Battle of Okinawa

Produced by Osprey Fuan Club

伊佐 眞一 講演録 「沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任」

 

兵庫県/島守の広場(神戸市須磨区)について

 

以下、まっとうな指摘である。島田叡知事の美化は、沖縄戦を本土側にとって消化しやすい物語である。こうして沖縄戦が商品化されていく一方、それを脱神話化させていく歴史研究はもっと人々に紹介されるべきであろう。

OKIRON 沖縄を深堀り・論考するサイト OKIRON 「嶋田叡知事は沖縄戦での「恩人」か?」
伊佐 眞一 (沖縄近現代史家)
2022.03.31

 

【講演録 沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任】

この10年ばかり、沖縄戦で没した戦前最後の官選沖縄県知事・嶋田叡が、書籍や映画でさかんに取り上げられるなど注目を集めている。だが、嶋田知事は本当に戦時下の沖縄住民にとって命の「恩人」だったのか。これまでの沖縄戦研究をふまえて、その実像と歴史的評価について、沖縄近現代史家の伊佐眞一氏が語った。

 

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沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任

 

昨今、沖縄では沖縄戦当時県知事だった嶋田叡と、警察部長だった荒井退造を顕彰する動きが盛んになっています。これがどうして問題なのかということを具体的に分かりやすくお話ししたいと思います。こういう話は何といっても論理的で具体的、そして実証的であることが大切です。

 

辻褄があわないとか、話が大まかすぎるとか、あるいは空想や思い込みではいけません。「沖縄戦でいいことをした」という場合、さて、どこがどうだったのか。実際にどういったことが起きたのかということを、できるだけ筋道をたてて説得力があるように説明したいと思います。

 

 嶋田叡と荒井退造の記念碑は「島守の塔」として1951年に建てられました。沖縄戦が終わって何年もたたない生活物資にも困るような慌ただしい時期にあんなに大きな顕彰碑を、お金も労力もかけてやっています。相当強い意思を持ってやったということがわかります。それをリードしたのは、沖縄県で嶋田知事、荒井部長の部下だった生き残りの人たちでした。顕彰碑には、沖縄戦で亡くなった県庁職員の名前がずらりと並んでいます。

 

Ⅰ 嶋田叡が「恩人」「島守」といわれる理由  疎開・食糧・沖縄での死

嶋田叡や荒井退造が、「恩人」「島守」といわれる理由は、大きく3つあると思います。1つは「沖縄の住民を安全な場所に疎開させた」ということ。人数は10万人と言うのもおれば、20万人と言うひともいますが、まちまちで大雑把です。疎開先は九州の熊本や宮崎、大分などで、そして台湾。沖縄島の中では中南部からヤンバルへの疎開がありました。この疎開で多くの人を助けたというので、任務の第一線に立った警察部長の荒井は「沖縄疎開の恩人」とも呼ばれています。

 

しかし疎開については、すでに沖縄戦が始まる前年の1944年7月に、日本政府が閣議疎開をさせるということを決めて沖縄県に通知しています。疎開をさせることを発案したのは日本の戦争を指揮していた大本営陸軍部でした。このことをまず頭に入れておいてほしいと思います。つまり、沖縄県知事や警察部長が独自に計画し決定し、そして実施したのではなく、戦争指導部の指令を忠実に実行したのです。

 

 2つ目が食糧についてです。沖縄戦が目前に迫る中で、台湾から米を持ってきて沖縄住民を飢えから救ったというわけです。「結局米は届かなかった」ともいわれてきましたが、積み下ろしの作業に当たった人たちの証言によると、45年3月の慶良間諸島への米軍上陸の約1か月前に那覇港に、そして3月下旬には名護に届いていたようです。

 

嶋田知事は同年1月下旬に沖縄に赴任し、2月下旬に蓬莱米をぜひ沖縄に譲ってほしいと台湾へ交渉に行きました。それは第32軍の軍用機で行ったのでした。往復の行き来などを世話したのは軍です。現在のJALANAのように民間機で行ったわけではありません。こうした渡航が可能になった事情を知らないと大変です。

 

制空権がありますから軍が十分配慮した便宜供与なしに台湾へ行ったりはできません。沖縄で持久戦を準備する軍にとっても一番欲しかったのが食糧だったからこそ、軍用機に乗っていくことを許可したんですね。米が那覇港に着いたとき、牛島満第32軍司令官と海軍の大田実司令官がわざわざ巡視に来たのがいい証拠です。

