『沖縄県史』 9-10巻 沖縄戦証言 宮古島 5

 

補遺

一、袖山部落考

砂川明芳

宮古島飛行場 (平良飛行場) 建設 - 強制立ち退き

昭和十八年の秋から、昭和二十一年の秋までのまる三年の間、その期間だけ、平良市の市街の東、およそ一キロの処、現在の浄水場のあるソデ山丘陵の南側に、一つの集落がありました。


この集落を、人々は袖山部落と呼んでいました。今は人家はひとつもなく、そまつな石積みや瓦のかけらなどに、わずかに当時をしのぶことが出来ます。

 

この集落の消長を、当時袖山部落に住んでいた粟国定吉(大正五年生)同ヒデ(大正六年生)夫妻と、安元弘(大正九年生)キョ(大正七年生)夫妻、それに夫人がその部落に住んでいた村山豊さん(六七歳)の話を中心に、当時の町会議員長崎宮一さん(七一歳)の話や新聞記事を加えて、記録にとどめておきましょう。

 

立ち退き命令下る

昭和十八年の九月当時、現在の宮古飛行場一帯には、三つの部落があり、平和な農業を営んでおりました。西の方から七原(ナナバリ)、屋原(ヤーバリ)、クイズの三つの部落がそれで、百数十家族が住んでいました。この地に海軍飛行場が建設されることにな先ず、主滑走路に当る七原、屋原に立ち退き命令が出されました。


部落の人々は、不満に思いました。しかし、命令が下った以上、それに口出しすることが、何をもたらすかを知っていましたので、「いのちあっての財産だ。」と、自分らにいいきかせてあきらめました。


地元出身の町議会議員(池村香一、本村真津、長崎富一の三人)は、平良町当局に相談して、平良町有地を無償で払い下げてもらうことにしました。

 

実際には、昭和十六年六月の宮古郡会の記録で、平良町当局は、屋原、七原部落民の更生策として、袖山地区三九反(反当三〇〇円)鏡原山地区五一反(反当三七〇円)で有償払下げを決定し宮古支庁に「町有地基本財産処分申請」を出して許されている。屋原、七原の強制収用された土地は一六一四二、六アール、八四一筆、二五五名の地主となっている..............。

 

立ち退きさきは、現在の宮古高校東側のフナコシ原、鏡原小学校東側の原野(現在の七原)、それに袖山の三つの地で、各戸に対し一反歩の供与がありました。

 

屋原部落の粟国さん方の親族は行き先地を決めるための協議をしました。本家の方からは、みんなまとまってフナコシの方に行こうじゃないか、という提案がありました。フナコシは、船井という井戸に近く、水の便もあるし、町に接しているという利便があります。粟国定吉さんの家族は、之に応じませんでした。

 

栗国さんたちは、袖山に行く組に入りました。沖縄製糖株式会社系の農場に一町歩の小作地を借りる相談ができているので、そとに少しでも近い袖山をえらびました。兼島農場は、袖山から三キロほどの処にあります。

 

働き手の豊さんが徴用で留守であった村山さんの方は、立ち退きによって三町歩もの耕地を失ないます。所有地の原野が袖山にあるということから、袖山組に入りました。

 

人々は、「ナナバリヤナナツンバリ、ヤーバリヤヤーツンバリ」(七原部落は七つに割れ、屋原部落は八つに割れ」と、部落離散の悲哀を表現しました。

 

もらえなかった地代

人々は代書を頼み、手続きをし、地代をもらいました。しかし、その半分は義務貯金を強制され凍結されました。

 

粟国さんの方は、土地代を一銭ももらってないケースです。定吉さんの父が、「戦争が終れば、売ってさえなければいつかはとりかえせるんだ。」という考えを示しましたが、実は、土地が先代名義になっていて、移転登記のわずらわしさがあったので、手続きしないままに収用されました。あとになって、金につまって土地代をもらう気になったときは、空襲がはげしくなっており、手続きは不可能になっていました。

 

立ち退きの日がやってきました。建物をくずして馬車で運びます。家財道具、畑のいもなども運びます。だが間に合いません。多くの人力が投入されてこわしにかかります。一馬車分つんでいって帰ると、残りが低地に投げてまれて、うめ立てられるというありさまです。


あまりのひどい仕うちに定吉さんはいかりを発しました。作業にかりだされてきている婦人を叩いてしまったのです。汗の結晶が、農民の生命の糧が、目の前で、つぶされているのをみて、がまんできなかったのです。うしろで指図している権力の姿など心に浮ぶ余裕もありません。穂が出ようとしているサトウキビがつぶされていった姿を今でも思い起すほどです。

