1971年10月29日 楚辺のジェット機墜落事故 ~ 「不思議なほど覚えている人が少ない理由」沖縄タイムス
1971年10月29日 楚辺のジェット機墜落事故
読谷村の楚辺地区、右側が米軍基地「読谷補助飛行場」、下方が「トリイステーション」。楚辺のジェット機墜落の地点は、楚辺、都屋、座喜味の境界線地点で、六号線の東側、ほぼ座喜味地区の地点。
(沖縄戦) この頃には本島各地に設置した本格的な収容地区に住民を隔離して、米軍は読谷村全域を軍事施設建設地域として囲い込み立ち入りを許さなかった。収容地区から住民の帰村が始まるのは日本との戦争終結後で、読谷村はさらに遅れ1946年11月に住民居住が始まった。開放地は当初波平、高志保の一部に限られ、次に楚辺、大木に拡大された。村や字では建設隊を組織して住民の帰村や移動に備えた。こうして戦後復興に取りかかった矢先の1952年、楚辺は集落ごと強制退去を命じられた。トリイ基地建設の始まりである。この時以来旧集落は基地の中にある
読谷村史字ガイドマップ 楚辺地区
基地の撤去を 古堅宗吉さん(都屋)
九州各県の農業先進地視察から帰った翌日で、公民館で農家の人と、本土の農家のこと、基地もない平和な農村の生活などについて語り合っていた時です。
突然大きな音がしたので、飛び出すとジェット機が墜落しているというのですね。とっさに住民地域ではと思いましたね。すぐ石川宮森小学校の惨事を思い出して本当に恐ろしくなりました。最近、部落上空を給油機がひんぱんに飛びかよっていますので、このような事故が起りはしないかと心配していましたが、現実の問題となり強いショックを受けました。このような事故は、基地がある限り絶えませんし、一日も早く基地をなくすることですね。とくに、あと二三秒おそかったら、都屋におちたであろうというカーバ司令官の発言を聞いて、一体村民の生命を何と思っているのかとはげしいいきどうりを覚えます。
基地に依存して生活している人も居ると思いますが、私たちには、基地など必要ありませんから早く撤去してほしいと思います。
基地があっては、安心した平和な生活ができません。
50年前のきょう村に墜落した米軍機 不思議なほど覚えている人が少ない理由
沖縄タイムス 2021年10月29日
[+50歳の島で 世替わり、あれから]シリーズ
米軍T33練習機が墜落した現場を検証する米軍関係者ら=1971年10月29日(読谷村史編集室提供)
「あの飛行機、変な飛び方をしているな」。1971年10月29日。沖縄県読谷村楚辺で知人宅の建設を手伝っていた当時37歳の池原玄夫(げんお)さん(87)は、同僚の声に反応し、空を見上げた。機首を海に向けていた飛行機が左に急旋回し、100メートル先の畑に墜落した。(編集委員・福元大輔)
サトウキビ根こそぎ倒され
駆け付けてみると、植えたばかりの丈の低いサトウキビが根こそぎ倒されていた。乗員の姿はない。無線で連絡を受けたのか、数分後に米兵たちが集まってきた。
現在の県道6号の東側。座喜味と楚辺と都屋の境目の民間地で、少しずれていたら集落に大きな被害を与えていた。
この日の沖縄タイムス夕刊は、嘉手納基地所属のT33ジェット練習機が墜落したと伝えた。畑で作業していた男性が爆風で吹き飛ばされ、けがを負ったと被害を報じている。
読谷村楚辺の米軍機墜落事故を報じる1971年10月29日付の沖縄タイムス夕刊
乗員2人は車輪の一つが出ないという理由でパラシュートで脱出。現場を訪れた司令官は「1~2秒遅ければ集落に突っ込んでいた」と説明した。住民らは「胴体着陸もできただろうに、われわれの命を虫けらのように扱っている」と批判した。
読谷村出身の屋良朝苗主席は5時間後に現場を訪れ、基地司令官に「厳重に警告する」と伝えたが、米軍は翌朝から何もなかったように訓練を再開した。
