Battle of Okinawa

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喜納昌盛の戦わないという勇気 ~

<1963年6月22日>

師弟愛は恩讐をこえて 救われた千三百人の命
北中城村島袋区 喜納さんとトーマス・比嘉


  あれから十八年ー。沖縄戦終焉の日がふたたびめぐってきた。昭和二十円六月二十二日ーこの日をもって三カ月にもおよぶ沖縄戦は事実上の終わりを告げた。戦争ははかりしれない幾多の悲劇を生み、数数の傷跡を人々の胸に残しはしたが、しかしすべてが血と涙でつづられた物語りだけではない。吹きまくる“鉄の暴風“に追われて人々が「生」を求めて逃げ回っているとき、中城村島袋(現北中城村島袋)の部落民は全員が部落にふみとどまったまま戦争の惨禍をほとんど知らずにぶじ助かった。そのかげには、一人の勇気と決断力にとんだ行動、そして敵・味方にわかれたかっての師弟が戦火で再会するという奇跡に近い偶然があった。これはきょう二十二日に「慰霊の日」におくるひめられた戦争佳話…。(コザ支局・山里将雄記者)

 

 逃避に反対の演説

 昭和二十年三月下旬のある日|中城村内にある村役所では、二十四人の議員たちが熱心に戦争対策を協議していた。戦局は日増しに悪化していく一方だった。米軍機は毎日のように飛来し、いよいよ上陸間近に思わせる空気が重く人々の胸におしふさがっていた。

 議員たちもまた例外ではなかった。村民の安全をはかるにはどうすればよいか…。村民の生命をあずかる議員たちの表情はきびしく、それに討議も真剣だった。開会後数刻、多勢はようやく全村をあげて久志村瀬嵩に避難することでまとまり、全回一致の決議にうつった。

 その時、字島袋選出の喜納昌盛議員(当時六十二歳)がとつぜんたちあがり、絶対反対の演説をぶった。喜納議員は反対理由として

▽避難しても食料がないので餓死する

▽国頭には米軍が上陸しないと保障できるか

▽戦争は軍人間の戦いであり、住民をムゲに殺りくするはずがない

▽またどうせ死ぬ運命にあるなら古里で死んだ方がいい、

などをあげた。だが、残りの二十三議員はこの意見にはほとんど耳をかさなかった。むしろ、あまりにも無謀な見解だとして、はげしく喜納議員をつるしあげた。二十三対一、喜納議員は屈しなかった。ついには全議員が怒りだし、こんんあやつは住民の選良ではない、相手にしたってしょうがないと、うやむやのうちに議会は解散してしまった。

 

 全員部落にとどまる

 二日後、比嘉村長(故人)、与嶺県会議員(現北中城村園芸組合長)、議員、駐在巡査など村首脳が島袋部落にのりこんできてぜひ避難するようにと命令をだした。しかし、そこでも喜納議員は部落民に対して避難してはいけないと反対意見を出して、対抗した。村幹部と喜納議員の対決は部落民の間で三時間ぐらいもつづいた。脅迫めいたこともおこなわれたが、喜納議員の強硬意見についに幹部は席をけって帰った。部落民の中には避難したほうがよいかどうか迷うのも出たが、喜納議員は米兵がきたら真っ先に出る。部落民の責任はきっと私がとると説得、ただ一家族を除いては全家族(約三百世帯、千三百人)が踏みとどまることになった。

 

 遂に敵兵あらわる

 四月一日、米軍の上陸を迎えた。部落に踏みとどまることになったものの、不安はつのる一方だった。部落周辺の壕や墓に身をひそめて、高まる不安を忘れようとした。戦争をかけ離れたような静寂…。一日が無限につづくかのようだった。二日間が何事もなく過ぎ、三日目の四月三日、米軍がはじめて姿を現した。トラック数台に分乗した巡察隊が部落近くで車を乗り捨て、小銃をむけながらゆっくりちかづいてきた。部落内で息をつめてみまもってい喜納さんは仲村孟順区長(故人)と二人で米兵の前にとびでた。恐怖の瞬間が過ぎると、あとは無我むちゅだった。びっくりした米兵がきっと銃を構え直したのも気づかず二人はペコペコと頭を下げた。