 

四町歩の地主だった粟国さん一家は、ここで、一町歩の小作農になってしまいました。

村山夫人たちは、原野の開墾にとりかかりました。

 

ブタは逃げた

昭和十九年の夏になると、満洲から陸軍部隊がやってきて、島は軍隊でうずまりました。十月からは空襲のはじまりです。

 

昭和二十年になると、連日のように米軍機がやってきました。袖山に一応落着いた人々は、丘を越えて、四、五百メートルもある底原部落の井戸水をくみに通いました。空襲がはげしくなりますと、終日、自然洞に避難するようになりました。

 

馬や牛がちょう発されていきます。定吉さんは、軍に徴用され、ちょう発された自分の馬をひいて軍の加勢をさせられました。そのうちに、空襲で弾丸に当り、馬は戦死しました。

 

袖山の近くにも、陸軍や海軍の陣地がいくつもできました。軍からは、しばしば使役の命令が出されました。

 

玄米を五俵もってきて、ついて納めよ、というのもありました。うすに入れ、水を加えてつくのです。袖山の人たちは白い米にひきつけられました。水を入れると、ふくれ上る米をみて、何割かをかすめとる相談をしました。どの家も同じ割り合いでとれば、感付かれることはないと考え、みんなでそうしました。つき賃としてとるのだ、と自分らにいいきかせて、とりました。サツマイモを常食としている人々の食ぜんは、白い米でにぎわいました。

 

牛や馬ばかりでなく、豚もちょう発されることになります。陸軍のコミヤ隊がやってきて、これこれの豚は軍のものにするから、移動させずになっておけという命令がでました。

 

粟国さんの父とその友人は、はらにすえかねて、とうとう豚の一頭を屠殺して、ごちそうにしました。そして、豚一頭逃亡の旨を軍に届け出たのです。

 

早速、呼び出しがかかってきました。定吉さんも父につきそってコミヤ隊に出頭しました。一人の軍曹がすごいけんまくでどなります。「逃げた筈はない。殺して食べたろう」と、せめたてます。三人のほおに猛烈なビンタうちがとびました。

 

年とった二人は、ひるみません。「誰でも自分のいのちは惜しいもの。空襲のさなかにも豚をしておれとは理不尽じゃないか」と抗議をくりかえします。根まけしたのか無罪放免となりました。空襲が一層はげしくなり、上陸のおそれが増してくると、軍は食を大事にしだしたようです。食いものをもらいに、住民の処にやってくる兵隊が多くなりました。くだんの軍曹も陣地をおりて、袖山の里にやってきました。それを見つけた二人の壮者たちは、道路上によびとめ、許してはおかぬと責めたてました。軍曹がやった分だけビンタをはね、軍曹をわびさせました。

 

五月には、粟国さんは郷土部隊に召集され、増原の当閻隊に配属されました。もみがらまじりの玄米のめしは、腹をみたすだけはあてがわれません。サツマイモの葉や、アキノゲシの葉がなげてまれたおつゆで、はらをみたしました。

 

老人や女、子どもは、はげしい空襲で、昼は、防空壕にこもりっきりです。海軍飛行場の主滑走路の延長線上二百メートルそこそとの距離にある袖山の里では、どうにもなりません。夕方家にかえってみると、あたりに、いくつも大きな爆弾の穴があけられています。


五月のある日、一軒に焼夷弾がおちてもえだしました。軍隊が出動して消火につとめたようです。しかし、何しろ水のない処です。たちまちにして、四十戸のうちの十戸が全焼してしまいました。村山さんのうちが焼けたのは終戦直後で、その日の被害は一軒だけでした。

 

飢餓とマラリアで消滅した袖山の里

雨の中の集団

戦争はすみました。袖山の人々の中からは、死者は二人しかいませんでした。一人はジフテリア様の病気にかかり、医者にも診てもらえずに死んだ子どもでした。もう一人は、機銃弾の犠牲になった老婆でした。シラミになやまされ、希望はなく、恐怖の連続だった防空壕の生活も終りました。

 

そして、待っていたのは、深刻な食糧難であります。

 

空襲中は、植えられたイモを掘りとって食うのが精いっぱいだったので、畑は荒れていました。その畑地を、「軍」は「自活」と称して、不当にもとり上げたのです。とり上げた土地のイモをほりとって食い、自分らでイモを植えています。「民」は、食うものを失ったことになります。

 

