「宇垣特攻」とは何だったのか
なぜ目的地は伊平屋に
1945年8月15日正午12時、大分海軍飛行場で待機する22人の隊員に沖縄特攻の出撃命令が下された。17時00分に第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将を含む23名を乗せた次々と離陸し沖縄に向かう。これが、いわゆる終戦後の「私兵特攻」と評され批判を浴びた「最後の特攻」とよばれるものである。
この、玉音放送後の宇垣特攻に関して、各種さまざまな記述や批判がなされ、どれがファクトで、どれが憶測であるのか、なにが何を出典としているのか混乱し、現在ですら、典型的な『羅生門』状態の感がある。
15日出撃説、16日あるいはそれ以降の出撃説。23人説から28人説、終戦を知りながらも覚悟の出撃、あるいは知らされていなかった説、中津留大尉がすべてを知りつつ11機を用意した説、真実を知り中津留大尉が最終的に特攻回避した説など。
しかし、ここで提示したいもう一つの疑問は、
なぜ宇垣は最終的に伊平屋島を目指したのか、ということだ。
確かに、沖縄島の西北に位置する離島、伊平屋島では、6月3日に上陸した米軍が住民を強制収容し、北端に小さなレーダー基地局と小飛行場を建設していた。しかしそれは非常に小規模なものである。
米陸軍: Radar installation at north end of Iheya Shima showing, L to R: radio truck repair tent, power unit, and antenna. 【訳】伊平屋島の北端に設置されたレーダーと無線設備。左から、無線車両修理テント、電源装置、アンテナ。伊平屋島 1945年7月27日
宇垣は第五航空艦隊司令長官として「菊水作戦」で次々と出撃命令を下し、実に特攻機1800機以上、特攻隊員3000人以上の若者の犠牲を強いて、幾重にも厳重な防備を誇る巨大な読谷や嘉手納の基地奪回や鉄面の巨大戦艦に向かわせた。こうした無謀な特攻命令を連発し続けた宇垣自身の最終目的として、たとえそれがレーダー基地であろうと、離島にある防御の手薄な小さなテント基地をターゲットとするにはあまりに不釣りあいというだけではなく、不自然ですらある。
おびただしい数の若者を狂ったように機体を狩るサーチライトと激しい高射砲の嵐のなかに追い込んできた宇垣は、いざ自分自身の死に際となると、そんな恐怖に身を切り刻まれ死ぬことは避けたかったのかもしれない。そのために、もっとも静かな標的を選んだのだとしたら、どうだろう。最期の最後で自身の地位を保全することをポツダム宣言受諾の唯一条件として臨んだ天皇と同様、この国はこうした権力者たちの暗いエゴイズムによって、戦争に突き進んだのである。
宇垣中尉と中津留隊長
中津留大尉は隊員に慕われていた。結婚し、娘も生まれたばかりであった。
隊長として出撃命令を受けたのは、中津留達雄大尉、23歳。中津留隊長は、玉砕を求められた時代に、「僕は死に急がない」と語り、「無駄死にするな」と部下を諌めてきた人物だった。その彼が、なぜ「最後の特攻隊長」になったのか。
また、粗悪な無線のせいで操縦士間の会話は難しかったため、生還した隊員は帰還してから終戦を知る一方、機内での宇垣と中津留、遠藤との会話はどのようなものだったのだろうか。一つの説として、中津留大尉が沖縄への飛行中に、宇垣中将から詳しい話をじっくり聞くことで、この特攻が天皇の玉音放送と終戦を台無しにしてしまうかもしれない危険性に気づき、突撃を回避したのでは、ともいわれている。
