沖縄戦、戦略なき時間稼ぎ ~ 歩兵第32連隊第一大隊 隊長 伊東孝一さん証言 「大隊の部下の9割を失って」(NHK アーカイブス)
第24師団 歩兵第32連隊
山形県・歩兵第32連隊
第24師団 歩兵第32連隊 (山3475) 連隊長北郷格郎大佐
沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場 ~山形県・歩兵第32連隊~
太平洋戦争で、国内 最大規模の地上戦の舞台となった沖縄本島では、住民を巻き込んだせい惨な戦いが繰り広げられた。
日本の敗色が濃厚となっていた昭和20年3月、米軍は54万の兵力と最新鋭の兵器を投入し、沖縄への上陸作戦を開始する。
沖縄戦の最前線で戦った陸軍歩兵第32連隊。山形県、北海道、沖縄県の出身者で編成され、およそ3000人が投入された。5か月にわたる過酷な戦いの中で、将兵の9割が戦死する。
敗北が決定的となった後も、日本軍は戦いを続け、さらなる悲劇を生む。無謀な戦闘の継続が多くの住民の命を奪うことになったのだ。第32連隊の元兵士たちの証言から住民を巻き込んで繰り広げられた沖縄戦の実態を描く。
第一大隊隊長 伊東孝一
第1大隊の隊長、伊東孝一さんについて
伊東 孝一さん
1920年 宮崎県大崎市にて生まれる
1937年 陸軍士官学校予科入校
1938年 歩兵第32連隊の士官候補生となる
1945年 沖縄戦当時、24歳。陸軍大尉として第1大隊を指揮。復員後は土建業、精密機械工業などに従事
友軍が次々と撃破される中、伊東さん率いる第1大隊は善戦。昭和天皇が日本の降伏を国民に伝えた8月15日以降も壕にこもって抵抗。武装解除したのは29日になってからだった。第1大隊に所属していた兵士は約800人だったが、うち約700人が戦死した。
「部下たちの死を一刻も早く遺族に伝えたい」。そう思った伊東さんは、送り先が分かった約500人に手紙を書いた。部下の形見代わりに、沖縄から持ち帰ったサンゴのかけらを同封した。伊東さんも、遺族から返事を受け取った。その数、356通にのぼった。
伊東孝一さん証言 「大隊の部下の9割を失って」
次は台湾ではなく沖縄と言われていた
目の前を行く大艦隊
初めて、沖縄に渡ってね、連隊本部は嘉手納のすぐ近くの港に、連隊司令部は行ったんだ。僕はね、師団長と一緒に那覇港に上陸した。連隊長と連絡する必要があって、当時、軽便鉄道がまだあって、首里から、那覇から首里まで歩いて、首里から嘉手納の方に、軽便鉄道で行ったんだ。満員でね、通勤の人たちがいっぱい乗ってて、満員だった。それで、若い女の人が2人ばかりいてね、内容は忘れたけどね、デッキでね、恋の歌を歌ってるんだよ。ああ日本って、こんなに片っ方は戦争してるのに、ここんとこは恋の歌を歌うくらい、南国の情熱がある人たちがいる島かなって感じたもんね。
Q.そんな雰囲気の島が、激戦の場になるとは、想像もしていなかったでしょうね?
ああ、そこまでは、その頃は想像してなかったね。
Q.最初に米軍が姿を現したときのことを覚えていますか?
