半地ザークビーの虐殺
また「半地ザークビーでの疎開民斬殺事件」では、読谷山(読谷村)の喜名から来た2~3家族が早い時期に下山し、半地に住んでいた。それを知った日本兵がスパイ嫌疑で4~5人を手首を縛り、処刑した。
松の木に。手を縛ってこう吊るして、銃剣でよ。射殺ではない。全部銃剣でメッタ斬り。
紫雲隊の井澤らか、宇土隊の敗残兵がかかわったといわれている。
国頭村半地。国道沿いの一角には戦前から残る茂みがあります。78年前の沖縄戦で避難民が殺害された場所だと言われています。
戦時中に山奥に避難していた 上原一夫さん(87)
「上に松の木に(避難してきた人を)ロープでくくって4、5人なんだよね、殺されたのは。そうして結局、日本刀で。銃じゃなくて切り殺して殺したんです」
ザークビーと呼ばれるこの場所は、かつて小高い丘のようになっていました。
浜のもう一つの虐殺
浜のもう一つのスパイ虐殺別の話で、スパイだと言って、早く山から下りて来ていた避難民が二人、この近所の家で殺された。浜集落の山側の家、この話は誰にも言ってないよ。それで今国道になっている場所に埋められたんだ。これは全然話してない。新しい村史にも載っていない。それを知ってる連中もまだ証言やってない。誰が殺したかということもわかるんだ。井澤曹長といってね。山に潜んで一人でいる兵隊がいたんだよ。
この人が山に避難している時、食事も拾い集めて食べていたから、うちの親父と会って、わしミルク(米軍のコンデンスミルク。容器に鷲のマークが描かれていた)をあげたりして交流はあった。あの二階建てが井澤曹長がよく出入りしていた家。夫婦だけの家で、うちと近いからしょっちゅうおつきあいしていたわけよ。殺された避難民は、殺害現場になった家の裏山に隠れていて、食糧探しながらその家にいたんじゃないかな。後ろ全部段々畑だったから食べ物いくらでもあったわけだ。ここで二人を殺したと、親父は井澤曹長から聞いている。
やんばるの敗残兵と住民
1945年4月、アメリカ軍は上陸から早々に沖縄本島北部を制圧。やんばるの山中に潜む、敗残兵狩りを進めます。
同じ時期、山の中には国頭村や大宜味村など地元住民をはじめ、中南部からの人々が大勢避難していましたが、日本兵はアメリカ軍に投降することを住民に禁じていました。
日に日に食料が乏しくなる中、比較的早い時期に山を降り捕虜となった人々の一部が、アメリカ軍に協力しているとみなされ、殺害されたのです。
一度は保護された人々が、なぜ日本兵に命を狙われたのか。
アメリカ軍の記録を中心に沖縄戦を研究する保坂廣志さんは、アメリカ軍による捕虜に対する政策が、中南部と北部では異なっていたことも1つの要因だったと指摘します。
沖縄戦の研究者 保坂廣志さん
「中南部は鉄線を張ったり、塀を一部作ったりして憲兵が巡回するなど、住民を内部に取り込んで監視行動をしていた。北部は海兵隊が北部地区を占領しまして、海兵隊は基本的には収容所は作らない政策。集落があって、その中に戦災を受けていない家が10戸あったとしますと、その中に住民をどんどん入れていくという」
鉄線などで外部と仕切られていない名ばかりの収容所で、日本兵に襲撃された捕虜たち。アメリカ軍は当時、住民保護を含む北部の統治について、失敗したと分析しています。
(沖縄戦後初期占領資料ワトキンス・ペーパーより抜粋)
「民間人は未だ軍政府の管理下にも置かれていない。自由に野山を歩き回っている」
こうした背景から本島北部では、国頭村以外の地域でも住民が日本兵によって殺害されるケースが相次ぎました。
アメリカ軍の捕虜となったことで、敵国に通じる者とみなされ、日本兵に命を狙われた今帰仁村の住民の証言が、RBCの映像ライブラリーに残されています。
日本兵に命を狙われた玉城長盛さん(1975年の取材)
「全住民が山から下りたんですよ。下りたらですね、敗残兵の方々が徒党を組んで殺害に来たわけですよ。玄関に日本兵が15、6人きて、まだ午前3時もならんのに、おはようございますと三回怒鳴る。日本兵だと直感した。ここ(家の裏手)を這い上がって午前2時半か3時頃私は逃げた」
