「赤とんぼ」木と布の練習機で特攻、送り出された少年航空兵 ~ 原田文了さん証言
「赤とんぼ」の特攻
虎尾飛行場
台湾には日本軍の建設した多くの飛行場がありました。
台湾南部の虎尾飛行場 (こび) は赤丸で記す。
1945年の米海軍資料から、台湾における日本軍の飛行場
ここでは主に赤トンボ (九三式中間練習機) など陸上練習機が置かれ、練習航空隊として予科練卒の初歩訓練が行われた。しかし、・・・
機体が木製で布張りされた練習機。
「赤とんぼ」は、旧日本海軍の「九三式中間練習機」。翼が二つある複葉式のプロペラ機で、橙色の機体からそう呼ばれた。エンジン以外は木と布。「中間」とは中級コースを意味した。機関銃や無線機はなく、時速150キロで飛行した。
複葉で布張りの九三式中間練習機(通称・赤とんぼ)に250キロの爆弾を積んで、夜間に洋上を飛ばなくてはならない。離陸だけでも至難の業だった。「どうすれば編隊を率いて敵機からのがれ、成功できるのか」。眠れない夜が続いた。
木製、布張りの練習機「九三式中間練習機」通称「赤とんぼ」
神風特別攻撃隊「第3龍虎隊」の特攻隊員、左から5人目が隊長の三村弘上飛曹
原田文了さん証言
今回は虎尾飛行場で特攻隊の教官を務められていた方の証言です。
- 第132海軍航空隊 教員 原田文了さん証言全記録
- 戦争証言プロジェクト
- NHKスペシャル 「特攻 ~なぜ拡大したのか~」
- 放送日 2015年8月8日
証言者プロフィール
- 1919年 徳島県吉野川市山川町に生まれる
- 1937年 県立板西農蚕学校(現・県立板野高等学校)を卒業し製糸会社に勤める
- 1939年 佐世保海兵団に入団 第204海軍航空隊に配属されソロモン方面へ
- 1944年 台湾の虎尾海軍航空隊の後、第132海軍航空隊の教員を務める
- 1945年 8月、台湾で終戦を迎える
- 戦後は製糸会社(現在は総合生活関連サービス業)に勤務
出来事の背景
【特攻 ~なぜ拡大したのか~ 放送日 2015年8月8日】
爆弾を抱えての体当たり攻撃、特攻。戦争の終盤、日本はこの特攻でアメリカ軍を迎え撃ちました。戦死者は、4500人あまり。その大半が、二十歳前後の若者でした。
昭和19年10月に始まった特攻は、終戦までの間に急激に拡大して行きます。特攻が初めて行われたのはフィリピンでした。最初に体当たり攻撃を行う事になる特攻隊が編成された10月20日。アメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸を開始。20万の大軍が押し寄せました。太平洋の各地で敗退を重ねてきた日本軍にとってフィリピンは最後の重要拠点でした。しかし、主要な航空戦力を失っていた海軍には、強大なアメリカ軍を迎え撃つ手段がありませんでした。状況を打破するために立案されたのが、特攻でした。その戦果は、予想をはるかに超えたものとなります。20日に編成された特攻隊の一つ、5機の零戦からなる敷島隊は、空母3隻に命中してうち1隻を撃沈。隊員たちの命と引き換えに大戦果をあげました。
この結果を受け、現地の海軍航空隊では体当たり攻撃の継続を決定。フィリピンの基地からは連日、多くの隊員が出撃して行くようになります。
沖縄戦には、日本軍が開発したさまざまな特攻兵器が投入されていきました。ボートに爆弾を取り付け、敵艦に体当たりする、特攻艇、「震洋(しんよう)」。船体はベニヤ板。敵の銃弾を浴びただけで沈没しました。1.2トンの大型爆弾に翼と操縦席を取り付けた、「桜花(おうか)」。搭乗員は、桜花とともに攻撃機で敵艦隊の上空まで運ばれ切り離されました。しかし、桜花搭乗員の多くは、敵艦隊の上空にすらたどりつけず攻撃機もろとも撃ち落とされていきました。
「布張りの練習機での特攻」
戦争の記録
わし、何が好きでね。こんなふうにこう書いてね。我航空戦の戦いにして、みたいな。ほとんど特攻に行くのはね。特攻に行く人の教員をしていた。ほとんど。台湾の虎尾でね。教員、それと船団護衛ね。これを主にしていたんですわ。船団の護衛ね。船団護衛と言ったら、地味なようだけども、いちばん大事な仕事だわね。
Q:特攻隊員の方の先生を。
そうそう。古かったけどね。
Q:何年頃にされていたんですか?
