米国人捕虜の殺害 ~ 首里・記念運動場で処刑された沖縄の米人捕虜について

 

首里・記念運動場

戦後間もない師範学校記念運動場の様子。

戦後 1950年頃 首里金城町 残存建物調査書アルバム/USCAR「残存建物調査書1~3」No4-P41・「残存建物調査書4~12」No4-P39参照/(1952/06)

旧師範学校記念運動場(首里城より撮影) : 那覇市歴史博物館

 

首里記念運動場 (現・首里城レストセンター一帯)

 

米国人捕虜はどこに

米軍の日本人捕虜の処遇

沖縄戦で、米軍は、軍人・軍属は捕虜収容所へ、民間人は民間人収容所へと分けて収容した。

 

人々は、捕虜にとられると民間人は虐待され殺されると恐ろしい話を吹き込まれ洗脳されていたが、実際にはそれらの「恐ろしい話」は、単に「誤情報」というシンプルなものではなく、軍が、民間人を捕虜にさせないために徹底的に宣伝された「プロパガンダ」であった。

 

米軍は、前田高地やシュガーローフの背後ですら、どれほど苛烈極まる戦闘が展開されているなかでも、またどれほど日本軍の米人捕虜虐待の残虐性が日の下にさらされようとも、「基本的に」ジュネーヴ条約にのっとって日本人捕虜の対処に臨んだ。赤十字の監査をうけ、改善が申し入れられれば対応し、また、米兵の日本人捕虜に対する虐殺が「明らか」になれば、軍事法廷にも持ち込まれた。

 

これらは、ジュネーヴ条約を遵守するうえで当然のこととしてみなされるのであるが、一方で日本軍の連合軍兵士に対する捕虜対応と虐殺をあわせて考えたとき、米国憲法に下支えされた政治と社会と、日本のそれとの岩盤の違いを強く感じさせるものてある。

 

日本軍の米国人捕虜の処遇

現在、私たちは沖縄に設置された捕虜収容所の体験などを、多くの経験者の証言で知ることができるのであるが、

 

いっぽうで、沖縄の米人捕虜はいったいどのような経験をしたのであろうか。彼らの経験はどのように知ることができるのだろうか。

 

有名なのは、石垣島で惨殺された三人の米国人捕虜と、それに関連し、戦後1948年に41名が死刑判決を受けた元日本兵と地元の防衛隊員についての「石垣島事件」であるが、

 

米国人捕虜の惨殺の証言はあっても、一部、徳之島の3人の米人捕虜の場合をのぞき、沖縄で「米人捕虜がアメリカに引き渡された」という証言を、私たちは今のところ見出すことができない。米軍との交渉で米軍がまず最初に持ちだす最大の関心事でありながら、である。

 

米軍は懸命に首里の米人捕虜について捜査していたようである。第32軍司令部のあった首里に、米人捕虜も集められ収容された可能性があると米軍が考えていたと思われる。

 

第32軍の八原博通参謀らは、米人捕虜についてはかたくなに、いなかった、知らない、を通したが、実際には首里で惨殺された捕虜については当然知っていたどころか、指示すら出していたことだろう。

 

南部から生きて収容された民間人で首里出身の人たちのなかには、野嵩収容所に一時的に収容された際に、かなり重点的に捕虜の所在について尋問を受けている。

収容直後のもう一つの出来事は、子供たちを除き、男女を問わず収容者全員に対する取り調べがあったことである。この調査は米軍の情報機関であるCICによるもので、調査はハウス単位で日が決められ、その日になると、人々は炎天下に長い列をつくって順番を待った。調査が始まると、首里出身者には特別の尋問があるという話が伝わり、首里出身者は一様に不安に陥ったものである。

尋問は米兵と沖縄人の補助者が当たり、各人の経歴、沖縄戦の際の日本軍との関係などであった。それがすむと、首里出身者にはしつこく米軍人捕虜のことを聞いた。もちろん、私たちは中城御殿に収容されていたパイロット記念運動場で処刑されたという捕虜のこと、園比屋武御嶽の裏にしばられていた捕虜のことを知っていたが、すべて知らぬ存ぜぬで押し通した。