背に腹はかえられません。夜になると、どろぼうになります。"自分の畑にいって「軍」のイモをぬすむというどろぼうです。奇妙なことです。「軍」は小作料をはらうわけではないのですから、人々は、ぬすんだ分が小作料だと思っています。だが、それは、暗がりの中でしか行なわれません。

 

ぬすみもうまくいかなくなります。仕方がないので、草のイモ(フサヌンー)掘りというのをやりました。自分の〃畑に行って、「軍」の掘りとったあとの土の中から、小さな残りものである草のイモをとってくるというあわれな仕儀です。

 

小さな芋の長い角(ツヌ、両端)をきりとります。そのまま丸煮(カーニーンー、皮煮イモ)にすると、とても食えたものではありません。それで、たいたあとで、つぶして、うすでつき、もち状にします。イモノリです。

 

とてもひもじいのですから、つぶさぬうちから、なべに手を入れ子どもたちは食べにかかります。男たちもそうするみじめさに、主婦たちは泣きました。昼飯はこれで何とかやったが、夕飯はどうしよう。みんなの頭の中は食事のことしかないという状態でした。そういう生活が続いているある晩、安元さんのうちに、戦争中面倒をみてやった一人の海軍兵がやってきました。アママガヤーという自然に手を入れて作った海軍の壕の兵隊です。


「あんたたちに元気があるなら」と兵隊はいいました。「今晩、壕の中の米俵をぬすむがよい。」といいました。自分が歩哨に立つことになっているからだとのことです。
安元さんは、家々をふれ歩いて、里の人々を集めました。異議をはさむものはおる筈もありません。ドシャブリの雨の中を、心をはずませて壌に向って進んでいきました。
いつもは入り口に立っている歩哨の姿はありません。中に入りました。ところが大変です。通路がいく筋にも分かれていて、迷路のようです。暗い壕の中を手分けして探すのですが、肝心な米俵がみつかりません。

 

むなしく、その場を離れました。

雨はつめたく、はげしく、一層ふりつのりました。

 

白い粉

三月頃には、軍はひきあげていきました。

無償だといってもらった筈の払い下げの一反歩も、わずかではあったが、有償だと、町の議会は決めました。徴用にあって死んだ馬のちょう発料も、反故にされてしまいました。借りた小作地は、軍に用立てされ、はだかにされてもどってきました。

 

朝のイモがゆをすすった粟国さんは、父と三人つれだって、借り馬車にのって八キロばかりも離れた新里までいきました。立ち退きのとき家を建ててもらった大工の家をつてにイモ買いに出かけたのです。

 

もてる者はいいました。買いたければ、掘って買うがよい、と。掘りとってあるイモを売る家はいくら探してもありません。三人は仕方なく、せっせと掘りました。やっとのことで、麻袋の二俵分位掘って帰ったら、もう夜の十時にはなっていました。その間、何ひとつ食うこともなかったのです。体力は極度に衰弱していたようです。

 

そうしたある日、アメリカの飛行機が、何やら白い煙を出しながら低空をとんでいました。白い煙は、白い粉で、草木の葉の表が白く色どられました。

 

その時からです。袖山の里がマラリアの生き地獄になったのは。
戦争中、島の日本軍は、マラリア病のために相当いためつけられ


ました。戦前から、宮古島の北東部など、第三紀層の露出している粘土質の土壌のある地帯は、マラリア病地帯でしたが、そこに駐屯した部隊は、爆弾よりも、この病気のために戦死者を多く出し、戦力を消耗させていました。

 

しかし、袖山はマラリアのない地域にあるのです。あの時まかれた白い粉は、D、D、Tであるといわれています。マラリア病の媒介をする蚊を撲滅するために、飛行機による薬剤散布をしたもののようです。「ようです」とかいたのは、粟国さんたちは、それをそうは信じるわけにはいかない、というからです。

 

マラリア有病地帯のやぶの中にひそんでいた蚊が、薬剤散布にあって逃げまどい、群をなして、袖山の人々を襲ったのではないか、と説をなす人もいます。その説が正しいとして、何故、袖山を、蚊の群がおそったのか、そういう疑問が生じてきます。
有病地帯で軍に働らかされた定吉さんは、そこでは、マラリアにかからなかったのに、と、そぼくな疑問があります。それを解消することはできません。

 

毎日のように、柩がかつがれました。葬列に加わった隣接のフナコシの人々の中に、ささやきが流れました。あしたはあのうちに不幸があるだろう。あさってはむこうのうちの人だと。そのささやきの通り、人々は死んでいきました。そのうちに、これは四百年余り前、悲しい死をとげた与那国鬼虎の娘のおん霊のせいにちがいない、という「たたり説」が流布されました。