そのとき目の前を、米国の艦隊がザーツと、北上してくんだよ。商船も貨物船もどんどん上陸、上航していくんだ、北に向かってね、目の前を。敵の飛行機がさんざん、飛んできてね。日本軍の飛行機がたまに、あらわれて戦闘をやるんだけど、たちまち落とされてしまって。それが最初に米軍っていうのを、兵隊は見なかったけど、敵を見た初めてだね、本当の意味において。大艦隊がダーツと北上してきて、毎日のように大空襲にあってね。それで本当に戦闘した、敵を見たのは小波津(現 中頭郡西原町)だよな。小波津の戦闘で初めて。いや、びっくりもしないが。いよいよ、来るかっていうだけだね。もうある程度、覚悟は、そのときになったら決まったもんね。それまではちょっと、決まらなかったよ。まだ、他のとこへ行くかもしれないって。沖縄に来るとは限らない。まあ、いちばん沖縄の公算が多いけども、台湾に行くかも分からない。沖縄に行くかも分からない。まあ、極端な例いうと、済州島にくるという案もあったからね。だけど、沖縄がいちばん有力で、その次は台湾だろうという話だったからな。多少、覚悟はしたが、敵の艦隊が自分の目の前を通って、北・中飛行場の前面の所に、ずっと進んでいくのを知ったときに、情報も軍から入るからね。それで、ああ、いよいよ来たなというふうに思ったね。
土煙に覆われた大地
もうね、本当にね、例えようがないくらいだった。そのただ、防御しておりますとね、砲撃ですね、砲弾ね、とくに戦車とか何かを、非常に、みなさんいちばん重んじて、よく言うけどね、砲撃がすごいんですよ。山に砲弾が集中してきてね、弾幕射撃でね、山全部が土煙に覆われて、何にも見えなくなっちゃうんですよ。そのくらいすごい。そして、そこに陣地があって、兵隊が穴の中に潜っていられないんで。潜ってられない、陣地がないところへ引っ張り出された。
Q.地下に、こもるようなものがない?
陣地が、そう、もうないんですよ。だから、みんなたこつぼに入ってやってるんですよ。要するにただ、穴を掘って入ってるだけですよ。すると、多少地形を利用したりしてるけども、そこへ弾幕の射撃が、集中射撃が来るからもう、全てが土煙に覆われるようなもんで、もうあっという間に、戦わないうちにやられちゃうんですよ。でもね、土が掘れる場合はまだ、いいんです。掘れない場合は、いわゆる岩山の場合は、もう一瞬にして、全滅しちゃいますよ。で、うちの大隊の場合、第一線中隊の場合は、多少、土が軟らかかったから、掘れていたから、全滅することはなかったから、弾幕射撃が終わってから、集中射撃が終わってから、敵が攻めてくると、穴から出て、みんなこちらが撃ち返して、敵を撃退しとったわけですよ。で、戦車が来るけれども、戦車に対する火力が、非常に乏しくてね。連隊砲という火砲が2砲あって、それがまあ、活躍してくれたりしたけど、あとは肉迫攻撃ですからね。もう、どうにもならない、お手上げっていうのね、後はね。そういう風な状況でした。よくまあ、第一線が全滅しないなと思ってましたよ。それでも、第一線に300名置いたんですけども、200名近くが死傷しましたね。たった1週間足らずの戦で。
Q.たった1週間で3分の2が?
うん、第一線の、わたしの大隊全部でなくて、第一線に出した中隊のね。ほとんど死傷して。そやから、死ぬ人が全部じゃないんですよね。怪我人がたくさん、出るわけですよね。で、怪我人はもちろん、後送することになるから、後で怪我人がまた、戦に参加してくるんだけども、とにかく、当面は戦闘できないからね。それで、兵器なんかみんな、結局、携帯の兵器もほとんどやられちゃいますからね。小波津では防御の場合でしたね。攻撃はね、今は防御の話だけど、攻撃は敵の火力が非常に優勢で、普通のことではとても、攻撃できませんね。米軍が獲った直後は、いいんです。直後は向こうも態勢が整ってないから、直後の夜襲なら獲れるんですよ。直後のね。ところが3日経ったら、もう後ろから、どんどん火力が増強されてきてね、普通のことじゃ獲れません。
本島南部での激戦