 

この米によって沖縄の住民を飢えから救ったといわれますが、では、この米が住民の餓えをしのぐのに大きな役割をもって配給されたという証拠があるんでしょうか。オリオンビールの創業者として知られる具志堅宗精さんは、その当時、那覇警察署長でしたが、艦砲下の3月下旬、台湾米が山積みになった武徳殿から繁多川の県庁・警察部壕に米を運ばせています。副署長だった山川泰邦さんが著書の『秘録沖縄戦記』にポロっと書いているのがヒントになる。ですから、この台湾米のほとんどは配給には至らず、その大方は軍と県が使ったと私は推測しています。

 

 3つ目は、前任の泉守紀知事との比較ということがあると思います。泉知事は「仕事ができなかった」「十・十空襲のときには中部に逃げた」「沖縄戦で死ぬのがこわいと東京出張に行って、そのままほかの県に異動になった」ということで、「逃げた知事」といわれてきました。嶋田さんはこの泉知事とは対照的に、毅然と死を覚悟して沖縄に乗り込んできて、粉骨砕身、沖縄のために一身を捧げた立派な知事というわけです。

 

 泉さんは「逃げた」と一部では言われているけれども、ここでよく考えてほしい点は、日本の統治機構のなかで、官庁の中の官庁と言われていた内務省のことです。これは明治の初期、大久保利通の頃からですが、内務省の官僚は自分たちが日本をリードしているというエリート意識が非常に強かった。

 

ですから、まがりなりにも噂や風説ならともかく、実際に逃げたような行動があったと認められる者を他県の知事に、勅任官として転任させることは決してありません。泉さんは1944年12月、東京に正規の出張をして予算折衝等の仕事をしており、かりにその機会を利用して他県への転任活動をしたとしても、それが「職務放棄」とか「敵前逃亡」でないかぎり問題はなかったでしょう。

 

意気地がなかったとかの風評はあったにしても、特別問題にもならなかったので、翌年1月に香川県転任となったのです。逃げたという「事実」がはっきりすれば、文官懲戒令の対象になります。内務省が転任を発令したということはそういうことです。この点をきちんと押さえておいてほしいと思います。

 

なお、泉知事は、沖縄県の意見や要望が第32軍によって軽視されているということで、沖縄の政治大権をもつ知事として大いに不満をもち、ときには抵抗もしていたようで、軍にとっては思うようにならない非常にやっかいな知事であったことは確かです。泉さん個人にも多少は問題があったでしょうが、私にいわせれば、それは好悪の範疇に入るものが多かったという気がしますね。

 

Ⅱ 沖縄戦を理解するための大前提

【1】1944年3月以後→第32軍の創設と沖縄移駐=全統治

沖縄戦を戦った第32軍の総勢10万人余りが1944年以後に沖縄へ行くことになりますが、彼らはほとんど体一つ、武器だけを持って来たようなものです。その他の生活物資はほとんどを現地調達。当時の沖縄の人口は60万弱でした。

 

そこに10万の軍隊が来ることによって、どうなるか。誰でもわかると思いますが、衣・食・住のうち特に「食」と「住」。いろいろな体験記を読むと、軍隊が来ると学校などの公共施設が実質的に接収されて、村々の大きな家屋敷には士官級が入り込み、兵隊も各民家に入って、その家々の作物や飼育している家畜などを食べたという証言がざらにあります。

 

これが中国大陸の戦線であれば、三光作戦。焼き尽くし・殺し尽くし・奪い尽くしになるのでしょうが、沖縄はとにもかくにも日本国内ですから、そこまではしませんでしたが大変な負担を急に背負わされたようなものです。そして、実際に沖縄戦が始まると「住」(=壕)と「食」で凄惨な事件が起こることになります。

 

それと軍隊の特質についてですが、ずいぶん前に、沖縄の女性グループが沖縄に日本軍の慰安所が百何十カ所あったことを調べていますよね。これが中国大陸であれば、犯し・殺すになりますが、沖縄ではそこまではいきませんでしたけれども、この慰安所について泉知事は、「まがりなりにもここは日本帝国の国内だ。皇土に慰安所を作るなど認められない」と沖縄に慰安所をつくることに抵抗したといわれています。「中国など外国だったらいい」というようなニュアンスがないでもありませんが、とにかく、この点でも嶋田知事とは違う。