マラリア禍は一つのっていきます。そのうちに葬列に加わる人もいなくなりました。マラリアにおかされた家族同士で、借りた馬車に積んでいって形ばかりのとむらいをしました。金はない。医者はたのめない。食いものは足りない。一日に六、七人死ぬ日もでてきました。


ネコが三味線をひいて踊っていた。といううわさは、袖山の人々をふるえあがらせました。このままでおれば、部落の人は根絶やしになってしまう。そう思いました。別の集落にうつっていった親類の人たちも、袖山を棄てることをすすめるようになりました。
九月に人々は、袖山部落を放棄しました。ちょうど追われて移り住んでから三年目であります。

 

一戸平均二人は死者を出したろうと、人々は数えあげます。粟国さんの家族も三人、安元さんたちも三人失なっていました。

 

あとがき

米海軍が昭和二十年の十二月にアテブリン(マラリア特効薬)五〇万粒を贈るという新聞報道があるが、実際民需に供されたかどうかは不明である。二十一年の七月には、西原、添道、大泊の平良市北部地帯に悪性マラリア蔓延し、たおれるもの続出という報道があった。

 

二十年十月七日から七十四日間台湾にいってくるまでの間に、七十五人の西原部落民マラリアで死んでいたという記録をしたと、仲間弘雅氏は語っている。

 

二、台湾疎開者引揚船栄丸遭難

戦火も一段ときびしく敗色濃くなった昭和十九年七月、軍の作戦遂行の必要から老幼婦女子を九州と台湾へ疎開させる方針が出された。宮古郡では支庁、町村役場はもとより国民学校もあげて疎開督励のための懇談会を部落ごとにひらき説得をはじめた。こうして八~九月には多くの都民が、敵潜水艦の襲撃におびえながら、異郷に旅立った。しかし疎開先では食糧難に苦しみ、とくに台湾では栄養失調とマラリアで一家全滅という悲惨事がいくつも起きている。敗戦後幾十日をへてもなお引揚げのための行政措置はなされず、疎開者は自力で故郷に帰る手だてを誰ぜねばならなかった。

 

こうして栄丸遭難の惨事は惹起したのである。廃船に古い器材をよせあつめて仕立てられた栄丸がキールンを出たのは昭和20年11月1日夜。百数十人の宮古行きの引揚者が乗込んでいた。船は一時間たらずでキールン沖の荒波にもまれて遭難、人びとはすべて暗黒の荒海のなかに放り出されてしまった。翌朝までに救助された人もいたが、遺体の収容はその後一週間もかかったという。

 

栄丸に乗船したのは一体何人だったのか?ある人は127人、ある人は172人、さらにある人は183人という。救助されたのは23人、32人とこれもまちまちである。思うににわか仕立てのボロ船に定員や乗船名簿などはなく、ただ、とにかく家に帰りたい一心でワッと押しよせた人びと、その危険なさまを眼のあたりにみて、一たんは乗船したがおりた家族も幾組かいて、さらに入れかわ乗りこんだ人びともいたというのだから、乗船者を正確につかむことはむつかしい。さらに死んだ人の数を知るのもむつかしいように思われる。百名以上が死んだー 一致しているのはその点ばかりである。(仲宗根将二)

 

栄丸遭難

下地村字上地上地護男(十二歳)

琉球ワー」といじめられる

昭和十九年八月、非常に暑いときでした。輸送船三隻で船団をくんで台湾に疎開しました。一隻に百五十人ていどずつ乗っていましたが、年よりはたった一人男の人がいただけで、あとは高等科以下の子どもと女ばかりの疎開でした。僕の家族は母カマド(339)、兄繁(高等科一)、弟光雄(初等科三)、博子(3)それに子守りの譜久村シゲさん(114)みんなで五人でした。乗船して三日間は池間沖で碇泊、あさ八時ごろ船団をくんで出発しましたが、翌日の夕方は基隆に着き、さらに三時間ぐらい汽車にゆられて新竹州チュウレキ郡ヨーバイ町に落ちつきました。


寮に収容されたが、元々何かの倉庫に使っていたのを改造したものらしく校舎のように長い建物の真中に廊下があって、部屋はそれぞれ三ブロックずつ向きあって並んでいました。共同炊事場が別棟にあって、各世帯ごとに七輪でパタパタさせながら食事の用意をしていました。食糧は宮古と同じように配給制でしたが、闇米を買っておぎなってもなお朝と昼はオカユ、晩だけが固い御飯でした。野菜類は近所の台湾人が売りに来ていたのでみんなそれを買っていました。弁当もオカユで、おかずは生味噌でまにあわせるのが普通でした。