その夜、特攻機は沖縄・ 伊平屋島の米軍基地に到達した。 日本の無条件降伏で米軍の勝利が確定したこと から、米軍の対空砲火を受けなかった。 明々と電灯がつけられた同基地では、 平和と勝利を喜ぶパーティの最中であった。 明るい基地の様子に、 特攻が国の命令でなく、宇垣長官の独断と自己満足であることを悟った中津留は、 特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突したのである。 続く部下機もまた基地を超えて水田に自爆した。 翌8月16日早朝、 沖縄 伊平屋島の岩礁に突っ込んでいる彗星を米軍が発見、 機体から3人の遺体を収容したが、その中に飛行服を身につけていない遺体があり、 所持品の中から短刀 (山本五十六の形見)が発見された。
城山三郎著 「指揮官達の特攻一幸福は花びらのごとく」 (新潮社)
日本でよく語られることは、ポツダム宣言受諾打診後も、米軍が容赦のない本土空襲を行ったことを強調する傾向があるが、それはある程度検証されなければならないだろう。
8月10日の既に時点でジャップ・サレンダーの知らせは大きく報じられ、世界が歓喜に酔いしれた。ところが国内で政府と報道は国民に何も知らせす、日本の降伏受諾の意向を知らぬのは肝心の日本国民だけであった。軍は特攻出撃命令を続け、祝賀のただなかにある米軍基地を襲った。米国は11日早々に日本へ返信を打電するが、日本側の会議は無駄に時間を引き延ばすのみで、軍内の徹底抗戦派はクーデター騒ぎまでひきおこす。ここで大がかりな攻撃や内部クーデターでもあれば、さらに終戦は簡単にながれてしまっていたかもしれない。
結局、宇垣特攻は完全失敗に終わったが、中津留隊長の「彗星」のなかで、一体どんな会話が交わされたのか、もしかしたら中津留も、宇垣中尉の側近のように、突撃を懸命に止めようとしたのかもしれない。
しかし、それも憶測でしかない。
宇垣が搭乗した「彗星」は、真実を乗せたまま歴史の未明へと消えていった。
11機の23名、生存者は5名のみ
生存者は 5名のみ*1
指揮官 宇垣纏中将(55)
操縦員と偵察員
- 中津留達雄 大尉(23) 遠藤秋章 飛曹長(22) 宇垣纏中将(55)
- 伊東幸彦 中尉(20) 大木正夫 上飛曹(21)
- 山川代夫 上飛曹(21) 北見武雄 中尉 (20)
- 池田武徳 中尉(22) 山田勇夫 上飛曹(20)
- 渡辺操 上飛曹(22) 内海進 中尉 (21)
- 後藤高男 上飛曹(24) 磯村堅 少尉 (22)
- 松永茂男 二飛曹(20) 中島英雄 一飛曹(19)
- 藤崎孝良 一飛曹(19) 吉田利 一飛曹(20)
- 前田又男 一飛曹(20) 川野良介 中尉(22) - 志布志海岸に不時着
- 川野和一 一飛曹(20) 日高保 一飛曹(20) - 不時着
- 二村治和 一飛曹(20) 栗原浩一 二飛曹(18) - 川内河口に不時着
川野和一さん証言
「NHKスペシャル 特攻~なぜ拡大したのか~」(2015年8月8日) の取材
川野 和一さん
1939年 岩脇尋常高等小学校を卒業し、大阪の木材店で働く
1942年 土浦海軍航空隊に飛行予科練習生(18期)として入隊
1944年 12月、第302海軍航空隊へ
1945年 5月、第701航空隊攻撃105飛行隊へ
8月15日、大分から出撃し、不時着
戦後は、自衛隊に勤務
中津留達雄大尉と701航空隊大分派遣隊
玉音放送後に出撃した特攻隊の仲間たち
19か二十歳ぐらい。二十歳のとき、終戦だからね。
Q:二十歳で終戦。では、これは昭和20年ですか?