(昭和)19年、行く前に、ずっとね。これ船団護衛のね、石垣で。船団護衛は。これ飛行機のね。これが特務章。特務章というのは、あんたはすごい飛行兵ですっていうね。これが行ったところ。転勤してね。
Q:これは経験を積まれたというの証なんですか?
まあ。経験って言うよりか、行ったところの霞空(霞ヶ浦航空隊)とか、大分とかね、大村とかね。大村とかね。順番ね。大体飛行兵っていうのはね。1か所でも何年もいない。大変なんだ。もうね。私は鈴鹿でも教員しておったしね。ほとんど教員時代が長いんでね。佐世保がありますわ。佐世保ね。これは何です。石垣島にね。派遣隊っていうて出先があって。石垣は船団護衛。沖縄からフィリピンまでの間ね。船団護衛をしとった。
Q:何年やっていた?
6年半。
Q:じゃぁ、だいぶベテランの。
いや、ベテランって言うこともないけどね。・・・の人は3年ぐらいでしょ。6年半。6年半過ぎました。これ1枚あった写真がね、1枚あってね。1枚探して、探してこれ。ようやく1枚ね。1枚あったの、これね。私が6年半おって、ようけ(たくさん)あって、写真がね。これ特務章ね、操縦の。
Q:おいくつぐらいですね?
これは二十歳だね。私、板西農蚕ってね、うち百姓ですけどね。農蚕学校行って、そこで卒業して。今度は蚕業試験場のね、養蚕ね。養成所にいて。それならもう出たら19だったんだ。19でそして製糸社入って。それでイチの方にいて、それで兵隊。これ21かな。これ1枚あった。1枚だけあった。
特攻の始まり - 関大尉
Q:最初に特攻に関わられたのは何年ぐらいのことですか?
いちばん最初に特攻という言葉を聞いたのは。あれはもう(昭和)19年だね。
Q:(昭和)19年・・・の何月頃ですか? 覚えていらっしゃいますか?
特攻は最初はね、特攻は関大尉・・・のあれだったわね。あれ中佐になったけどね。9月かな。
Q:10月です。
10月かな。あれがいちばん最初だね。
Q:そのときにもうご存じだったんですか? 最初にその言葉を・・・
いや、そのときは知らない。関大尉が突っ込んだというので、特攻で突っ込んだというので知った。関大尉ね。
Q:そのときはご自身は何をなさっていたんですか?
私はまだ船団護衛だね。・・・いや、あのときはラバウルに行っとった。ラバウルに行っとった。
Q:ラバウルでどういう任務に就かれていたんですか?
・・・けどね。ラバウルに空襲に行きよったけどね。それを戦闘機でしょ、それを対戦して。しかしラバウルは、空襲に来た割に大きな被害はなかったものね。飛行機がようけおったもの。ラバウルには。
Q:その後は。
引き返して。今度は家族の人がね、内地に帰るっていうので、子どもとか女の人が内地に引き揚げるっていうので、すぐ石垣に来た。元のね。それでまた船団護衛をしていた。
Q:そこでも船団護衛をされていた。その後は?
特攻隊の。船団護衛はみつきぐらいしたかな。それで今度台湾に行った。
台湾「虎尾飛行場」
Q:台湾行かれたのはいつぐらいのことですか?
19年の末。もう年が迫ってね。押し迫って。
Q:行かれた最初のころはどういうことをされていたんですか?
やっぱり、百里原(茨城)におるときにね、私の分隊長がね、青木と言って大尉だった。その人が中佐になってね、「虎尾(台湾)に行け」と。それまでは偵察員ばかりだった。虎尾は。特攻は全然ないしね。それでその人が操縦に初めて来て、「あ、原田、まだ生きているのか」って。「分隊長さん、私、下手だからもう死ねないんだ」って冗談を言ったんだけど。ここにも書いとるが・・・「死なんでいいわ」ってまあ冗談を言っていた。それが隊長でね。虎尾の隊長ね。中佐だったです。
Q:行かれたときは虎尾の隊はどういう状態だったですか?