 

他府県の教師や生徒からのいじめ

近くに日本人の学校がないので、一週間ほどしてから汽車で二駅さきの国民学校まで通うようになり、翌年三月まで六十人くらい毎日汽車通学でした。僕の編入された五年生は四学級ありましたが、他府県出身の教師や生徒からずいぶんいじめられたものです。いつも「琉球ワー(豚)」といってからかわれ、作業や掃除も特別に残されて押しつけられ無理にさせられたものでした。なぜこんなにいじめられるのか、口惜しくてたまらなかったが、教師の側からすれば沖縄県からの疎開者は学力が相当劣っているといわれ、そのことも面白くなかったのかもしれません。いつもいじめられてばかりではしゃくなので、三か月めごろから疎開組も団結して対抗するようになりました。「琉球は空手の強い島だから、なぐられたら死んでしまう...............」。親が教えたのか、僕らが団結するようになると、他府県出身の子どもたちもしだいにおとなしくなっていったようです。


昭和二十年に入ってからは空襲もはげしくなり、通学の途中しよっちゅう汽車はストップし、おりて線路ぞいの竹藪に避難することが多くなりました。そのため四月からはヨーバイの公学校に転校しました。公学校というのは台湾人を中心にした学校です。ここは千人くらいの学校でしたが、校長は久米島出身で、教師の多くは日本人、いじめられることはなくなり非常によかった。しかしあい変らず台湾人からは琉球ワー”といってからかわれ、寮で炊事をしているときなど、つかつかと入ってきて、「何を食べているのか?」と言って、平気でナベ蓋をあけるのです。そういうこともあって、いつまでも仲よくならず、一部を除いては絶えず争いがつづいていました。

 

八月十五日、終戦詔勅は学校に集合させられて聞きましたが、何のことかよくわからなかった。しかしそれ以後は学校に行くこともなく、一週間ばかりして自然にやめてしまいました。疎開者も帰仕度を始めるようになり、同じ台湾内にいる親戚をたずねて行ってしまったりで、だんだんばらばらになっていきました。十月上旬に入って、土建業をしていたために戦争中は飛行場の工事や兵舎つくり、城辺街道の補修工事等をさせられて宮古に一人残っていた父 幸吉(42)が池間の漁船を借りて迎えに来てくれました。中旬ごろ僕らの家族だけトラックに乗り、基隆へ向いました。港近く台湾人の家を借りて住むと、父は宮古に帰る船をさがすために毎日歩きまわっていました。ようやく同郷の砂川玄祥さんから栄丸の切符を手に入れ、塩、砂糖、衣類を買いこみ、船に積みこみました。

 

11月1日出港

国民軍のきびしい警戒の眼を盗んで乗船したのが11月1日の夕方六時ごろ。一時間後にはみつかることなく一路宮古に向けて出港しました。乗客は172人と記憶していますが、一緒に疎開した人は一人もおらず、みんな早くから台湾に移り住んでいくた人、あるいは別の疎開組で、下地村出身者が多く、いずれも宮古へ帰る人たちばかりでした。栄丸は戦時中は基隆のドックにあったものを他府県の人たちがよせ集めの器材で修理し、闇船に仕立てたということでしたが、父が団長格のようなものになって出港しました。

 

栄丸は出港後およそ四十五分ていどで外に出ました。波が非常荒く、父は危険だから引き返そうと言い出して、引き返すことになりました。右舷へカーブしたと同時に、焼玉エンジンの玉が切れてエンジンが止ってしまいました。船はそのまま左舷(後方)へ流れはじめたのです。岸からおよそ四百メートルの沖合を四時間半も流されたように思います。船からは岸のあかりがよくみえ、船の周りは岩礁ばかりいっぱい突き出ている感じでした。石油をぶっかけ衣類に火をつけ岸に向けて合図するけれども反応がないのです。そこは万里といって二十軒ていどの台湾人の部落でしたが、反応のないまま船は沖合百メートルくらいのところで船尾を岩礁に乗りあげてしまいました。前方から押しよせてくる大波が激しく船べりをたたく。僕は船長室のすぐ下にいましたが、一、二分ごとに襲ってくる大波の三回めかにドラム罐と一緒に海に投げとばされました。その瞬間、大きな叫び声を聞きましたが、何とも言えない気持でした。

 