そうそう。これが特攻隊に行ったときの中津留大尉。これ。
これが特攻隊にいた連中の名前や。
Q:一緒に出撃された。
うん。これは。これ全部ずっとな。一緒に行った連中や。
Q:これは?こっちの、このお写真は。
これ、中津留大尉。私たちの隊長だった。
Q:ここらへんはどなたのお写真ですか?これはみんな昔の戦友な。
日高とはずっともう特攻隊に行ってからずっと一緒だったからね。これは偵察員よ。操縦手は偵察員が長距離飛行するときには、何度の方向で風がどこから吹くからなんぼ修正して飛んでいけとか言って、偵察員が計算するわけよ。操縦員はあれで、馬車馬の馬と一緒で、言われた通りに飛んでいくわけ。これが日高って鹿児島の男ね。それで一緒にいた連中。特攻隊の連中、これみんなそうだ。これ中津留大尉、隊長だった。結婚した時の写真だ。それであのとき出撃した連中が、これ全部そうです。これ私の後ろの偵察員の日高。私はこれですけどね。これは中津留大尉。これ中津留大尉。もう70年も前のことだからなあ。私、90だもの。
艦上爆撃訓練からいつのまにか特攻へ
初期の特攻志願という建前はすでになく、特攻が当たり前になっていた。
艦上爆撃機の特攻
私がね、予科練に入って、予科練を卒業して、いちばん最初に行ったのが北海道へ行ったんですよ。北海道で夜間戦闘機の訓練を受けてね。厚木でB29をよう撃するための夜間戦闘機に僕は乗ったんですよ。夜間戦闘機でね。B29が飛んできたら、編隊の上で3号爆弾って空中で爆発する爆弾を落として、B29の行き足を止めて下に潜って、下から機関銃で撃つ訓練を厚木で夜間戦闘機でおったわけですよ。それで、厚木の夜間戦闘機が今度、米子の航空隊へ転勤して、米子で特攻隊の訓練を受けたわけです。それで急降下して爆弾を落とす訓練とかね。それで、米子におったときに、中津留大尉が率いて大分へ行ったわけです。
Q:米子にいらっしゃったのはいつぐらいのことですか?
(昭和)20年の初めの頃だな。
Q:20年の初めの頃。
20年の7月以降はもう大分にいたからね。それで20年の初めごろに米子でね、訓練したわけですよ。
Q:それは自分は特攻の訓練をしているということは…
いや、特攻の訓練じゃなくて、そのときは急降下爆撃の訓練。私はもともと艦上爆撃機と言ってね、急降下して船に爆弾を落とす訓練を受けていたわけですからね。米子にいるときでも、急降下していって目標に爆弾をドーンと落とすと。戦況を確認して基地へ帰るというような訓練を受けていたわけですよ。
Q:米子で訓練をしていたときの飛行機は?
彗星(艦上爆撃機)。もう彗星の艦爆って言ってね、艦上爆撃用の九九艦爆って言って、支那事変(日中戦争)当時は大きな飛行機だったけどね。大東亜戦争(太平洋戦争)になってからは、もうそんな飛行機古くさいから、彗星に変わったわけですよ。
Q:米子にいらっしゃったときは、自分は特攻隊員だと思っていらっしゃらなかったんですか?
いや、みんなもう特攻隊員っていうことは知っているんです、皆。艦爆の連中とか、自分がいつ出撃するか分からないけれども、訓練をやっているから、特攻隊員っていうのは知っているわけです、みんな。
Q:川野さんも自分が特攻隊員だと思って。
知っているわけです。いつ命令が来ても、「はい」、と出ていくわけですから。それで急降下爆撃訓練をしている者は、特攻隊員であるということはもう認識しているわけですし。訓練しているときから。だからいつ出撃命令が来ても何でもないわけですよ。当たり前に思っているわけですよ。
Q:でも、特攻隊を志願するかしないかという、そういう…。
そんなものなかったよ。特攻隊に志願するかって、そんなの一つも聞いたことがないですよ。映画とか本ではやっているかもしれないけれどもね。我々に特攻に志願するかっていうのは。特攻隊に出る名前がなかったら、何で俺が出ていかないんだっていうぐらいの、みんな気持ちだったからね。同じ隊員の中で、特攻隊に誰と誰と誰って。自分が抜けておったら、「私、なんで出んのですか?」っていうぐらいだったからね。死ぬのは当たり前に思っておったの。
Q:そう思うようになったのは何でですか?
恐怖感とか嫌だという気持ちは全然ない。
Q:なぜ死が当たり前だと思うようになったんですか?