これはもう、まあ普通の練習の93中練(九三式中間練習機)が100機ぐらいあったわね。それと各所からレンショで百里原から来たり、台北から来たりして。それからジャカルタから来たりしてね。集まった兵隊が180人おった。おったね。まあそのときはまだ特攻を始めるとは言っていなかったですよ。
Q:そこはあくまでも練習の場所。
そうそうそう。それ離着陸していたね。それで離着陸って言ったって、自分が今飛練のだね、練習をしているんですけど、上手ですわ。私らより上手だもの。練習してその延長だからね。あれ上手ですわ。私よりずっと上手なんですよ。
練習機の特攻部隊 - 飛行機がない
「おまえたちは今日から特攻隊員だ」と。聞いて、それでもう特攻隊員だものね。それで裏には連合艦隊司令長官豊田副武。表には贈る特攻。短刀をもらってね。私ももらいましたよ。
Q:それは誰に対して特攻隊員?
特攻隊のその練習生に対して、そこの航空隊の人間全部。それは青木中佐以下全部特攻隊員、特攻隊だわね。
Q:そのときの気持ちは覚えていらっしゃいますか?別に何だね。特攻隊と言ったってなあ。そのときにピンと来たのは、あ、日本もいよいよ飛行機がないと。飛行機がないので練習機まで特攻機にしたと。そこはピンと来たね。それは。いよいよこれ、飛行機がないんだなと。だから練習機を使って特攻機にしたと。それは来たね、ピンと。練習機を特攻機に使って勝てるはずがないんだもの。そんなこと言ったら大変なことになるけどね。そんなこと言えないけどね。自分でそう思ったものね、自分では。これはせめてなあ、ゼロ戦でも。どんなゼロ戦でもいいから1万機、せめて。人間が余って飛行機が足りないんだもの。今言う180人に対して100機とか。足りないんですもの、飛行機が絶対に。足らん飛行機がいい飛行機かと思ったら練習機。・・・内心はね、はああって思った。
重い機体と少年航空兵
普通、赤とんぼ(練習機のこと)ね、卒業するでしょ。それで来た人を特攻にする。特攻の練習するわけだね。
Q:赤とんぼで練習していた訓練生
・・・その飛行機でね。
Q:その飛行機で特攻をするわけですか?
同じ飛行機。中練。中間練習機。そのころ飛行機がないんですよ、一つも。実戦機が。もう全然ね。ないんです。他でみんな・・・。
Q:そんな練習機、赤とんぼで特攻なんかはできるもんですか?
いや、それですわ。大西中将って言ってね、第一航艦の司令長官。この人が特攻を作ったでしょ。作って、飛行機が足りないものだから、練習機でもって特攻に使ったわけ。陸軍だったら白菊っていうね。あれも練習機ですわ。だから海軍だったら93中練(九三式中間練習機)、中間練習機ですわ。これを特攻に使った。私は思った。あれはもうね、特攻に使っても速力が遅いし、ね。機銃も全然積んでいないし。防御も全然ない。あれはもうただ行くだけですわ。行く途中で全部落とされてね。しまいに訓練するのがしんどかったです。こう言ったらいかんけどね。したってあかん。向こうまで到達するまでに全部落とされる。練習機なんぼあってもあかんのです。1000機あっても1万機あってもあかんもの、全部落とされる。結局向こうの士気を高めるだけですわ。アメリカのね。何機やった何機やったって。1機入るんだけどね。だから何ともならんですわ。特攻と言ってもね。それは特攻訓練はしました。これはもう砂袋積んでみたりね。それから月に向かって突っ込んでみたり、太陽を背にしてね、突っ込んだり。そんなのあかんですわ。・・・太陽を背にしていうの、そんなの全然。・・・なんぼでも行けるものね。結局ほら、計器飛行ね。あらゆる訓練をしました。一とおりのね。
Q:訓練は詳しく言うと、どういう訓練をされたんですか?
また、月を背に、太陽を。いや、月に向かって太陽を背に計器飛行ってね。そうしたら夜間行けると。昼なんか絶対飛べないもの。
Q:それはどうして?
計器飛行。計器ばかり見て飛ぶんですわ。他を全然見ずに。
Q:どうして昼間は飛べないんですか?
敵の飛行機おるから。敵さんがおるけんね。それと向こうは電波探信儀(レーダー)で。電探ね。これでもって何を発進したって、進むよね。何機で来るって。全部分かっているんだからね。機械で。日本の。日本の中練だって言って、日本の戦闘機隊が何機来よるって、それも全部分かるからね。1から10まで。もう出発するときが分かっているんだもの。
Q:そうやって赤とんぼで特攻していく若者たちの先生をなさっていた。
そうそう。
Q:どういうお気持ちですか?