 

 そして第32軍が来ることによって、沖縄の各地で戦争準備のための陣地構築が行われました。全島を要塞化するための陣地構築以外で重要なのは飛行場と防空・避難壕の建設でしょう。1944年には伊江島飛行場、北飛行場(読谷)、中飛行場(嘉手納・北谷)など、各地で飛行場建設が進んでいきます。突貫工事です。誰がやるかといったら、労働力になる沖縄の老若男女を強制的に動員してやるわけです。軍への供出による生活物資の逼迫と労力になる人間のコントロール島嶼社会の隅々にまでおおいかぶさって、島社会が一変していったことがわかるでしょう。

 

【2】1944年7月以後→疎開令の閣議決定、「陸軍防衛召集規則」等

そのような事態が進行するなかで、次々と緊急の疎開や「陸軍防衛召集規則」といった軍事のための、さまざまな決定や規則が住民に向けられていきます。行政面から沖縄県が発したものと、軍が戦闘面から発した徴用の命令などです。

 

第32軍が来ることによって、沖縄は軍と県の2本立ての統治が行われる。軍隊による統帥大権と県による政治大権のふたつによる戦争準備です。この2つの大権は独立した権限ですから、むやみやたらに軍が県に命令するなど介入できないのですが、現実は戦争を目の前にしている以上、沖縄県は軍隊の支援なしには効果的な仕事をする見通しが立たない。

 

ですから疎開にしても、また軍隊のために食糧を増産する計画についても、第32軍の戦略を邪魔しないように、軍の後方支援として県の仕事を行うことにならざるをえない。実質的には県の従属的な二人三脚で進んでいくわけです。

 

だから泉知事では具合が悪かったんです。繰り返しますが、第32軍が来てのちの沖縄は、政治・行政・生活のあらゆるものが軍事至上になったこと、この状況を理解しないと嶋田県政が具体的にどんな仕事をしていたのかまったく理解できません。

 

軍事施設への攻撃

なお、先ほど陣地構築の話をしましたが、1944年の夏が終わる頃には伊江島飛行場や北飛行場、中飛行場建設などが一段落するのですけれど、そうした沖縄の軍事化をキャッチして、それに打撃を加える目的で米軍が攻撃してきたのが十・十空襲です。

 

米軍のいわゆる沖縄侵攻の第一段階です。米軍はこのとき、秋になって気が向いたから攻撃しに来たのではありません。米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に北谷・嘉手納の海岸に上陸しますが、その上陸作戦をより安全、スムーズにする目的で、沖縄各地の軍事施設を叩いておく必要があったわけです。

 

ですから、那覇の攻撃も港湾・軍事施設が主たる目標で、飛行場関係もみんな破壊されました。軍隊や軍事施設がないところに爆弾を落とすことは、当面の軍事戦略からは重要性がなく、弾薬の無駄遣いですから当然でしょう。

 

アメリカ軍は、沖縄戦が始まる数年前から沖縄の地理や施設などを、上空からの撮影で情報収集していました。沖縄県公文書館には首里城を爆撃する前の写真などが収蔵されていて、瓦礫になる以前の美しいたたずまいがよくわかります。那覇だけでなく、ほかの町村もみんな調べられています。

 

ですから、なぜ米軍が沖縄を攻撃目標にして侵攻したか、どうして10月10日に大空襲があったのか、沖縄で地獄の戦闘が起こったことの大きな要因は、第32軍の進駐抜きには説明できません。

 

 それから、疎開についてですが、1945年3月下旬から4月にかけて米軍が中部に上陸すると、沖縄島が真ん中から分断されて、北部への疎開ができなくなります。何万もの人びとが避難できないまま、住民は右往左往することになる。

 

それまでに沖縄から九州へ6万人、台湾に2万人ぐらい疎開していますが、途中、潜水艦による撃沈で多くの人が亡くなっていました。対馬丸もその一つです。その当時、疎開で九州やヤンバルに子どもたちだけ行かせるというのは、今の感覚と全然違います。「どこに? 食べ物は? 誰が世話をするんだ?」の不安が真っ先にあったのは言うまでもありません。