同日夜には、楚辺区公民館で抗議集会を開催。翌日には村議会が抗議決議を全会一致で可決した。4日後には約500人が参加する村民大会に発展し、「県民の生命と財産を脅かす軍事演習の中止と一切の軍事基地の撤去」などを求める決議文を採択した。
戦後76年間で、読谷村内の民間地に米軍機が墜落した唯一の事故だ。しかし50年たった今、村内では不思議なほどにこの事故を覚えている人が少ない。
バスの車窓に映り込む残骸
読谷村長浜の仲村渠一俊さん(67)は、1971年10月29日の村楚辺での米軍機墜落事故を目撃した。当時高校3年生で、読谷高校から自宅へ帰るバスの車窓に黒焦げた残骸や憲兵の姿が映り込んだ。
しかし翌日の学校で、事故は話題にならなかった。今、村内の米軍関係史を調べる仲村渠さんは「犠牲者が出なかったこと、核を保管していた弾薬庫やミサイル基地ではなく民間の畑に落ちたこと。その二つでホッとした気持ちの方が強かった」と振り返る。
当時の読谷村の面積の7割以上を米軍基地が占めていた。特に読谷補助飛行場でのパラシュート降下訓練は事件・事故が続発し、村民に恐怖を与えた。
50年8月、補助燃料タンクの落下で3歳女児が片足切断、全身打撲で死亡。63年1月と4月、民家に米軍貨物が落下。64年3月、村内数十カ所で4トンのコンクリートブロック、ジープ、弾薬入りの木箱、米兵などが次々と落下。65年6月、落下してきたトレーラーの下敷きとなり、小学5年の棚原隆子さん死亡…。
仲村渠さんは「衝撃の大きい悲惨な事故があまりにも多かったことで、楚辺の事故の記憶は薄れたのではないか」と考えている。
「米軍に強く抗議できない」
地域の歴史を刻んだ「楚辺誌」にも、事故は触れられていない。墜落の瞬間を見た池原玄夫(げんお)さん(87)は、本紙の取材で、初めて事故を語った。その後に楚辺区の会計や区長を務めた立場から「米軍に強く抗議できないという楚辺区特有の事情もある」との見方だ。
45年の沖縄戦で米軍の上陸地点となった読谷村は、一時村の面積の9割を占領された。楚辺の住民は収容所から元の集落に戻った後、52年にトリイ通信施設の建設のため、再び立ち退くことになる。その時の条件が施設の運用に支障のない範囲での耕作を黙認することだった。
施設内の黙認耕作地への出入りは米軍の許可が必要で、盗難事件が起きた際などには一方的に禁止された。池原さんは「豚の餌となるイモを栽培していた人は、畑に入ることができず、困っていた。米軍には逆らえず、目立った抗議もできない雰囲気があった」と当時の状況を説明した。
村史編集室の豊田純志さんは村内の米軍関係事件・事故を取り上げた2019年の特別展を準備中、これまで村が使用してきた資料写真が1971年の楚辺の事故ではなく、62年の嘉手納での給油機墜落事故だったことに気付いた。
豊田さんは「目まぐるしい時代の中で、混乱していたこともあるが、基地が生活の身近にあることを象徴する事故として、しっかりと伝えていきたい」と事故の記憶を継承する重要性を強調した。
復帰運動の引き金に
沖縄戦から日本復帰までの間、米軍機による事故は頻発し、多くの住民が犠牲になった。1959年6月30日、石川市(現うるま市)の宮森小学校付近にジェット機が墜落し、炎上した事故では、児童や住民ら18人が死亡。近くの住民ら200人以上が負傷、全半焼30棟以上という最大の事故となった。
61年12月7日には具志川村(現うるま市)川崎で米軍ジェット機が墜落、2人が死亡、7人が重軽傷を負った。62年12月20日の嘉手納村(現嘉手納町)屋良で起きた給油機墜落では、乳児を含む2人が死亡、8人が重軽傷を負った。
68年には、嘉手納基地所属のB52爆撃機の墜落と着陸失敗事故が続いた。ベトナム戦争の出撃拠点として利用されていたことや、核爆弾を搭載できることから住民の反発が強まり、B52撤去や復帰に向けた運動につながった。
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