万里部落には、日本軍の通信隊がいて、気がついたらそこの兵隊が人口呼吸をしてくれていました。遭難の現場は岩だらけで、真夜中、はげしく荒れくるう波に押し流されても岩にぶつからず、岸べに達したもののみが、あるいは岸べにうちあげられたものが救出されたのです。兵隊と一緒に台湾人もタイマツをともしながら手をさしのべて救いあげていました。夜が明けてみると、岩上には遭難したはずの栄丸の姿はかげもかたちもなく、ただ機械だけが残っており、そこら一面船の材木らしいのがうちあげられていました。救出されたのはわずかに三十二人、死体の多くは岩や船の破片にたたかれて首のないもの、片足だけのもの、惨憺たる姿で岸べにうちあげられ、なまだ海にただよっているのもありました。これらみえる限りの死体は引揚げられ、船の破片を燃やして火葬にふされました。


僕の家族は僕と母の二人だけがたすかり、父も兄も弟二人も、子守りもみな死にました。末の弟の博は、母がおんぶしていたが、母兵隊に救いあげられるときまではちゃんとおぶわれていたのに、母の腕を引いて救出するさいに帯ごとずるずると落ちていったと、あとで聞かされました。母はそのときのの泣き声が耳にこびりついていると言って、そのまま気が狂ってしまい、一年余も半病人の状態がつづいていましたが、現在もなお海をみること、船に乗るのを嫌がり、当時の遭難もようについてもまったく語ろうとしません。父と博と子守りのシゲなど三人の死体は傷だらけになって発見されましたが、兄の繁と上の弟の光雄はとうとうみつかりませんでした。

 

火葬をしている最中に僕は軍のトラックに乗せてもらい、台北にいる母の妹や親戚に遭難のもようを知らせに行きました。母は基隆の病院に一週間入院したのち、台北の親戚のもとへ移り、十一月末になって母の妹婿の国仲昌道さんが迎えにきてくれたので、十二月十五日夕方スオウで、宮古から来た漁船に乗り、翌十六日ひる三時どろには石垣に着いて一泊、十七日あさぶじ平良に着きました。疎開前まで住んでいた平良の大三俵の自宅は父の弟上地金四郎が一人留守番をしていました。叔父の家族は叔母と子ども二人(男女各一人)が台南州疎開していましたが、三人とも疎開先でマラリアで死んでしまいました。僕と母は帰った当座は下地に残っていた財産を処分したり、叔父の働きでようやく三年位はくらしをたてることができました。そのあとは旧制中学から新制高校を出るまでいろいろなアルバイトをして高校卒業後はすぐ米軍にはたらき、その後民間会社をへて公務員になり現在に至っています。

 

栄丸遭難2

平良町字西里(鏡原)島尻哲夫(十五歳)

宮古島飛行場 (平良飛行場) に家屋敷畑もとられる

飛行場用地に家屋敷畑もとられる

昭和十八年九月ごろであったとおぼえています。夕方、直接兵隊によばれて部落の青年会場へ出かけて行った父(島尻)の帰って来てからのはなしでは、現在住んでいる家屋敷や畑のすべてが飛行場予定地に入っているので立ち退かなければならない、ということでした。ほとんど考える余裕も与えられなかったと思います。

 

その日から三日ほどしてからです。ぼくの家のずっと西側の方から何百名かの人夫が来て、地ならし作業をはじめました。とうとう立ち退くことになるのかと思うと、悲しいというだけでなく、やはり腹のたつ思いでありました。父は篤農家で、畑は五町歩くらいありました。収穫を間近かにした砂糖キビをそのまま捨てるのも相当つらいことであったと思います。そのまま何もかも放ったらかしにして、追われるように市街地に近い冨名腰部落に引越しました。ことで四反歩ばかりの土地を手に入れて再び農業をはじめたが、ものすごくやせた土地で、とてもやっていけそうもない状態でした。

 

そのうち戦争がはげしくなるというので、疎開がはじまり、ぼくたちは台湾の高雄に姉ヒデ(23)を頼って疎開しました。疎開したのは宮中二年のぼくと、姉ミツ(28)、姉キクエ(189)の三人で、昭和十九年七月の暑いころでした。

 

キールンでの生活

栄丸で父と姉二人失う

台湾でもいろいろと苦しいめにあいましたが、とにかく終戦になり、二か月くらいたってから父が迎えに来てくれました。十月二十三日ごろであったと思います。父がいろいろ奔走して、ようやく11月1日にキールンから栄丸で宮古に帰えれることになりました。