これはもう、死にに行くだけですわ。かわいそうに。中学校4年卒業した16~17はね。この・・・、少年航空兵。これもそう。16~17やね。かわいそうですよ。でも大きな荷物を、砂袋を積んだり、爆弾を積んだりしとるけん、なかなか離陸しないんですわ。もう1,500メートルある飛行場いっぱいいっぱい使う。
Q:それだけ爆弾積むと難しいんですね。
それはもうね、大村ったらあれ、実用機の航空隊ですからね。長いんですわ、飛行場も広いしね。それをいっぱいいっぱい使うんですよ。
Q:飛び立つだけでも・・・
そうそう。その前にね、練習が砂袋ね、砂袋を抱えて練習をやるんです。
死にに行く特攻隊
Q:実際の出撃は何月頃だったですか?
7月。7月まで訓練したのね、5か月間ね。7月と8月と、終戦前とね。終戦4~5日前と7月とね。
Q:それまでは先生として教えられて。
ええ。練習航空隊でね。特攻隊の練習航空隊だったから。
Q:特攻隊として教える上で何を重視されていましたか?
特攻隊で死やいうことは全然口にしてはいけないからね。かわいそうでね。おまえは特攻するけど、死ぬのだとは言えないからね。2個大隊いたものですが。200人近くいるからね。それが死んだら・・・死んだのは結局35人よね。
Q:何人訓練を?180人おった。
Q:その中から特攻隊を。
180人練習生がおって。そこから1班から10班。18人。「おまえとおまえ、おまえ、1回」「おまえ、2回」って。組み分けしてね。
Q:それは誰が組み分けをしたんですか?
それはもう偉い人がね。士官がね。だって、みんな同じようなものですもん。
Q:実際の出撃のときは、原田さんはどういう役割を担われた?
別の・・・。並んでね。並んで帽振れぐらいですわ。帽子を取ってね。
Q:直掩(えん)で行かれたのではなかったでしたっけ?
それは1回だけ。
Q:それは1回目の出撃、2回目の出撃、どっちのときですか?
1回目。1回きり。大体士官でもね、上の人は行かないんです、案外ね。あの大きな戦争でもね。大尉まで。少佐は絶対に行かない。大尉までの人が隊長で行くんですわ。
Q:1回行かれた日のことを覚えていらっしゃいますか?
うん、別に覚えている、覚えておらんったって、別に。
Q:何時頃、どういうことをしてどういうふうに出て行ったってことを覚えていらっしゃいますか?
夕方7時頃ね。6時半頃だった。出たけどね。もう薄暗うなってね。昼行きよったら全部やられるもの。すぐに。といって7時でもあかん。向こうは探照灯でバーッと照らすから。あかん。だからどないにしても練習機は練習機。どないにしてもいかんわ。練習機で向こうの敵機を落とすわけにいかんもの。何も持っとらん、手ぶらだもの。ただ自分が操縦していくだけだものね。機銃でもあればね、また撃てるけど何もないもの。哀れなもの。ほんまに死に行く特攻隊だわ。死にに行くのよ。哀れなもんだった。だからかわいそうだったな。やっぱり。帽振れはしたけど、ニコッとして飛行機に乗って行くけどかわいそうですよ。あれは。行く人はね。死にに行くんだもの、だって。必ず死ぬんだもの。不時着せん限りは死ぬんだからね。必ず。不時着すればねそれはまた、けがしてでも助かる場合はあるし。
「特攻精神ニ欠クル点アリ」は不時着
Q:赤とんぼの練習特攻隊は
戦果を上げた記憶はあんまり・・・ないね。戦果はね。戦果はないです。
Q:ここにも、ほとんど不時着・・・
不時着もね。赤とんぼで不時着って言ったら、まあ台湾沖か沖縄に行ったかどっちかだけどね。たいがいもう途中で全部やられてる。私が1回護衛機、援護機でね、行ったときも全部やられた、途中でね。だって向こうは20機もいて、こっちは6機ぐらいで空戦してもしょうがないもの。あと残った飛行機も全部やられてしまう。
Q:あと発動機不調っていうのがすごく多いんですが。
エンジン不調っていうね、エンジンね。どういうふうな意味か。不時着しとる。「特攻精神ニ欠クル点アリ」と。
Q:これってどういう意味なんですか?