 

疎開の対象は、軍にとって直接必要のない年端もいかない子どもと老人で、その代わり、食糧増産や陣地構築などに役立つ労力は欲しかったから、バリバリ働ける親世代や若者は疎開できませんでした。住民の不安な持ちと生活を軽視した疎開が当初進まなかったのは当然だったのです。

 

Ⅲ 沖縄戦における行動(1945年4~6月)

【1】第32軍の本務・目的→対米軍

第32軍だけではなくて、日本帝国陸軍の中に日本国民の生命と財産保護を重要目的にしたプランはありません。軍隊は、日本国民を保護するためではなく、戦争をするため、敵を殲滅して勝利することにあります。

 

たぶん今の自衛隊もそうじゃないでしょうか。この数年、中国が攻めてくるからというので、南西諸島にこれまでの米軍に加えて、さらに自衛隊までが他府県に比べて恐ろしい密度で配備されてきていますが、敵が上陸した場合に住民をどうするかという保護計画は何も立てられていません。当たり前です。それは本来の仕事じゃない、本務じゃないんですから。

 

先の大戦中、避難や疎開で混雑している往来で、邪魔な民間人など轢き殺してゆけと軍人に命令していた軍隊をみてショックを受けたと司馬遼太郎が書いていますが、軍隊は国民を護るものとの誤った先入観、思い込みが広くあった証拠です。第32軍のアタマにあったのは、いかにアメリカ軍を打ち破るかであって、その目的にそったかぎりにおいてしか、住民を見なかったと言っていいでしょう。

 

【2】嶋田県政の仕事と職員→対住民

嶋田さんが知事に赴任してから、沖縄県の仕事がどうなったかということを説明します。当時、沖縄県庁の部署は、変遷はありますが、大きくいうと内政部と経済部、警察部の3つありました。そして戦争が近づいてくると、内政部と経済部は新しくできた人口課と食糧配給課に集約されていきます。警察部には防災課や刑事課などいろいろな課がありましたが、45年2月になると全て統合されて警察警備隊になりました。そして45年5月には内政部と経済部が統合されて後方指導挺身隊になります。

 

警察部にはおおよそ500名、内政部・経済部は500~600名。総勢1000名以上はいました。嶋田知事が沖縄に来て県庁の仕事をこの2つに集中化させたこと、これほど彼の仕事をはっきりと教えるものはありません。

 

 そして、日米の地上戦が始まると県庁舎には当然おれないので、首里の司令部壕や那覇の繁多川や識名あたりの壕を転々とします。米軍が押し寄せる4月下旬、艦砲が飛び交うなかを島尻の市町村長を集めて、その壕で会議をします。

 

そのときの指示は、住民保護についても言及していますが、「残忍な敵は我々を皆殺しするものと思ふ。敵を見たら必ずうち殺すというところまで敵愾心をたかめること」のほか、「村に敵が侵入した場合一人残らず戦えるやう竹ヤリや鎌などを準備してその訓練を行って自衛抵抗に抜かりのない構えをとらう」とか、「軍事を語るな、スパイの発見逮捕に注意しよう」などでした。

 

また嶋田知事の訓示としては、「暴虐な米獣」に対して「本当の意味での敵愾心を燃やし米兵と顔を合はす時がきたら必ず打殺さう」と、沖縄の戦える人間は最後の一兵まで戦えと叱咤激励をしているんですね。

 

 以上のことを要約すると、「戦意高揚」「夜間の食糧増産」「住民の保護・避難誘導」を行政のトップとして市町村長に命じている。しかしですよ、あんな「鉄の暴風」といわれる艦砲が飛び交う状況下で、いくら戦闘が弱くなった夜とはいえ農作業ができるわけはありません。

 

そして「戦意高揚」とは、先の知事の訓示もそうですが、「敵に投降することを許さない」「どんなものを武器にしても徹底的に闘え」「敵に情報が筒抜けにならぬよう諜報活動に注意せよ」「軍と県、新聞の言うこと以外はすべて嘘である」を意味していました。これは嶋田が内務省で身につけた職務であって、沖縄県警察部の中心をなす仕事でもあったのです。これらの内容は砲弾下で発行していた『沖縄新報』が証拠として伝えています。

 