しかし栄丸は相当のボロ船で、出港して一時間ぐらいしたらエンジンが止ってしまい、ものすごい波にもまれはじめました。乗客はつぎつぎと船からたたき落され、しだいしだいに減っていって、結局全員が海に放りだされてしまいました。栄丸に乗っていたのはみんなで一八三人。そのうち三二人が救われたと聞いています。ぼくはかなり早いうちに海に落ちたと思います。わりあい沖でのことであり、はじめのうちは泳いでいたことはおぼえていますが、救われたときのもようはまったく記憶にない。何でもすっぱだかの状態で陸にうちあげられているのを発見されたのが、遭難して三日めだと聞かされました。みつけた台湾の人が、自分の家につれて行き、おかゆを食べさせたりして介抱してくれました。


ぼくがたすけられて二日くらいしてから、父の遺体があがりました。遺体はすべて傷だらけで、皮膚は全部むけてしまい、ちょうど豚の皮をはぐと白味がでる、そうしたようなほとんど確認できない状態でした。二人の姉の遺体もあがりました。そのほかぽろぽろにくさって、どこの誰だかまったくわからなくなっている遺体もあたと聞きました。遭難したところはスオウの近くで、あそこにはまだ通信隊が復員せずにいて、タイマツを持った台湾の人と一緒に敦助活動をしてくれました。父や姉たちの遺体はスオウの岸で火葬にし遺骨だけを持って、池村一男(母の弟)につれられて宮古に帰りました。十一月十五日ごろであったと思います。

 

なぜこんなひどいめにあわねばならなかったか、いまから考えた馬鹿らしいとも思うし、また止むをえなかったとも思います。キールンの十一月といえば全然太陽をみない雨ばかりの季節です。とういったところで知人はおらず、とめてくれる家もない。たくさんの人が近くの、空襲で屋根もない煉瓦の壁ばかりの廃屋で一時しのぎをするのです。雨が降るとそのまま直通でぬれ、そのうち土間には水がたまって眠るところがせばめられる。仕方がないので荷物をぶちこんで雨水を避け、煉瓦の壁にもたれて何とか睡眠をとるありさでした。そればかりか時には武装した中国兵が来てピストルでおどし、荷物を奪っていく。ちょっとでも抵抗すればどうなるかわからない。毎日のように誰だれが殺されたという話しが聞こえてくる。そんな船待ちのあけくれでしたから、誰もが一日も早く宮古へ帰りたいと思っていたのです。

 

ボロ船でも乗せてくれればありがたい・・・。栄丸が出たあと、港まで来て乗せてもらえなかった人びとのなかには非常に嘆いた人もいたというほどに、誰もが早く帰りたかったのです。

 

平良飛行場の土地接収 - 栄丸の遭難 - 補償なし

遭難者の補償さえない

疎開したさきの義兄姉ヒデの夫は、ぼくらが行ってから召集され戦争へ狩りだされました。しかし戦後の外地からの復員はすべていったん本土の港に着いてから、それぞれの落ちつきさきへ帰っていたので、義兄は沖縄へ帰るまえに妻が死んだ事を人づてに聞いて、帰る気を失い、そのまま本土に住みついてしまいました。

 

生前、父はよく海軍飛行場用地にとられてしまった七原の土地代について、「入口から入って来て金を渡し、出ていくとき金をとりあげて出口から出ていく」ようなやり方だったと言っていました。地料は一応計算して渡しはしたが、その場でそっくり強制貯金をさせられ、一銭も手にはわたっていない。いわば土地は強制的にただどりされたとも言えます。それも国をあげての戦争ということだから仕方がなかったとしても、いまはもう戦争は終ったのだから、その代償というか、そういったものを国は考えてくれてもいいのではないか。日本はGNP世界第二位といわれ、世界でも大きな国になったが、その裏にはこのような大きな悲劇があるということをかえりみようともしないことは問題だと思います。一 戦争が終って必要がなくなればいつでも土地は返すとはっきり約束したと言って、いまも軍との約束をおぼえている人もいるのに、こんなにはっきりしていることさえ解決しようとせずに、何がGNP世界二位かと言いたくなる。政府はもっと考えてもいいのではないですか。

 

栄丸の遭難は、戦争中のことではないので、何の補償もされていません。直接弾丸にあたらなかったというだけのことであって、国の政策にしたがって土地をとられ、台湾に強制疎開させられた。戦争は終っても国が引揚げのめんどうをみてくれないので、自力で帰えろうとして遭難したのです。戦争の犠牲者であることには変りはないはずです。母の立場からすれば昔から住みなれた家も屋敷も知もとられ、そのうえ夫と二人の娘を同時に失ったのだ。せめて母が生きているうちに、以前の土地だけでも返してもらいたかった。母は悲しみのあまりろくに外出もせず、数年後に死んでしまいました

 

