備などで、砲爆撃にさらされるようになり、戦死者が続出するようになった。
さらに沖縄戦の末期には、自決に追い込まれたり、北部への突破を図って米軍に射殺されたりして命を落とす者もいた。また、日本軍兵士が身を隠すために、先に避難していた民間人を壕から追い出す様子を目の当たりにするなどの苛烈な体験を強いられた。当時、首里市にあった「沖縄県立第一中学校」では、生徒246人が命を落とした。また、鉄血勤皇隊全体では、動員された中学生の半数が戦死したといわれている。
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