証言記録の批判的検討

沖縄県警察部の職員が、職務として住民を安全な場所に避難誘導するために駆けずり回っていたというのが事実であれば、命を助けてもらったことに関係するのですから証言も多いはずですが、どうなんでしょう。『戦さ世の県庁』は、荒井退造の長男、荒井紀雄さんが書いたものですが、その中に沖縄県警察部の職員で戦死した人たちのことが克明に記録されています。いつ、どこで亡くなったかということが書かれているのはいいとして、その人たちの職務についてどう書いているかというと、全部が全部見事なまでに同じで、「住民の避難誘導」となっています。

 

 このことと、住民の沖縄戦体験記などから読み取れることは、警察警備隊は後方指導挺身隊と連携しながら、沖縄の防衛隊や義勇隊などを使って「食糧の増産」のほかに、壕に避難していた住民を駆り出して、通信連絡や弾薬運搬、そして敵や味方の情報収集、場合によっては斬り込みにまで指導していたのではないかということです。実際にそうした証言があります。

 

他方、学徒隊の編成については法令上の年齢制限がちゃんとあったにもかかわらず、なかには本人や保護者の承諾を得なかったり、あるいは実質的な強制をしいていたことがあって、そうして作成した名簿を沖縄県が第32軍に提出していたわけです。そういった住民の戦力化を促進する仕事があったはずですが、県庁職員だった人たちの体験記にはそれがすっぽりと抜け落ちている。「避難誘導」の言葉は、すさまじい戦闘の渦中にあっては実態に合わないし、具体的な記述でもなく、実証的でもありません。現実に行われたことの説明になっていないのです。

 

 さきほど、「島守の塔」を戦後まもなく建設したのは、生き残った県庁職員だったと言いましたが、具体的にはこの警察警備隊と後方指導挺身隊だったことを忘れないで下さい。そして、この人たちによって嶋田知事と荒井警察部長が「恩人」として伝えられてきたことに注意する必要がある。

 

 しかもこれらの証言録はすべて戦後、デモクラシーの世の中になってから思い出して書いたもので、戦中のなかで書かれたものではありません。この人たちは「鉄の暴風」下でいったいどんな仕事を具体的にしていたのかと私は思うわけで、都合の悪いことが書かれていない。「あっちの壕で何をし、こっちの壕で誰と会い、誰それがどうやって死んだ」ということのオンパレードです。住民を死へと駆り立てていったような職務については、頬かむりしていたのではないか。「どこそこで住民を防衛召集して弾薬運びとか食糧増産のために使った」とか、「斬り込みをさせた」などということはじつに例外的に少ないんですよ。

 

知事と警察部長の命令を忠実に守って実行にうつしたはずですけど、見事なほどに何も語っていない。沖縄県の当事者の回顧録は注意して読む必要があります。

 

【3】軍部と政府にとっての沖縄住民→軍・官への奉公=根こそぎ動員(戦力化)

こうしてみると、牛島満第32軍司令官をトップとする「軍」の仕事と、嶋田叡沖縄県知事をトップとする「官」の仕事は、歩調を揃えて沖縄戦時下の住民を指導・指揮したことがはっきりする。泉知事のあと、すぐ嶋田に決まったわけではなく、中野好夫によると2、3人断られたあと、ならば嶋田はどうかとサジェッションをしたのが第32軍の牛島だったらしいのです。彼らはそれ以前に中国戦線で知り合っており、互いの仕事をよく熟知していたことが大きく影響した。

 

 沖縄県政の最大かつ唯一の目的は、眼前の戦争をいかに最大限の力を集約して戦うか、以外にはありえませんでした。住民を一手に統治する沖縄県の指導者として、疎開も食糧増産も、そして米軍との戦闘に際し、知事の住民を見る目は、役にたつか、たたぬかが第一の基準だったことはいうまでもありません。老人や幼児、病者などは穀潰しで、かつ戦闘行動の邪魔になる。これが知事、警察部長の使命だったはずです。まさに、「軍・官・民の一体化」であり、沖縄の戦場では「共死共生」が求められたのでした。

 