 

 ミー・オキナワクリスチャン

 何かいわなければとあせった喜納さんは、とっさにしゃべった「ユー、アメリカ・ゼントルマン・ミー・オキナワ・クリスチャン」文字通りブロークンイングリッシュだった。しかし千三百人の部落民の生命に関する精一杯の発言だった。意思がつうじたのかどうかキョトンとする米兵。一分、二分…。いきづまるような緊張の数分がすぎた。米兵の一人が二世の通訳を連れてきた。つかつかと前にでてきた二世が、とつぜん「先生」と叫んで喜納さんの手をギューッと握り締めた。「先生、お忘れになりましたか、わたしは小学校で教わった比嘉太郎です」

 

 教え子と戦場で奇跡の再会

 喜納さんの記憶がよみがえった。たしかに喜舎場小学校時代に教えたかっての比嘉太郎、いまは米兵のトーマス比嘉だった。しまもこの教え子は部落も同じ島袋だった。「比嘉君!」喜納さんもぎゅっと握り返した。そこにはもはや戦争はなかった。敵・味方に分かれているとはいえ、師弟愛に変わりはなかった。あるのはただ一切の恩讐を超越した美しい人間性だけだった。ヒシと手を取り合い、涙を流して再会を喜びあう旧師と教え子。米兵もいつしか、銃をおろし二人に暖かい眼をそそいでいた。喜納さんにとっては単なる再会以上のものをもっていない。これでやっと全部落民が助かる|。この思いがひしひしと胸をひたしてきた。責任をとると明言して部落民をふみとどまらせたものの、それ以来ずっと胸をふさいでいた重苦しい不安が、すっと晴れるような気になっていた。

 「皆さん、もう安心です。私たちはぶじ助かったのです」と部落中をふれまわる喜納さんの声は、喜びにふるえていた。喜納さんは比嘉さんにつぎつぎと注文をだした。部落民は極度の不安におちいっている。それをなんとか落ち着かせるためにもぜひ従軍牧師を呼んで、キリストの話を聞かせてくれ|。その願いはまもなくかなえられ、ハイラー宣教師が週に一度やってきて、布教活動が行われるようになった。部落民はすすんで集会に参加、キリストの話に耳を傾けた。

 

 軍の布告文でる

 しかし、その間すべてがとどこおりなくいったわけではなかった。沖縄全島はあくまで戦時下だった。四月七日には沖縄米軍司令官の名で「さいきん、日本兵が変装して潜入している事実がある。それを知りながら届けないときは断固たる処置をとる」との布告文がだされた。五月に入ると移動命令が出された。現在のゴルフ場近くの丘に重砲がすえられ、戦場に向かって絶え間なく砲弾が打ち込まれるようになり、部落周辺にもようやく危険が迫ってきたからだ。五月初旬、全部落民が米軍の差し向けたトラックに分譲、金武村福山に移った。そして一カ年|再び部落に帰ってきたときには、部落は影かたちもなく、ブルドーザーで敷きならされていた。

 

 リーダーズ・ダイジェストで紹介

 喜納さんはいまコザ市比嘉区に居を構え、何不自由ない気楽な生活を送っている。空手、古武術のサイをよくし、八十歳の高齢とは思えないかくしゃくぶり。喜納さんのこの沖縄戦にまつわる話は、いくらか角度をかえて六○年十月号の英語版リーダーズ・ダイジェストにも載り、全世界に紹介された。そのときには遠くドイツ、イギリス、アメリカなどから十四通の手紙がよせられた。過去の資料を丹念に整理している喜納さんはときどきそれをとりだして思い出にふけっている。「私は長い教員生活を送ったが、昭和七年に引退後も大過なくすごせたのもそのおかげだっ思っている。比嘉太郎君はいまハワイで健在です。戦争中のできごとは、いま考えてもまるで夢のようなものです」と語っていた。

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