特攻精神が欠けとるて。特攻精神を持っとらんということよ。持ってとらんから与那国島へ不時着したと。中にはそんな人もあるかも分からんですわね。
Q:そういうことってあったんですか?
私の知る隊ではないね。私の隊は182人おったけど、全部与那国行っとらんですけどね。36人しか行っとらんけどね。1人不時着して、与那国にね。これはエンジン不調で。ぐらいで。聞かんね、あとは。「特攻精神ニ欠クル」欠けとるといっておる・・・。これはお母さん1人、息子1人の場合もあって。気が引けるだろうと思うわな。これも天候不良だね。与那国がいちばん近いからね。対岸と沖縄の中間だろうね。たいがい不時着しとるね。
Q:今何を思って涙ぐまれたんですか?
やっぱり何だね。親一人子一人の人間もおるわね。それはやっぱりかわいそうだったよね。不時着した人に対しては、どんな理由で不時着したか分からんけどね。これはもう何とも言えんけどね。自分がすっころんで・・・すっころぶっておかしいけど、まあね。助かろうと思って不時着したのか。本当に機械が悪くて不時着したのか、これは分からんけどね。
Q:発動機不調でそんなにみんな帰ってくるはずはないと。
わしはそう思うね。
Q:だから特攻精神が不足しているっていうふうに書いてあるんですけど。そんなことはあるんですか?
それはあるかも分からん。中にはね。それはうちの第1回の1名が与那国に不時着したわね。これも理由がね、聞けへんもの。そういう人もあるかも分からない、中にはね。エンジン不調って10機が10機とも。10機のうち8機、7機もね、エンジン不調っていうことはないわね。中には1機や2機はね、それはあるかも分からん。そのね、でもそんなことはないと思うけどね。と思うが、私はね。
Q:それだけ難しい特攻だったんでしょうね。
難しい。それで練習機だもの。速力は遅いし、もうね、ネコにネズミと一緒。狙われたらおしまい。相手は機数が多いしね。ようけ来ているし。こっちは戦闘機が3機や5機いたところでどうにもならないもの。1機に10機ほど来たらしょうがないもの。もうね。なぶり殺しって言うか。哀れだ、ほんまね。ほんまに。ネズミの死にかけにネコが何匹も寄ってたかってやるようなものだわね。ましてや練習機だもの。速力は遅いし、大きな荷物を積んどる。爆弾ね。自由は利かんしね。
Q:そしたらやっぱりこう・・・
あとゼロ戦が1万機か、せめて5,000機あればね。沖縄はあんなになっていないと。沖縄に1,000隻の船団が来ていたって言うから、向こうはね。1,000隻だって。
Q:そしたら特攻精神が不足したと言われたとしても、その方々を責められないですね。
そんな無謀だったら。上の人は責めるけどね。結局は責めるものね。特攻って死ぬためにあるのではないかというので責めるけどね。
Q:責められるんですか?
責められるんです。これはもうね、3日に1回かね、4日に1回、戦闘に行ったものね。もう毎日。それが海軍省の偉い人の考えですわ。
赤とんぼばかりの「龍虎隊」
私の教え子。これは愛媛県の人間と東京の人間が二人おったがね、何を書いてね。出発前にね、私のところに走ってきて。それで手紙を。手紙って紙をね、渡して。私、先任教員だったからね。「先任教員、誠にすみません。お世話になりました」と。いつまでも元気でおってくれということを書いて、それで最後にね、これ。「花は桜木、特攻隊は、若い命は惜しまねど、ただ気になるは国の行く末」っていうね、この俳句、歌を書いて、最後に私にくれました。特攻に行ったのはみんな死んでしまってね。戦闘機は5~6機ありました。ボロボロの戦闘機が。それが護衛していくわけです。
Q:特攻を護衛する・・・
特攻機は大体18機で行きよった。私、2回特攻に行きましたけどね。1回目は18機いて、1機は与那国島に不時着して、エンジン不調で不時着して。17名ですね。1名の戦果は分からんだけど、16名は落とされました、途中で。1人は分からない。
Q:それも赤とんぼ?