Ⅳ 公人と私人

【1】大日本帝国政府内務省の官僚

嶋田知事や荒井警察部長のことを考えるときに、彼らの職務・本務が何であったかということが何より重要です。彼らは大日本帝国の意思を代表するバリバリの内務官僚でした。彼らの信念というのは、今の民主主義の中で育った私たちにはちょっと理解しがたい。彼らの国家に対する奉公心や忠誠心、これはほんとに半端じゃない。

 

 私は嶋田叡が上海の租界(占領地のような地区です)赴任中の1941年に書いた文章――暗殺された先輩への追悼文(「赤木親之先輩に捧ぐ」『警察協会雑誌』第495号、1941〈昭和16〉年8月)を入手したのですが、この中に彼の国家官僚としての信念がよく出ています。文章のはしばしに国家への奉公心と犠牲精神が何にもまして一番大事だということを書いているんですね。この追悼文には内務官僚として国民を統治していく心構えが、特別高等警察(いわゆる特高)を中核とする内務省警保局官僚の姿として、鮮やかに表現されています。

 

彼らの職務の真髄は「生命身体を国家の躍進に捧げ」る精神だとも強調していますが、これは誇張でなく、本音そのままだったと、嶋田や荒井の沖縄戦での仕事ぶりからしても、みごとに実証しています。ですから、ある意味、筋金入りの内務省出身の知事が沖縄に来たのは、恐ろしいことだったとも言えるのではないか。戦火を生き延びた人間はともかく、死への道連れになった人間が何万もいたのですから。

 

 それからもうひとつ、5月下旬に軍が首里の司令部を放棄して南部に撤退をすることになったとき、住民と軍の混在によって、住民の犠牲が増えるからとの理由で、嶋田知事が島尻への撤退につよく反対したと言われています。

 

確たる証拠はないのですが、これは先ほども言及したように、軍の戦略は統帥大権の中心ですから、県(文官)による軍事戦略への介入はとうてい認められない。そのことを嶋田知事が知らないはずはない。南部撤退以外の余地はないのでしょうか、などとやんわりと言ったことはありえるでしょうが、作戦変更の強い要請や要求はなかったと考えるのが自然です。

 

【2】公権力を失った一個人

そこで、沖縄戦の最末期、県庁の命令系統などすべてが崩壊したあと、嶋田さんは自分の身の回りを世話してくれた人や少年警察官に、「体に気をつけて頑張りなさいよ。命を粗末にしないで」などと言ったとかの証言があります。

 

それは事実でしょう。しかし、それは何の行政権力も有しない状況で発した、彼個人のたんなる温情的な言葉にすぎません。どこにでもいるフツーの男性の私情にすぎません。家族や隣近所のひとどうしの会話と同じです。官選」知事たる職務としての公的発言じゃないんです。「命を粗末にしてはならない」と市町村長たちに周知徹底させる県の方針が通知されたのではありません。そんなことは一度もないし、そんな公文書はどこにもないのです。

 

つまり、このときの嶋田さんの言葉は公権力を失った一個人、「ただのおじさん」としての思いだったのです。その公私の違いをはっきりと区別しないと、人情ばなしのヒューマンな県知事になってしまう。

 

 これまでの嶋田知事、荒井警察部長の顕彰は、彼らの生真面目な性格、スポーツマン、そして島尻戦線のなかでどことも知れず死んだ面を強調したものが多い。こうして、最も肝心な公職の中身とは関係のない人間性や家庭人につながる親近感に焦点をあてると、彼らの政治責任はどこかへ吹っ飛んでしまいます。それはやがて、牛島司令官や長参謀長など軍事上の責任者も免責されることにつながりかねない。

 

現在、南西諸島では米軍に加えて自衛隊のミサイルが中国に照準をあてるなど、沖縄の島しまの要塞化が急速に進行している状況がありますが、それを下支えする歴史解釈としても、ゆるがせにできない重大な問題です。

 

Ⅴ 日本併合後の沖縄と日本との関係史

どうして嶋田叡や荒井退造がこういうふうに、沖縄で「命の恩人」だと言われてきたかを理解するには、目先の短い歴史だけではわからない。琉球王国が1879年に武力で強引に日本帝国に併合されて、その後徹底的な日本人化教育が続いてきたことが大きいと思いますね。日本の中で琉球・沖縄人は独自の文化と歴史をもつだけに、そのマイノリティー性がずっと保持されてきて、いつの時代も日本人への卑下心、コンプレックスが消えない。

 