なぜ?それはな、国のため、親兄弟の住んでいる土地を守らなければいけないという気持ちが強いわけですよ。だから、B29がどんどんどんどん爆撃しよるでしょ。私、ちょうど米子で訓練したときに、徳島が空襲でやられたんですよ。そうしたら伝令の男が、「川野兵曹。川野兵曹。徳島だったなと。」「そうだと。」「今徳島、空襲でやられているわ。」って言うてな。ニュースでB29が徳島を空襲してるって。それで終戦になって徳島の駅に着いたら、徳島の駅から眉山まで丸焼けで何もなかった。
Q:そういうニュースを聞くと自分が守らなければいけないと思った。
そう。自分の国、自分の親兄弟、自分の土地を守らなければいけないという気持ちは強いわけですね。それで、自分の死ぬとか、怖いとかいう気持ちは全然なかったですよ。そういう気持ちがなかったら、戦争はできませんけどね。ただもう敵をやっつけるという気持ちが第一ですからね。親兄弟、国のために敵をやっつけるのだという気持ちしかないわけですから。戦争で恐ろしいとか怖いとかそういう気持ちは全然なかったですね。とにかく1機でも1艦でも敵をやっつけるのだという気持ちのほうが強いわけですから。まあ二十歳ぐらいのときだから、向こうっ気は強いですよ。恐ろしいものはなかったですものね。
宇垣中将の突然の来訪
状況は分かりにくいが、搭乗員だけが意図的に終戦を知らされないよう、飛行場に直接集合させられ、一般の隊員は広場に集められ「玉音放送」を聞いた。終戦を知りつつ、こぞって出撃したという美談が語られていたりもするが、この状況からは、隊員は明確な情報を与えられることなく、命令のまま出撃したことがわかる。
最後の訓示
最後の宇垣中将がここへ来たときの写真ですよ、これね。最後の出撃を前に、宇垣中将の訓示を受けたんですよ、ここで。
Q:この日のことは覚えていらっしゃいますか?
覚えているって言ったって、壕(ごう)で穴掘って搭乗員は全部寝ていたんですね。広島に原爆が落ちてからは、もう飛行場の近くの民家で寝ていたのを、搭乗員は全部壕でなければいかんって。山に壕を掘ったところで寝よったわけです。すると伝令が来て、「搭乗員の方はすぐに飛行場に集合してください」と言うので、飛行場に歩いていったら、一般の隊員の人がたくさん広場に集合していて、「何だ?」って言ったら、「いや、お昼に重大ニュースがあるから、広場に全部集合しろと言われたのだ」と言うて。そうかと。終戦だったっていうのを全然私は知らないわけです。そのときにもう一般の隊員は、終戦の話をされるから広場に集まれということで、広場に集合していたらしいです。我々は知らないから、飛行場に、指揮所に行ったわけですね。それで、終戦だったときに、宇垣中将が中津留大尉に、「中津留、3機だけ準備しろ」って言ったのに、「そんなようけ(たくさん)準備することはないぞ」って言ったのに、「いや、長官が出撃されるのに3機だけのお供ではとてもじゃない、私の部下は全員連れていきます」と。そう言ったら、「そんなにようけいらんから。」長官 (註・宇垣) は(終戦を)もう知っているわけですからね。「いらんから偵察員は降りてくれ」と。偵察員が、「長官、我々は3年なり4年なり命懸けで共に訓練した仲ですから、今更私たちが、はいそうですかと言って降りません」と。「一緒に行きます」と。長官が、「それまで言うんだったら、おまえたちの命をわしにくれ」と。「わしはこの攻撃が成功しようが不成功に終わろうが、山本元帥からもらった短剣で腹を切って死ぬ」って短剣を見せたわね。それでまあ後は出撃命令が出るまで待っていたわけですよ。夕方出撃命令が出て、みんな出ていったわけですけどね。
不時着と偵察員の死
宇垣は菊水作戦の司令官として大勢の若者を特攻として読谷や嘉手納の奪回にさしむけたが、そうした特攻命令を下し続けた宇垣自身の最後の目的として、小さな伊平屋島をターゲットとするのは不自然でもある。
不時着水
もう終戦になっているから、敵は引き揚げて沖縄からおれへんの(いないん)ですよ。我々が沖縄に行ったときには、もうもぬけの殻で誰もいないわけですよ。爆弾をあんた、島に落としたって民家を焼いてもしょうがないし。友軍の兵隊を殺してもいかんので、爆弾だけを海に行ってダーンと落として、「基地に帰るぞ」というので引き返してきたのね。