宮城進「野嵩収容所」~ 那覇市『沖縄の慟哭 市民の戦時戦後体験記・戦後編』(1981) - Battle of Okinawa

 

米軍上陸以前に二人の海兵隊の将校が首里で捕虜となっていたこと、縛られ、さらし者になって虐待されていたことを住民は当然のように知っていた。

捕虜になったマリンの飛行将校を、日本軍の大尉が殺害した事件。全身に火傷を負った捕虜に残飯をたべさせ、米軍機の空襲がはじまると首里園比屋武御嶽付近の木にくくりつけて弾雨にさらし、最後に記念運動場に引き出して首をはねた

仲程昌德『沖縄の戦記』朝日新聞出版 1982 55頁

 

7月19日、米国人捕虜の遺体が発見される

その後、米軍は7月19日に首里城周辺において米兵と思われる遺体を「記念運動場」から発見している。

米第10軍情報部は、45年7月25日に米第3海兵軍団司令官宛に、次のようなショッキングな報告を行っている。

虐殺 (atrocity) の確証

1. 45年7月19日、情報収集を目的に首里城地区を調査の折、下記に述べるような腐敗し一部が埋められたままにされている遺体を発見した (記念運動場より北側部分)。それは明らかに、米軍兵士だと思われる。

2. 残された遺体の一部からかいつまんで説明すると、それら遺体の一部は、海兵隊であると確証される。遺体には、海兵隊員であると確認できる特徴ある服ズボン、ベルトが装着されていた。軍靴は、一般的に陸軍がつける戦闘用軍靴というよりは、標準的なものである。

3. 遺体を発見したその日の午後、G-1(軍務課)、第1海兵師団。および第1海兵師団墓地に連絡を行った。

4. 遺体が見つかった位置を示したのに加えて、同時に遺体を送付した。(一部判読不能)

5. 遺体の一部から、胴体から上の部分も埋められており、首の周りにはロープが巻かれていたことが判明する。首に巻かれたロープの両端から、両腕も同じくロープで巻かれていた可能性が高いと推測される。しかし、遺体の残りは、もっぱら骨だけで、その経緯は判然とせず決定的な確証とはなっていない。

6. 唯一確認出来るものとしては、綿製の白のズボンドに、G・L・シャープ、もしくはC・L・シャープという名前が残されていることである。その他の衣服の上にも、ズボンドと同じ名前があり、それらは第1海兵師団墓地隊が細部にわたり収集したものである。ジョージ・J・クラーク中佐」。

保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言: 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 (2015) 408-9頁

 

八原の尋問はドナルド・キーンらが調書を書いているが、ドナルド・キーンの八原の印象は信用できないというものであったと記憶する。捕虜は各部隊で勝手に「処置」されただろうといっているが、基本的に第32軍司令部の指示なく勝手に処置はないであろう。じっさい、首里城で拘束され、さらされ、惨殺されているのである。

八原大佐や長参謀長の私設秘書を自認する島田軍属は、首里に捕虜はおらず、沖縄戦が始まる前の米軍捕虜は、東京へと運ばれたという事であったが、実際は首里地区にて捕虜虐殺があり、その証拠も確認出来たのである。前述したとおり、八原大佐は、米情報部の尋問に際し「沖縄作戦期間中、第32軍司令部には、だれ1人として捕虜に関する報告はなかった。仮に捕虜を取ったならば、彼等はその場で処置されただろう」と述べているが、第32軍司令部近くにおいて日本軍による米兵への虐殺行為が起こっていることは重大である。問題なのは、米軍捕虜の虐殺現場について、ただの一人として証言がないことである。米軍に対する残虐行為は、怒りや痛憤から発生するのが一般的であり、単独で虐殺行為に及ぶことは考えにくい。誰かが目撃したのは、間違いないことだろう。そうすると、通常以上に関係者の口が堅いということだろう。その煩累が自身に及ぶことを警戒し、一部生存者は沈黙を決め込んだかもしれない。

保坂廣志『沖縄戦捕虜の証言: 針穴から戦場を穿つ』紫峰出版 (2015) 409頁

 