わたしらは第一線に、行ってね。大隊本部も第一線に、いたんですけど、敵はそこを無理して、戦車を先頭にして突っ込んできたから、敵と味方とごちゃごちゃになっちゃった。こっちに友軍の壕があったら、ここへ敵がいて、その後ろにまた、友軍の壕があったりして。米軍の記録にも出てますけども、敵も味方も、ごちゃごちゃになっちゃったんですよ、地理的にね。いわゆる混戦、乱戦の中の戦いになりました。そのうちに段々と、制圧されちゃって、大隊本部も制圧されてしまって。米軍はみな、どんどん行ったんですけどね。で、わたしは第一線にいたから、そのまま国吉(現 糸満市)にいたわけですよね。ところがね、わたしは死ぬつもりで第一線にいたんだけどね、他の大隊長はね、後ろにいたわけですよ、みんな。もっと後ろに。大隊の兵力よりも後ろにね。そういう人はね、逆にみんな、死んでるんですよ。人間の運命って、わからない。国吉の陣地があって、こっちに臨時の2大隊、こっちに3大隊、うちの。そういうとこの大隊長はみんな、連隊本部はここ、連隊本部の近くに大隊長がいたわけですよ。そういう人はみんな、亡くなるんですよ。で、わたしはもう最後だと思って、一緒に死ぬんだと思って、国吉の第一線に一緒に、大体1000人いたから、かえってそれが、わたしは助かって。人間の運命ってわかりませんよね。いつ死ぬか、分かんないけど、最初から死ぬものだと、覚悟して行ったんだから。だから必ず負けるし、必ず死ぬと、それだけは覚悟して行きましたよ。アメリカはね、戦車をうんと投入しましたからね。それから兵隊も、もちろん一緒に戦車に乗って。戦車の格好をした移送の車もありました。そういうので、どんどん運んできて。結局、まあ、最初はね、攻撃は向こうが失敗したんですよ。わたしらの火力の前にやられたんだけど、これじゃだめだと、夜間、突っ込んできたんですよ。これはわたしもちょっと、夜間、来るとは思わなかったね。夜間、戦車を先頭にして突っ込んできちゃってね。うちの陣地のなかへ入り込んじゃったからね、混戦になっちゃったんですよね。で、向こうも突っ込んではみたものの、今度、突っ込んだ口が狭いから、日本軍から邪魔されるでしょう。だから今度は、食糧の問題、弾薬の問題があるから飛行機で一生懸命、投下したわけですよ。飛行機「29」機ですか、向こうの「29」機の飛行機を使って食料、弾薬を投下したって、水を投下したって。こちらも、弾薬は無くなりましたからね。そういうものを使って闘って。結局、最後には、もう兵器はみんな破壊される。弾もほとんど無くなる。小銃がわずかに、残ってるだけというようになって。各1個大隊が全部そろって一つの洞窟にいるわけではなくて、小さないくつもの洞窟に、みんな少しずつ、入っているわけですから、各洞窟を、小銃2丁くらいでみんな、守るっていうような形になってね。負傷者を入れて、400名いたんですよ。負傷者を入れて。そのうち働けるのが100名、死傷者が300名なんですよ。もう長い間の戦いで。で、その100名のほとんどのが、その国吉の戦闘で死んで。負傷者もだいぶんやられまして、結局100名ぐらい生き残ったと、そういう形。最後まで、しっかり把握していましたよ。ただこっちはもう、そこの津嘉山の退却援護の頃から、体が弱ってましたからね、わたしは。体があの頃から、非常に弱ってきてましたから。国吉へ行ってから、また前にやったアメーバ赤痢が再発して、下痢ばっかしてたから、それは苦しかったですよ。胃は痛むしね。最後はもう、死にたかったですね、苦しくて。本当のところ。もう胃は痛むし、歩こうにも、あんまり歩けなかったし。でも、そのときに一生懸命努力したから、千メートルくらいは歩けるようになったけどね。
死を覚悟した
うちの壕は黄リン弾の攻撃、さんざん受けちゃって。最初のいたところ、指揮をしてた所ね。あとからは別の壕に移ったけどね。最初の壕のときは、黄リンをうんと投げ込まれた。だから、木が燃え出すから、火の中にいるようになっちゃうから、とってもそれは大変なんだよ。だから一生懸命消したよね。水筒の水でね。だけどそんな、叩いたりしてもね、だめなんだ。黄リンっていうのは叩いたって、消えるもんじゃないからね。僕も爆雷でちょっと、やられたんだけど、爆雷は擦過傷。からだ中、耳とかこういうところが変になったけど、内蔵まではやられなかったもんね。表面的な怪我はしたけどね、爆雷でね。爆雷、バッとぶつけられたときは「これで死んだかな? いや、駄目かな?」と思って。それで、そしたら内部まで染みまないで、すっとばかり痛いからね。で、こう服を脱いでみたら、中はやられてなくて、擦過傷みたいな形になったから、ああこれで大丈夫だなと思ったけどね。もう、出たらもう、やられちゃうね。すぐね。だから壕の入口でこう、戦ってるわけだ。構えてね、兵隊が。そのときに無線機、壊されてね。連隊本部と連絡の方法がなくなっちゃったんだ、無線機やられて。伝令を4人出したけど、一人も連隊本部に届かなかったね。みんな途中でやられちゃったらしいね。4人出したんだけどね。敵がほら、正面からじゃなくて、後ろから来てたからね、もうね。敵が我が陣地を突破して、大隊本部は後ろから攻撃されたから、最後は。後ろが高いんですよ。で、上から黄リンとか爆雷を投げ込むわけだ。われわれは、大隊本部は敵の斜面にいたから。
Q.いわゆる、馬乗りっていう状態?