沖縄戦後だけでなく、1972年の施政権返還後も同じで、「ヤマトンチューになりたくてなり切れないのが沖縄のこころ」だと言った知事もいたわけです。ヤマトゥンチューへの大きな弱点です。日本人の目がどう自分たちに向けられているか、みずからの行動いかんによっていかなる悪い結果に至るか、そうしたことについて極度に敏感な習性を生み出していることに関係しています。

 

ですから、この140年の間に、沖縄人は琉球王国時代の人間とは別人種になったのではないかと思うぐらいに変わりました。いわゆる「琉球処分」直後の1880年、林世功は日本と清国の琉球分割案に抗議して北京で自刃しました。他方、それから65年後の1945年、日本が敗戦によって戦艦ミズーリ号上で無条件降伏文書に調印した翌未明、大日本帝国大本営陸軍報道部にいた親泊朝省は、子供2人に青酸カリを飲ませ、妻を射殺してみずからも壮絶な自決を遂げました。「皇国」に殉ずるというわけですが、このぐらい琉球・沖縄人が変わってしまったという象徴的な例です。 具体性、実証性がないまま、沖縄で島田叡沖縄県知事を顕彰することは、日本の琉球併合後における琉球・沖縄人のヤマトンチュー・コンプレックス(=日本人化、同化)がいまなお延々と続いている表れではないでしょうか。そして何よりも、近代以降今日までの歴史において、日本が沖縄を重宝したのは、いったい何であったのかという点を見逃さないで、よく考えてほしい。

 

「島守」の塔とは、私からすればじつに言い得て妙、じつに皮肉な命名です。沖縄の人間とその住民の生活を守るのではなく、沖縄の陣地、土地、領土というモノを守るという意味の「島守」ではないか、と思ったりするわけです。軍事上だけでなく、戦時下の行政と政治も、そういう植民地的観点を第一にして行われたといっても仕方がないようにみえるのです。

 

 ともあれ、ほかの都道府県と違って、沖縄の人間は1945年の「敗戦」や1972年の「復帰」といった短い歴史スパンではなく、もっと長い歴史に立って、つまりですね、日本の枠をこえた時空のなかで、頭をクリアーにして、ロジカルに考える力が必要ではないかとつよく思います。

 

 駆け足の話になりましたけど、これで終わります。ありがとうございました。

 

【質疑応答】

――「島守の塔」は、沖縄戦が終わってまもなく沖縄県庁職員の生存者を中心に建てられたとのことですが、その後の沖縄戦の実態調査や戦争体験者の思いとは違うところで建てられたように思われます。それが今日の「復帰」50年に向けた映画「島守の塔」のキャンペーンにつながっているように思うのですが、いかがでしょうか。

伊佐:「島守」という名称ですが、ヤマトでも疎開はありました。大都市から田舎の方にたくさん学童疎開が行われていますが、それをやった各県の知事たちは、その県の「島守」とか「命の恩人」とか言われているんでしょうか。私は聞いたことがありません。そういう例があればぜひ教えていただきたいですね。そして、先ほど言いましたが、疎開というのは内閣が決めたのですが、その発案は大本営陸軍部がして、そのあとに閣議で決定したということを押さえておくべきです。知事や警察部長が独自に計画を立てて実行したのではなく、あくまで大本営と政府の方針を各地方が忠実に実施したのです。

 

――島田叡顕彰の動きは根が深く、2015年には島田叡氏事績顕彰期成会が1000万円近くの寄付金を集めて奥武山運動公園に「島田叡氏顕彰碑」を建てています。その寄付者名簿には、沖縄県知事公室や総務部、沖縄県警察本部、沖縄県教育庁のほか高校が12校も入ったりしています。また「島田杯」などを野球を通じて顕彰運動が行われているようです。私たちが沖縄戦をどう総括して子どもたちにどういう教訓を残すかという問題の一つだろうと思います。この動きに今後どう対応した方がいいと思われますか。

伊佐:「生きろ――島田叡:戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)という映画がすでに放映されましたが、それに続いて今度は「島守の塔」(五十嵐匠監督)という映画の製作が進んでいます。いずれもヤマトゥンチューの監督ですが、この「島守の塔」製作委員会には琉球新報社沖縄タイムス社も入っていて、一昨年(2020年)1月に結成された「製作を応援する会沖縄」呼び掛け人には、1999年に新沖縄県平和祈念館の沖縄戦展示で改竄事件を引き起こした知事と副知事をはじめ、企業やメディアの社長などがズラリと名をつらねています(同年1月23日付『琉球新報』)。

