与那国島の陸軍中野学校・離島残置工作員

 

子どもたちの学校を活動現場とした陸軍中野学校・離島残置工作員。学校は完全に軍の統制下にあり、本当の「スパイ」は学校にいた。

離島工作要員と大本営特務隊との違いは、 大本営特務隊員は、無線機のほか二ヵ年分の食糧、医薬品、武器弾薬その他の資材を携行して任地に赴いたのに対し、 第三十二軍の場合は、 県知事と交渉し、 正規の国民学校訓導または青年学校指導員の辞令を発給してもらい、各離島工作員は銘々偽名の先生になりすまして赴任した点である。

石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」

 

与那国島には二人の離島残置工作員が配置された。阿久津少尉は、与那国国民学校へ、中屋軍曹は、久部良分校に赴任した。

昭和19年11月30日陸軍中野学校二俣分校で3ヵ月の速成教育を受けた中から、6名が沖縄の第32軍司令部付を命じられ、同年12月27日に着任した。そして、昭和20年1月16日に軍司令部から離島への赴任命令がでた。与那国島には、阿久津敏朗少尉が柿沼秀男、中屋八郎軍曹が山本政雄という偽名で、沖縄県知事の「沖縄県国民学校訓導」の辞令を発行して貰って潜入した。

石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」

 

離島残置工作員の木箱の中身

離島残置工作員が所有していた大きな木箱の中身とは何だったのか、この記述からわかる。

那覇港を出発する際、私は木箱二個遊撃戦用の偽装した特殊爆薬と焼夷剤等を相当数携行したが、離島へ赴任する教員の荷物らしく書物も一緒に入れてカムフラージュしてあったので、重量は相当なものであった。このため、この荷物は便船へ乗り換えの都度、船長から『重そうな荷物ですが何ですか』と聞かれ、私は『離島の先生で行くのだが、島には本が無いというのでできるだけ沢山本を持っていくのだ』と言ってゴマかしていた。

《『俣一戦史』278頁》

 

特殊工作員は観察し、協力者を探し、動く。

これまでの間、私は柿沼訓導として熱心に学校教育に携わるとともに、青年学校や在郷軍人の指導にも参加し、信頼できる協力者の育成にも励んできた。… 先生方の中には私の行動を怪しみスパイではないかという者もいたのである。
《『俣一戦史』286頁》

 

5月12日、台湾へ武器調達に

戦局の悪化に伴い、石垣周辺も情勢が緊迫してきたため、与那国島における遊撃戦体勢を急いで整備する必要が生じてきた。しかし、与那国島に着任して以来50日間程度では島内情勢の把握と要員の人選がようやく終わった程度で、要員を訓練するまでには至らなかった。
また、私が赴任の際携行した遊撃戦用特殊資材は、前述したとおり特殊戦用爆薬と焼夷剤など三十点程度に過ぎなかったので、実戦的には心細いものであった。私の任務は与那国島守備隊には内密にしてあるし、兵力も一個小隊程度なので頼りにならなかった。
そこで、遊撃隊一個中隊編成分の武器弾薬や被服、食糧等を台湾軍から調達することにした。海上輸送が厳しさを増している最中なので、早急に実行する必要があった。たまたま私が悪性の南方性潰瘍にかかっていたので、その治療名目で渡台することを決意した。沖縄本島の戦局把握と今後の行動指示を仰ぐ必要もあったのである。
五月十二日、外間校長先生から渡台許可を受け、身分証明書を発行して貰った。

《『俣一戦史』286頁》

 

7月7日、台湾から武器弾薬を

沖縄島では、6月23日に第32軍牛島司令官が自刃し、7月2日、米軍はアイスバーグ作戦の作戦終了を宣言した。一方で、与那国島の残置工作員は水面下で遊撃戦に向けて動いていた。餓死者もでるほど逼迫した食糧難の与那国に、30トンの輸送船に満載の武器弾薬を持ち込む。

七月六日、沖縄本島陥落に伴い、宮崎旅団においては於茂登岳戦闘司令所に軍官民代表を集め(七月二日)、長期抗戦に備え態勢確立を図ったとの情報に接し、私の皮膚病も完治したので、情報別班と善後策を協議のうえ、基隆港より武器、弾薬、被服、食糧、医薬品等を三十トン余の輸送船に満載して、南方澳港経由で与那国島向かった。七月七日、無事与那国島波多港に帰着、五十四日ぶりに学校へ帰任した。学校では敵機による空襲が激しさを増してきたため、六月二十二日以降は初等科の授業は中止していた。

台湾から持ち帰った船の荷物は、一般島民の目につくと困るので荷揚げは夜間行うこととし、夕方遊撃隊要員の在郷軍人及び青年団員の幹部を召集し、密かに荷揚げを行うとともに、かねてから設定しておいた秘密の洞窟に格納した。これに伴い、兵器や爆薬(黄色薬)の使用法等については、久部良分校の山本先生(中屋軍曹)と協議して訓練することとし、ひとまず学習から行うこととした。

《『俣一戦史』289頁》

米軍上陸に備え、竹槍訓練

七月中旬から下旬にかけて、在郷軍人青年団員の訓練を行った。学習と基礎的訓練が主だった。女子の場合は竹槍訓練も実施した。

《『俣一戦史』289頁》

 

8月15日の敗戦、密かに武器弾薬を処分

ひそかに武器弾薬を処分し証拠隠滅。

かねてから処分を考えていた秘密洞窟に秘匿している兵器、弾薬、爆薬等を密かに搬出して、漁船による沖合への海中投棄を行った。これで他日、米軍が来島しても証拠がなくなったので島民に迷惑をかけることはないと安堵した。食糧は兵器等の搬出や海中投棄に協力してくれた人々に謝礼の意味で分配した。
 《『俣一戦史』290頁》

 

12月25日、「教師」として帰国

与那国の残置工作員は、兵として捕虜収容所に収容されることもなく、年内には、日本に帰っていった。

与那国の特務教員らは昭和20年の暮に引き揚げることになったが、9月10日には与那国国民学校の第二学期の授業が開始されており、12月25日の終了式に柿沼先生の離任式が行われ、石垣経由で鹿児島に向かった。
石原昌家「沖縄戦の全体像解明に関する研究・ III 資料編 3」

 

与那国の住民を監視し先導する軍のスパイは、「民間人」の顔をしてやってきて、「民間人」として帰っていった。

 

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