馬乗りなんだろうね、結局ね。大隊本部の方は低いとこにいて、いちばん高い所は、敵が最後は取って。大隊本部を攻撃されたときはね。もう(6月)17日に爆雷攻撃が来たから、黄リン弾どんどん投げ込まれてたから、もう明日が最後だと思ってた。だから、そのときはやっぱりね。みなさん、ちょっと気持ちはわからんかも知らんけど、やっぱり、僕は、大隊っていうのは千人の部下がいてね、部隊長っていうんだよね。部隊長とあろう者がね、どういう死に方をすればいいのかなって、やっぱり考えたよ。
Q.どうやって死ぬかという?
うん、割腹自殺しようか、拳銃自殺しようか、斬り込んで死のうか、とか。死に方をいろいろ考えました。
戦闘継続
伝わってきました。向こうの、摩文仁の方から逃げてきた兵隊、どこの部隊の兵隊か覚えてないけど、兵隊が夜、出くわして、軍司令官が亡くなりましたっていうことを、それから聞いたんですよね。で、師団長はどうなったかなっていうことを、わたしはすぐ思ったんですよ。軍司令官より先に。まだ軍司令官というのは後ろの方だからよく分かんない。で、連隊本部に「師団長はどうなった、師団司令部はどうなったのか」と聞いたら「分からない」というんだ。「分からないじゃしょうがないから、見に行かせろ」っていうわけで。それで、曹長の率いる斥候を師団司令部に、派遣したらしいんですね。それで、連隊本部は6月30日に、師団司令部に行ったら、師団司令部の壕は真っ黒焦げになって、中が真っ黒焦げになって、そうして、誰もいなかったと。ということは、師団長はそこで、亡くなられたんだろうと。そういう、だいたい想像をしたわけですよ。それから2、3日経ってから、今度7月始めに軍司令官が亡くなったと。それで、じゃあ、どういう最後に命令が出たのかなと思ったんですよ。連隊本部に聞いたらば、師団長は「最後の一兵になるまで、現在の陣地を守って戦え」と、こういう最後の命令を出したということが分かった。軍司令官からの命令は聞いていません。ただ、師団長からそういう命令が出てたから、連隊もまた、最後の一兵となるまで、頑張るしかしょうがないなと。最後の命令をそういうふうに、自分は受けとったんですね。
Q.最後の命令がわかったときには、大隊長としてどういうふうに考えたんですか?
わたしはね、そのとき、こう思ったんですよ。とにかくもうね、兵隊もほとんど傷ついてるけども、多少は元気なのもいるからね。だから、元気なもんだけでも集めて、どこかの飛行場攻撃でもやって、華々しく散ろうかなとも思ったんですよ。ほんとのそれは言わなかった、わたしは部下には言わなかった。1回でも言わなかった。ただ自分の腹案としてはそう思った。それで、部下の各隊に、「決死隊を作るから、決死隊に志願するものは申し出ろ」と。そうしたら約半数が申し出たんですよ。
Q.約半数というのは?