 

 そのうちの琉球新報社ですが、今年の慰霊の日には、沖縄戦の特徴は第32軍と沖縄県の行政による住民の根こそぎ動員だったという骨子の大特集を組んでいるにもかかわらず、この映画製作を支える主要メディアなんですね。これについては、11月30日付『琉球新報』の「第48回読者と新聞委員会」で、委員の知念ウシさんが「新報は映画『島守の塔』の制作委員会に入り、読者に寄付を求めている。矛盾しないのか」と問いかけています。それに対して琉球新報社の玻名城泰山社長は、「映画制作は事業」部の仕事としたうえで、内容については「沖縄戦研究家の助言を得ながら、脚本にも目を通した。監督も『戦争が人間にもたらしたものを描く』と話しており、命と平和の尊さが伝わる作品に仕上がるのではないか」と返答しています。いや、これは大まかな話であって、具体的なことはほとんど説明していません。

 

これだけを聞くぶんには反対するもしないもない。その沖縄戦研究家が嶋田知事と荒井警察部長がなしたことをどう評価したうえで、どんなアドバイスをしているのか、この研究者はいったい誰なのかを聞きたいですね。こうしたことを明確にするのは大事なことで、別に隠すこともないでしょうから、堂々と公開して議論をしてほしいものです。

 

 なお、2015年6月に「島田叡氏顕彰碑」が建てられたとき、私は沖縄戦に関する研究成果があまりに軽視されていると思ったものですから、先ほど紹介した嶋田の赤木追悼文をベースにした拙文(「上海の嶋田叡」)を、9月1日と2日の琉球新報に掲載させてもらいました。国家のためだったらどんな状況でも一身を投げ打って、与えられた仕事を貫徹するという意志堅固な内務省官僚が沖縄に知事として赴任してきたことを多くの人たちに知ってもらいたいと思ったからでした。

 

私は事跡顕彰期成会の嘉数昇明会長に嶋田が書いた追悼文のコピーと私が新報に執筆した連載文をお送りしました。しかし、お礼状はいただいたのですが、嶋田と私の文章の中身についてどう思ったかの感想はありませんでした。

 

大事なことは不明な点や疑問点を検討し考えることです。私もウチナーンチュなのであまり悪くは言いたくないんですが、ウチナーンチュはものごとを突き詰めて考える力が弱い。とくに不都合な事実、あるいは信じていたものにあやしい予感がある場合などがそうです。見たくない真実や隠れたウラを冷静に探求しようとしない。人間がいいといえばそれまでですが、そうした姿勢がないと、歴史や社会を学ぶことにつながらないし、私たちウチナーンチュも成長しないと思うのです。

 

 今の沖縄をめぐる状況を考えるに際し、嶋田叡知事「恩人」像は格好の問題提起です。「歴史は繰り返す」とよく言いますが、繰り返させないためにも、あの沖縄戦争から何を学んで、これから先の私たち及び沖縄社会に、どのくらい腹の足しにしていけるかかが大事だと思いますね。」(以上、引用を除いて、「島田」ではなく「嶋田」で統一した。)

 

*本講演は、連続講座:日本「復帰」50年を問う 第8回「沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任」(2021年12月4日、@レキオスクールスペース、主催;命どぅ宝! 琉球の自己決定権の会)での講演を『Lew Chew 琉球』編集部がテープ起こししたものに、伊佐眞一氏が加筆・修正したものです。

【本文は、『Lew Chew 琉球』(No. 86、2022年1月10日発行)からの転載】

 

伊佐 眞一

沖縄近現代史

1951年首里市(現那覇市)生まれ。75年琉球大卒。81~82年にカリフォルニア大大学院(バークレー校)で学ぶ。著書に『謝花昇集』(みすず書房、1998年)、『伊波普猷批判序説』(影書房、2007年)など。『沖縄と日本(ヤマト)の間で 伊波普猷・帝大卒論への道』(全3巻、琉球新報社、2016年)は、第44回伊波普猷賞(沖縄タイムス社)受賞。

 

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