ところがもう、途中で燃料切れでみんな海にボチャンボチャンと不時着したわけですよ。そのときに私も不時着したんですよ。うまいこと飛行機を着水すればいいけれども、陸上の飛行機で、フロートは付いていないわけですよね。そのままと言ったって、プロペラが前にあるから飛行機がガクッとねじれるわけですよ。そのときに日高は顔面を電信機にぶつけて、即死の状態で死んでしまったわけですよ。それで日高にもう少し注意して、「日高、しっかり足で踏ん張れよ」ぐらい言ってやっていたら良かったんだけどなと思って。私はもう足で前を踏ん張って、操縦かんを起こしてショックでダーンと、操縦かんで前歯を全部折ってしまってね。今これ、歯がないんですよ。それだけ気絶していたら飛行機がボコボコボコって泡が入ってくる音がして、ひょっと見たら飛行機が沈む。これはいかん。飛行機が不時着しているのにって。それで、「日高、大丈夫か」って後ろを見たら、日高は電信機に顔をぶつけてこうやって倒れているのね。それで顔を起こしてみたら、ここから血がドーッと流れていて。そうしたら飛行機がボコボコと沈むんで、いかん、こうしていたら一緒に飛行機と死んでしまうと。僕はボコンと海に飛び込んで岸に向いて泳いだんです。そしたら伝馬船で陸軍の兵隊さんが乗って、「誰か、誰か」って言って、着剣してね。「日本の操縦手だ、撃つな」って言うて、マフラーほどいて…、そうしたら見つかって、それで救助してくれたんです。「飛行機に偵察員が残っているから、あれを助けてくれ」と。夜で今からはどうにも。明日、夜が明けたら潜って引き上げるって言うて。もうそれでそのときに日高は即死だったんですよ。だから、引き上げてもらって鹿児島の航空隊に移送してもらって、医官の診察受けたら、「川野兵曹、これ日高は水を飲んどらへんわ、即死だ」って言っていた。それで、「すぐに焼き場に行って焼いてこい」って。鹿児島の航空部隊の先任伍長と一緒に、重油でね、薪を積んで、日高を焼き場で焼いたんですよ。それで、骨を拾って包んで、それで日高の骨を持って原隊に帰らないかんというので。私が骨を持っておったんですかね。
乗るだけで危険な終盤の機体
それで原隊に帰るのに、若い隊員の飛行機に便乗したわけですよ。ところが飛行機の調子が悪いんですよ。「おい、この飛行機、危ない、危ない。ちょっと近くの飛行場に着陸せい」って言って着陸させたんです。それで「おまえたち、こんな飛行機によく乗っているな」ってね、私は。「それでどうしたんです?」 「こんなエンジンの音を聞いて分からんか」と。「これだけ調子の悪い飛行機で長距離乗っていけるわけないだろうが」って言って私は降りたんですよ。そうしたら、その搭乗員が、「いや、そんなことない、行きますよ」って、行った途端に飛行機落ちてしまってね。私は降りていたから良かったけど。日高の骨を持ったまま原隊へ帰って、原隊の後の指揮官に「これ、同乗していた日高兵曹の遺骨です。お願いします。」って渡して。そして私は原隊の、自分の原隊へ帰ったんです。
帰還して知る終戦
そうしたら原隊に帰ったらもう、みんな同期の連中とかが、「川野、おまえ、よく生きて帰ったな。もう終戦になったぞっ」て言うて。我々は終戦は全然知らんから。「終戦になったのか」と。「おまえ、今からもうみんな自分の家に帰る命令が出ているんだ。おまえ、どこだ?」「徳島だ」と。「そうか。おまえ、旅費もらったか」って。「旅費もらっているか」って言うて。それで「旅費をもらいに行け」と行ったら、「川野兵曹、山の上の飛行場で、川野兵曹の給料は山の上の飛行場だから山の上に行ってもらってください」って言うて。「そんなもの、今から山の上まで行けるか」って言うて。「もういいわ」って言ったら、戦友たちが、「おい、10円やるわ、20円やるわ」って言ってね。それでまあ70~80円の金ができたので。これだけあったら四国まで帰る旅費ぐらいできたわと思って。
同乗の偵察員を失って
日高は戦死したからね。「日高すまんの。おまえだけ死なせてすまんの」って言うて焼いたんですよ。鹿児島航空隊の先任伍長と一緒に焼き場に行って。ところが焼き場はようけ死んだ人がそのまま放ってあるんです。燃料がないから。それで我々は部隊から燃料を持っていって焼いたからね。すぐに焼けたんですがね。もう夏だから死体を焼き場の外にようけ置いてあったですよ。終戦後、日高の墓参りに鹿児島に行ってきたんですよ。それで日高だけ殺して、私が生きていてすまんのうという気持ちでね。もう死ぬときは一緒のつもりで訓練してきているから。
Q:今もその気持ちがありますか?