赤とんぼ。もう飛行機がないの、全然。うちの隊はね。赤とんぼばかり。全部赤とんぼ。それはかわいそうだったですよ。これ泣くわけにいかないしね。みんなの前だからね。自分の教え子だもの、これね。技能優秀であったの、これね。結局ね、技能の優秀な人間から順番にやらされたの。飛行機がないからね。へたくそだったらいいけどね。後に残され後に残されして。・・・船団護衛っていうのはいちばん大事なんですよ。いちばん最初は兵隊を送る。次に弾薬を送る。次に食料を送るっていうね。いちばん大事なんですよ。島国でしょ。だからいちばん大事なんですわ。地味な作業であって、いちばん大事なんです。その次に大事なのが潜水艦のこれをしっかり・・・。日本の船はたいがい潜水艦でやられている。ほとんど潜水艦ですわ。船団もしまいに潜水艦にほとんどやられたものね。船団も。
Q:何人ぐらいの生徒さんを特攻に送り出されたんですか?
特攻は36人。18の2で、1人戻ったけどね。35人だね。2回。それで今度終戦になったでしょ。終戦に。3回目に終戦になった。
Q:全て練習機ですか?
全部。練習機が100機ぐらいあったね。6機や7機だったらもうもはや電波対戦しとるけどね。日本の飛行機、ゼロ戦6機護衛って分かっているからね。5機行けば、向こう20機来ますわ。10機で護衛すれば30機。向こうが数が多いからかなわんですもの、どないしたって。そして左からは絶対に来んけんね。攻撃はせんけんね。右からするの。右は操縦しとるけんね。左はこう。右はしにくいけんね。
Q:原田さんご自身もよく攻撃されずに戻っていらっしゃいましたね。
いや、されました。弾が当たらなかっただけ。向こうは左へ、左へ来るから。・・・それを左に行かせないようにね。宙返りとか、垂直旋回とかね。練習中にこれしているからね。教育しとるからね。練習しとるから。逆宙返りとかね、いろいろな。逃げるわけだね。左へ、相手の飛行機を左へ行かせるようにね、自分が右、右と。右から来れば絶対心配がない。それは技量対技量なら日本が上だからね。腕はね、腕はもう全然ね。それもどこかに書いてあったわ。上だけんね。だからもうできるだけ左に来させんように。失速反転とか、落ちる振りしてこっちに回るとか。まあそこで特殊飛行が大事なんだね。
Q:ちなみに、出ていった特攻隊の名前は・・・
龍虎隊。龍虎。龍虎隊ね。
爆弾だけつけて出撃する教え子たち
Q:特攻の訓練をやったり、見送ったり直掩やったりされてた中で、何をされているときがいちばん心が痛まれましたか?
出ていくとき。飛行機が出ていくとき。悲しい顔をしていく人は少ない。たいがいニコッとして行くか、手を振って行くかな。それがかわいそう、余計にな。余計にかわいそうなの。行ってくるからなとか、わしに手紙が来るからね。あんなことを書いて。だから余計にかわいそうだわな。それはニコッとしてな。笑いもってな・・・。出ていくときがいちばん。飛行機に乗るときがな、手を振って乗るわな。10人が10人が手をこうやって振るから。そのときがいちばんつらかった。見送る人間としてはな、いちばんつらかったわ。それも年が行っていれば、おっさんなら別にな。16~17だもの。まだまだなあ、家で甘えて、両親に甘える盛りだもの。そんなえらいわな。16~17で出ていくんだもの。えらいですわ、実際。それでわしは思うた。ああ、飛行機があったらなあと思ったな。人間が余って飛行機がないんだもの。しょうがない。飛行機がもう1万台。まあ少なくとも5,000台。1万台あったら・・・こんなことはないのにと。同じ死ぬにしてもですよ。たたくほどいるもの。こっちは何もできないもの。じっと殺されるのを待っているんだもの。ただ飛ぶだけで。何もできないんだもの。かわいそうだった。
外せないよう爆弾を飛行機に縛り付けていた
Q:出撃して行った若者たちは、この赤とんぼじゃ無理じゃないかなと思っていた?
思っただろうな、それは。それはもう10人が10人思ったと思うわ。
Q:どう思っていた?
これはもう赤とんぼでは。機銃も何もないんだもの。手ぶらだもん。
Q:それは出撃する若者たちも分かっていたんですか?