同じ時期、日本軍の掃討作戦にあたっていたアメリカ軍の日報には、住民の証言を裏付けるようにその被害が記されています。
(第27歩兵師団日報より)
「今帰仁村の仲宗根の集落で日本兵のグループが班長を殺し、住民を脅している。謝名でも2人殺されている」
捕虜が殺害された背景には、住民保護の失敗という点に加えて、住民と日本兵が山に混在する状況で、互いに疑心暗鬼に陥っていたことも影響していたと、保坂さんは指摘します。
沖縄戦の研究者 保坂廣志さん
「疑心暗鬼という中において、1つの情報に過大に反応する。問題はどういう形で(山を下りた人の情報が)日本兵に流れるかということ。そこが地域社会での闇の部分となっていると思う」
山で避難を続ける地元の人が、先に下山し捕虜となった人々の情報を日本兵に伝え、殺害に繋がった事例がありました。
こうした背景から、これまでなかなか語られることはありませんでした。
戦時中に山奥に避難していた 上原一夫さん(87)
「またこのようなことはあってはならない、だからもう年も年だし、このまま蔑ろにしておくことはね、将来のためにもよくないので将来の恒久平和にね、少しでもつながればね」
沖縄戦の研究者 保坂廣志さん
「北部・やんばるの戦争は何だったのかといういことが全体でも欠けている。あなた方(体験者)の証言というのが、いかにこの時代にとって尊いものなのか、それによって、今までよく分からなかったもう1つの戦場というものが分かるよということを、何回も呼びかけながら、そしてもしも間に合うならば、語ってもらう。それが今大事だと僕は思うんですよ」
地域が固く閉ざしてきた避難民の犠牲。戦後78年を経た今だからこそ語れる、戦争の姿がありました。
大宜味村の国防婦人会
沖縄で最初に国防婦人会が設置されたのが、大宜味村でした。
母親が村の国防婦人会で活動していたという人が見つかりました。山田親信(やまだ・ちかのぶ)さんです。 母の梅子さんは、小学校の教師をしながら、国防婦人会に所属していました。
梅子さんは、村の女性たちと共に、沖縄の服装・琉装をやめ、たすき掛け姿で活動していました。さらに、方言をあらため、日本の標準語を広める活動も担っていたといいます。
親信さん「教育者ということで、沖縄の文化とか方言もそうでしょうけど、ある意味では、追いやるような、標準語、普通語を励行するような運動にも関わっていたはずなんですが」
親信さんは、活動に身を投じた母の胸の内を窺い知る文書を見つけました。当時、沖縄の女性が標準語への思いを綴った、新聞の投書です。
「確かに本県は他県より立ち遅れました。文化の程度も低いところがあると思います。然(しか)し今の沖縄は、躍進日本と歩みをともにしようと一生懸命にやっているので御座います」
親信さんは、母が標準語教育を担ったのは、貧しい村の生活をよくしたい、という思いがあったからではないかと感じています。大宜味村では多くの人が本土への出稼ぎに出ていました。その時に直面したのが、言葉の壁だったのです。
親信さん「標準語、普通語が通じないというのは、やはり大きなハンデととらえたと思いますね。自分たちが生きていく、生活を守っていくという視点からしたら、そのほうがよいと思ったから、やっぱりついていった部分はあると思うんですよね」
当時、小学生だった男性は、村で標準語教育を受け、日本人としての自覚を強めたといいます。
平良俊政さん「大宜味の婦人はずいぶん進んでいる。少し誇りに思った。要は日本人という誇りを持たされていたんじゃないか」
その後、大宜味村は誰もが標準語を話せる模範村と、讃えられるまでになりました。
こうして軍は、国防婦人会の女性たちを通して地域社会に入りこみ、戦争への協力体制を築いていったのです。
こうした背景からも、大宜味村の青少年が、日本兵の敗北を認めることができず、実質的には敗残兵となっていた兵士たちを称賛し、兵らに情報提供することもあったと考えられる。
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