日高だけ死んで、私が生きて、まあ今まで生きて日高にすまんなっていう気持ちはあったですね。
上官の命令通り
なぜ出撃したのか
何で出撃したんだろうなということだけです。我々はもうとにかく敵をやっつけるということしか考えていないんですから。だから終戦になったって、出撃命令が出なかったら行かないですけど、出撃命令が出ているから行けということでみんな出ていくわけですから。
Q:戦後、いろいろこの特攻に関してはいろいろ言われていますね。なぜ部下を連れていったのかとか、終戦になっていったのに。そういうことについてはどういうふうに思われていますか?
結局、我々軍人の気持ちとしてね、戦争に負けたとか何とか知らんわけですから、そのときは。ただ国のため、親兄弟のために戦うんだという気持ちしかなかったわけですから。終戦になったということは知らんから。とにかく出撃して敵をやっつけるという気持ちのほうが強いわけですからね。だから、長官が出撃するなら、よし、私も行くぞという気持ちでみんな長官の後に続いたわけですから。今になったらね、そういう気持ちで。中津留大尉以下若い隊員が死ぬ、それなのに長官だけが腹を切って死んでくれたら良かったのになというのは、今になれば思うんですよ。ところがそのときは、長官が行くのになぜ我々が残らなければいけないのだと。長官と一緒に出撃するという気持ちのほうが強かったですね。だから今になって考えたら、無理に出撃しなくても良かったのになという気持ちはありますけどね。そのときは全然そういう気持ちはないです。
Q:特攻という、特別攻撃という、命に代えて攻め入るという、こういう戦法についてはどう思われますか?
結局、敵をやっつける最終手段としてやったんじゃないかなと思うんだけどね。敵の数とこっちの数と考えたら、それしかなかったんでしょうね。我々はただ上官の命令通り行動するだけでね。自分の勝手には動けないんですから。明日特攻で行くのは何番機、何番機、何番機って黒板に書いたら、その3機なら3機、4機なら4機のもんが出撃していくだけですからね。
帰郷
まあ70年前のことは、今の平和の世の中では分からん。な。私、終戦になって、徳島に帰ったときに、徳島の駅前から眉山まで何もないんです。丸焼けで。すごいものだなと思って。それで実家に帰ったらおふくろが、昔だから、たらいで洗濯をしていて。「おふくろさん、帰ったで」って言ったら、おふくろが、「おまえ、生きて帰ったのか?」ってびっくりしていたですね。もう家の者は私が一番先に死ぬと思っていた、飛行機乗りだから。それで兄弟3人軍隊行っていたですからね。2番目は陸軍の少尉ですよ。私のすぐ上の兄貴は、海軍の下士官だった。それで僕も海軍の飛行機乗りで3人とも生きて帰ったからね。僕は一番後で帰ったんだけれども、おふくろ、家に帰ったらおふくろがたらいで、昔だから手洗いで洗濯していて。「お母さん、帰ったでよ」って言ったら、「ええ、おまえ生きとったのか」って。一番早く死ぬと思っていたんだろう。戦争は非情ですよ。だから私は、日高の兄弟で鹿児島の警察署長をしていた人がいてね。「わざわざ来てくれてありがとうございます」って言いよったけどね。日高の墓参りして、般若心経を書いてね、私。表装して、日高の墓に奉ってくれって渡してきたんですけどね。それで行ったら、日高のところは神道で神様だ。仏教と違うんだ。「こんなもの書いてきたんだけどいいですか。」弟さんが警察の署長をしていてね。「いや、川野さん、どうもすいません。大事に保管させていただきます」って取ってくれたけどね。神道とは知らんものだから、般若心経を一生懸命練習して、表装してね。そして持っていったんです。そうしたら神道だって。
Q:うかばれてらっしゃいますよ、きっと。宗教は違っても。
一般社会でもけんかをしたらいかんのと一緒です。隣付き合い同士がうまく行っていればいいけど、隣同士がけんかしたらいかんのと一緒ですよ。だからもう戦争はしたら駄目。これね、国のため、人民のためでは平和を守っていくのが国のため、人民のためなんです。平和でなかったら、哀れなものですよ。
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*1:「戦史叢書第17巻 沖縄方面海軍作戦」p. 616.