分かっている。飛行機を見たら分かる。何も付いていないもの。付いとるのは爆弾だけで。下のな、腹。飛行機の下にな。爆弾を付けとるだけだもの。その爆弾は不時着しても爆発するで。・・・悪かったら。それで最初はね、爆弾はね、引き手を引けば落ちよった。しまいにはくくっておったで。落ちないように。というのは、落として不時着する人間が多いために、もう不時着しても爆弾が爆発するようにな。こんな太いロープで縛っておった。縛って、飛行機に縛り付けておったもの。最初はそうじゃなかった。引き手を引けばみんな爆弾は落ちよった。そうしたら海の中に爆弾落として戻ってきたり、不時着して戻ってきたりしよった。それが多かった。不時着な。それでエンジン不調だ、何だかんだ言って戻ってきよった。それでこれではいかんって言ってくくったんだ。飛行機にくくって。そうしたらもう死ななきゃしょうがない、しまいには。そういうことがあったな。
Q:それは赤とんぼでも最初はレバーで爆弾は落ちるようになっていたんですか?
なっとった。こう開いてな。こう乗っているわな。これで落ちよった。しまいに爆弾をくくった。そうしたら落ちんわけだ。そこまでしたわけだ。それで私は余計にみんなかわいそうだった。そんな分かっとるんだもの、そんなこと。おまえは死ねと言うのと一緒だもん。
多くの若者を犠牲にした特攻
Q:今振り返って、もし昔の自分に話し掛けられるとするならば、何と言ってやりたいですか?
話しかけるって、生きとる人?
Q:昔の自分に。
自分にか。ああ、すまんな。すまん。死んだ人にはすまんという気があるね。
Q:何ですまんという気持ちに?
だって飛行機があれば死なないでもいいのに。という気があったね。練習機のために死んでしまったと。同じ戦死にしてもですよ、華々しくできるで、空戦して。空戦してね、華々しくできるで。それは練習機は何もできないんだもの。じっとおらにゃいけん。誰しも自分が死んでもいいと思う人はおそらくないと思うね。最後に生き延びて帰りたいと思うのは本心だろうね。まあかわいそうなことはかわいそうな、17~18ですよ。それはかわいそうに、本当にね。それはかわいそうだ。まだ学校を出たばかり。中学4年。私もそうだけど。・・・17や。それが七つボタンの制服にあこがれてね。宣伝したんだな、七つボタンで*1。七つボタン・・・あれにつられてみんな行ったんだな。兵隊になったんだ。それがもうみんな。だからね、特攻隊で死んだ人はほとんどそれ。少年航空兵の17~18か。二十歳以上の人はおらんですよ。みんな17~18の人ばかり、死んだ人。私は死ぬまでは忘れたいものもあるし、その特攻隊の出撃なんかは忘れたくないね。かわいそうでね。
Q:どうして忘れたくないですか?
かわいそうな、かわいそうな。16か17でかわいそうな。自分の16や17のときを考えたらな。ああした考えてみたら、あまりにもかわいそうな。私は16や17のとき、走り回って遊んで。それが国のためとは言いながら。
Q:かわいそうだから忘れたくない。
かわいそうだから忘れたくないというのもあるし。それはかわいそうでない場合は忘れてしまえばいいということになるかもしれないけど。やっぱりなあ。自分の16~17のことを考えたらな。まだ私は16~17は学生で、学校に行ったもの。
Q:自分だけは覚えておいてあげたいということですか?
うん。
Q:それはどういうことですか?
どういうことって言うか、これは、忘れていい人間はそれは忘れてもいいけれど、私は気が弱いのか、性質か、あまりそんな不幸なことは忘れた方がいいんだけど、よう忘れんな。人の不幸はよう忘れないな。忘れた方がいいのかもしれないけどな。よう忘れんわ。いつまでも。だからこんな帳面に書いてみたり、やっぱりしているんだ。こんな本を作ってみたりな。
Q:原田さんなりの心遣いというか、そういうことですか?
忘れたらいいという人もいるよ。あんな戦争なんて忘れたらいいんだって。だけど私は、忘れずに心に持っておって、戦争をしたらいけないと。ああいう惨めなことがあるからね、戦争は。したらいかんと私は考えるわけだけど。全てを不幸にするわ。不幸にな。何かに付けて不幸にするから。戦争だけはしてはいかんと思っています。
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*1:see.「『若鷲の歌』では「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨・・・」と歌われたことから、七つボタンの制服は予科練の代名詞となり、広く知られるようになりました。」七つボタンの制服 | 予科練平和記念館ブログ