100名の半数だから50名。あとの50名というのは体がもう、あちこち怪我したりして、病気になったりして動けないやつ。半数でも、その半数の人間に、もたすべき兵器がないわけですよ。それだけのものがね。それから、もうひとつは、わたしが体がアメーバ赤痢でやられて、動けなくなってるから、とにかくこれは、自分の腹の中に納めておいて、まず自分の体を丈夫にして、それから丈夫になったら、決死隊を集めて、最後を華々しくやろうと思っていた。それでも、うまく体が治らんもんだから、もう死んだ方がましだなと思ったけれども、自分一人が死んだら100人の部下を見捨てて、行くようなもんだから、やっぱり、100人でもいる限り、この部下たちをあくまで指揮していかなきゃならないとか、そういう、いろんなジレンマの中でね、いました。そのうちに、色々な問題が起きてきて、結局、終戦になっちゃったよね。とうとう、それは腹案として自分の腹にもって終わり。ただ、決死隊を募ったまではやったんですよ。
投降
まずね、最後立派に、きちっとやろうと。いわゆる、敗残兵なふうじゃなしにね。みんな、しっかりとした統制のもとに、しっかりやろうと、思うことがひとつと。もうひとつこれはね、考えたことはね、非常に、自分が生きておってこういうことを言うのは、適当じゃないかもしれないけれども、連隊長は自決されるんじゃないかって、わたしは思ったんですよ、実際は。すると、連隊長が自決される場合ですね、連隊長はただ自決するかな、それとも、何か言って自決するかな、と思ったの。で、あまりこういうことを生きた人間が言うのは、ちょっとあれだけども、もしか連隊長が黙って自決したら、おれも死ななきゃならないなと。連隊長一人、あの世にやるわけにいかんなと思った。もしか連隊長が「部下のみんなは生き延びて、日本の再建のために努力しろ」という一言を残してくれたんなら、そのお言葉に甘んじて受けて、そして、生きながらえて行こうと。黙って死なれたら、自決しようと思った。で、28日に軍旗を奉焼して、翌朝、連隊長が特別変わったこともなく、収容所に行かれたからね。で、わたしもやっぱり、連隊長も自決されないのに、なんで天皇陛下以下、全部降伏したのに連隊長も自決しない。それじゃ、わたしだけ死ぬ理由はないと。そういう風に思ったね、本当にね。終戦のときもわたしは誇りを持って武装解除をうけたと思ってますよ。誇りを持って終止したつもりです、うちの大隊はね。おそらく大隊の兵隊はみんな、なにがしの誇りを持って生きて帰ってきたんじゃないんですか。だけどわたしはね、戦争が終わって帰ってみると、それから、遺族なんかにみんな手紙を出したんですけどね。大隊の遺族全員に出したんですけどね。沖縄の人は連絡取れませんでしたから、内地の人だけ全部出したんですけど。いろいろご返事もいただいたんだが、もう非常につらかったね。本当に。だからそれはなんにも、たくさんの9割の部下を失ったものとしてね、自分が生きていることがとてもつらかったね。だけど一方ね、わたしは、もしか長く生きられたら、この戦を書き残さなきゃならんなという気持ちもあったんですよ。それだけはあったけども、本当につらくてね、いたんですよ。
沖縄戦とは何だったのか - 戦略なき時間稼ぎ
重要拠点と言われている北・中飛行場は4月1日、初日に無血で失っている。
沖縄戦とは何だったのか
それは、時間稼ぎでしょう。だから、時間を稼ぐのはいいけどね、時間稼ぐのは時間だけなのか、それとも、要地を長く持つかっていう、さっきの話。結局そういうとこは、当然、時間稼ぎ。前進陣地というのは、時間を稼ぐための陣地だからね、本土決戦の前進陣地だから、沖縄は。前進陣地の要点を、長く持つってことも重要なことであって。
南下でわずか10日間の時間稼ぎに意味はあったのか
Q.少しでも時間を沖縄で稼ぐということは大きな目的だったんですか?