栄丸遭難3

下地村字与那覇友利完誠

そのころ私は下地村の助役をしながら、警防団長をかねていました。昭和十九年九月に下地村の疎明者を引率して台湾へ行き、しばらくして帰ってきました。引率して行ったという責任もあったので戦争が終って二か月ばかりたった昭和二十年十月、疎明者を迎えに台湾へ渡りました。村の代表としては私一人行きましたが、あれだけの疎開だし一ぺんにみんな帰えすというのはとても無理で、船を借りてはじょじょに帰えすという方法でのぞみました。しかしなかには早く帰えりたい一心で、疎開者自体で船を借りて帰る人たちもいました。そのなかの一隻が遭難した栄丸です。栄丸では一〇五人の人が死んでいます。そのうち下地村出身は七四人でした。また下地のなかでも川満部落の人がもっとも多く六三人も死んでいます。死者の数が人によってまちまちのようですが、私は遭難したことをその夜のうちにに聞かされたので翌朝早く現場にかけつけて救助作業にあたりました。八日間も死体引揚げと火葬にあたりましたので、私のいう数字はもっとも正確だと思います。あたらずといえども遠からずだはずです。


台湾のキールンの外はどんなに風のない静かなときでも波の非常に荒いところがあります。栄丸の出を見送っていた人たちの話では、栄丸は水平線のところまではよく見えていたそうです。そこまで行ってから機械が故障して流されたようです。キールンの波の荒いところまで流されてきて波にたたかれているわけです。波うちぎわからはそんなに遠くないところですよ。そこまではみんな船に乗ってひやひやしながら流れてきたそうです。そこで波にもまれ岩にうちつけられたりして死んでおるわけです。さいわいたすかった人は逆に波にもちあげられて浅瀬にのしあげてたすかっているのです。

 

遭難したのは昭和二十年十一月一日夜のことですが、私はその夜のうちに栄丸遭難をきいたのでさっそく翌朝現場にかけつけることができたのです。下地村出身の人だけをえりわけて引揚げるということはできるわけもなし、みえるものは片っぱしから引揚げて片づけました。死体を片づけるだけでも八日間もかかりました。その間台北の子守り姉の家から朝夕汽車で通いました。潮の関係で一ぺんには流れつきませんから、あとには手がなかったり足がなかったりしてひどいものでした。死体は船がこわれて流れてくる船材を薪がわりにかついできて浜に積みあげ、その上に二人がかりで死体をイチ、ニノサンと投げ投げして積みあげてから油をかけて夜通し焼きました。

 

遭難して二、三日あたりは多少くずれていても着けているものなどで誰と見わけもつくが、四、五日もするともう波がもってきて瀬の端などにたたきつけているものなどは、眼が落ちくぼんでしまって誰が誰やらわからなくなってしまう。瀬の端にはまりこんでいるのでつかんで引きぬこうとしても皮がすりむけてぬけないから、そとらのワラを拾ってきてまきつけて引きぬくなどしました。暗くなってきようはこのくらいで終りにしようと言って帰えろうとして見ると、翌日引きあげるべき死体がまた見えているのです。それを鷹の群れが飛んできてつついて食べたりしている。だから引きあげるまでにはもうあちこちくずれてしまっているのです。

 

四、五日めあたりからは着物などはもう何にもつけておらず、波がうばっていくのかはだかのままでした。私は台北にいて栄丸の遭難を聞き、翌朝早く行って救助作業に加わりましたが、死体が一番多くあがったのは一日に五十二人で、そのごは十人、二、三人とかでだんだん少くなり、毎日油をかけて焼きました。たすかった人のなかには平良の山内朝二さんがいました。洲鎌という人は家族はみんな死んで子ども一人だけ助かったですね。山内さんの場合、瀬に顔も何もかもたたかれて、真赤な血が流れておりとてもみられたものではなかったです。

 

遭難した海岸に宮古支庁に勤務していた花恵栄さんが宮古疎開者遭難の碑々と書いた小さな角材のをたててくれました。

 

そのあと私は池間のカツオ船が疎開者の引揚げのために来たので、一人あたり三百円の船賃で基隆からどんどん下地の人を帰しました。私は三回めに乗船しましたが、三十人くらいで昭和二十一年の一月一日か二日ごろでした。途中八重山西表島に一泊して二日のよる池間につき、翌朝平良の井上造船所あたりでおろしてもめらいました。私の家族も父悟(73)と長女(国民学校6年)二女(同3年)の三人は昭和十九年九月、台湾の塀東に疎開させていましたが、父がそこで病死したため、二人の娘は台北にいた子守りのもとにいましたので、このとき一緒につれて帰りました。

 

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