住民もスパイとして惨殺

首里城の運動公園地下では、あきらかにスパイではない複数の住民がスパイとして拘束され、処刑されていたようだ。激戦地で戦闘疲労で精神的に正常を保つことが難しくなった人物すらも首里に連れてこられてスパイとして処刑された。

本当に狂っているのは、戦地で精神的に追い詰められ戦闘疲労症になる人間ではない。こうしたまともな人間を「スパイ」として捕まえ、拷問し、虐殺する日本軍の方である。

最も憐れに思ったのは、与那原から連行されてきたAさんである。Aさんは軍司令部が坂下にあったころ、副官部に勤めていた軍属であった。同僚としてつきあっていたこともある真面目な青年であった。4月中旬ごろ、独立混成第44旅団の兵隊によって連行されてきた。彼を見て我々は驚いた。精神に異常をきたしている人だな、と直感したが、取り調べに当たった将校は、どう感じたか知らない。将校は聞いていた。『君は確かに運玉森付近で敵に発火信号を送ったのか』.しかし、彼はとりとめのないことをいいながら、肯定するような態度をとっていた。側で見ていた当間軍曹は『ほんとうにやったのか、嘘だろう。正気になってほんとのことを述べなさい』と必死になって諭しているのに、ただ虚ろな眼差しをして、いわれるままに肯定しているような態度を取っていた。ああ-、いかんせん、彼は正気に戻らずそのままスパイとされた。スパイ容疑者のほとんどは、戦争恐怖症からきた精神異常者であり、なかには、尋問された場合、オドオドしてまともな返事ができないばかりにスパイにされた。首里記念運動場の地下には、数人の人々がスパイとして処刑されたようだ。」

浜川昌也「私の沖縄戦記 - 第三十二軍司令部秘話」那覇出版社(1990)103頁 

 

日本という国の軍隊は、自国の兵士や住民ですら、いとも簡単に「処刑」した。いわんや、「敵」の捕虜は、である。

 

捕虜という概念

戦後、米人捕虜の虐殺事件を GHQ は厳しく裁いた。多くの人が、いまもこうした裁判を「こんなもの裁判ぢゃない。復讐だ!」*1 と理不尽に考えるかもしれない。学徒を含む40名以上が死刑判決を下された石垣島事件もあれば、虐殺が明らかになっていながら、表向きになんの処罰もなかった伊是名島の米人捕虜殺害事件もある。

 

しかし、日本軍の捕虜殺害を必要に調査し厳しく裁く極東裁判への反感の背景には、日本の風土の中にべったりと根付く、「捕虜になったら殺されても仕方がない」「いさぎよく自決せよ」と叩き込まれた「虜囚」観がありはしないだろうか。

人命と人権の優先性といったものが希薄な日本では、捕虜になるな、捕虜は殺される、捕虜は処刑する、捕虜は殺されて当然、といった日本の「虜囚」観の異常性と、いまだ向き合い切れていないのではないか。

 

こうした人権の希薄さが、いまも、入管の柵の中に収容された人間の虐待死を生み続けているようにならない。

 

捕虜として生存した兵士を、米国では英雄として表彰し、故マケイン上院議員の大統領選挙出馬の際には捕虜の写真を高々と掲げて国民の支持を集める。一方で、捕虜を「恥」とみなし、「振武寮」などに収容して隠し、全体の足を引っ張ることなく「いさぎよく」「自決」が「美徳」とみなされた全体主義的な価値観の日本とは、そもそも「捕虜」の考えが異なるのである。

 

米国、米軍に捕虜としてとらわれた元日本兵がどのような医療を受け、収容されたのか、日本で語られることは少ない。しかし、アメリカの収容所内で権利を主張しサボタージュして抗議した者も、教育などの支援を受け学位まで取得した者も、そこでの経験は、確実に戦後の日本社会の復興時に大きく貢献したのである。それが命の尊厳を大切にすることでもたらされる利である。

 

捕虜の人権は確実に守られなければならない。当たり前のことを、何度も歴史から学ばぶ必要がある。

 

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