そうですね。だけどね、目的にしては軍の配備が、あまりにも重要性をすでに失っていて。次々に失ってしまうと、重要地点というのは、北・中飛行場とそれから、小禄の飛行場と那覇港なんですよ。この4つが、一番重要というやつなんですよ。すると、それを全部失って、下がってみたところで、どれだけの意味があるかなと思って。向こうの米軍の作戦準備というのは、重要拠点をみんな、取っちゃってるから、大した支障は生じないんですよ。首里の場合は首里自体が、那覇港を持っていますからね、結構、重要拠点なんですよ。小禄もね。それを完全、もしくは早くそれを失っちゃうわけですからね、撤退するっていうことは。だいたい最初から、軍の作戦がまずいんですよね。あたしに言わせれば。最初から、重要拠点を失うような配備をとっていたからね。北・中飛行場って、最初から失ったでしょう。そうするとね、結局、本土防衛の準備をさせるっていうことは、時間の問題もありますけども、要点をしっかり持ってなきゃあ、意味をなさないんですよ。極端に言えば、米軍と全然戦闘をしないところに、配置するのと同じことになっちゃうんですよ。要点を全部失っちゃえばね。だから、初めから、北・中飛行場を放棄するっていうところからすでに、間違ってるんじゃないかと、わたしは思うんですよ。そんなもの取られてね。そしたら、米軍はその飛行場をうんと、利用できますもの。すぐにね。すると、いかに、時間的には仮に、わたしは稼いだとは思わんけども、稼いだとしてもね、何も意味はなさなくなってくるわけですね。大体、あそこの首里から撤退するのが良かったか、良くないかってことは、これは非常に難しいんですよ。今でも、わたしはどっちがいいか、よく分かんない。迷ってるところです。難しいんですよ、あの判断は。やっぱり南の方へ行かなきゃ、住民をうまく、たくさん巻き込まないですんだと思うんですよ。ところが、南へ行けばいくらかでも持久時間が延びるぞという利点もあるけれども。撤退期間の間だけ、延びましたよ。10日かかったから、米軍が追跡してくるまで。その10日間だけですよ、得られたのは。それだけであとは、住民を失ったっていう、たくさん巻き込んだっていう意味においては、マイナスの点ですね。だが、それを計りにかけてみて、どっちが良かったのかなんてことは、分かんないですね。要するにね、どういう風にして沖縄を守ったらいいかっていう、守る方法がね、大本営も、それからは台湾軍司令官も、それから沖縄軍司令官もね、はっきり持ってないんだよね。なんにもね。本当にこうしたらいいだろう、という案はないの。ただ、自分たちの希望だけを言ってくるわけだ。敵が上陸したら、追っ払えっていうような式のね。
沖縄戦を生き抜いて
結局ね、まあ、わたしは自分の気持ちを、短歌で書いているんですが、その短歌には、どういう風に書いているかというと、詠んでるかといいますと「兵あまた 死なせし業の苦しさに 気骨も失せて くらげと漂う」と、これがわたしの心境なんですよ。もう、たくさん部下を殺したんで、もう苦しさのために、なんにもできない。それで、自分のやりたいことが無い。だからもう、本当に、まあ役立たずになってしまった。結局ね、9割の人が死んで、1割が生きてきたでしょ。自分は指揮官だから、いちばん責任があるわけだね、その千人の中では。その、いちばん責任がある自分が、生きてるってことは、とてもつらいですよ。自分の命令で動いて、9割の人が死んで。その指揮官である自分が、生きてるってことは、つらいでしょう。ちょっと、このつらさはね、分かんないかもしれないな。ぶつかった立場にならないと。僕自身はそんな、責任はないと思うけどね、軍という立場、軍の一員という立場から言えば、そういう住民がたくさん死んだ、ということはつらいね。僕も軍の一員だからね。だから、そのような立場から見ると、やっぱり軍がそしりを受けるっていうことはつらいしね。それもあるしね。もうひとつは、なんかこう、苦しいことがいろいろあるでしょう、生きてる間にはね。そのときね、おれは沖縄のとき、あれだけ苦しいとこを闘ったんだから、こんなことじゃ、負けちゃいかんなって思うことが、しばしばある。なんか苦しいときにね、沖縄であんな苦しいときまで、戦って、その男がね、こんなことでへこたれてどうすんだと、いう風に思うときはありますよ。それはあるね。沖縄から得たことはね。
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